「あいつはわかってない」「それでわかった」「そうだろうと思うけど、でも分からない・・・」
私たちの日常「わかる」という言葉を頻繁に使う。
「分かる」は「分ける」であるとも言われる。
だが、「わかる」とはいったう何がどうなることか。
このテーマに、現在京都大学総長である著者が平明な記述で挑んだ。
著者の専攻は「情報科学」であり『人工知能と人間』『電子図書館』などの著書もある。
当然、1つの科学分野のみで語れる話ではない。
大きな章題を並べると、「社会と科学技術」「科学的説明とは」「推論の不完全性」「言葉を理解する」「文章は危うさをもつ」「科学技術が社会の信頼を得るために」の6つ。
その「言葉を理解する」の章で、著者は「わかる」というレベルを説明し、「第一のレベルは、言葉の範囲で理解することであり、第二のレベルは、文が述べている対象世界との関係で理解することであり、さらには第三のレベルとして、自分の知識と経験、感覚に照らして理解すること(いわゆる身体でわかる)というレベルを設定することが必要であろう」と記している。
そして、科学技術の文章においては、第二のレベルまでの理解でよいとしつつも、第三のレベルの理解が必要という場面も出てきたとする。
「たとえば遺伝子操作、クローン生物、臓器移植、脳死判定といった問題になると、理屈の世界でわかっただけでは私たち人問は納得でぎず、感情的体験的世界においても納得することが必要であり、これを避けて通ることができなくなっているのである」日々接する情報の量は夥しいが、「わかる」ものは実は少ない。
「わかること」から考える必要は確かにある。
科学を初めとして、各種専門分野の知識は理解しがたく、伝えづらいものではないだろうか。この本は現代において、複雑化する科学技術を科学に携わるものが、わかりやすく一般の人に伝えることの大切さと、そのために必要な努力を論じた本である。
読んでみて感じるのは、この本自体がわかりやすく理論について例を挙げながら解説しているところだ。私自身、恥ずかしながら理解していなかった、推論の方法である演繹法や帰納法を深く理解することができた。
指導をするうえで、何より大切なことは指導する側と指導される側の信頼関係であると思う。指導者が信頼を得るには知識をわかりやすく伝える事が必要となるが、多様な相手には1つの方法ではうまくいかないことがあるだろう。そこで大切なのは相手に合わせることのできる多様な知識の理解である。
この本は科学技術に対して理解できるだけではなく、理解や伝えることに対しての根源的な考え方を学ぶことができる、よき一冊である。
(阿部拓馬)
長尾真著 新書判 186頁 2001年2月20日刊 700円+税
岩波書店
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