脳の中の能舞台
多田 富雄
何のこっちゃ? 私にとって大変インパクトのあるタイトルで、頭の中にはいくつかの疑問符が浮かんだ。私が存じ上げている多田富雄氏は著名な免疫学者であったので、「脳の中の能舞台」というタイトルからラマチャンドラン氏の『脳のなかの幽霊』のような、神経系と運動系を結びつけるような医療系の話なんだろうか、とも思われた。
だが、本を読み始めるとその疑問はすぐに氷解する。多田氏は免疫学者としてだけでなく、白州正子氏をはじめとして多くの文化人と交流があり、能に深い造詣をお持ちであった。
本書は氏がこれまでお書きになってきた数々のエッセイを集めたもので、書かれた当初からこのような形で編集されることを意図されていたわけではない。それにもかかわらず本書全体として能に対する姿勢が明確に浮かび上がってくる。
対象とされる読者は、能に興味を持った人、能を観劇した経験はあるものの「能は一体何を楽しんだらいいんだろう」「この古典芸能は何を訴えているんだろう」という類の疑問を持った人であろう。本書はそのような人に対して非常に有効なアドバイスをくれる。
能の舞台を実際に目にして感じること、初心者が疑問に思うであろうことが丁寧にフォローされる。次いで多田氏と交流のある文化人との能に関してやり取りされた書簡や、実際にご覧になった舞台の曲目紹介、そして氏が書き下ろした新作能が取り上げられている。
能はどのようなものなのか、どのように接していくことを勧められているのか、また古典芸能としての能に新作があることの意味は何か、氏は順番にその回答を進めている。詳細な内容は本編に譲るとして、はしがきからいくつか抜粋してみる。
「この本は、読者といっしょにその舞台を眺め、何かを読み取ろうとする試みである」
「脳の中の能舞台で再演されるさまざまな劇の流れに、ごいっしょに参加して頂くのが目的である」
「古典芸能といっても、能が現代人に語りかけなくなったら、芸術としての生命はない。ここに集められたエッセイは、何らかの形で脳の現代性を探る試みになっていると思う」
本書を一読してから、はしがきに戻ると、その意味が改めて伝わってくる。私は近年まで能との接点をまったく持たずに過ごしていたが、ふとしたきっかけで、日本人として先人が築いてきた文化に触れないままでいることに疑問を持ち、自分なりに能と接してきた。本書は私のような「能初心者」にとっては大変ありがたい指導書である。素敵な出会いであった。
(脇坂 浩司)
出版元:新潮社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:能 脳
カテゴリ 身体
CiNii Booksで検索:脳の中の能舞台
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:脳の中の能舞台
e-hon
スポーツ倫理学講義
川谷 茂樹
今、ロンドンオリンピック、それに引き続いてパラリンピックが開催されている。ニュースを聞いていると、金メダルを逃した選手、選手の取り巻きからこんな声が聞こえてきた。「銀メダルが金メダルより素晴らしい」。私は違和感を禁じえなかった。「おいおい、本気? 金メダルが取れる状況にあっても、取らなかったかも知れないって言っているんだよ。本気で銀メダルのほうが素晴らしいって信じているの? あなたが金メダルを取っていたらそんなコメントしないよね。それがどうしてかって一度考えてみたら?」
スポーツは「清潔、健康的、紳士的」などなど漠然としたプラスイメージを持たれている反面、オリンピックのように「競技スポーツには“勝利”の二文字しかない」という残酷な一面を持つことを誰でも直観的に感じているのではないだろうか。競技スポーツとは、決められたルールに基づいて一番優れた選手(あるいはチーム、団体)を選ぶことにほかならない。ある競技に参加する、と決めた瞬間に選手は頂点を目指す宿命を背負う。身体を強化し、肉体を苛め抜き、精神を鍛錬する。そうしてただひたすら勝利を目指す。選手が目指す方向は、先に示したスポーツが持たれている「健康的」というイメージからどんどん離れていくのである。
その一方で「オリンピックには参加することに意義がある」という言葉も残されている。勝たなくてもいいのか? 参加しているだけで本当に競技者としての意義はあるのか?
同時にスポーツはエンターテイメントとしての性格を強く帯びている。オーディエンスはヒーロー、ヒロインの登場を待ち、その活躍に期待する。見ていてワクワクしないようなスポーツは単純に言って「つまらない」のである。つまらないスポーツにはスポンサーはつかない。すなわち経済的に成り立たない。実に残酷である。
このようにさまざまな顔を持つ「スポーツ」と我々オーディエンスはどのように関わっているのか、関わっていくべきなのか。そもそもスポーツの根源と思われているスポーツマンシップって何? そう考えを進めると、私はどんどんわからなくなった。本書はこれらの疑問を丁寧に解き明かし、こんがらがっていた思考の糸を少しずつ解いてくれる。論理展開に慣れないうちは論点がどこにあるのか見失うこともあったが、哲学、倫理学、法律などとは無縁の私でもわかるように論理を進めてくれている。また、格闘技由来のスポーツの一例としてボクシングを取り上げ、その意義を考えている。
結論には賛否両論あろうかと思う。ただ、その賛否両論はきっと感情的な問題だけであって、議論の本質は多くの方の納得を得られる内容ではないかと思う。読後、「人間ってぇのは自分の得にならないことは積極的にやらない。もしかしたら競技スポーツとは、人間のエゴがもっとも露骨にぶつかり合う場面の1つかもしれないなあ…」と思った次第。皆さんは何を考えるだろう。
(脇坂 浩司)
出版元:ナカニシヤ出版
(掲載日:2013-03-29)
タグ:倫理学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:スポーツ倫理学講義
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:スポーツ倫理学講義
e-hon
健康ブームを問う
飯島 裕一
初版2001年3月19日。15年も前の本である。それにも関わらず内容が色褪せていない。驚きである。
「でもなぜ? なぜ色褪せていないのか?」。ぜひ、そのようなことを考えながら読んで頂きたい本だと思う。
著者飯島裕一氏がこれまでインタビューされてきた中から「健康ブーム」をいくつかの角度で切り取っておられる。「健康ブーム」の「ブーム」という言葉からは偽物の香りが漂ってくる。健康ブームを見ていくことで、健康の意味を考えるきっかけになるだろう。
医療関係に携わる一人として耳が痛いテーマばかりである。読み進めると医療関係者の端くれとしての言い訳が頭の中をよぎる。結果的に、私は自戒の念を持ちつつ本書を読むことになった。
健康には各人各様の受け止め方がある。自分自身の健康観を見つめ直すきっかけとして、本書をご利用になってはいかがだろうか。
(脇坂 浩司)
出版元:岩波書店
(掲載日:2016-05-21)
タグ:健康 ブーム
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:健康ブームを問う
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:健康ブームを問う
e-hon