狙われた身体 病いと妖怪とジェンダー
安井 眞奈美
まず、次のような場面を想像してみましょう。あなたはいつも通り、日課である散歩をしていました。そのとき、ふいに腰の痛みに襲われます。「この痛みはなんだ?」と不安に思い、病院で医者に診てもらいましたが、原因は何も分かりませんでした。ただ、腰の痛みは確かに今も存在しています。あなたは痛みの原因を明確にするために、色々な病院を回り、色々な検査を受けました。それでも原因は分かりません。「もしかしたら原因はこれかもしれない」と医者から指摘されたので、それらを手術で取り除いてもらい、一時的に痛みの緩和が得られたりはしましたが、またすぐにぶりかえしてしまいます。今となっては、もはや八方塞がりな状態で、痛みは医学的な理解可能性・説明可能性を超えたものとして立ち現われています。
なぜこのような例をはじめに上げたのかというと、医学的な理解可能性・説明可能性に閉じられている病いは時代を問わず存在していたということを、まずは現代の文脈に即して例示してみたかったからです。もちろん、このような経験は現代人だけがしているのではなく、少なくとも有史以来、似たような場面は人々の生活の中に存在していたと考えられます。古来から、医学的実践は呪術的・宗教的実践と複雑に絡み合いながら発展してきました。いわゆる「未開社会」などでは、外傷と結びつけることが困難な痛みは、外部から「何か」が身体内に入り込んだことによって引き起こされるものなどと理解されていました。それは悪魔の仕業かもしれませんし、他人による呪いの類いの可能性もあります。自分に恨みを持った他人が、呪術によって「呪力の込められた物体」を知らぬ間に私の体内へと打ち込んだことによって痛みが生じたのだと考えられたりしていたのです。今を生きる私たちは、医学的な理解可能性・説明可能性を超えた病いや身体感覚を語る言葉を、一体どれほど持ち合わせているのでしょうか。あるいは、仮にこのような語りが現代においては妥当でないことを認めたとしても、その根底にある「何か」から医学の本質のようなものを知ることができるのではないか、と私などは考えてしまうのであります。
前置きが長くなりましたが、今回の書評で取り上げる安井眞奈美さん(以下、敬称略)の『狙われた身体 病いと妖怪とジェンダー』は、医学的な理解可能性・説明可能性を超えた病いや身体感覚を、私たちの祖先はどのように認識し、語り、対処してきたのかという点について、豊富な資料をもとに分析した書物であります。安井は、この本の「はじめに」で、小林和彦の「神や妖怪は『不思議』の説明のために存在しており、とくに『災厄・不幸』の説明に利用されてきたのが妖怪たちであった」という指摘や、伊藤龍平が「妖怪」を「身体感覚の違和感のメタファー」と定義したことなどをもとに、「妖怪に『狙われた身体』の伝承を、身体に『不思議な現象』が生じたときの説明と対処の方法である」と読み直し、分析することを目的としていると説明しています(7-8頁)。それによって「『狙われた身体』の伝統や習俗は、人々が自らの身体をどのように捉え、襲われる危険と折り合いをつけながら生きてきたのか、その足跡を伝える情報として解釈できる。それゆえ、時代に応じた危険や問題への対処法を併せもった伝承として読み解いていくことができる」のです(206頁)。これは、非常に興味深い視点だと言えます。「『狙われた身体』の伝承や習俗は、狙ってくる相手や敵を可視化し、あらかじめ備えることを可能にした」という安井の指摘は、非常に示唆的であり(同上)、このような「狙われた身体」という概念は、現代の文脈にも存在しています。例えば、安井は第1章で、2020年以降に流行した新型コロナウイルス感染症の事例を引用し、そこでは「戦争」や「戦い」というメタファーが用いられていたことを指摘しています(10-11頁)。まさに私たちは、「見えない敵」としての新型コロナウイルスによって攻撃される「狙われた身体」を防衛するための「戦い」を繰り広げてきたと言えるでしょう。また、上述の未開社会の例のように、外傷と結びつけることが困難な痛み、例えば腹痛や頭痛がどのように理解されてきたのかという点なども分析しています。このような分析によって示唆されることは、私たちがそれを「何である」と認識するかによって、その対処法として「何を用いる」かが規定される可能性があるということです。「外から来る何か」が原因であれば、それが入ってこないようにする方法が取られるでしょうし、もし既に入ってしまったのであれば、それを追い出したり、内部で沈静化させるなどの方法が取られることになるでしょう。
このように考えてみると、もしかすると現代医学も似たような構造を備えているのではないかという問いが立ち現われてきます。「がん」や「病気になった臓器」は取り除かれるし、身体内に侵入したウイルスは抗ウイルス剤によって沈静化されます。あるいは、入ってくることを未然に防ぐため、「予防」的な手段がとられるでしょう。私たちは決して、安井が分析しているような例を「昔の人たちの考えにすぎない」と簡単に切り捨てるべきではないし、実際のところ、そのような認識の延長線上にいるにすぎないというと過言かもしれませんが、非常に多くの示唆が得られることを認識し、詳細に分析するべきなのでしょう。
また、安井はそれだけではなく、伝承や習俗がどのように語られてきたのか、誰によって語られてきたのかなども分析しています。1930年代に流行した「蛇に襲われる女性」の例などは、社会的弱者とみなされていた女性の物語が、男性や村の物知り、医者などによって語られたというジェンダー的・認識論的、あるいは死んだ者と生きた者という存在論的な「語りの非対称性」を明らかにしています。このような「語る者-語られる者」という認識論的・存在論的な非対称性や権力構造に基づく非対称性は、現代医学の現場における「医師(医療従事者)-患者」の非対称性という構造を分析する際にも役立つ可能性があるため、非常に示唆的であると言えるでしょうし、それらに付随するであろう多くの倫理的問題を自覚するためにも重要であると考えられます。
私たちは、単に「前近代的であるから」といって、このような身体観を切り捨てるべきではありません。そこでは、現代とも共通する多くの構造が共有されており、現代の文脈における医学的・倫理的な問題を解決する糸口を掴むことができる可能性が含まれているということを、豊富な資料に基づく詳細な分析によって提示したことは、本書が多くの人に読まれるべきものであるということを示しています。また、ジェンダー論的な問題点も多く指摘されていることから、本書で扱われているのは単に「医学的」な問題ではなく、もっと広く「社会的」に開かれた問題であるという点で、本書は非常に多くの示唆に富んだ書物であると言えるでしょう。
(平井 優作)
出版元:平凡社
(掲載日:2023-10-26)
タグ:身体 妖怪
カテゴリ その他
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フランス現代思想史 構造主義からデリダ以後へ
岡本 裕一朗
本書は、フランス現代思想を通史的に描くことを目的とする新書である。特筆すべき点は、著者も述べているように「それぞれの思想を、いわば外から眺めるような態度で相対化している」(p.iii)ところだと言えるだろう。その利点は、本書を読み進めていく中で明らかとなってくる。
まず一際目を引くのは、「ソーカル事件」を踏まえて、いわば「ポストソーカル事件」的な視点を持ってフランス現代思想を捉え直そうとしているところである。著者は、1995年に「ソーカル事件」を起こしたソーカルが、その2年後にブリクモンとの共著として出版した問題作『「知」の欺瞞』から、彼らの次のような言葉を引いている。「われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘することだ。しかし、はっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは、社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要であると感じており、明らかにインチキだとわかる物について、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。特に、ある種のテクストが難解なのはきわめて深遠な内容を扱っているからだという評判を『脱構築』したいのである。多くの例において、テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだということを見ていきたい」(本書p.5-6に引用されている文章を再引用)。
著者は、このようなソーカルとブリクモンによる重要な問題提起を引き受け、次のように述べている。「フランス現代思想を問題にするならば、『ソーカル事件』は何よりも出発点に据えるべきであろう。なぜなら、『ソーカル事件』を真剣に受け止めなければ、フランス現代思想は『ファッショナブルなナンセンス』として、全く意義を失うように見えるからだ」(p.5)。このような筆致からは、現代における「フランス現代思想」の持つアクチュアリティを語ろうと奮闘する、著者の決意が感じ取れるだろう。
そして著者は、マルクスがヘーゲル哲学にとった態度を参考に、フランス現代思想を浄化する方法を見つけようとする。その試みから「“濫用された数学や科学的な概念” を取り除いて、その “合理的な核心” を引き出」すという試みへと繋がり、フランス現代思想の「精神」を見定めることになる(p.7)。そこで明らかとなるのが「『西洋近代を自己批判的に解明する』態度」であり、筆者はこれを「フランス現代思想の『精神』」と呼ぶ(p.8)。本書はいわば、このような「精神」を補助線として展開されているフランス現代思想史なのである。
本書の構成は、「フランス現代思想をどう理解するのか」を問い直すプロローグから始まり、第1章から順に、レヴィ=ストロース、ラカン、バルト、アルチュセール、フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、デリダというように、構造主義からポスト構造主義への構造主義的運動が思想史的に記述され、第6章では「ポスト構造主義以降」の思想の展望として、新たに現れてきた「転回」について述べられている。そして最後には、そのような転回が開く可能性と我々に残された課題について語るエピローグを置くという形で締められている。
第1章では、レヴィ=ストロースの構造主義について記述されているが、それは「一般の入門書では定石となっているが、ハッキリいって、実像とはかけ離れている」構造主義のイメージを解体することから始まっている(p.14)。「ソシュール言語学が構造主義の起源とみなされていいのか」や「『実存主義から構造主義へ』という流れは本当なのか?」、「構造主義の四銃士、あるいは五人の構造主義者たちを十把一絡げにしていいのか」などの問いが検討されている。
この中で最も注目に値すると考えられるのは、最後の問いについてである。「構造主義」や「ポスト構造主義」が語られる際、ともすればそこに含まれる思想家たちの差異は無視され、同じような思想を持つものたちとして一挙に語られがちである。入門書ともなれば、よりそのような事例も増えることだろう。しかし、本書はそのような傾向に警笛を鳴らし、より実像に即した理解を提示している。例えば、第1章から第2章にかけて、レヴィ=ストロースが初期の頃に提示していた(つまり、最初期の構造主義でイメージされていた)「構造」とソシュール言語学の影響を受けたその後の構造主義者達が語る「構造」の違いを明確にしている。こういった点を詳述できるのが、いわば相対化して俯瞰的に見ることの利点だと私は考えている。その意味では、本書は「懇切丁寧」な入門書なのである。
この書評を読んでくださっている方々は、もしかすると自分たちの分野と本書の繋がりが希薄であると感じられているかもしれない。しかし、その点については改めて検討してみる必要がある。
著者も述べているように、現代を理解するためには西洋近代への問い直しが必要になってくる(p.8)。まさしく、それを試みたのがフランス現代思想の思想家たちだったのであり、その仕事から我々が学び取れることは、現在においても数多く残されていると考えられる。医学の文脈においても、近代医学との影響関係は頻繁に指摘されているし、それらはさらに「科学」という営みにまで拡張できるかもしれない。あらゆる決定において「Evidence-based(証拠に基づく)」ということが優先されるようになってきた現在、改めて「フランス現代思想」を眺めることで何かしらのヒントを得ることができるだろう。その見通しを通史的に描いた本書は、医療やスポーツの関係者にとっても必読の書なのである。
(平井 優作)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2024-01-16)
タグ:現代思想
カテゴリ その他
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反哲学史
木田 元
『反哲学史』といういささか奇妙な表題を掲げる本書は、一見するだけでは何を目的として書かれたものなのかが了解できない。著者も冒頭において、それが哲学史に対する反=アンチ(つまり、反-哲学史)であるのか、それとも哲学に対する反=アンチの歴史(つまり、反哲学-史)のいずれであるのか、と問われることだろうと述べている。しかし、著者曰く「反哲学史」はそのどちらでもない。それではいったい、著者はどのようなことを想起しつつ、この表題を掲げたのであろうか?
この点について、著者は次のように述べている。「私のねらいは、哲学をあまりありがたいものとして崇めまつるのをやめて、いわば『反哲学』とでもいうべき立場から哲学を相対化し、その視点から哲学の歴史を見なおしてみようということ」である(p.9)。つまり、反-哲学史でも反哲学-史でもなく、それは「反哲学的観点からの哲学史」を描こうとする試みなのである。
「反哲学」という言葉の由来は、20世紀の哲学者(少々ややこしいので、著者は「思想家」と呼んでいる)たちが行ってきた思想的営みにあり、彼らは自らの営みを「哲学」とは表現せず、むしろ「哲学の解体=脱構築(déconstruction)」を目指していたことが述べられる(pp.10-11)。それは、「『哲学』というものを『西洋』と呼ばれる文化圏におけるその文化形成の基本原理とみなし、この西洋独自の思考様式を批判的に乗り越えようと」する克服の運動なのである(p.10)。このような視点に連なる系譜として「反哲学史」を記述することが可能なのであり、著者の試みは、そのような観点から哲学史を再構成することへと向けられているのである。
それでは、本書の内実はどのようなものとして語られているのだろうか。まず本書は、ソクラテスの思想という「哲学」の誕生の場を振り返ることから始まっている。そこでは、彼は愛知者(ho philosophos)であり、アイロニストであったことが語られる。そして、彼のアイロニーは「無限否定性」とでも呼ぶべきものだったことが明かされる。しかし、彼の哲学は、その無限否定性の故に新しいものを持ち出すことはできなかったのである。
それでは、彼はなぜこのような無に立脚した否定性を自らの哲学的手段としたのだろうか? それは、この否定性が「新しいものの登場してくる舞台をまず掃き清める」ための武器だったからである(p.63)。そこで清掃されたのは、「当時のギリシア人がものを考え、ことを行う際に、つねに暗黙の前提にしていたもの、つまり彼らがありとしあらゆるもの、存在者の全体を見るその見方だった」(p.63)。したがって、次に疑問となるのは「古いもの」としての初期ギリシア哲学者たちが問題としてきた「存在者の全体を見るその見方」である。それは、「自然(physis)」という概念に注目しながら、次のように述べられている。「彼らにとって自然とは、人間や、神々をさえもふくめた存在者すべてのことであり(...中略...)より正確には、そうしたすべての存在者の真の本性、つまりすべての存在者をそのように存在者たらしめている存在のことなのであって、彼らの思索はまさしくこの存在がなんであるかを究めることにむけられていた」のである(pp.69-70)。しかし、本性としての「フュシス」は仮象としての「ノモス」との緊張関係の中に置かれることとなり、ソフィストにあっては、もはやフュシスは祭りあげられてしまい、そこで目を向けられるのは人間社会としてのノモスだけであり、このような堕落した形で自然的存在論は引き継がれることになった。ソクラテスがアイロニーの刃で切り裂こうとしたのは、まさにこのように堕落した存在論だったのである(p.80)。
その後、プラトンからアリストテレスを経る西洋哲学の歴史が記述されていくのであるが、ここで専ら問題となるのは「新しい存在論」を巡る議論の歴史であり、そこから明らかにされる「形而上学的思考様式」である。これが本書において、非常に重要である。なぜなら、「その超自然的原理、形而上学的原理は、その時どき『イデア』と呼ばれ、『純粋形相』と呼ばれ、『神』と呼ばれ、『理性』と呼ばれ、『精神』と呼ばれて、その呼び名を変えてゆきますが、この思考パターンそのものは、その後多少の修正を受けながらも一貫して承け継がれ、それが西洋文化形成の、いや少くとも近代ヨーロッパ文化形成の基本的構図を描くことになる」からである(p.114)。ヘーゲル哲学において完成される(と本書においては考えられている)この「形而上学的思考様式」こそが、西洋を一貫して支えてきた文化的根源なのであり、このような思考様式を解体=脱構築し、根源的自然=フュシス的存在の生成力を復権しようとする運動こそが、後期シェリングの哲学からキルケゴールの実存哲学、マルクス、ニーチェの哲学に脈打ち、20世紀の思想家たちが継承した「反哲学」なのである。そこから、いわば逆照射した結果、本書が描く「形而上学的思考様式」が垣間見えてくるのであり、そのような相対化された視点を用いて哲学史を眺めてみることは、非常にスリリングな試みである。
また、このように前景化された形而上学的思考様式は、それと並行して形作られてきた文化としての「西洋医学」、あるいは西洋的な知の様式をその始原とする「科学的思考様式」とも決して分離することはできないのであって、私たちのような医療・スポーツ関係者が本書から学び取れるのは、そのような西洋的伝統を一旦は相対化し、汝自身がいったいどのような地点にいるのかを把握することであり、本書の試みはその手段の一つとなるであろう。その意味で、哲学史(さらには、反哲学的観点からの哲学史)を学ぶことは、非常に有意義なことである。そのための入門書として、比較的平易な言葉で語られる本書は最適な門であるだろう。
(平井 優作)
出版元:講談社
(掲載日:2024-01-26)
タグ:哲学
カテゴリ その他
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リベラルとは何か
田中 拓道
保守とリベラルの対立に関する分断などが様々なメディアを介して煽られていたり、ソーシャルメディアにおけるエコーチェンバーやフィルターバブルが問題になっている現代社会において、改めて「リベラルとは何か?」と問い直すのは極めて重要な作業だと言えるだろう。ともすれば、本書でも指摘されているように「『リベラル』という言葉を語ること自体、どこか偽善的で、時代遅れであるようにすら感じる人もいるだろう」(p.iii) 。しかし、私としては、本当にそのような態度でいいのだろうか、という疑念が拭えない。私たちは社会の中を生きているのであるし、社会について考えることは自らについて考えることでもあるはずだ。本書は、そのような思考に同伴してくれるコンパクトな案内図として、17世紀における自由主義の起源から現代日本のリベラルまでを通覧させてくれる。
本書の目的は「『リベラル』と呼ばれる政治的思想と立場がどのような可能性を持つのかを、歴史、理念、政策の観点から検討すること」であるが、そのために2つの方法が採用されている(p.i) 。ひとつは「歴史的な文脈の中で、リベラルと呼ばれる考え方が登場し、何度もの刷新を遂げてきた経緯を明らかにすること」、もうひとつは「リベラルをできるだけ具体的な政策と結びつけて理解すること」である(p.iv-v)。これらを起点に描かれる本書の内容はまとまっており、大まかな歴史の流れを把握しやすいようになっている。しかし、この書評では本書の内容を要約することはしない。ここでは、本書を読むにあたっての一つの関心を提示することで、読者の興味を喚起することを目指しつつ、評することにさせていただこう。
私が本書に関心を持った理由を提示することは、スポーツ関係者や医療関係者にいくつかの興味を喚起することに役立つかもしれない。そのような関心のひとつが、本書で扱われている思想的背景が、人間の「統治」というものに、どのような影響を与えてきたのかを考察するということである。
19世紀イギリスにおける産業化による負の帰結をいかにして社会問題として解決するのかという問いと、そのような反省の少し前に確立されていたエドウィン・チャドウィックを先頭に進められた公衆衛生政策の問題、あるいはそのような公衆衛生政策運動と功利主義哲学の関係や、フランスの哲学者ミシェル・フーコーがリオデジャネイロで行った有名な社会医学についての講演の冒頭で取り上げた「べヴァリッジ計画」の思想的問題(フーコー, 1976: 2006)、エリオット・フリードソンが医療社会学の古典的名著『医療と専門家支配』の序章で記している「自然科学的な疾病概念を社会的逸脱行動へと一層拡大して適応しているのは、自由主義的イデオロギーをもったブルジョアジーである」(フリードソン, 1970=1992: 7) という指摘について考察することなど、実に重要な興味深い問題が多数あるが、それらについて考えるためには政治哲学に関する思想史的知識は外せない部分だろう。人々が社会についてどのように考えてきたのかという歴史は、人々が人間をどのように理解していたのかということと切り離すことができない。そのような歴史の中で生じた諸事象の帰結と過程の中を、現代に生きる私たちも歩んでいる。そのため、これらの歴史について知ること、社会について知ることは、私たち自身について知ることでもあると言えるだろうし、私が先ほどから述べているのは、このような意味においての重要性なのである。私たちスポーツ関係者や医療関係者の実践が、どのような認識の上に成り立っているのかを理解することは、現在の在り方を考える一つの契機となりうるだろう。
たとえば、本書の第1章で述べられているが、自由主義的な思想の起源には医師であり、ブルジョワジーでもあったイギリスの経験論哲学者ジョン・ロックの哲学が重要な寄与をしていた。彼は自己主権論を唱えたのであるが、それは封権的な支配勢力と格闘する革命派のブルジョワジーの見解としてであり、個人の自由や自律を推進する彼の思想は、自分自身を管理する経済的余裕などを有するブルジョワジーにとっては望ましい思想であったが、そうでない人々にまでそれを強いる自己責任論を帰結してしまうという限界を内包していた(日野, 1986: 43-53)。その後、様々な福祉形態の検討がなされてきたが、未だに自己責任論は根深くわれわれの中に浸透している。私たちは、それをどのように把握し、対処すればよいのであろうか?
どこまで個人の自由や自律を保障し、どれだけの介入を国家に許すか、そして、その介入形態はどのようなものにするかなど、これらの問題は依然として切迫した問題である。「1970年代以降、リベラルはさまざまな挑戦を受け、今なお刷新の途上にある」ということを顧みれば、これらはまだ生きた問題であるし、私たちそれぞれが取り組んでいかねばならないのである (p.v) 。
リベラルについて問うことは、単に政治経済的な問題を狭小的に考えることではなく、私たちの諸実践に考えを巡らせることでもある。それらは、市場経済の内部における問題だけではなく、家庭内におけるケア労働の問題や医療実践に関わる私たちの認識を広く問うことでもあるのだ。「政治における思想とは、それ自体、人びとを動かす一つの『力』である」 (p.v) 。そのように考えれば、本書が提示する問題は実に多くの人に開かれた問題であることが理解できるだろう。
参考文献(本文内での掲載順)
ミシェル・フーコー, 小倉考誠. (2006). 「医学の危機あるいは反医学の危機?」, 『フーコー・コレクション4 権力・監禁』, 筑摩書房, pp. 270-300. (Michel Foucault. (1976). Crise de la médecine ou crise de l'antimédecine?, Revista centroamericana de Ciencias de la Salud, nº 3, pp. 197-209.)
エリオット・フリードソン. (1992). 『医療と専門家支配』, 恒星社厚生閣. (Eliot Freidson. (1970). "Professional Dominance: The Social Structure of Medical Care", Atherton Press.)
日野秀逸. (1986). 『健康と医療の思想』, 労働旬報社.
(平井 優作)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2024-04-18)
タグ:社会 リベラル
カテゴリ その他
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水中の哲学者たち
永井 玲衣
「わたしの問い」からはじまる「手のひらサイズの哲学」、それは「大哲学」みたいな大それたものではなく、「なんだかどうもわかりにくく、今にも消えそうな何かであり、あいまいで、とらえどころがなく、過去と現在を行き来し、うねうねとした意識の流れが、そのままもつれた考えに反映されるような、そして寝ぼけた頭で世界に戻ってくるときのような、そんな哲学」だ(5-6頁)。優しく、美しく、柔らかく、そして曖昧でとても魅力的な文章の数々。それでいて、思わずハッとさせられる文章にも出会う。私はこの本を読み始めると共に、すぐに永井さんの世界に引き込まれていた。
とにかく、まずは一旦落ち着いて、本の表紙でも眺めてみよう。白と水色を基調とした美しい装丁の中にある「水中の哲学者」という言葉が目につく。私はふと、ヴィトゲンシュタインの名を思い浮かべた。この20世紀を代表する偉大な哲学者は、「水泳では人間のからだは自然に水面に浮かび上がる傾向がある。人間は水中にもぐろうと努力せねばならない。哲学も同じようなものだ」とよく言っていたようだ(ノーマン・マルコム)。このエピソードに「たとえ問いに打ちひしがれても、それでも問いとともに生きつづけることを、私は哲学と呼びたい」という永井さんの言葉が共鳴する(116頁)。たとえ水面に浮かび上がろうとも、それでも潜り続ける努力を止めたくない。それは、ときに苦しいかもしれない。しかし、それでもなお…。
「宇宙のバランス」を気にかけて「いや、でもさ」とばかり言ってしまい友人から怒られ、逡巡した挙句「ごめん、すぐアウフヘーベンしたくなっちゃって」と「意味不明な言い訳を」してしまう永井さんを、私はとても素敵だと思った(223頁)。考え続けることはときに苦しいが、どうしても考え続けてしまう人というのが世の中には一定数いる。そういう人は「哲学病」を患っているなどと言われたりもするが、その人たちが病に侵されているのではなく、世界の方が、あるいは生の方がどうかしてるのではないか? 気がついたときには既に世界があり、ほかでもないこの私が生まれてしまっている。ほんの少し何かが違えば、広大な宇宙の中の一つの惑星である「地球」は存在していなかったかもしれないし、私の先祖の誰かが1人でも早く死んでしまっていたら、私は存在していなかったかもしれない。いや、もっと脆かったであろう現在の存立、あのとき、あの先祖が、あの場所に行かず、あの人に出会っていなかったら、という無数の可能性、途方もない偶然性、そして、ここで「あの」と呼ばれている何かの存在それ自体の脆さ。明日、突然世界中のテレビがハイジャックされて「明日で地球サービスは終了します。よって、地球上に存在しているあらゆる存在は12時間後に消滅します」なんて放送が、宇宙人によって流されたっておかしくない。映画『トゥルーマン・ショー』のように、私を取り巻く全ては作り物かもしれない。全くもってめちゃくちゃだ。でも、めちゃくちゃなことの想定よりも、さらにめちゃくちゃなのがこの世界、この生なのかもしれない。それについてどうにか考え、無理しながらも言葉にしてみる。そうしたら、どうしても言葉は曖昧で、意味不明なものになってしまうかもしれない。それでも、なんとか語ってみる「手のひらサイズの哲学」。全てのことが論理的一貫性を持って語れるのか。世の中は、そういう論理、いわば「健やかな論理」を求めている。人類は、それに手が届くと信じてもいる。でも、もし世界そのものが病んでいるのだとしたら? そしたら、それを語れるのは「病んだ論理」の方なのでは? なんて、そんなことも考えてしまう始末。
私は本書の中で、永井さんの祈りに触れた。「わたしは祈る。どうか、考えるということが、まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。それらが見せてくれる世界は、甘い甘い夢だ。いつか、その甘さはわたしたちを息苦しい湿度の中で窒息させる」(125頁)。皆が同じ方向へと邁進する社会。コスパ、タイパが志向され、無駄なものは排除されていく。ついには、その魔の手は人間という存在にも忍び寄る。その一方で、加速していく社会の中で、どうしてもその速度に追いつけない人たちというのもいる。皆がせかせかと働き、何か目的を持って行動しているような世の中で、そういう人たちは一々何かに引っかかっては、波に乗ることができないでいる。本書は、そういう人たちに寄り添う優しさを持った本でもある。そういう人たちと共に、世界をゆっくりと眺めまわしてくれる。こんなにもめちゃくちゃな世界を一緒に鑑賞して、「ヤバすぎない?」と嘆き合ってくれる。そして、共に頭を悩ませてくれる。
「衝撃的な他者性の告知こそが、哲学対話の醍醐味なんだと信じている」(241頁)。その「衝撃的な他者性の告知」によって、私は破壊される。新たな問いを抱えざるをえなくなる。しかし、それは決して不幸なことではない。むしろ、それは他者との出会いの証左であり、哲学であると私は言いたい。かつてメルロ=ポンティが言ったように、「哲学とはおのれ自身の端緒が更新されていく経験である」のならば、まさに「衝撃的な他者性の告知」は哲学のはじめにこそ置かれるべきものなのかもしれない。
本書の文字通り最後には、「このめちゃくちゃで美しい世界の中で、考えつづけるために、どうか、考えつづけましょう」と書かれている(265頁)。これが本書が最後に語った言葉である。これを読んだとき、わたしは「なんてめちゃくちゃな文章なんだ」と思ったと同時に、「なんてこの本らしく、素晴らしい文章なんだ」とも思ったのであった。考え続けるためには、問いを持ち続けなければならない。安住していても、新たな問いとは出会えない。対話へ、他者のもとへ、勇気を持って一歩を踏み出そう。ポケットに本を突っ込んで、街中に出かけよう。人類初の月面着陸を成し遂げた、あのアームストロング船長が言っていた言葉が頭に響く。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」。そんな励ましの声が、この本からも聞こえてくる。
ノーマン・マルコム, 板坂元.(1998).『ウィトゲンシュタイ 天才哲学者の思い出』, 平凡社, 70頁.
(平井 優作)
出版元:晶文社
(掲載日:2024-06-15)
タグ:哲学
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ダーウィンの呪い
千葉 聡
現代社会を一瞥してみると、様々な「呪い」が見えてくる。われわれの間を「『進歩せよ』を意味する “進化せよ”」、「『生き残りたければ、努力して戦いに勝て』を意味する “生存闘争と適者生存”」、「『これは自然の事実から導かれた人間社会も支配する規範だから、不満を言ったり逆らったりしても無駄だ』を意味する、“ダーウィンがそう言っている”」という、千葉氏がそれぞれを順に「進化の呪い」、「闘争の呪い」、「ダーウィンの呪い」と呼ぶ、3つの呪いが跋扈しているのだ(5-6頁)。こんなにも「拘束感を滲ませたメッセージ」、あるいは「順守しないといけない、ある種の規範」が溢れかえった世界は、大変に生きづらい(5頁)。何をするにしても、個人主義的な「成長=進化」が望まれ、休む暇もなく努力し続けることが、あたかも義務であるかのようにすら感じられる。私たちは、ナチスドイツによるユダヤ人の大虐殺や相模原障害者施設殺傷事件を経た世代であり、それらに並々ならぬ危機の様相を感じ取ってきたのではなかったのか? このままでは色々とまずいのではないだろうかという猛烈な違和感に私たちは襲われ、その危機の感覚は20世紀に様々な哲学者によっても語られてきた。その一方で、巷では「マッチングアプリ」なるものが流行し、人間がいわば商品化され、片手ほどの大きさの「スクリーン」という名のガラスケースの中に陳列されている。みなが見栄えの良い写真を用意し、他者から好かれるであろう文言を自己を規定するために並べ立てる。世界は、人間という存在が指先一つで選別されるような場所になってしまった。さらには、MBTIなるもので自分を飾る始末である。私たちは、どこかで何かを根本的に間違ってきたのではないか?
「呪い」のもとにおいては、私を取り巻くそれぞれの他者は、もはや他者一般となり、みなが「敵」であるとみなされてしまう。なぜなら、私は彼ら/彼女らに勝ち、生存せねばならないからだ。進化しないものには、即ち「敗北」という烙印を押されることになる。生の全体が闘争の場となり、一瞬たりとも気を抜かず、皆を出し抜かなければならない。なぜか?「ダーウィンがそう言っていたから」だ。あるいは、マッチングアプリを例にとれば、他者はみな消費者である。私は、消費者たちから選ばれる存在となるために、常に自己をより良い製品に作り替える必要がある。つまり、「進化」であり、私は私自身の生産者となる。そのような生は、なんと空しいことだろうか。しかし、その一方で、全てが無目的かつ盲目的な運動にすぎない、つまり偶然的な運動だと見限るや否や、未来に対する希望は消え失せる。何をしようが、どのように努力しようが、その結果は偶然にしか左右されず、ある意味では無意味な努力となるからである。このような、ある種の楽観的な闘争と生産、悲観的な偶然性の間で、我々は揺れ動き続けている。
しばしば、企業などが打ち立てる「適者生存」の理念に対して、「ダーウィンはそんなこと言ってない」という批判の石が投げられる。しかし、ことは言った/言ってないというような、単純な二分法のもとで明らかになることではないのだ。ダーウィンが出版した『種の起源』の原著初版においては、「適者生存」という語は使われていない。だが、1869年に出版された『種の起源』(第5版)で次のように言っている。「個体の違いや変異のうち有利なものを維持し、有害なものを駆逐することを、私は自然選択、あるいは適者生存と呼んできた」(50頁からの再引用)。確かに、ダーウィンは「適者生存」という言葉を使っているし、時期によってはその考えに接近していたこともあるようなのだ。「進化論を守るために、修正と妥協を重ねている時期」であったという事情もあったのだろう(50頁)。その一方で、ダーウィンの原理は排除的なもの、つまり適者が生存し、その他は絶滅するといったものではなく、創造的なものに向けられていた。そこにスペンサーがいう「適者生存」との差異があった。しかし、何らかの包含の原理は、常に鏡像としての排除の原理を付き従えている。包み含めるということは、それと同時にその外部を作り出すことでもある。進化論に価値の問題が結び付けられ、適者による未来のユートピアの実現が結びつけられた場には、すでにディストピアが実現している。進化論がイデオロギーと化したとき、我々は常に誤った轍を踏んできた。では、われわれは進化論をどのように引き受ければよいのか。歴史から学び、未来を展望するために向き合わなければならない問題は山積している。本書は、その旅路に付き添う良き伴走者となってくれることだろう。
(平井 優作)
出版元:講談社
(掲載日:2024-06-17)
タグ:進化論
カテゴリ その他
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二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学
キム テウ 酒井 瞳
2024年が始まってから数カ月が経ち、ほんのりと温かい日差しを肌で感じるようになってきた頃、私はとある身体上の不調を理由に、病院(正確には「診療所」)へと赴くことになった。しかし、病院にまだ向かってすらいないにもかかわらず、私は既に四苦八苦していた。というのも、私は病院という空間が非常に苦手だからである。注射が怖いとかそういった子供じみた理由でないということを予め断っておきたい。基本的には、あの空間に感じる独特な「何か」が苦手なのである。大抵は白だったり薄い水色だったりクリーム色だったりする壁に囲まれた空間、いかにも「ここは衛生的ですよ」と言いたげに清潔感を演出する空間、働いている人みながパリッとしたピンクや黒、多くは白の制服を身に纏っている空間、そして日常生活ではあまり耳にしない語彙が飛び交う空間、あるいは番号がモニターに表示され、それに従って行動する空間、そこに何かしら過剰な同一性を感じるのだ。それは決して「病院」という空間に限ったことではないだろう。学校や会社といった空間も同様に、私としては居心地がよくないと感じている。行ったことはないのであるが、おそらく刑務所といった空間も同様であろう。しかし、病院という空間ほどそれを強く意識させられる場所は他にないと言ってもよいほどなのである。
そんなことをあれやこれやと考えながら病院へと向かう道すがら、ある考えが私を襲ってきた。それは「なぜ病院に行こうと思ったのだろう? なぜ、あそこではなくここ、つまり整骨院や鍼灸院、カイロプラクティックの施術所やその他民間療法と呼ばれる類いの治療が受けられる場所や教会などといった宗教的空間などではなく、他でもないこの『病院』というところに行こうと思ったのだろうか」という考えである。それと共に、なぜ病院はこうなっているのであって、ああではなかったのか、という疑問もあった。つまり、なぜ医師はこのように語り、このような語彙を使用し、このように検査し、このように治療するのだろうかという疑問である。これに対して「それが効果的だと実験で確認されたからだ」と答えることは、この疑問を些かも動揺させないと私は考えている。それについても「なぜそうなのか」と問うことが依然として可能であり、この問題はそっくりそのまま残っているからである。このような説明で満足できるのは、合理的に展開される歴史という一つの神話を前提せずには不可能であるという思いも私を襲っていたのだ。
一度気にかかると歯止めが効かない質である私としては、病院の前についたときも、初診だということで問診票にある空白を一つ一つと埋めていっているときも、受付の方に呼ばれて診察室に入ったときも、医師による早口の説明を聞いた後に検査室に案内されたときも、検査結果と医師の病態把握が説明されているときも、受付で会計を待っているときも、薬が手渡されたときも、常に「なぜああではなく、こうなのか」という疑問が私の頭を埋め続けていた。このときの私を襲っていたのは「歴史の天使」(ベンヤミン)の眼差しであると言ってもよいかもしれない。私はある意味では、過去に目を向けていたが故に、他でもありえたかもしれない現在に思いを馳せていたのである。そのような眼差しを内面化した私に対して、歴史は多くの「謎」をその顔に浮かべながら近づいてくることとなった(大澤真幸)。この問いに対する答えは一筋縄にはいかないだろう。いやむしろ、この問いそのものを問いに付すことさえも必要となるかもしれない。普段、何気なく生活しているときには気にも留めないもの、でも、何らかの機会に顕現し、目線を逸らすことを拒むような何か、それらにこそ注目すべきなのではあるまいか。当たり前とされ、そのことがあるということの偶然性が覆い隠されて不可視になったそれをこそ、問いに付すべきなのではあるまいか。そんな思いに駆られていた。
こういう問いは、これまでにも私の注目を集め続けてきたのではあるが、今回、このような問いに対する一つの語りが世に出たと知り、私はすぐにそれを手に取った。それが本書、『二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学』である。本書は、医療という実践がなされる様々なフィールドへと「旅」を行ってきたキム・テウ氏による旅行の記録、いわば「旅行記」である。旅をするとは、異なる空間に身を置くことである。現地の空気を感じることである。そして、他者に出会うことである。それはまさに、キム氏が述べる「人類学」の営みそのものである。本書が人類学的研究の実践を「旅」と呼ぶのは、そのような意味においてである。それは、他なるものに対する想像力を養ってくれることにもなるかもしれない。
本書の特質は、言葉に対する慎重な態度だと言っても間違ってはいないだろう。キム氏は「語ること」に慎重である。本書の最後に「付言 用語解説、または用語解明」という項目が独立して設けられていることが、そのことを端的に表している。そこでは、言葉と知の繋がりが主題とされている。これは非常に重要な視点だと言って差し支えない。
現代の日本社会においては、西洋近代医学なるものが支配的である。故に、鍼灸に代表される東洋医学的なるものは、どこか怪しい雰囲気を帯びたものとして眼差されている。ともすれば、それは非科学的なものとして糾弾されることもあるだろう。それは、非合理的なものとして扱われることもあり、容易に打ち捨てられることにもなりかねない。しかし、本書はそのように安易に事態を投げ捨てることを拒む言葉で埋め尽くされている。そこには、同一性を追求する実践ではなく、差異に目を向ける実践が積み上げられているのだ。
本書を読むと、医療について問うことの意味の広大さを再認することができる。医療について問うことは、単にそれだけには収まらない射程を秘めているのだ。なぜなら「医療は人間の存在に対する根本的な問いとつながっている」からである(33頁)。医療は、人間の存在論的な土台である身体と繋がり、そこ身体の理解は身体の外にある世界の理解と接続されている。つまり、「さまざまな医療に対する人類学の議論は、各文化が積み上げてきた人間の存在と、世界に関する多様な理解をひも解く機会を与えてくれる」(35頁)のであり、「医療は、健康のための知と行為の体系以上の意味を持つ」のだ(39頁)。このことを理解する機会を提供してくれているというだけでも、本書が「ある」意味は小さくない。そこには、閉じている空間を開くことの可能性が現前している。実のところ「医療のあいだには差異がある」のである(204頁)。近年は、東洋医学の西洋医学的解釈が流行となっている。東洋医学的実践が西洋化されつつあると言ってもよいかもしれない。それは東洋医学的実践を、西洋医学的な語彙でもって語ることである。差異を自ら解体し、西洋的なるものに同一化しようとする動きが活発化しているのだ。本当にそれで良いのだろうかという疑問はありえるが、本書はそのような東洋医学の西洋化に待ったをかける停止線ともなるだろう。東洋医学は、今一度自身の差異に目を向ける必要があるのかもしれない。
そんなとき、「医療が一つでなければ身体も一つではなく、身体につながっている存在も二つ以上なのだ。したがって世界も一つではない。複数の世界で私たちも、また異なるノーマルを実践することができる」と声を上げる本書は良き伴走者となってくれることだろう(227頁)。それは、医学的実践が、必ずしも一である必要はないことを確認させてくれる。同一性の確保に躍起になるのではなく、差異を引き受けることを推奨しているのだ。本書は、アネマリー・モルに代表される「存在論的転回」以降になされた医療人類学的研究の結果であり、「多」へと目が向けられている。医学的実践が一となるとき、それは他の実践を排除することになるだろう。もはや起源の偶然性は忘却され、それだけが唯一の歴史となる。そこにおいては、西洋医学の政治的な全面化が果たされている。本書は、そのような画一化を拒絶し、多様にありうる「異なるノーマル」に目を向けさせる。一ではなく多に目が向けられるとき、医療実践には決定的な変更が迫られることだろう。そのような可能性の追求は、決して意味なきことではない。しかし、注意せねばならないのは、ここでは優劣が志向されているわけではないということである。西洋医学的な視点から東アジア医学を見ることは、ときに植民地主義的な志向性を内包する。本書は、そのような視点を拒絶し、両者の特質を明らかにせんとしているのだ。
同一性から差異へのシフト、優劣の二元対立ではなく、異なる多の体系への志向性、そういったものの可能性が追求されているのが本書である。キム氏の旅行記を読むことで、異なるものに出会い、その空気を感じ、自身の外へと逸脱する機会が与えられる。是非とも読者の皆様にもその言葉を、その語りを感じていただきたい次第である。
(平井 優作)
出版元:柏書房
(掲載日:2024-09-06)
タグ:人類学 東洋医学
カテゴリ 身体
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