幻の東京オリンピックとその時代 戦時期のスポーツ・都市・身体
坂上 康博 高岡 裕之
題名にある「幻の東京オリンピック」とは、立候補したがリオデジャネイロに開催決定した2016年のものではなく、戦時中の1940年のものである。開催決定までの誘致活動の様子、そして返上に至る過程について、スポーツ社会学的な分析が行われている。
各地の大規模な運動公園など、さまざまな運動施設はスポーツを行うインフラを担っているが、すでにこの時期から計画・整備が始まっていたことが本書により明らかにされている。オリンピック誘致と連動して、さまざまな変化が起きていること、それが戦後にも大きな影響を及ぼしていることが興味深い。
そのほかの題材として、都市空間、広告における写真表現、学生野球、集団体操などが取り上げられ、当時どのような動きがあったのかが文献に基づいて立体的に浮かび上がる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:青弓社
(掲載日:2010-04-10)
タグ:歴史 オリンピック
カテゴリ スポーツ社会学
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日本武道の武術性とは何か サピエンスと生き抜く力
志々田 文明 大保木 輝雄
武術は戦や狩猟の中から生まれたもので、戦の相手や動物を殺傷することを目的としていました。ところが徳川の安定した時代になると戦う機会もなく、一番必要とされた戦闘スキルも活躍の場を失います。軍隊でもあり兵士であったはずの武士も、その役割が政治であったり行政であったり仕事の内容も変わりました。そんな時代に武術に身が入るはずもなく、武術そのものの価値なり目的なりが見失われそうになりつつあるとき、新たな目的や価値観を見出し、戦闘の術から身心を鍛えるための武道へと変わっていくさまを学術的に記したのが本書です。
価値観はその時代で変わるものですが、ここ200年ほどで「人権」という概念が生まれ、人を殺傷する行為は、すなわち人権侵害であり「暴力」と呼ばれ社会的に嫌われる行為となりました。もちろん私たちの時代は生まれながらに人権を持っていますので、ある時代から「人権」や「暴力」という概念ができたというのは驚かされました。それ以前の時代背景では敵をやっつけて戦に勝つということは名誉なことであり、それが「暴力」と呼ばれ否定されるという逆転の時代の中でどうやって武術の生き残りをかけて新たな価値の創造をしていくかが1つのテーマとして書かれています。
戦うことこそが武術・武道の中心的要素なわけですから、精神的な修行とともに「武術性」にこだわるのはもう一つのテーマになっています。近代においてはスポーツとして存続している武道もありますが、「武術性」「精神修養」「怪我や事故を防ぐ」「暴力性の否定」などは今の時代も重要な問題点として議論されています。
時代時代の環境にアジャストしなければ生き延びることができないという点で、武道もまた生物同様の難しさがあることを教えられました。中には、消えていった武術もあるはずです。文化や芸能もまた然り。長い時代を生き続けるものもあれば、ひっそりと消えていくものもあったでしょう。本書の核になるのは「臨機応変」という姿勢だと感じました。変化することで生まれる問題点も上手く取り込んでいくたくましさと知恵こそが最も学ぶべきところでしょう。
(辻田 浩志)
出版元:青弓社
(掲載日:2021-01-21)
タグ:武術 武道
カテゴリ その他
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企業スポーツの栄光と挫折
澤野 雅彦
絶滅寸前の“企業スポーツ”
今回の本の出版元である青弓社というところは、なかなか“骨太”な本を出すところだ。たとえば、その中の一冊に「運動会と日本近代」という本がある。この本は、1874年(明治7年)にイギリス人将校の提案で始まった“近代”の運動会が、いかに日本人独特の祝祭的性格にマッチし、日本社会に融合され、近代化教育の中で有効な身体教育装置として機能したかを書いたものだ。今日ではごく当たり前の学校行事が、実は初期の日本近代化政策を推し進める上で大変重要な役割を果たしたというわけだ。青弓社には他にも近代日本の成立過程をスポーツというキーワードを使って解き明かそうとした作品が多い。
今回ご紹介する本書もこの流れに沿ったものだ。「本書では、『企業スポーツ』を考えてみたい。(中略)オリンピックの商業化を契機に、世界中がスポーツを支援しはじめている。(中略)もちろん日本も例外ではなく、選手のスポンサーになって、冠大会を開いて会場の宣伝用のプレートを掲げ、メディアを通じて企業名を宣伝している。だがしかし、本来の意味の『企業スポーツ』は、産業構造の変化とともに、また、企業収益の低下とともに、衰退の道を歩み始めているのである」。ここで言う“本来の意味の企業スポーツ”とは何か。筆者はそれを日本の文明と言う。「どのようなスポーツをどのような世界観に基づいておこなうかというスポーツ文化(ソフトウエア)の研究よりも、そのスポーツがどのような装置や仕組みを通しておこなわれるか、といったスポーツ文明(ハードウエア)により興味がある」。さらに、筆者は「『企業スポーツ』とは何だったのかについて、消え去ってしまう前に書き留めておきたい」と言う。今、日本の文明のひとつが絶滅寸前なのである。
「企業スポーツ」は日本を救えるか?
スポーツが日本の企業の中で注目され始めたのはいつの頃であったか。筆者は「『日本型』労務管理が黎明期を迎えるのが第一次世界大戦の時期、つまり1912年ごろ(明治末期から大正元年)のこと」であって、「大正期に入ると、雇用状況の変化に応じて、企業主の温情としての福利厚生制度が出現しはじめる」と言う。なぜなら、産業技術が新段階を迎えるにあたり“現場での熟練工”の重要性が認識され始め、終身雇用的な労務慣行が意味を持ち始めたからだ。そして、経営者のなかに「経営家族主義」なるイデオロギーが浸透し始める。つまり、社員はみな家族というわけだ。このイデオロギーはストライキなどの労働運動の抑制にも効果があったと言われる。
今年のプロ野球界には激震が走り続けている。IT産業による企業の買収・合併攻勢のなかで親会社が揺れているからである。が、プロ野球の成立過程を考えればこれは宿命だ。所詮親会社の広告塔なのである。しかし、企業スポーツは違う、と筆者は言う。「本書で扱おうとしているものは労務部・人事部所管の企業スポーツであり、従業員の福利厚生または教育訓練としての企業スポーツである。決して、広告宣伝部のそれではない」。つまり、会社の根幹をなす人材教育の受け皿として企業スポーツは存在価値があるというわけである。筆者の専門である経営学の古典的理論に“満足化理論”というのがあるそうだ。これは極大利潤を目指してぎりぎりのことをやる企業より企業が存続できる程度の利潤を目指す(満足化利潤)企業の方が社会的イノベーションが起こしやすいとう理論であると言う。「組織は常に余剰を抱えるべきで、余剰の有効活用をしようとするときに革新が起こる」という筆者の提案に素直に耳を傾けたい。その意味で「企業スポーツは日本を救う」的解釈は新しいと思う。
(久米 秀作)
出版元:青弓社
(掲載日:2005-12-10)
タグ:企業スポーツ
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