不安や緊張を力に変える心身コントロール術
安田 登
普段生活をしているとき、私の「体調」と「気分(精神状態)」の境目はどこだろうか。これは勝手なイメージだが、スポーツをする人はフィジカルとメンタル、のようにきっちり分けて考えているように思う。私はどちらかというと今日はいいことがあったので調子がいい、とか、頭が痛いから気分が優れないな、と体調と気分を混同している。心配事があればお腹が痛くなったりするし、身体のどこかが痛ければ気分も優れないというものである。
この心身の不調の元になりやすい「不安」や「緊張」だが、たとえば「呼吸の方法ひとつで、やる気は失われずにネガティブな感情を抑えることができる」と聞いたらどうだろうか。ちょっと「そんな都合のよいこと…」と思わないだろうか。私は思う。正直に言うと、私は啓発本の類が苦手である。「一日◯◯分これをするだけで」とか「これで全てうまくいく」とか、眉唾すぎて手に取る気になれない。なのになぜ、この本を手に取って読んだか。それは著者の安田登さんが能楽師だからである。
とあることから能について勉強しなければならなくなったとき、全国の、主に小中学校を回って能のワークショップを行っておられる安田さんを知った。そして講演を聞いたり、公演を観たりしに行くときに予習としていくつか著書を贖った。これはその延長で入手したものだ。安田さんの著作は多数あり、能の魅力についてももちろんだが、こうした能という伝統芸能の所作から身体の使い方を考察したものも数多くある。この本の中に出てくるロルフィングというボディーワークについても、安田さんは、その持ち前の好奇心とフットワークの軽さでアメリカまで行って施術者の資格を取り、それを専門に紹介した本を出しておられる。
ところで先に述べた「呼吸の方法ひとつでやる気は失われずネガティブな感情を抑えることができる」というのは能の謡のときの呼吸で、安田さんは「舞台のときは緊張するのに謡を謡っているときだけ緊張していない」ことからそれに気づいたそうだ。私が「こうすればうまくいく」系の本をあまり信用していないにもかかわらず、この本を買って読んでしまったのには、安田さんの提唱するあれこれに、そうした650年も続いている「能」というものによる裏打ちがあるから、というのがある。
本書にはこのようにメンタルに影響のある呼吸のことだけでなく、能の所作が大腰筋を鍛えることになるから能楽師は歳を取っても元気で80、90でもまだ現役でいられる、というような身体のことについてもその例やトレーニングが紹介されている。また興味深いのは、不安や緊張など、うまくいかないことに際しての、ものの考え方である。物事がうまくいかないとき、そのことをどう捉え、どう向き合うのか。
本書には自己イメージやサブ・パーソナリティというものも出てくる。それがどういうものなのかは、私の下手な説明を見るより本書を読んでいただいた方が断然早い。チームがうまくいかないとき、自分のやっていることに手応えを感じられないとき、もしかしたら本書にはそれを打開するようなヒントがあるかもしれない。
(柴原 容)
出版元:実業之日本社
(掲載日:2022-06-20)
タグ:メンタル 不安 呼吸 能
カテゴリ 身体
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三流のすすめ
安田 登
なんとなく集団がうまくいっていない。そんな経験をしたことがある人はいるのではないかと思う。私も何度も経験した。なんとなく雰囲気が澱んでいる。何がというわけではないのだが、ギスギスしている感じがする。そのときに私がずっとやっていたのは、個々の技術的な問題を解決するのに時間を割くということだった。
個々が自分の課題をきちんとできるようになれば、そのことによって自信がつき、他人のことを過剰に気にしなくなるのではないだろうか。他人と自分を比べて必要以上に落ち込んだり自分を責めたりしなくなるのではないだろうか。自分ができないからといって他人の足を引っ張るようなことはしなくなるのではないだろうか。今、目の前にあることを一生懸命やってくれたら、結果はそこについてくるはずだ。ずっとそう思っていた。
だが、どんなにそのことに時間を割いても一向によい方向へ行かない。そうこうするうちに、ポツリポツリと離脱者が出始めた。これはまずい。どうも問題はそこではない、と遅ればせながら気がついた。そこで率直に「どうしたらいいと思う?」とメンバー全員に投げかけてみた。するとみんな「この雰囲気をどうにかしたい」と思っていることが分かった。ではこれからどうしたらよいのだろうか。どんな雰囲気になったら、みんなが気持ちよく過ごせるだろう。理想の集団とは。そのために今すぐできる具体的なことは何だろうか。そんなことをかなりの時間をかけて話し合った。明日からこうしよう、と結論が出たときには、全員に「これからはちゃんとする」(できる)という表情が浮かんでいた。
話し合った結果みんなで決めたことは、ちゃんと挨拶をしよう、とか返事をしよう、とかそのような一見他愛のないことだったが、個々の技術さえ上がれば、何もかもうまくいくと思ってひたすら効率のよい練習方法や効果的な内容などを探し求めていた私は、実は彼らが悩んでいたのは全くそうではなかったということを思い知らされた。そして、その話し合いを機に、まるで別集団のように練習に集中し始めたのは、今でもなんだか不思議な体験として記憶に残っている。
本書には「一流になるとは生贄になること」という一節がある。私がやろうとしていたことはまさに他のことを犠牲にして1つのことを極めようとする、その「一流」のやり方だった、ということになる。よく、四の五の言っていないで練習しろ、練習、と思う。文句があればやってから言え、とも思う。主張したいなら結果を出せ、と。しかし実際は本筋はそこではない、ということは現場にいると割によくある話かもしれない。
題名にもあるように、本書に書かれているのは1つのことを極めて頂点に辿り着く方法ではない。あれにもこれにも興味を持ち、2つ、3つと手を出してどれも極めない。二流、三流というのはいわゆるB級C級のことではなく、1つのことを極める人が一流、2つは二流、三流はそれ以上、というような意味合いで使われている。回り道をすること、寄り道をすること。一見無関係に見えるそれらがあっと驚く場所でつながることもある。それが実は万事うまく行く秘訣かもよ? というようなことではないかと私は解釈している。
自分が面白いと思う方へ気の向くままに進み、脇道に逸れてみる。気が済んだら戻ってきてもいいし、また別の道を探してもいい。問題を解決したいとき、ストレートにど真ん中だけを攻めるのではなく、ちょっと引いたり、別の角度から見直したり。冷静になってみれば当たり前のことなのだが、本書はそんな風に物事の見る角度を柔軟に、自由にしてくれる気がする。もしかしたら今あなたが悩んでいることの、その答えは全く思いも寄らぬ別の場所にあるのかもしれない。
(柴原 容)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2022-06-23)
タグ:集中 チームビルディング
カテゴリ 人生
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歌う人のためのはじめての解剖学 しなやかな発声のために
川井 弘子 坂井 建雄
歌うことが好きだ。好きというよりももはや呼吸することに近い。何かを見て連想しては歌い、何かの曲を聴いては続きを歌う。普段から大体歌いながら歩いている。以前は歌っているとよく「お、ご機嫌だね」「いいことがあったの?」と言われたが、流石に最近は何も言われなくなった。周囲の人に「これはこういうやつだ」と認識されたというのも一つの理由だと思うが、もう一つ。機嫌がいい=歌う、という図式が世から消えつつあるのではないだろうか。我々のような一般庶民にとって歌は歌うものから聴くもの、あるいはそのパフォーマンスを観るもの、に変わってきているのかもしれない。若い人たちに「あなたにとって音楽とはなに?」と聞くと十中八九「なくてはならないもの」という答えが返ってくるが、もう少しよくよく聞いてみると彼らにとっての音楽とは「ケータイのサブスクでイヤフォンを通して聞くもの」であることが増えた。ダンスためのものであることもある。それでも「推し」がある、という人はコンサートへ、観劇へ、出かけるという生の体験をするし、場合によっては「一緒に歌う」などということもあるかもしれない。カラオケは好き、という人もいるようだ。
さてその「歌う」ということだが、この本の表紙には「歌うことは、個人的で、繊細かつダイナミックな行為です」というサブタイトルがついている。この「個人的で」という部分、なるべく個ではなく全体でいたい人たちにとって「歌う」ということは年々ハードルの高い行為になるのかもしれない、と思いつつ扉を開く。
まず「歌う学びかたさまざま」という章が目に飛び込んでくる。何か身体的な表現なりパフォーマンスなりを学ぶ、トレーニングをする、練習する、という場合、大きく分けて科学的アプローチと感覚的アプローチがあるが、そのどちらかだけを盲信することの危険性について述べてある。理屈だけでは人は動けなくなるし、感覚は個々の人によってそれぞれ違う。特に感覚については、私はレッスンのときいつも「私はこうするがこれは私のやり方であって、それがあなたに良いとは限らない」「あなたはあなたのやり方を探さなければならない」ということを必ず言うようにしているのだが、まさにそのようなことが書いてあって、少しほっとするような気分になった。手の大きさも、口の形も、腕の長さも、何もかも人はそれぞれ違う。自分がこうして上手く行くものが、必ずしもその人にとって良いとは限らない。かといって、常にチューナーを見て音程だけが正しい音を音楽といえるかというと私は違うと思のだ。ではどうしたら良いのか。
教わる側は言われた通りにすることが目的ではなく、何のためにそうするかをよく考えて自分なりに考えて練習すること、言われたことを「しない」という選択肢もあるということ。教える側は相手の状態をよく理解し何が必要かを見極めること、自分のやり方に固執して強要したり、相手のスペースに踏み込み過ぎたりしないこと。こう書くとなーんだ、そんなこと、というくらい当たり前で簡単なことのようだが、それができないから誰もが色々な場面で悩む。
教わる側は誰かに「ああしろ」「こうしろ」と言われて「はい!」「はい!」と勢いよく返事をしているとなんだかとても頑張っている感じがするし、そのことに充実感を覚えることもある。教える側は教える側で、指示を出して全てをうまく采配することこそが自分の役割だと自認していることも多いのではないだろうか。たまたまそれがうまくいくことはもちろんあるだろう。しかしそれだけで本当に全てがずっとうまく行くのか。
私は「自分がどうしたらもっと良くなるか」は基本的にその人が自分で考えるべきだと思っている。私が頼み込んで歌ったり演奏したりしてもらっているわけではないし、この場合「上手になりたい」のは私ではないからだ。ただ、私は少しだけ相手より経験を積んだ者として、ああしてみたら、こうしてみたら、とヒントを言うことができるくらいのことだ。やってみてうまくいけばそれでよし、うまくいかないならやめれば良いのだ。
そういう、ああしてみたら? こうしてみたら? といって色々試してみるときに、教える側と教わる側の共通言語となるのがこういう解剖学の「知識」であるかもしれない、とこの本を見ながら考えた。ここのこの部分がうまくいかない、と思ったとき、身体の仕組み、成り立ち、部分部分の役割、関係性を知っておくことは非常に有効である。目を酷使すると肩が凝り頭が痛くなる、ということはすでに周知の事実だが、背中が痛い、肩凝りだ、と思っていたら実は心臓だった、ということもあるそうで、歌の場合も喉だ喉だと思っていたら実は脚の位置だった、というようなことは多々ありそうである。
こうしたことは何も歌、音楽に限ったことではないのではないだろうか。高く跳びたい、速く走りたい。脚力だ、脚力だ、と思って脚を鍛えに鍛えても記録が伸びない。実は問題は脚ではなく、腕だった、というようなことである。そうしたとき、その事実に教える側、教わる側、どちらが気がつき、どちらがこうしてみようと言うか。目的は楽によく響く声を出すことであって、喉の力を抜くことそのものを目指しているわけではない。目的は高く跳ぶこと、速く走ることであって、脚に筋肉をつけることがゴールではない。そのことに気づける演奏者でありたいし、そのことに気づける指導者でありたい。
言われた通りにするだけでなく、どうしたらうまくいくか自分で考えて工夫する。こうして文字にしてしまうとあまりに当たり前なのだけれど、日々練習、トレーニングに追われていると、つい見失いがちなことでもあるような気がする。表題は「歌う人のための」だが、この本には何かを習得しようとする人全てに通ずるものが書かれているように思う。何かを教えたい、教わりたい人は是非手に取ってみて欲しい。身体を使って何かをしようとする人は全て、解剖学だって知って損はないはずだ。
最後に「歌うには縦糸と横糸がある」という著者の言葉に触れておきたい。横糸はフレーズをどう歌うか。縦糸はそのためにどう身体を使うか。指導の現場で当たり前のように日常的に言われる「横隔膜を使って」「しっかりささえて」「ノドをあけて」というのは不正確で必要のない斜めの糸だ、と著者は言う。このことが頭ではなく感覚的に理解できるようになるまでには私はもう少しかかりそうな気がする。この、科学的でも感覚的でもないアプローチを知的アプローチとでも呼ぼうか。目指す山の頂はみな同じでも、そこへ至るための道筋はいくつもある。それをまた一つ見つけたような気がする。
(柴原 容)
出版元:誠信書房
(掲載日:2023-02-27)
タグ:発声法 解剖
カテゴリ 解剖
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たまごかけご飯だって、立派な自炊です。
白央 篤司
たまごの値上がりが著しい。何十年もの間「価格の優等生」と言われていたたまごが、いやたまごまでも、である。何もかも値上がりしていく中、たまごよ、お前もか、という気分になる。もっともたまごが高いのはたまごをせっせと作ってくれている養鶏場のみなさんのせいではないし、私のお弁当はたまごなしでは成り立たない。
私は食い意地が張っている。どのくらいかというと未熟児スレスレで生まれて、このままだと保育器入りだと言われていたにもかかわらず、あまりにミルクの飲みっぷりがよかったので、入らずに済んだというのだから、これは生まれついての筋金入りである。当然、現在はその未熟児の影も形もない。そして「おいしいものが食べたい」という欲は少しだけ人より強いかもしれない。だから食事を作ることもそこまで苦ではないのだが、それでも忙しい、気分が落ち込んで何もする気にならない、ということは良くある。そんなときコンビニがある現代でよかったと心から思う。
さて、この衝撃的(?)なタイトルの本だが、良くある料理本とはひと味違う。著者の白央篤さんはフードライターで、ほかにも『自炊力 料理以前の食生活改善スキル』『ジャパめし。』などの著作がある。ご自身もTwitter(@hakuo416)で自作・他作問わず美味しそうな料理を多数アップしておられる。TwitterやYouTubeを始めとしたSNSには人気の料理関係者が何人もいらっしゃるが、白央さんは、まだ自炊をしたことがない人、料理初心者や、料理は好きじゃないけれど、という人に、作って食べることをもう少し楽に考えてほしい、と情報発信しておられるところが、いわゆる「料理研究家」とは少し違うところのように思う。この本でも料理に対するハードルがどのくらい低いか、最初のページを見るとわかる。開口一番「まず、最初にお伝えしたいことがあります。本書は『料理上手』を目指す人向けの本では、ありません。」とある。料理が好きな人、苦手な人、色々な人がいるけれど、生きている以上食べなければならない。仕方ないから自炊している、という人もいるだろうがそれはそれでいい、「料理は基本的にしたくないけれど、栄養のことも少しは考えたい、バリエーションも広げたい」そういう人のための本だというのである。
私は料理は嫌いではないが、先にも書いたようにクタクタにくたびれて帰ってきたとき、失敗をして落ち込み、何をする気にもならないとき、それでもお腹が空く、何かを食べなければならない、ということはよくある。たとえばトレーニングが終わって帰宅する。お腹は空いているけれども凝った料理を作る気力がない、などということはないだろうか。とくに一人暮らしだと「ちゃんとしたものを食べなくちゃなあ」と思いながらも、とりあえずの空腹を満たすために、もそもそと菓子パンを齧る、カップラーメンにお湯を注ぐ、なんてことはよくありそうである。そんなとき、ちょっとこうすれば。そんなアイディアをくれるのが本書だ。何より「そっか、これでいいんだ」という罪悪感から解放される感じがとてもいい、と私は思う。
栄養に関すること、食事に関すること、分かってはいるけれどなかなかそこまで手がかけられない、時間もない。ちゃんとしなくちゃ、ちゃんとしなくちゃ、と気ばかり重くなる。そんな状況から解放してくれる感が本書の魅力でもある。なにしろ「たまごかけご飯」である。
ところでこのたまご、少し前までは廉価で栄養価の高い、自炊の強い味方だった。その価格を知っていると今はちょっと手に取るのを躊躇う値段だというのは確かにその通りだ。しかし先日、スポーツ栄養士の方のお話を読んだのだが、その方曰く、こうした食費を少しケチって体調が今ひとつになるとする。調子が上がらず記録が伸びないかもしれないだけではなく、注意力に欠けてケガをするかもしれない。あるいは何かの栄養素が不足したり免疫が弱ったりして病院にかかるようなことになるかもしれない。そうすると仕事を休み、医療費を支出することになる。これでは節約するつもりが本末転倒である。たまごにしても高いとはいえ数百円、それで手軽に美味しくタンパク質を補給でき、病気や故障を避けられるのであれば安いものではないか、というのだ。なるほど、やはり食は基本だ。お味噌汁だってインスタントでいい。そこにたまごをひとつ、プラスする。そこから始める自炊というのはなんだか気持ちも軽やかでいいな、と思う。もちろんたまごかけご飯だけではない、色々な卵料理が載っている。これならできそう、と思わせてくれる一冊だ。本書の凄いところは、料理をしたことがない人に向けて道具や時間のことなども懇切丁寧に書かれているということだ。まずはたまごを買いに行く、そこからスタートである。食事が気にはなるけど自炊はなあ、という方はぜひ手に取ってパラパラとめくってみていただきたい。気持ちがすうっと楽になること請け合いだ。
(柴原 容)
出版元:家の光協会
(掲載日:2023-04-03)
タグ:自炊 栄養
カテゴリ 食
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おいしいもののまわり
土井 善晴
土井善晴といえば料理番組をはじめ、TVでも人気の料理研究家だ。その土井先生、本もたくさん出しておられる。日常的な料理のレシピ本もさることながら、こうした料理にまつわるエッセイも多い。その数あるエッセイの中から『おいしいもののまわり』を紹介したい。
私は食い意地が張っているのでおいしいものを食べたい、と常々思っている。美食家ではないが、ご飯は必須だ。楽しみでもある。その食事に関して「食べるのがめんどくさい」「噛むのがだるい」という人に遭遇したときは衝撃だった。お腹が空く、ご飯を食べる、というのは私にとって当たり前過ぎて「面倒」とか「だるい」とかいう概念の付け入る隙が全くない完全にナチュラルな流れだ。それを面倒とは! だるいとは!
話が逸れた。本書ではおひつや布巾、玉じゃくしといった調理器具のことや大根、海苔、胡麻といった食材、混ぜ合わせる、ということや火加減についてなど、文字通り「おいしいもの」の周辺にあるものについて取り上げているのだが、序文にのっけから「『おいしいものが食べたい』と食べる人は求める。」とある。私のことか、と読み始める。すると「世の中はオイシイッブームである」ときて、「いつの間にか家庭では食べる人が主役になってきた。」と続く。どういうことか。「食べる人というのは自分勝手で感情的なものなのだ。」と言われるに至ってはぐぬぬ、となってしまう。そして待てよ、この話、何かに似ていないか、と頭の中で何かが点滅し始める。
それが「ああ、これか」と思ったのは「計量とレシピと感性」だ。最初は食材や調味料を「正確に計る」ということがいかに大切かということが具体的に語られる。同じ道具を使い、同じ測り方をする。わずかな誤差も重なれば大きな差となる。きっちり計ってこそ、味の再現性が出る。ああ、音楽を練習するときの姿勢、方法に似ているなと思った。難しい曲はとくにカチカチとメトロノームをかけ、楽譜にある音価を正確に再現する。これはトレーニングにも言えるのではないだろうか。どのような姿勢でどの方向に力をかけ、何度やるか。「正確」であることは大切で、同じスクワット10回でも正確にやるのとそうでないのとでは、成果も違ってくることだろう。
しかし、これには続きがある。「正確に計量すれば100点満点のおいしい料理が作れるかといえば、そうではない。」のだ。それはそうだ。どんなに正確に指が動いても、ただ音を羅列しているだけでは音楽ではない。スクワットやプッシュアップがどんなに正確にできても、それ自体が競技ではないのと同じではないだろうか。ただレシピ通り流れ作業でやっつけるのではなく、鍋の火加減はどうか、野菜の煮え具合はどうか、そうした絶えず変化していく状況について、「感性」を働かせることの大切さ。この練習を何のためにしているのか、目指す完成像はどこにあるのか。そうしたことに心を配ることに似ている。トレーニングなら今日の体調はどうか、負荷に対する感じ方、天気やスケジュール、そうしたものを鑑みながら自分のコンディションと対話することに似ているのかもしれない。
こんなふうにしてひとつひとつの文章は料理に関すること、料理にまつわること、調理器具や調理方法などのことで、それだけでも食いしん坊の私は読んで面白いのだが、それ以上に根底に流れる土井先生の料理へ向かう姿、向き合い方、姿勢というものが我が事に置き換えられ、普遍の精神を感じるのだ。ああ、そうですよね、土井先生! と思う。
さて序文である。「おいしいものが食べたい」を「上手くなりたい」「人に勝ちたい」に置き換えるとどうか。それは確かに感情的で身勝手だ。欲と言ってもいい。だが食事を作る側として季節や食材、道具などを通して料理と真摯に向き合うということは、「おれスゲー!」ではなく、丁寧に譜を読み、自分の技術をしっかり磨いてその曲を最大限に表現しようとすることに似ている。それはもしかしたら真摯に競技に向かう姿にも通づるものがあるのかもしれない。こうした「置き換え読み」もまた楽しい一冊である。ぜひ手に取ってみていただきたい。
(柴原 容)
出版元:グラフィック社
(掲載日:2024-02-24)
タグ:料理
カテゴリ 食
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