死の臨床格闘学
香山 リカ
この本を読むにあたり、著者について初めて知り得たことがある。それは香山リカという名前がペンネームであるということ。そして大のプロレスファンであるということだ。とりわけ全日本プロレス、ジャイアント馬場氏に思い入れが深いようだ。
それにしてもこの本をどう解釈すればいいのだろう。ジャンルとしてはおそらく現代思想か哲学の部類に入るのか。少なくとも我々が現場指導に生かせるような専門書ではない。自己流に解釈すれば、エンターテイメントでありながら激しく身体がぶつかり合う、危険と隣り合わせであるプロレスに焦点を当て、精神医学や現代思想の見地から死について多角的に考察したものと言えよう。ジャイアント馬場氏の死後、三沢光晴ら大多数の選手が全日本プロレスを離脱、新たにプロレスリング・ノアを設立した。著者はこの頃のキーパーソンであるプロレスラーたちを取り上げている。
正直に言えば、私はこれまで哲学書とは無縁であったので、おそらくこの種の読解力に乏しいことは前置きしておく。が、それにしてもこの本は難解だ。文献や著者自身のエピソードなどからの引用が非常に多く、何度も本筋から脱線してしまう。映画で言うなら途中で何度も回想シーンが入ってくるようなもので、これでは読者はストーリーにのめり込むことができない。それに彼女の文章スタイルなのだろうか、妙に着飾っていて難解な言葉を多用していることがより一層読みにくくしている。
結局何を言いたいのかわからないので、皆様にこの本の要旨をお伝えすることができないことをはなはだ申し訳なく思う。繰り返しになるが、この本を評価するにあたり、このジャンルに対する私自身の読解力不足を差し引いて欲しい。辛口批評となったが、逆にこの本がどんなものか興味を持っていただければ幸いである。
(水浜 雅浩)
出版元:青土社
(掲載日:2015-03-07)
タグ:プロレス
カテゴリ 人生
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死の臨床格闘学
香山 リカ
Dead Man Wrestling
─そして、静かにレクイエムが始まった
1999年4月17日。日本プロレス界の巨星ジャイアント馬場のお別れ会に献花を添えるため、東京九段の北の丸公園を訪れた著者香山リカ。ここから物語は始まる。そして、彼女は静かにこの忘れられぬ巨人(ひと)に向かってレクイエムを口ずさみ始めたのだ。
テレビ放送が始まったのは昭和28年。この年の8月28日に日本テレビが民間第1号として本放送を開始している。ちなみにテレビコマーシャル第1号は「精工舎(現セイコー)の時計が正午をお知らせします」という30秒ものであった。そして、奇しくもその約1カ月前に力道山が日本プロレスリング協会を結成している。この両者の奇妙な符合が、その後テレビの普及とともにプロレスの隆盛を約束していく。まさにメディアの力によってプロレスは日本社会に大きな影響力を持ち始めたのである。しかしこのときからすでに彼女には、約半世紀後に日本のプロレスリングに向かってレクイエムを口ずさむ運命が背負わされていたのかもしれない。
プロレスという名の「身体論」
─たとえば、身体と精神の乖離について
プロレスにはもちろん観客が欠かせない。ではなぜ観客はリングに足を運ぶのか。筆者はこれについて次のように語る。
「レスラーに感情移入するだけでは、自分の身体の実感を強め、“自分が存在している”という感覚を確実に手に入れることができないのだ。そうするために、全試合終わったあとに、今度は自分が手が痛くなるほどエプロンを叩き顔に水滴を浴びて、“これが私だ!”という実感を自らの感覚として確認する必要がある」
現代社会では日常が極めて希薄な感覚認識の領域になり下がり、その結果、人々は自分の立っている場所の脆弱さに恐怖し始める。そして、自らの身体感覚さえも失い、幽体離脱的感覚に悩まされる。つまり、身体と精神の乖離が始まり、その溝は日増しに深くなっていくのである。その身体と精神の溝を埋めるために、ある者はリストカットや自傷行為によって辛うじて身体に精神が宿る感覚を維持し、ある者はレスラーと同じ痛みを得ることによって維持しようとしているのではないか。これはまさに、筆者の言うところの「自分と世界との境界を実感するために、あたかも身体の輪郭をなぞるがごとく」の行為そのものなのである。
二項対立的プロレス考
─もしくは、生と死の境目の問題
現在日本のプロレス界には40もの団体が存在する。その中でもっともメジャーな団体は、いわずもがな新日本プロレスと全日本プロレスである。この両者とも源流は前述した日本プロレスであるが、1972年2月にアントニオ猪木が新日本を旗揚げし、ついで10月ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすることによって完全に両者は袂を分かつことになる。筆者によれば、その後馬場率いる全日本プロレスは王道中の王道的プロレスを頑なに守ろうとするが、時代の潮流はそれを許しはしなかった。時代は元全日本プロレス所属で後にFMWという新団体(後に倒産)を設立した大仁田厚のような涙あり怒りありマイクパフォーマンスありのタレントレスラーの出現を望んだのだ。この怒涛のような群雄割拠の時代を迎えて、馬場のレスリングが急速に色褪せ始める。と同時に、これは馬場プロレスの“死”が近いことを意味していた。プロレス本来の二項対立の構造、つまり敵と味方、善玉と悪玉、生と死の屹立といった構造から馬場は剥離していく。今後も、似たような剥離は延々と続いていくことだろう。そして、また新たな皮膚を持つ時代の寵児が次から次へとリングに上がってくるに違いない。プロレスラーの生死の境目はリングにあるのか。だとすれば多分、リングを降りる度にプロレスラーは死を予感するのではないだろうか。そんな感慨が読後に残った。
(久米 秀作)
出版元:青土社
(掲載日:2002-08-10)
タグ:プロレス
カテゴリ その他
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