自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
近田 直人
『ごくせん』や『ROOKIES』(ルーキーズ)、古くは『3年B組金八先生』は情熱を持った先生と荒れた生徒の感動ストーリーだが、それを現実でやってのける教師がいた。
名前は近田直人、彼は学生時代にラグビーに打ち込み、筑波大学で体育教員の免許をとったあとは地元の大阪に戻り、教師のしてのキャリアをスタートさせる。赴任した高校はいわゆる荒れた高校だった。そこでさまざまな問題を抱えた生徒や保護者に向き合い、そしてときには行政や国のルールにも立ち向かっていく。
問題の解決は困難だったが、著者の信念は一貫していた。それは「愛情」である。生徒に対する愛情。生徒たちは誰かを傷つけたり、ルールを破ったりしたいのではない。ただ誰かの「愛情」を欲しているのだという。それも言葉だけでは伝わらない、行動を示すことで生徒の見る目が変わり、信頼を得ることができる。
著者の半生を記したといえる本書では、その過程を学ぶことができるだろう。また、体罰についても言及されている。生徒を支配するための体罰は許されるものではないが、「他人を傷つける暴力を止めるために手をあげることは必要」と書かれている。タブーと言われる体罰問題にも果敢に挑んだ内容は非常に貴重である。
教員に限らず、指導に携わる人、そして保護者の方にもぜひ読んでいただきたい一冊である。
(川浪 洋平)
出版元:ザメディアジョン
(掲載日:2020-09-23)
タグ:教育
カテゴリ 人生
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自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
近田 直人
教壇に立つまで
なぜ教える人になりたくなったのか、その原体験は思い出せない。ただ中学時代に「教育大学にいって教師になりたい」と口にしたとき、「そんなんできるわけないやろ」と担任教員に頭ごなしに否定されたことは、今も記憶の片隅に残っている。
中学生で早くも不適格の烙印を押された私は、果たして教育大学に入学した。ただ当時の共通一次試験受験時、とくに国語の問題を「なんで決められた答えから選ばなアカンねん! なんで押し付けられなアカンねん!」となぜだか怒りながら解いていたことも覚えている。 卒業時には、「(ラグビーばっかりしていた)こんなオレが人に範を垂れるなど、まだ早すぎる!」と考えたと同時に、どうしても取り組みたいフィールドと出会い、そちらに熱中した。
どうしても取り組みたかったのはアスレティックトレーナーという領域だった。その専門家として現場に立っているときも、私の中では人を育てるという感覚が強かった。長い紆余曲折を経て、不惑の年にようやく教鞭を取るようになり、それからさらに十年余りが過ぎた。
教師であること
さて本書の著者である元高校教員の近田直人氏は、現在は若手教員の人材育成を中心に活動されている。30年間の熱い教員生活の後、教育現場を政治家の立場から変えるべく大阪府議会議員選挙に打って出て、健闘虚しく落選した。目次に並ぶ見出しを見ているだけでも、「いじめ件数ゼロなんてありえない」「それでも拳で救える生徒はいる」「『自殺は絶対あかん』となぜ言えないのか」「信頼をもって成り立つ服従と愛情を持って強制すること」など、本人を直接存じ上げるわけではないので実際の人となりはわからないが、ある意味「大人の事情」に言いくるめられることなく、一種無邪気に本質にこだわり続けている印象が随所に見られる。
そんな本書を読んでいるとき、記憶の狭間から這い出てきたものがある。教師を目指し始めた中学時代、社会科の授業でディベートをした。世間知らずの私は教師は聖職者であるのが当然だと本心から力説した。そのときの社会科の先生の何か含んだ苦笑い、それを思い出したのだ。いやらしいとそのときの私は感じた。「せめて学校くらいは究極的にピュアな場所であってほしい」と語る著者と、私の性質は近い。ただ、学校という社会で理想に燃える熱血教師だけが存在してもきっとうまくはいかないとも思う。様々な学生たちがいるのだから、様々なタイプの教師がいるべきだ。そのほうが学びが多様化する。それでもなお、聖職者たるもののボトムラインは確立されていてしかるべしだとも信じる。
人間としての性質は単純に善悪が付けられるものではないが、ごくわかりやすい例で言えば、タバコを吸ったり、自らの不摂生で太っているような教師(トレーナーもしかり)は本質的なところで私は信用できない。プラトン、ソクラテス、アリストテレスなどの哲学者は筋骨隆々だったと何かの本で読んだ。真偽のほどは定かでないが、仮に後世で付け加えられた要素にしろ、自らの哲学を語るものにはその存在に説得力がなければならないということだろう。
そこにこだわった上で、その独善的な考えを今度は戒める必要がある。自らがそうあるべきだという考えを押し付けるのではなく、様々な考えを受け止め、受け入れることができなければ教師は務まらない。そのバランス感覚が難しい。教師であることはまさしく修行だ。
人としてどうあるか、どうあるべきか
私が教鞭をとるのは専門学校だ。3年間ではり師・きゅう師の国家資格および日本体育協会公認アスレティックトレーナーを養成する課程である。本書の著者が務めた公立の高等学校とは趣が違う。資格を取得し専門家となるべく目標をもった学生たちが入学してくるのだから、資格取得が教育の第一義になる。しかし過去問題に徹底して取り組むなど、テクニカルに試験合格を目指すことだけに注力するのは正しくない。現場に立ったときに、アスリートや患者の役に立つ存在になれるかどうかが問題なのだ。その準備が整っていないのであれば、まだ資格を取得する必要はない。
鍼灸師にしてもアスレティックトレーナーにしても、人の役に立つ存在になろうと思えば、人としてどうあるかを追求すること抜きには考えられない。そのためにはそこに携わる教師もまた、人としてどうあるべきかを学生たちとともに追求する存在でなければならない。ではそういう私は完璧な人間か。未だ程遠い。ではこれらのことはただの綺麗事か。いや、そうは言いたくない。確かに世の中には悪意も多く存在し、真っ当に生きようとする人間が評価されるとも限らない。だからこそ正論を正々堂々と語れる存在でありたいと取り組むのだ。医療やスポーツに携わる人間はそれを追求しやすい存在のはずだ。
私の場合は「自慢の先生になってやろう」というわけではない。好いてもらう必要もない。ただ、この人に出会ったことは悪くなかったとどこかで感じてもらえる存在でありたいと、日々鍛錬している。本書はそんな私の背骨をより正してくれたような気がする。
(山根 太治)
出版元:ザメディアジョン
(掲載日:2017-05-10)
タグ:教育
カテゴリ 人生
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