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レッドソックスはなぜ松坂投手をとったのか

みごとにワールドシリーズ優勝を果たしたボストンレッドソックス。昨年から松坂投手を獲得することで日本でも話題は大きなものになった。 ボストンは古くから、清教徒が集まる街として、また世界的な大学があるアカデミックな街として知られ、住民も白人層が多い街である。チームも白人選手を中心に集めてきた。そんなレッドソックスが、独占交渉権に5,111万ドル(約60億円)、選手契約に6年5,200万ドル、合計額1億311万ドル(約123億円)と、なぜそこまでして松坂が欲しかったのか。 著者はアメリカ野球学会にも所属する佐山和夫氏。アメリカスポーツ史のなかでもあまり知られていないニグロベースボールについての書籍も出している。そんな同氏がメジャーリーグの歴史でも伝統あるレッドソックスを、歴史的な視点から触れていく本書は、国際化をはかるレッドソックスの本当の戦略が見えてくる。(M)



佐山和夫著、四六判、216頁、2007年10月1日刊、1,680円
三修社(03-3405-4511)

身体知の構造--構造分析論講義

「わざ」の伝承という難題
スポーツの技を伝えて行くにはどうしたらよいのだろう?「不世出の名選手を次つぎに育てていくコーチ、世界の王座に君臨し続ける選手を生み出す名監督は現実に存在」しているのだが「その固有な評価判断の深層構造」はなかなか語られることはない。「それは先言語的な動感意識の深層にあって言明しにくい」のかも知れないが、一般に「それらは『長年の経験によるのだ』とか『秘伝だ』といわれて、その人固有な能力に帰せられ」、一代限りで終わってしまう場合が多い。
今回紹介する「身体知の構造」は、身体文化における「わざ」の伝承という難題について体系化を試みたもので、恐ろしいほどの忍耐力で書き上げられた一連の書物の最新作だ。「わざの伝承」(2002)に始まり、「身体知の形成 上・下」(2005)に続く4冊目である。
最近私が“身体感”とか“身体知”などといったテツガクの匂いがする分野にめっぽう弱いことを知っている某氏の勧めで手にした。白状してしまうと、これがまた頭にガッツンとくるほど難しい。悔しまぎれに残りの3冊も読んでみたら、ようやく、解るかも知れないこともない…くらいの気持ちにはなることができた。悪口ではない。それほど壮大な内容が厳密な言葉をもって記されているということだ。

現象学的な立場から
この「わざの伝承」という難題を解くにあたり、本書の中では「精密性を本質とする自然科学的立場から身体運動を客観的に分析する」という態度はとられない。ビデオで撮影され映像として客観視された、いわば客体化された身体ではなく「私が動くという自我運動として、現象学的形態学の厳密性に基づいて」身体運動の伝え方を分析しようとしている。
科学の尺度では測れない微細な感覚やコツ、あるいはただの主観として片付けられてしまいがちな事象について、かたくななまでに科学とは別の次元、つまり現象学的な立場から(あらゆる先入見を排除して、とはいえ自分がある特有の立場でしか観察できないことを認識したうえで)の分析を試みているのである。
今さらだが、科学は万能ではない。ある事象を科学的に説明しようとするとき、厳密な実験条件を設定する必要がある。雑音を取り払い、問題点を明確にあぶり出すことで客観的に測定したデータが取り出されるのだが、同時に、ある限られた条件でしかそのことが成り立たないという不便さを背負うことになる。
しかも、そのデータのどの部分に着目して、どう解釈し、どのように考察を進めるかという段階で主観が入り込む可能性があるうえ、科学的理論が広く知れ渡るようになると、尾ヒレが付いたり逆にデフォルメされたりして本来伝えるべき内容とは異なった理論(解釈)が一人歩きしてしまう現象がしばしば生じる。正しい科学的な態度とは、定説をつねに疑うこと、というか、何か一つだけのことを正しいと信じ込むのではなく、いつもニュートラルな態度で物事を見つめようとすることだと思う。科学的な見方が正しい場合もあるが、それが全てではないし振り回されてはいけない。たとえば時計にしたって、瀬古利彦氏は『マラソンの真髄』で、「時計はみんなのタイムを公平に計る機械であって、自分の体調を測るものではない」と述べているが、このような状況が当たり前のように起こる。そこには現象学的なものの見方というのがやはり必要になる。

あくまで“私”
本書が科学的立場をとらないもう一つの理由として、こちらが本義だと思うが、フランスの哲学者 メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908~1961)による心身一元的な身体感の影響があるようだ。昔の教科書を引っ張り出してみた。「メルロー=ポンティは、身体のあり方は、芸術作品に似ていて、そこでは、表現する働きと、それによって表現されるものとが区別されないと云っている。つまり、意識としてのわたしが、身体のうちにいるのではなくて、意識の本性が志向性であるなら、身体こそが意識の根源的なあり方であり、しかもこの意識は『われ思う』ではなくて『われなし能う』ということになってくる」(阿部忍著、体育哲学、逍遙書院、1979)。映像として観察されたものは「物の運動」として捉えられており、精神と一体化した“私”の運動ではなくなってしまう。どんな身体運動も実際に行うのは、あくまで“私”であって、その“私”が“今まさに”行っている運動の感じを自得、伝承しようとする行為を記そうとしているのだ。
齢80になろうとする著者が、今まさに現役の学徒としてこの大作に挑んでおられる姿が思い浮かぶ。私感だけれど、ビデオ画像や動作解析データにも“今まさに私が動いている感じ”を身体に投影できるコーチや科学者も最近はいるのではないかと思う。皆さんの目で確かめて下さい。
(板井美浩・自治医科大学医学部保健体育研究室准教授)



金子明友 著、442ページ A5判、4410円(税込)
明和出版

骨格筋ハンドブック

人のからだの障害に対して、骨格筋の知識は必要不可欠である。本書はスポーツやエクササイズを行う重要な役割を果たす主要な骨格筋について役に立つ情報を見開きで紹介していく携帯書である。副題は『機能解剖からエクササイズまで一目でわかる』で、訳者は野村嶬・京都大学大学院教授や、藤川孝満・藍野大学教授。
内容は整形外科医や、PT、OT、柔道整復師、トレーナーを目指す人たちのために人体の運動器系の学習や、骨格筋の内容を整理しており、全カラーページの絵で身体の各部位を説明し、各部位のセルフストレッチも紹介している。より現場で活かされる内容である。
見開きページ単位で構成されているが、左頁には個々の骨格筋の全体像とその付着(起始と停止)を図解し、右頁には筋の名称の由来、起始、停止、支配神経、作用、主要な機能運動や問題点を記述。訳者も「本書は入職して日の浅い臨床家には確認のハンドブックとして、ベテランの臨床家には患者への説明の際の資料として臨床の現場で役立つことを願っている」と述べている。
手元にあれば安心の一冊。是非現場で活用していただきたい。(M)



Chris Jarmey著、野村嶬、藤川孝満訳、A4変判、164頁、2007年11月15日刊、3,150円
南江堂(03-3811-7239)

欲望する脳

茂木氏は本書の中で「脳とは、結局は生物が生き延びるために進化させてきた臓器である。生存のための臓器としての脳は、徹頭徹尾利己的に作られている」と述べている。“歴史は繰り返される”という言葉があるが、茂木氏の示す通り、この言葉の根源が人間の脳であるとするならば、私たちはこの欲望する脳とどのように接していけばいいのか。昨今問題になっている食品会社の食品の安全管理体制や、建設会社の環境アセスメントの裏工作、政治献金や、社会保険庁の年金受給者への怠慢な管理、年金未納、戦争など、さまざまな点において私たちは欲望する脳に疑問視していることになる。しかしながらその欲望する脳も人間の進化のためには十分な役割を果たしてきた。こうして肉食獣がいない安全な居住があるのも、好きなときにコンビニエンスストアで食事を確保できるのも、私たち人間の脳が欲望するままに生きてきたからに違いないからだ。つまり生きるために私たちは欲望し、進化してきた。結局のところ答えは見つからないかもしれない。だが、いろいろな問題が出てきている現代だからこそ、利己の欲と、利他の欲とを協調していくことが大事ではないだろうか。(M)



茂木健一郎著、新書判、頁222、2007年11月21日刊、735円
集英社新書(03-3230-6393)

学校における運動器検診ハンドブック

「運動器の10年」日本委員会が監修、編集は武藤芳照・東京大学大学院教授、柏口新二・東京厚生年金病院部長、内尾祐司・島根大学教授。副題の『発育期のスポーツ傷害予防』にもあるように、ジュニア期のスポーツの現場での傷害は後を絶たない。指導者、保護者、本人の認識不足もあるが、いずれも子どもの発育発達に見合うスポーツ指導が行われていないということではなだろうか。本書を監修した日本委員会では、予防と教育の立場から、2005年度より「学校における運動器検診体制の整備・充実モデル事業」を継続し、北海道、京都府、徳島県、島根県の4地域での調査や研究を推進し、2007年度からは新潟県、宮崎県も加わり全国6地域での活動が展開されているそうだ。
そのなかで本事業の目標は「学校における運動器検診体制を整備、充実することにより、児童、生徒のスポーツ傷害や運動機能障害を早く発見し、適切な指導・教育・治療を施し、心身ともに健全な成長・発達に結びつけること」と定め、本書はそれに賛同する方々の連携や、協力関係を最大限に活用して構成、執筆が行われた内容になっている。(M)



「運動器の10年」日本委員会監修、B5判、319頁、2007年11月25日刊、5,985円
南江堂(03-3811-7239)

日本人はなぜシュートを打たないのか

どれだけcommitできるか
以前私がトレーナーとして帯同していた高校ラグビー部には2人のニュージーランド人留学生がいた。その年、彼らは地区新人戦から選抜大会優勝、そして全国高校ラグビー大会準決勝で同点抽選の末、決勝進出権を逃がすまで、公式戦無敗でシーズンを終えた。留学生がいることで批判もあった。確かにゲームプランを考えるうえで彼らは核となることができたが、2人の存在だけで強いチームがつくれるかと言うと、それほど単純な話ではない。逆にスター選手がチームをつぶしてしまうことも往々にしてある。
この2人は自分の力を誇示することなく、チームのために自分の役割を果たすことを理解していた。周りの選手も彼らを中心に、各々の持ち味を活かした攻撃や防御を展開することができた。何より多くの選手が、何故そうするのか、いつ何をすべきだということを、高校生としてはよく理解していた。このような状況をつくり出すことができれば、チームは指導者の思惑を超える力を発揮するようになる。このチームの理念の1つにCommitmentという言葉があった。「覚悟」と訳していたが、己を賭けた物事にどれだけcommitできるのか、これは自分自身の生き方を問われることでもある。

有機的な連鎖
さて、本書「日本人はなぜシュートを打たないのか?」では題名にある問いに狭義で答えるものではない。「さまざまな意味で何が起こるかわからないサッカー。だからこそ選手個々の判断力、決断力、そして勇気と責任感にあふれ、誠実でクレバーな実行力が問われ」、そしてそれらのプレーがオフェンス、ディフェンスにかかわらず「有機的に連鎖」したときに、シュートを放ち得点するという目的に向かってチームがハイレベルで機能する、ということを、自身のドイツ留学体験を中心に説いている。年来のサッカーファン、サッカー関係者にとってはとくに目新しいことはないかもしれない。しかし、当たり前のことを当たり前にできるようになるということは、競技レベルが高くなるほど、そして実力がある個性の強い選手が集まるほど困難になる。そしてこの理念はサッカーだけではなく、ほかのあらゆるチームスポーツに共通する。そのことを再認識するにはいい本かもしれない。
伝統的な精神論を語るつもりは毛頭ないが、体力、スキル、戦術といった試合でのパフォーマンスを左右するどの要素も、突き詰めれば総合的なメンタルマネージメントがその原動力になる。つらいフィットネストレーニングにどれだけの目的意識を持って「誠実に」取り組めるのか、ゲームで最大活用するための創造力をどれだけ持ってスキルアップに努められるのか、どれだけの「責任感」を自覚して「勇気」を持って戦術を「クレバーに」遂行し、またその戦術に囚われることなく臨機応変の「判断力、決断力」を発揮できるのか。優秀な選手、そして優秀な指導者はこの土台が安定しているのだろう。この点、メンタルトレーニングなどでその一部を鍛えることもできるだろうが、結局は個々の生き方、人生哲学が色濃く反映されるように思われる。そしてそれがフィットする仲間に巡り会ったとき、「有機的な連鎖」は生まれるのだろう。

生き方を問い続ける
これは試合に出場する選手だけの問題ではない。ゲームに出場できない大多数の選手たちが、それでもチームの一員としての自覚と責任感、そしてモチベーションを保つことができるのか。指導者にとってもチャレンジすべき難しい問題だろう。試合中や練習中に、そして普段の生活の中でも、チームにおいて果たすべき責任を自覚せずに「汗かきプレー」や身体を張ったプレーなどできるべくもない。よくも悪くも己の行動が周りにどのような影響を及ぼすのかを自覚し、自分のやるべきことにいかにcommitするのか。これは自分の生き方を問い続けることと同義である。
人生の中で、真にcommitできることに出会い、仲間やライバルの存在も含めてお互いを刺激しあい、生き方のレベルで「有機的に連鎖する」巡り合わせは、そう度々お目にかかるものではない。スポーツが人々に感動を与えるのは、実社会では忘れがちなそんな姿をストレートに見ることができるからなのかもしれない。
(山根太治・日本体育協会公認アスレティックトレーナー、鍼灸師)



湯浅健二 著、240ページ 新書判、724円+税円
アスキー

武道vs.物理学

科学的かそうでないか
自然科学の範疇で科学的なこととそうでないことを、どう区別するのかと問われれば、科学的凡人であり俗物である私は残念ながらその明確な答えを持たない。次から次へと出版される「科学的専門書」やテレビを始めとするメディアやネット上に氾濫する「科学的」と主張する情報を見れば見るほど混乱するばかりである。惑星物理学者の松井孝典氏は南伸坊氏との対談集「科学って何だ!」(ちくまプリマー新書)で、「科学は「わかる、わからない」、世間は「信じる、信じない」あるいは「納得する、納得しない」」と表現している。これはわかりやすい。私は、「わかる」ことと「納得する」ことでは後者の割合が明らかに高い。

武術を題材に物理の勉強
さて「武道vs.物理学」。「生まれつきの運動音痴で軟弱な上に中年癌患者になった」と自虐的に自分を繰り返し表現する著者は数理物理学者で大学教授。数々の複数領域にわたる著作を持つ。学術的立場にいるこの著者は理論武術家としての顔も持ち「武道の究極奥義」を「特別な努力もせず」に手にしている。そして軽妙というより、どこまで本気なのかわかりかねる遊び心満載の文章で、三船久蔵十段の「空気投げ」と呼ばれる隅落としやマウントポジションの返し方を生体力学や生物物理学を駆使して解説している。武術の技の断片のみを切り出して解説している印象がぬぐえないが、前半は武術を題材に基本的な物理の勉強ができる。学生時代から物理学を基礎レベルから理解する頭を持たなかった私は、学生時代にこういう勉強をすれば多少は物理学的思考を鍛えられていたかもしれない。

「究極奥義」
終盤に「究極奥義」のさらなる深みが顔を出す。なんと離れたところから、人を無力化してしまうのだ。本文中に説明されているある境地に至ることで、「敵の神経システムの機能を停止させ筋肉組織に力が入らなくさせる」可能性を示唆しているのだ。頭の悪い人間が懐疑的になると時として滑稽であり、見苦しいものであることは承知しているが、私はまさにその部類であることも自覚している。そんな私にとっては青天の霹靂であり、「納得できない」展開である。しかし著者はれっきとした物理学者であり、○○理論を銘打って己が唯一「科学的」であるような物言いをする輩とは違う。
懐疑的である一方で、世の中何でも起こり得るというお気楽主義も併せ持つひねくれ者としては、「そんなことないやろー」と思いつつ、ぜひ一度投げ飛ばされたいという欲求も禁じ得ない。科学的であることと、そうでないこと、さてどこに線を引けるのか。
それにしてもラグビー強豪国相手に日本人が圧倒できるような「究極奥義」があればねぇ。
(山根太治・日本体育協会公認アスレティックトレーナー、鍼灸師)



保江邦夫 著、講談社+α新書、205ページ 新書判 840円
講談社

高血圧の常識はウソばかり

高血圧患者は多い。では、どれくらい正しい知識が普及しているか。そもそも「正しい知識」とは何か。では、ここで問題です。というわけで、本書では「上の血圧より下の血圧が大事である」「高齢者の血圧を下げるとかえって危険」「脳卒中になったら動かすのは危険」「食塩は人間の元気の素で、なくてはならない栄養素である」など計10項目が記され「はい/いいえ」で答える。ここに挙げたのはみな「いいえ」が正解。
高血圧に関する研究は進んでいる。著者は、そのエビデンスに基づいた治療が必要だと説く。その背景には、エビデンスよりも権威の意見が通るという現実もあるとのこと。
著者は東京都老人医療センター副院長で、自分自身の経験や研究成果を大事にする視点から「血圧は血管に対する負担である」という結論を得ている。一例として、高齢者の降圧目標値は2000年の日本高血圧学会のガイドラインでは、「年齢プラス90ミリ」だったが、欧米では大規模臨床試験のエビデンスから「高齢者でも若年者でも一律140/90mmHg未満」。著者はこれに反対し、講演などで主張、それが2004年のガイドラインでようやく欧米並みになったという。高血圧の人はもちろん、そういう人に接することが多い人にもおすすめ。(S)



桑島巌著、新書判、234頁、2007年12月30日刊、756円
朝日新聞社(03-3545-0131)

スポーツ膝の臨床

本誌でも登場していただいたことのある史野先生による臨床家向けの本。膝のスポーツ外傷について、著者が実際に経験したものだけを取り上げ、著者の診断プロセス、治療方針の決定、手術や保存療法を含む治療方法について全ページカラーで示されている。スポーツ医学というジャンルでは、多数の執筆者がそれぞれの専門を担当し、それをまとめた本が多い。専門分化していく世界なので、そうならざるを得ないところもある。だからこそ、1人の執筆者が1冊を書く、いわゆる単著の価値は大きいとも言える。この本は、本文は80ページ程度で、簡潔にまとめられているが、随所に著者の哲学が現れる。冒頭の「序」でも、いきなり「傷害された人体の組織には治癒能力があり、医療はその治癒能力を最大限に引き出すべきである、というのが医療人としての筆者の哲学であります」という一文から始まる。個性にあふれ、哲学に富み、臨床家としての姿勢を感じることのできる1冊。こうした本が次々に生まれることを期待したい。(S)



史野根生著、B5判、92頁、4,935円、2008年1月20日刊
金原出版(03-3811-7184)

キネティック解剖学

訳者は中村千秋・ATC、渡部賢一・ATC、NASM-PES、NSCA-CSCS。副題は「写真とイラスト学ぶ骨格と筋の機能」とあるように、身体の各部位を写真で、また写真でわからない骨格筋などは美麗なイラストを用いて説明されている。著者は、なぜ解剖学書を出版する必要があるのかを「人体の解剖は人生を通して変化するものではないが、その対象をどのように扱うかは変化し続けるからである」と語る。いまスポーツの現場ではネットワークづくりが注目されているが、本書は医師、理学療法士、教員、コーチ、その他の医療従事者等が、お互いの知識を深められることを目的の1つとして作られている。そして本書のもう2つの目的は、骨格がどの靱帯と関わり、支持され構成しているのか、また関節はどの筋肉が収縮して動作を引き出すのかを読者に理解してもらうこととある。構成は大きく4つに分けられているが、パート1・解剖学の基礎知識、パート2・上肢、パート3・脊椎、骨盤、胸郭、パート4・下肢に分けている。そして各パートの最後は紹介した部位にある主要な神経と血管で締めくくっている。翻訳もわかりやすい日本語になおされているので、とても読みやすいと感じるだろう。(M)



Robert S.Behnke著、B5判、239頁、2007年12月25日刊、4,410円
046-865-2161

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