アスリートのこころの悩みと支援 スポーツカウンセリングの実際
中込 四郎 鈴木 壯
アスリートへの心理サポートの歴史をひもとき、次いでアスリートが置かれる状況、陥り得る危機を心理面から整理する。それに対してスポーツカウンセラーはどのようにサポートできるか。メンタルトレーニングというと意識レベルのコントロールというイメージが強いかもしれないが、著者らはアスリートがカウンセラーの前で自分について語る意味に着目した。カウンセリングは指導ではなく、当人の成長する力への働きかけだという。さらには身体が語る言葉にも耳を傾け、競技力向上へ後押しする役割を、ジュニア期から引退間近の選手までの豊富な事例とともにまとめた。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:誠信書房
(掲載日:2017-05-10)
タグ:スポーツカウンセリング
カテゴリ メンタル
CiNii Booksで検索:アスリートのこころの悩みと支援 スポーツカウンセリングの実際
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:アスリートのこころの悩みと支援 スポーツカウンセリングの実際
e-hon
アスリートのこころの悩みと支援 スポーツカウンセリングの実際
中込 四郎 鈴木 壯
関わり方の基礎
20数年前、鍼灸の勉強をしている頃に心理学の本を読もうと思い立った。いくつか乱読するうちに、河合隼雄という人の本に出会った。直ちにのめり込み、手に入るものは全て読み尽くさねばと思った。専門書として書かれた本は私にとって読み解くにはハードルが高かった。一方で遊び心満載の楽しい文章が並んだ一般書は、楽しめるとともに示唆に富んだものばかりだった。心理学の専門家を目指したわけでもないし、氏の説くユングの考えに深く傾倒することもなかったが、私の選手との関わり方などアスレティックトレーナーとしての立ち位置はその影響を強く受けた。人の心をわかるといったことではなく、「そこにいて」「役に立つ」ことをするという感覚を得たことは、選手との距離感やアスレティックトレーナーとしての仕事のあり方に教えをい ただいたのと同義だった。アスリートの役に立つ存在として、アスレティックトレーナーもカウンセリングマインドというものが必要なのだ。
極限状態の中で
さて、本書ではスポーツ選手に対するメンタルマネージメントとして、スポーツカウンセリングを題材にそのサポートの歴史やサポート内容の変遷、事例などが述べられている。文中でも引用されているが、およそ50年も前のスポーツ科学研究委員会心理学部会報告書で「スポーツ現場というのは、極端ないい方をすれば、生と死が隣りあっている極限状態における“自己実現の創造性”の闘いであり、“特殊な才能の創造性”の争いなのである。したがって、自分を絶えず極限状態に追い込み、極限状況を日常生活的なものとしなければならない。すなわち、この非常な闘いのなかで、なおかつ人間性の深化への努力を、つねに持続せねばならない。たえず、極限状態に追いつめられる選手が、袋小路に入り込まないように人格的な成長を促進させる援助として、スポーツ・カウンセリングのサービ スが必要なのである。」と述べられている。当時から考えれば驚くほどスポーツ科学が普及した昨今のスポーツにおいても、トップアスリートが「非常な闘いのなか」にあることは想像に難くないし、学生スポーツにおいてもそれぞれのレベルで「極限状態」にあることは間違いないだろう。
そのようなアスリートが、そのあるべき姿ともされる「明るく、元気、爽やか」に常にいることは自然なことなのだろうか。考えてみると昔のアスリートとも言える武芸者たちは、「明るく、元気、爽やか」というイメージを求められたのだろうか。召しかかえてもらうには愛想のひとつも必要だったかもしれないが、豪快という言葉は似合っても、自分の主義を曲げてまで阿る必要はなかったようなイメージがある。いやこれはあくまで想像だが。現代のプロアスリートなどはファンやスポンサーがいてこそ成り立つ経済構造があるだろうし、子ども達の憧れの対象でもあるわけだから、完璧な 人間であることを求められることは理解できる。それをやり遂げているトップアスリートは立派だと心底思う。しかしそれをやり続けるのは想像し難いストレスになり得るだろうとも感じる。
共通するもの
「競技遂行困難」「ケガ、痛み」「身体の病気」「身体症状」「精神障害」など自身のメンタルに問題がいつ起こるかわからない状況で、彼らはそれほど精神的にタフでいられるだろうか。いや、「壁を突き破り成長していく選手がいる一方で、身体の故障、そして自分自身が抱える問題が表面化し、それによって競技遂行が難しくなる」アスリートが少なからず存在するわけで、彼らをサポートする人間は必要だろう。アスリートのためのメンタルトレーニングが事前に用意されたプログラムを手順に従って指導する、いわば「教える」ことが中心のサポートであるのに対して、本書で主に述べられているスポーツカウンセリングは「自己理解が増し、内的な成長、そして競技姿勢 の変化」を期待して行うものであり、アスリート自身が「自己発見的な歩み」を通じて「育つ」ことに主眼を置いている。
これはアスリートのすぐそばでサポートするアスレティックトレーナーの心得にも共通する。スポーツカウンセリングマインドともいうべきものが必要なのである。負傷したアスリートが競技復帰を目的に行うアスレティックリハビリテーションにおいても、心理サポートによってリハビリ期間を短縮できるという。それはカウンセリングの形でなくてもできる。傷害に応じたプロトコールを選手にただ指導するのではなく、選手の状態を的確に評価して問題を把握し、その人の「役に立つ」ことを「そこにいて」アスリートと共につくり上げていくのだ。このほうがアスリートの状態をよりよくできるだろうし、リハビリ期間中に自身の身体を再認識し「自己発見的な歩み」を通して「育つ」ことが期待できるように思う。
本書に河合氏の著書からの引用文がある。「心理療法とは、……可能な限り来談者の全存在に対する配慮をもちつつ、来談者が人生の過程を発見的に歩むのを援助すること」だと。アスレティックトレーナーと置き換えてもいい。
(山根 太治)
出版元:誠信書房
(掲載日:2017-09-10)
タグ:スポーツカウンセリング
カテゴリ メンタル
CiNii Booksで検索:アスリートのこころの悩みと支援 スポーツカウンセリングの実際
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:アスリートのこころの悩みと支援 スポーツカウンセリングの実際
e-hon
野の医者は笑う 心の治療とは何か?
東畑 開人
臨床心理士である著者が「野の医者」と呼ぶのは、スピリチュアルや宗教に関わるもの、たとえば占い師やヒーラーなどの、世間一般的にはちょっと怪しいと思われる人たちだ。
研究助成金を得た著者は、ありとあらゆる「治療」を受けまくる。そのなかで、自身が取り組む仕事、扱っている「こころ」のことを考える。治癒を巡って、あるヒーラーとの対話のなかで出てきたスタンスの違いは興味深い。劇的に良くなる、というヒーラーの主張する対象者の状態は、臨床心理学から見れば、躁状態であるに過ぎず根本から良くなっているとは言い難い。
それが悪いわけではない。ひとまず、避難先を確保することは大切なことだ、とした上で、しかし対象者が自身の内面を直視し、受け入れていく過程で、振り子の揺れが少しずつ収まるように治っていく、というのが順当なゴール設定ではないか、という主張には、腹落ちするところがあった。「こころ」という、捉えどころのないものに、魔法のような治療法はないらしい。
翻って、補完代替医療のことを考えてみると、それぞれの立場によって病めるひとに対し、物語を構成する「ストーリーテラー」としての側面がある。
ただやはり、最後は自分と向き合い、主体性を回復する、というゴールまで、そのひとに伴走するというのが、セラピストの正しい姿勢だと思う。そこに越えてはいけない一線があると思った。
(塩﨑 由規)
出版元:誠信書房
(掲載日:2023-01-05)
タグ:心理学
カテゴリ メンタル
CiNii Booksで検索:野の医者は笑う 心の治療とは何か?
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:野の医者は笑う 心の治療とは何か?
e-hon
歌う人のためのはじめての解剖学 しなやかな発声のために
川井 弘子 坂井 建雄
歌うことが好きだ。好きというよりももはや呼吸することに近い。何かを見て連想しては歌い、何かの曲を聴いては続きを歌う。普段から大体歌いながら歩いている。以前は歌っているとよく「お、ご機嫌だね」「いいことがあったの?」と言われたが、流石に最近は何も言われなくなった。周囲の人に「これはこういうやつだ」と認識されたというのも一つの理由だと思うが、もう一つ。機嫌がいい=歌う、という図式が世から消えつつあるのではないだろうか。我々のような一般庶民にとって歌は歌うものから聴くもの、あるいはそのパフォーマンスを観るもの、に変わってきているのかもしれない。若い人たちに「あなたにとって音楽とはなに?」と聞くと十中八九「なくてはならないもの」という答えが返ってくるが、もう少しよくよく聞いてみると彼らにとっての音楽とは「ケータイのサブスクでイヤフォンを通して聞くもの」であることが増えた。ダンスためのものであることもある。それでも「推し」がある、という人はコンサートへ、観劇へ、出かけるという生の体験をするし、場合によっては「一緒に歌う」などということもあるかもしれない。カラオケは好き、という人もいるようだ。
さてその「歌う」ということだが、この本の表紙には「歌うことは、個人的で、繊細かつダイナミックな行為です」というサブタイトルがついている。この「個人的で」という部分、なるべく個ではなく全体でいたい人たちにとって「歌う」ということは年々ハードルの高い行為になるのかもしれない、と思いつつ扉を開く。
まず「歌う学びかたさまざま」という章が目に飛び込んでくる。何か身体的な表現なりパフォーマンスなりを学ぶ、トレーニングをする、練習する、という場合、大きく分けて科学的アプローチと感覚的アプローチがあるが、そのどちらかだけを盲信することの危険性について述べてある。理屈だけでは人は動けなくなるし、感覚は個々の人によってそれぞれ違う。特に感覚については、私はレッスンのときいつも「私はこうするがこれは私のやり方であって、それがあなたに良いとは限らない」「あなたはあなたのやり方を探さなければならない」ということを必ず言うようにしているのだが、まさにそのようなことが書いてあって、少しほっとするような気分になった。手の大きさも、口の形も、腕の長さも、何もかも人はそれぞれ違う。自分がこうして上手く行くものが、必ずしもその人にとって良いとは限らない。かといって、常にチューナーを見て音程だけが正しい音を音楽といえるかというと私は違うと思のだ。ではどうしたら良いのか。
教わる側は言われた通りにすることが目的ではなく、何のためにそうするかをよく考えて自分なりに考えて練習すること、言われたことを「しない」という選択肢もあるということ。教える側は相手の状態をよく理解し何が必要かを見極めること、自分のやり方に固執して強要したり、相手のスペースに踏み込み過ぎたりしないこと。こう書くとなーんだ、そんなこと、というくらい当たり前で簡単なことのようだが、それができないから誰もが色々な場面で悩む。
教わる側は誰かに「ああしろ」「こうしろ」と言われて「はい!」「はい!」と勢いよく返事をしているとなんだかとても頑張っている感じがするし、そのことに充実感を覚えることもある。教える側は教える側で、指示を出して全てをうまく采配することこそが自分の役割だと自認していることも多いのではないだろうか。たまたまそれがうまくいくことはもちろんあるだろう。しかしそれだけで本当に全てがずっとうまく行くのか。
私は「自分がどうしたらもっと良くなるか」は基本的にその人が自分で考えるべきだと思っている。私が頼み込んで歌ったり演奏したりしてもらっているわけではないし、この場合「上手になりたい」のは私ではないからだ。ただ、私は少しだけ相手より経験を積んだ者として、ああしてみたら、こうしてみたら、とヒントを言うことができるくらいのことだ。やってみてうまくいけばそれでよし、うまくいかないならやめれば良いのだ。
そういう、ああしてみたら? こうしてみたら? といって色々試してみるときに、教える側と教わる側の共通言語となるのがこういう解剖学の「知識」であるかもしれない、とこの本を見ながら考えた。ここのこの部分がうまくいかない、と思ったとき、身体の仕組み、成り立ち、部分部分の役割、関係性を知っておくことは非常に有効である。目を酷使すると肩が凝り頭が痛くなる、ということはすでに周知の事実だが、背中が痛い、肩凝りだ、と思っていたら実は心臓だった、ということもあるそうで、歌の場合も喉だ喉だと思っていたら実は脚の位置だった、というようなことは多々ありそうである。
こうしたことは何も歌、音楽に限ったことではないのではないだろうか。高く跳びたい、速く走りたい。脚力だ、脚力だ、と思って脚を鍛えに鍛えても記録が伸びない。実は問題は脚ではなく、腕だった、というようなことである。そうしたとき、その事実に教える側、教わる側、どちらが気がつき、どちらがこうしてみようと言うか。目的は楽によく響く声を出すことであって、喉の力を抜くことそのものを目指しているわけではない。目的は高く跳ぶこと、速く走ることであって、脚に筋肉をつけることがゴールではない。そのことに気づける演奏者でありたいし、そのことに気づける指導者でありたい。
言われた通りにするだけでなく、どうしたらうまくいくか自分で考えて工夫する。こうして文字にしてしまうとあまりに当たり前なのだけれど、日々練習、トレーニングに追われていると、つい見失いがちなことでもあるような気がする。表題は「歌う人のための」だが、この本には何かを習得しようとする人全てに通ずるものが書かれているように思う。何かを教えたい、教わりたい人は是非手に取ってみて欲しい。身体を使って何かをしようとする人は全て、解剖学だって知って損はないはずだ。
最後に「歌うには縦糸と横糸がある」という著者の言葉に触れておきたい。横糸はフレーズをどう歌うか。縦糸はそのためにどう身体を使うか。指導の現場で当たり前のように日常的に言われる「横隔膜を使って」「しっかりささえて」「ノドをあけて」というのは不正確で必要のない斜めの糸だ、と著者は言う。このことが頭ではなく感覚的に理解できるようになるまでには私はもう少しかかりそうな気がする。この、科学的でも感覚的でもないアプローチを知的アプローチとでも呼ぼうか。目指す山の頂はみな同じでも、そこへ至るための道筋はいくつもある。それをまた一つ見つけたような気がする。
(柴原 容)
出版元:誠信書房
(掲載日:2023-02-27)
タグ:発声法 解剖
カテゴリ 解剖
CiNii Booksで検索:歌う人のためのはじめての解剖学 しなやかな発声のために
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:歌う人のためのはじめての解剖学 しなやかな発声のために
e-hon