からだことば
立川 昭二
身体感覚と、言語、文化との結びつきを、豊富な例を駆使しながら話し言葉で解説している。民族独自の身体感覚が表れている例として、日本人は肩がこり、アメリカ人は首がこり、フランス人は背中がこると言う。肩に対しての意識は、日本人において強い。「肩にかかる、肩身が狭い、肩を持つ、肩書き」など。こうした問題を、歴史的に分析し、現代社会を読み解いている。
痛みについての表現でも、日本では擬態語を使ったズキズキ、キリキリ、シクシクという表現を共有している。そして、痛みがあって初めて内臓や骨を強く意識する。痛み自体が、身体からの自己表現手段になっている。痛みそのものは、他人には理解できない。自分が痛みの体験をもっているから、他者の痛みを理解できるのである。その感覚をお亘いに知っているからこそ、人間的な関係が築けるのではないかと言う。
しぐさや言葉の使われ方を丁寧に観察し、考えを進めていくことで、これほど豊かな世界が広がっていたという新鮮な発見が得られる書である。言葉の使い方や目の向け方に少し気を使うことで、相手とのコミュニケーションは豊かに円滑になるかもしれない。それは医療でもスポーツでも会社でも同じである。著者は、医療では患者に専門用語を使うべきではないと言っている。せめて看護師が、医師の言葉を翻訳して伝えたほうがよいだろうとも言い、「医療が変わるには、まず医療の言葉がかわらなくてはなりませんね」。
言葉と身体感覚については、もつと切実な思いを持っている方も多いだろう。
現代社会でだんだんと失われていった身体に関する知恵が、今もなおしぐさや言葉に色濃く残っている。それは文化の財産としてこれからも生かすことができるはずである。
(清家 輝文)
出版元:早川書房
(掲載日:2002-12-15)
タグ:身体 文化
カテゴリ 身体
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ストレスに負けない脳
ブルース マキューアン エリザベス ノートン ラズリー 星 恵子 桜内 篤子
副題は「心と体を癒すしくみを探る」。そもそもストレス反応は「闘争か逃走か」反応とも呼ばれ、緊急事態など状況の変化に対応することができる防御機構の1つである。しかし、ストレスが溜まる、あるいはストレス状態が慢性的に続くと有害になり、病気を悪化させてしまう。本書では、緊急に反応する防御の作用に「アロスタシス」、悪影響を及ぼす作用に「アロスタティック負荷」という言葉を当て、ストレスについて脳科学の視点から解説している。
第8章「ストレスに負けない生活」では、アロスタティック負荷を経験する必然性はないと語ったうえで、からだに危害を加えるものではなく保護的に働かせる方法として、運動、ヘルシーな食事、快眠、適度のアルコール、禁煙などを挙げている。不規則な生活や人間関係などが負の影響を与えるストレスの原因になることは間違いないが、その結果陥りがちな暴飲・暴食、睡眠不足は、さらにアロスタティック負荷を招くことになる。
序文を書いたスタンフォード大学のサポルスキー博士が「いい本は健康にいいという非還元主義的な事実があるが、本書はまさにそれに当たる」と評しているが、本書を通して健康になった気分になるから不思議である。
ブルース・マキューアン エリザベス・ノートン・ラズリー著、星恵子監修、桜内篤子訳
2004年9月15日刊、2310円
(長谷川 智憲)
出版元:早川書房
(掲載日:2012-10-09)
タグ:脳 ストレス
カテゴリ 生命科学
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からだことば
立川 昭二
読み終わってから筆者の経歴を読んで勘違いに気付いたのですが、筆者立川昭二氏は医師ではなく歴史家だそうです。しかも病気や医療についての文化史がご専門なんだそうです。それを見てようやく納得がいったのですが、本書の切り口は医学者のそれではなく、文化と身体の関わり合いが主体であるのですが、あまりにも医学的内容の多さにてっきり医師であると思っていました。
『からだことば』は日本における身体の部位を使った言葉から、日本人の心や文化をもう一度見直してみようという内容です。身体は単なる物ではなく、人の生活そのものでもある。そんな作者の根底の考えが伝わってくるようです。身体は生きるために必要な要素であることはいうまでもありませんが、人としての生活を送る上でのメンタリティーが言葉に託されたものが「からだことば」であると知りました。
読み進めるうちに、日本語の持つきめの細かい感性に出会います。「肌」と「皮膚」の使い分け、「手」と「足」に対する価値観、「みる」「きく」という感覚の分類と奥行きの深さなど、改めて日本語の「ツボ」が解き明かされていきます。普段何気なく使っている日本語に、これだけ日本人らしさが隠されているとは思いませんでした。全体から見渡したからだことばに対する考察にはうなるばかり。
ただ1つ気になったのは、現代の日本人が言葉の変化とともに「古き良き」日本人のメンタリティーを失いつつあるのではという危惧をされていますが、生活様式も文化も変化するのが当たり前で、百年や千年という単位で考えれば変わらないほうが不思議であると思います。自分が育った時代背景に懐かしさを持つのは悪いことではありませんが、よくも悪くも移り変わりは仕方のないもの。悪い面だけを見て判断するのもいかがなものかと思います。それもいずれ歴史が答えを出してくれるだろうと思います。
(辻田 浩志)
出版元:早川書房
(掲載日:2014-03-10)
タグ:からだことば
カテゴリ 身体
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xはたの(も)しい 魚から無限に至る、数学再発見の旅
スティーヴン・ストロガッツ 冨永 星
避けてきた数学
数学というのは、学生時代は、できればおつきあいしたくないものの1つであった。
それでも大人になるにつれ、さまざまな場面で数字で表わされる事柄を見ると、やはり逃れられないのだなと感じる。仕事に就いた今も、数字と向き合わない日はない。学生時代にもっとしっかり勉強しておけばよかったと今さらながら思っている。そういう負い目もあり、時折、数学や物理に関する本に手を出してみたりもする。
書店でふと本書と目があってしまった本書の原題は「The joy of χ -a guided tour of mathematics, from one to infinity」。「χの喜び 1から無限の数学のガイドツア-」かぁ。なんだか難しそうだが、面白そうでもある。思った通り、難解な部分もあるが、エッセイとして読むのには文句なく面白く、ところどころにある例題に立ち止まり、じっくり考えてみるのも楽しかった。
導いた答えは
「1週間の休暇を取ることになったあなたは、出発する前に、ぼんやりした友人に弱っている植物に水をやっておいてくれと頼む。水やりを欠かすと、その植物は90%枯れる。そのうえ、ちゃんと水やりをしても枯れる確率が20%、さらにその友人が水やりを忘れる可能性が30%。このとき、(a)植物がこの1週間を乗り切れる可能性、(b)あなたが戻ったときに植物が枯れていたとして、友人が水やりを忘れた可能性、(c)友人が水やりを忘れたとして、戻って来たときに植物が枯れている可能性はどのくらいか」
このような実際的な問題は、私たちの身の回りに数えきれないほどある。
日々、好むと好まざるとにかかわらず、必要に迫られてどうにか対処しているのだが、どうも数学というのは実際とちょっと違うのではないかと感じるときもある。
この友人に水やりを頼む問題も、どれとどれをかけ合わせるべきなのか、わけがわからなくなる。そこで私が導いた答えはこうだ。(a)(b)(c)ともに50%!。枯れるか枯れないか、水をやったかやらないか、2つに1つだからだ。
水やりを欠かすとその植物が枯れる確率は90%ということだが、言い換えると10回に1回は水をやらなくても枯れないということである。しかし、タイムマシンでもない限り、同じ植物と条件で10回試してみることは不可能だし、そもそも、忘れる可能性が30%もある友人にこんな大事なことを頼んではいけないのではないか、とつい余計なことが気になってしまう。
わからないなりに楽しい
科学的思考ができない奴だと言われるかもしれない。著者も「このような問題で正しい答えを得るには、全てが確率通りに起きるとみなす必要がある」と書いている。しかし、やはり、10回中1回の確率だとしても、最初の1回目だけが現実の結果なのだと思う。10,000回に1回の確率と言われていることが連続で起こることだってあるだろう。
単純化することで、却って自分が感じている実感と数字との間に隔たりができる。なんとなくうまく言いくるめられているような妙な警戒感を持ってしまう。その挙句、数学など閑人が小難しい理屈をこねて悦に入っているだけなのではないかと思ってしまう。ついていけない者の僻みだろうか。「数学とは元から存在するものを人が“発見”するのだろうか? それとも人間による“発明”なのだろうか?」という議論が古くからあると聞く。eとかiとかπとか√とか、そういうものは人間が考え出したのであって「元から存在する」のではないだろうと思う。
一方で、私が見えていないというだけで、実際にそこらへんにあるのではないかという気もしてくる。
数学者たちには、私には見えない世界が見えていて、私には分からない言語(数式)で会話をしている。残念ながら私には「x」に喜びも楽しさも頼もしさも感じられないし、無限に微分積分に正弦波に指数・対数…とクラクラしそうなテーマが続く。それでも、ぐいぐいと読み進めてしまう力が本書にはある。きっと、著者が「ね、面白いでしょ」と無邪気に話しかけてきているせいだ。翻訳本によくある日本語の違和感も全くなく、読みやすい。
この「ガイドツアー」で全く別の世界をのぞき見させてもらい、自分の知らない世界の存在を感じ、わからないなりにとても楽しかった。
(尾原 陽介)
出版元:早川書房
(掲載日:2014-12-10)
タグ:数学
カテゴリ その他
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ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち
ダニエル・ジェイムズ・ブラウン 森内 薫
漕艇部員の悩み
私の娘は中学2年生で、漕艇部に所属している。
今は自分の競技の悩みよりも、チームメイトとの相性が合うとか合わないという文句を自宅に帰ってから吐き出しており、いくら思春期だとはいえ、聞かされる方は大変である。
まあ、そういう、周囲から見れば取るに足らないことを自分にとっては大ごとと錯覚して振り回されるのも、子どもから大人への成長過程での通過儀礼なのだろうから、そっと見守るしかないのだろう。
ただ勝つために漕ぐ
本書の邦題は『ヒトラーのオリンピックに挑んだ...』となっているが、原題は『THE BOYS IN THE BOAT~Nine Americans and Their Epic Quest for Gold at the 1936 Berlin Olympics』である。金メダルを追い求めた壮大な冒険譚というニュアンスだと思うのだが、「ヒトラーのオリンピックに挑む」と言ってしまうと、どうしても政治的な匂いを感じてしまうので、どうもあまり好きになれない。
本書で余計だなと感じるのは、当時のドイツの詳細な記述に多くのページを費やしていることである。
ナチスドイツの狂気が加速していく中でプロパガンダとして行われたベルリンオリンピックにおいて、アメリカクルーが逆境をはねのけ、後に枢軸国と呼ばれアメリカと敵対するドイツやイタリアと勇敢に戦った。そのことにアメリカの優位性や正当性を投影するのは、白けてしまうし、またそれを「(ヒトラーは)自分の運命の予兆を目にしていたのに、それに気づかなかったのだ」と言ってしまうのはいかがなものか。
ベルリンオリンピックはナチスの大掛かりなプロパガンダであったのかもしれないが、この選手たちは純粋にボートを漕いだのだと思う。「M.I.B」(mind in boat、心はボートの中に)の掛け声のとおり、「シェル艇に足を踏み入れた瞬間から、ゴールラインを越える瞬間まで、舟の中で起きることだけに心を集中させる」ことを実践し、オリンピックの決勝レースで、圧倒的に不利な状況で、彼らはそれをやってのけた。そのことにただ感動するばかりだ。
両親に捨てられて過酷な生活を余儀なくされ、「もう二度と誰かに依存したりしない。家族にも、他のだれにも頼らない」と心に誓ったジョー・ランツ。そのジョーが、「チームメイトに対して自分の全部を明け渡し」、「仲間をただ信頼」するまでに変化した。そしてオリンピックの決勝レース前に出場不可能なほど体調を崩した整調(クルーのリード役。こぎ手全員の調子を揃える役割を担う。ストロークとも)のために「僕らはひとつのボートに乗ったただの九人ではなく、みなでひとつのクルーなのだから」と確信し、補欠を乗せようとしたコーチに「僕らがゴールに連れて行きます。乗せて、ストレッチャーに固定さえしてくれたら、みんなで一緒にゴールまで行ける」と直談判するに至る。これはナチスに挑んだ若者ではなく、漕艇を通じて成長する若者の物語だと思う。
本稿を書く少し前、映画『バンクーバーの朝日』を見た。スポーツのすごさと同時に、戦争へと進む社会の中での無力さも感じたのであるが、本書でもまた同じ気持ちを味わった。
アメリカクルーだけでなく、ドイツもイタリアもその他の参加国のクルーも、みな純粋にただレースに勝つためにボートを漕いだのだと思う。自分のエゴも政治的なことや人種のことなども、「ガンネルの外に投げ捨てボートの背後に渦をまかせて」いたのだと思う。
私の想像であるが、ドイツのクルーはそれをしたくても、時代や社会がそれを許さなかったのかもしれない。だから私は、1936年のベルリンオリンピックを「ヒトラーのオリンピック」としている本書の邦題を好きになれないのだと思う。
スポーツは誰のものか
スポーツは、プレーヤーや観客のものだ。ボートを一番速く漕ぐのは誰か、などという、実生活では何の役にも立たないことに老若男女が夢中になること自体がとても貴重なのだ。そして、望めばそれができるという今の日本に感謝しなくては、と強く思う。
さて、件の私の娘。
漕艇競技自体を楽しむことはもちろんだが、漕艇を通じて精神的にも成長してほしいと思う。ジョーたちのように、チームメイトに自分の全てを明け渡すことは難しいかもしれないが、せめてもう少し謙虚になって仲間を尊重する態度が身につかないものだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:早川書房
(掲載日:2015-08-10)
タグ:オリンピック 漕艇
カテゴリ スポーツライティング
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スポーツ遺伝子は勝者を決めるか? アスリートの科学
David Epstein 福 典之 川又 政治
もうひとつの「ウサギとカメ」
ウサギとカメという童話がある。どうも納得しかねるこのお話を改変して子どもたちに聞かせたことがある。ウサギに足が遅いことをからかわれたカメは「なら潜水で勝負しようじゃないか」という言葉をぐっと飲み込み、かけっこ勝負を承諾する。このカメは自分が苦手とする領域にあえて挑戦することで、己を変えたいと考えていたのだ。水辺から離れられずに生きていくより、未知の陸地で生き残る存在になるために、エサを確保し、危険から身を守る速さを身につけなければならない。いい機会だとカメは自分なりにトレーニングを積みウサギに挑んだが、スタート直後に自分なりの努力ではどうにもならないことを思い知らされる。「もし君が勝ったら僕は君の言うことをなんだって聞いてあげよう!」そう言い残してウサギはあっという間もなく見えなくなってしまっていた。そもそも命の成り立ちが違う相手に勝負を挑むことは意味がないのか。そんな思いに捉われ、カメは今更ながら愕然とする。
命の成り立ちの設計図である遺伝子の中に、運動能力を決定づけるものは存在するのか。また生まれ持った生理学的資質にトレーニングがどのような影響を与えるのだろうか。本書はそれらの疑問に答えるべく、様々な国や地域、競技、年代を巡って探求した情報を満載している。著者はアメリカのジャーナリストであるDavidEpstein氏。邦題では「スポーツ遺伝子は勝者を決めるか? アスリートの科学」とあるが、原題は「THE SPORTS GENE Inside the Science of Extraordinary Athletic Performance」であり、「勝者」という表現は含まれていない。内容も勝つためというより人間の持つ多様性や可能性を探っているような印象を受ける。大切なのは持って生まれたハードウェアなのか、インストールされたものを学習によってモディファイしたソフトウェアなのか。
カメはしかし思い直す。本当に競うべき相手は、なりたいと思う自分だ。自分を高めたいという欲求は自然に湧きあがってきた感情だ。この勝負を受けたいと思ったことも自分の意志だ。そしてこんな気持ちになることも自分の命の成り立ちの一部だ。絶望的な状況でも逃げ出せばそこで終わりだ。背を向けてたまるもんか。そう考えて全力で走る。一方ウサギはふと立ち止まり、後ろを振り返る。カメは遥か後ろをよたよたと歩いている。やれやれ、こんな勝負に意味はあるのか。ため息をついて、今来た道を戻り始める。「もうやめちまえよ! みっともない! そもそも、お前さんは速く走れるように生まれちゃいないんだ!」カメは息を切らしながら走っているので、言葉を返せない。ちらりとウサギを見た後はまっすぐ前を見据え、ただひたすら走り続ける。
言い切れるほどの単純さか
努力は嘘をつかないという「一万時間の法則」は本当にありえるのか。「大切なのはハードウェアではなくソフトウェアだ」と言い切れるのか。そもそもハードウェアである人体の形質はそんな単純なものなのか。運動能力に関わる遺伝子は一体どれほどの数になるのか。「ウエイトトレーニングにより遅筋線維のおよそ2倍成長する」という速筋線維の割合が高ければハイパワー系の競技で有利になるだろう。しかしその代謝効率をさらに高める遺伝子も存在するようだ。また「筋肉の成長を止める作用に関係するミオスタチンがないと筋肉は急成長する」という。
ローパワー系競技でも、「生まれつき高い最大酸素摂取量に恵まれて」いれば有利になるだろう。しかし、スタートが同じであっても「トレーニングに対する反応速度が高いケース」もあれば「低いケースもある」。標高が高いところでの生活への適応はなにもヘモグロビン量が増えるという形だけではない。「ヘモグロビン量が海抜ゼロ地域に住む人間とほぼ同等の値で酸素飽和度が低いが、血中の一酸化窒素濃度が高いため肺の血管が弛緩」し、「定常的な過呼吸ともいえる状態」で生き残ってきた人々もいる。赤血球数が血液ドーピングと判断されるほど高いにもかかわらず、EPOの分泌量は一般より低いアスリートもいたという。EPO受容体遺伝子の変異が関わっていたのだ。
カメの揺るがない態度に少し胸が痛んだウサギだが、次はあてこすりに少し先で寝たふりをしてみた。カメは走り続けている。甲羅を脱ぐことができれば、もっと長い脚だったら、もっと強い心臓だったら、カメはそんなことも考えてしまう。それでも、カメはなぜだか楽しくなってきていた。周りができないだろうと思っていることに挑戦している自分が滑稽だが誇らしくも思えてきた。こんなことを続けているうちに、もしかしたら何百年か先に脚が異常に速いカメの種族が生まれているかもしれないとまで考えて可笑しくなった。そうなればボクが創始者ということになるのかな。ふと見るとウサギが寝ている。ダメだ、ウサギくん、ボクにとってはこのかけっこは命を育む神聖なものになっているんだ。それを汚すような真似はやめてくれたまえ。追い越しそうになったカメはドンとぶつかってウサギを起こしキッと睨みつけた。ウサギはまた少し胸が痛んだ。
遺伝子の違いで生まれるもの
「腰幅が狭いと走行効率がよい」し、「身体のボリュームに比べて表面積が大きいほど放熱機能がより効果的に働く」。「身長が高いだけでなく、アームスパン対身長比が大きければ、バスケットボールのゴールにより届きやすくなる」。また「下腿の容積と平均的な太さが小さければランニングエコノミーが向上する」し、「へその位置が高い選手(黒人)は走る速さが1.5%向上し、へその位置が低い選手(白人)は泳ぐ速さが1.5%向上する」という報告もある。遺伝的な形態も多様であり、その影響は小さくない。
Y染色体とSRY遺伝子の両方を持っているが、テストステロンの分泌量や感受性によって女子競技への参加が認められる選手もいる。遺伝子の多様性は時に男女の区別をも困難にするのだ。
結局ずいぶん先にゴールしたウサギは、カメが息を切らし、身体を引きずるようにしてやって来るのを待っていた。「キミには負けたよ、カメくん。ボクがキミにしてあげられることはないかい?」疲労困憊だが満たされた表情でカメは答えた、「それならボクの脚が速くなるように一緒にトレーニングしてくれないかい。ボクだって自分を変えたいんだ。お返しにボクはキミに潜水を教えてあげるから。」こうしてふたりの特訓は始まった。おかげでカメはずいぶん速く走れるようになった。ウサギは潜水も少しは覚えたが、カメとの特訓のおかげでその脚の速さはチーターにも負けないほどになった。それでもウサギは二度と自分より脚の遅いものをバカにしたりしなかった。誰かのいいところっていうのは、ひとつの物差しでは測れないことに気づいたからだ。なにより彼らはお互いに尊敬し合える素晴らしい仲間を手に入れたのだ。「運動能力のような複雑な形質は、往々にして数十から数百、場合によっては数千もの遺伝子の相互作用の結果として生まれるものであり、さらに環境要因も考慮に入れなければならない」。「多くの遺伝子は身体の形質に影響を与えるだけで、人に致命的な影響を及ぼすものではない」し、「すべての人間が異なる遺伝子型を保有している。よって、それぞれが最適の成長を遂げるためには、それぞれが異なる環境に身を置かねばならない」のだ。
遺伝子検査をすることでHCM(肥大型心筋症)のリスクを把握し、フィールド上で起こり得る不幸な事故を防ぐことができるかもしれない。頭部を強打した際に脳損傷がより大きくなり、回復にもより多くの時間がかかり、中年期以降に認知症の発症リスクが高くなる原因遺伝子の型が判別できれば、安全面からのスポーツ種目の選択や脳振盪を起こした際の復帰ガイドラインの改正につながるかもしれない。遺伝子情報をこのような形で活かすことは推進されるべきだろう。だが総じて言えば「誰にできるとはいえ、他の誰とも異なる、生物学的かつ心理学的な自己探求」が大多数の人にとってのスポーツであり、人生の味わい深いスパイスとなりえるものだ。全てがわかりすぎるというのも味気を抜いてしまうように思う。
(山根 太治)
出版元:早川書房
(掲載日:2016-09-10)
タグ:遺伝子
カテゴリ スポーツ医科学
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