サクリファイス
近藤史恵
主人公はプロのロードレースチームに所属する青年、白石誓。彼は陸上選手として期待されながら突然陸上を引退。たまたま知ったサイクルロードレースの、自分が勝つために走るのではないアシストというシステムに惹かれ、自転車競技に転身した。
主人公の所属するチーム、オッジはベテランのエース石尾を中心にレースを戦い、他の選手は彼をアシストすることで役割を果たす。主人公はエースを勝利に導くアシストという役割にやりがいを感じながら、自転車競技を戦っていく。ところがエースの石尾は3年前に自分のライバルともなろう若手を、事故によって再起不能にしたという噂があった。そんなある日、ヨーロッパ遠征中に石尾が事故にあって死亡してしまった。なぜ事故が起きたのか? それは、3年前の事故と結びつくことがあるのか?
青春スポーツ小説とミステリーの奇跡の融合。サイクルロードレースというものを知らなくてもどんどん読み進めることができ、自転車の魅力を感じることができる作品だ。
(大内 春奈)
出版元:新潮社
(掲載日:2011-12-13)
タグ:ロードレース ミステリ
カテゴリ フィクション
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スポーツドクター
松樹 剛史
この本は、主人公夏樹を中心にいろいろなアスリートの心情が描かれている。スポーツに関わる人のバイブルといってもいいと思う。各章、各章に非常に心に残るセリフが多い。
第一章はACLを損傷してしまった夏樹が高校最後の大会をやり遂げる、熱いストーリーから始まる。最後の試合を間近に控え、自らの膝への不安を抱えながらもキャプテンとしてチームを支えていこうとする。「一年も休んだら、もうわたしたちの部活は終わってしまっている。そのことに比べたら、一人で膝の不安と闘うことなんて、なんにも怖くなかった」。ドクターから告知をされた直後の夏樹の言葉の多くが重く、共感を覚えた。
第二章は、野球肘の少年とその両親のストーリー。自分の夢を子どもに叶えさせたいと強く願うがため、子どもをみることを二の次に、自分の考えを押しつける。子どもを大人の小型にしたものとして扱ってしまう。
第三章は、摂食障害の女性水泳選手のストーリー。大切な人の期待に応えたい。そのためにはトレーニングで身体を鍛えていかなければならないが、女性としてみてほしいから筋骨隆々にはなりたくない。女性ならではの葛藤、切ない恋のストーリーである。この2つの章ではとくに、選手を取り巻く家族やコーチとの関わり方が、ドクターの会話方法から勉強になった。
第四章は、女性水泳選手のドーピングのストーリー。ドーピングを禁止すべきとする立場と、相対する承認すべきとする立場の意見が述べられている。また、ドーピングの病態・生理学的な内容から、検査法まで載っている。体験談も含んでおり非常にリアルである。「ルールを定めているからとか、練習をしているからとか、そういうことではありません。ドーピングをしたことで泣いている人がいる。だから私はそれを悪と断ずることができます」と言い切った看護師のセリフは簡潔かつ壮快。とくにこの章は熱く響いた。
人を動かすには人の立場に身を置くことが大切である。スポーツに関係する職業の方は、過去に選手であったが多く、その経験をもって選手、スポーツ、広くは社会に貢献しようとする方が多いと思う。しかし、月日を重ねると共に選手時代の気持ちが薄れ、指導者や評論家としての立場からの視点のみで働いてしまっていないだろうか。この本は自分の選手時代を思い出し、初心に帰るきっかけとなると思う。
(服部 紗都子)
出版元:集英社
(掲載日:2012-02-15)
タグ:傷害 摂食障害 バスケットボール 水泳 野球 ドーピング
カテゴリ フィクション
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ないもの、あります
クラフト・エヴィング商會
人のイマジネーションってすごいと思います。「想像」とは必ずしも虚構であるとは限りません。物質的にはなくても頭の中で想像すると確かに存在することってたくさんあると思います。「-1」なんて数字は物質的には表すことはできないと思います。もちろん証明は可能でしょうが「物」としてないものはないのです。人の感情や意識なんて「物」としてはありません。しかしそれを否定する人はいないはず。
「堪忍袋の緒」「口車」「思う壺」「冥土の土産」など書いてみれば「物」として存在しそうなんですが決して存在しないもの、それを商品として売ろうっていうんですから何やら怪しげ。「クラフト・エヴィング商會」という架空のお店を立ち上げ想像の産物を売るという企画。あくまでも本書は商品カタログの体裁となっているのがポイント。
絶妙のセールストークで次々に商品を売り込んでくるんですから読者の私たちも心して聞かなければいけません。言葉巧みな売り込みは一流セールスのそれ。私もかつて営業のお仕事をしていましたが、そのとき先輩や上司から教わったのは絶対に嘘はダメということ。メリット・デメリットをきちんと説明した上で取引相手が納得しないと長期的な取引はしてもらえないと叩きこまれました。もちろん本書のセールストークもそのあたりはきっちり押さえてあります。本当にこんな商品があったら欲しいなと思った時点で、術中にはまっていたんでしょうね。
商品となった言葉の本質にあらためてうなずくばかり。想像力の豊かさと淡々と語られる商品説明には思わず身を乗り出してしまいます。こんな面白い商品カタログは初めてです。
最後に掲載された赤瀬川原平さんのエッセイ「とりあえずビールでいいのか」も秀逸。
(辻田 浩志)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2013-09-06)
タグ:遊び 言葉
カテゴリ フィクション
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ヒート
堂場 瞬一
私の人生に影響を
自分の考え方、大げさに言えば自分の人生に影響を与えた本は? と問われたら何を挙げるだろうか。何かにつけ影響を受けやすい私は、どれを挙げればよいか迷ってしまうほどたくさんある。『北の海』(井上靖)、『燃えよ剣』(司馬遼太郎)、『永遠のセラティ』(山西哲郎・高部雨市)、『ブラックバッス』(赤星鉄馬)、『マネー・ボール』(マイケル・ルイス)、『水滸伝』(北方謙三)、『のぼうの城』(和田竜)などなど。そこに、もしかして本書『ヒート』も加わるかもしれないと感じている。こういうことは後になってわかることなのだから、今はまだ「かもしれない」段階なのだが。
本書はベストセラーとなった「チーム」で異彩を放ったオレ様ランナー・山城悟をキーマンとして、男子マラソン世界最高記録の樹立を目指す物語である。
世界最高記録を狙える大会として、神奈川県知事の鶴の一声で新設されることになった「東海道マラソン」。日本マラソン界の至宝と言われる山城悟に世界最高記録を「出させる」ため、元箱根駅伝ランナーの行政マン音無太志は県知事の特命を受け、超高速コースを設定し、日本人による世界最高記録の樹立をお膳立てしようとする。そして30kmまでならトップレベルの甲本剛にラビットとして白羽の矢を立てる。この3人がそれぞれの矛盾を抱えながら、奇跡の42.195kmに挑むというストーリーだ。
現在の男子マラソン世界最高記録は、ケニアのパトリック・マカウの持つ2時間3分38秒。1km2分55秒ペースで走ればフルマラソンは2時間3分4秒。計算上は世界最高記録である。もしそれが実現できたら、とんでもない記録が生まれる。もちろん「机上の空論」である。山城も「そんなに簡単に計算できるなら、苦労はしない」とにべもない。それでも、企画担当者の音無は「机上の空論」を現実のものにするため、次々と対策を講じてゆく。しかし、本番ではそんな計算を全てふっ飛ばしてしまうような、まさしく「HEAT」が繰り広げられる。
なぜ私は本書に惹かれるのだろうか。まず、山城の意外な純粋さ。傲慢で、自分の身近にいたら大変困る奴だが、走ることに対しての純粋な気持ちには心を打たれる。そしてもう1つは、登場人物たちが抱えているさまざまな、決して解消されない矛盾。私という人間が元来ヒネクレているのかもしれないが、そういうのが好きなのである。
山城は言う。「客寄せパンダはごめんですよ」。
「走りもしないで応援だけしている連中の心境がどうしても理解できない」山城は、沿道の観客を「本当はこちらを『見世物』として見下しているのではないか」と断じる。だが、「沿道の観客」の一人である私はこう思う。実業団チームに所属している山城は、その時点で客寄せパンダであり、だからこそ給料をもらっているのではないのだろうか、と。それは甲本も同じである。現役マラソンランナーでありながら、金のためにペースメーカーを引き受けるが、常にそういう状況を後ろめたく感じ、「ブロイラーの気持ちがわかるような気がした」と自嘲している。本当はどこかの実業団チームから誘いを受け、マラソンランナーとしてもう一度勝負したいのだ。しかし、実業団で走るということは金のために走るということにほかならないのではないのか?
そういえば、冒頭に列挙した私の人生に影響を与えたと思われる本も、さまざまな矛盾をはらんでいるものばかりである。読むたびに、違った角度から物事を考えさせられ、刺激を受ける。
現実をもとに生まれる熱
本書からも多くの矛盾や疑問が投げかけられてくる。ペースメーカー、人為的要素満載の高速コース、スポーツと金、スポーツを利用しようとする政治家…。これらにモヤモヤした感じを常に抱きながらも、ストーリーに引き込まれて一気に読破してしまった。
本書は小説である。フィクション、つまりつくり話である。「あり得ない」と一笑に付してしまう人もいるだろう。だが、それならば、『燃えよ剣』の土方歳三も『のぼうの城』の成田長親も実在の人物ではあるが、ストーリーは脚色を加えたつくり話である。『水滸伝』の豹子頭林冲や青面獣楊志などの登場人物に至っては実在したかすら疑わしい。しかし、人々の心をとらえ続けて離さない。事実かどうかはさして重要ではない。現実をデフォルメしたリアルなフィクションが一番面白い、と思う。本書はまさにそんな一冊ではないだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:実業之日本社
(掲載日:2012-06-10)
タグ:マラソン
カテゴリ フィクション
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ルーズヴェルト・ゲーム
池井戸 潤
企業チームの存在意義
中堅電子部品メーカーの青島製作所は、折からの不況と金融恐慌に端を発した経営不振に対応するため、リストラを断行しようとする。それはノンプロ野球部も例外ではない。かつて名門と呼ばれたが、今では完全に会社のお荷物チーム。会社は危機を乗り越えられるか?
野球部は廃止か、存続か?100人規模のリストラを断行しようとしているのに、年間3億円の経費がかかる野球部をなぜ存続させるのか。リストラの対象となった社員にはとても納得のいくものではない。たとえどんなに勤務成績や態度が悪くても、午前中しか仕事をしていない野球部員よりは会社に貢献しているはずだ。私が青島製作所の社員だったとしても、リストラよりも野球部廃止が先だと考えると思う。当の野球部員は、「会社の活性化」とか「広告塔」という言葉にすがり、とにかくよい成績さえ残せば何とかなるのではないかと考えているのだが、それが何だか浮いているように感じられてしまう。会社内には、廃止意見ばかりでなく存続を望む声もあるのだが、存続させる意義を最後まで明確に打ち出せない。
本書を「逆転を信じてあきらめずに最後まで戦い抜く人たちの物語」として読めば、ラストは「よかったよかった」で読み終われると思う。しかし、野球部にとっては、なんの解決にもなっていない結末でもある。新たなパトロンを見つけてラッキーというだけで、そのパトロンも代替わりをしたりすれば結局また、同じことが起こりうる。
プロスポーツチームが行う本当の地域貢献とは
プロランナーの為末大さんが、著書「インベストメントハードラー」(講談社)でこんなことを書いている。「誰が私の何に対価を支払っているのかを常に考えるようになりました。(中略)スポーツは、必ず必要というものではありません。なくなっても生活がままならなくなることはない。けれども、スポーツは世の中から必要とされていて、スポーツ選手という職業が存在しています」。また、クリエイターの糸井重里さんも同じようなことを言っている。「クリエイティブの仕事は、必要のないものだけど、欲しがられるものだとぼくは思っている」。
私の住んでいる富山県には3つのプロスポーツチームが存在する。サッカーJ2「カターレ富山」、野球独立リーグ「富山サンダーバーズ」、バスケットボールbjリーグ「富山グラウジーズ」である。それぞれが地域貢献を掲げ、本業のプレー以外にもさまざまな活動を展開しているが、首をかしげたくなるものも多い。海岸清掃のボランティアや交通安全キャンペーンのチラシ配りである。そういうことをしてほしくて行政や地域や個人が支援しているわけではないだろうに、と思ってしまう。チームは、誰が何に対して対価を払ったり支援したりしているのか、プロスポーツチームが行う本当の地域貢献とは何か、ということをもっと真剣に考えてはどうだろうか。
手段以上の「何か」としてのスポーツ
これ以上書くとどこからか叱られそうなので、話を元に戻す。スポーツにお金をかける意義って何だろう。
スポーツが何かの手段として扱われるようになって久しい。子供がスポーツをすることは学業成績やコミュニケーション能力に好影響を与えるとか、メタボの予防や改善にスポーツをしましょうとか、そういった文脈で語られることが増えてきた。スポーツを単なる手段としかとらえていない人は、その成果に対して対価を払う。もっと安価で効率的な手段が見つかればさっさとそちらに乗り換えてしまうだろう。
では、私たちのようなスポーツを手段以上の何かと思っている人たちは、何に対して対価を払っているのだろうか。それは、上手く言えないが「スポーツそのもの」ではないだろうか。スポーツは「必要はないけど、欲しがられるもの」というよりも、「捨てられないもの」なのだと思う。何度整理整頓しても、捨てられなくて手元に残ってしまうものが誰にでもあるだろう。たとえば子供が小さい頃に書いてくれた似顔絵や、父の日にくれた手づくりの贈り物。スポーツはそれに近いのではないか、と思う。
役に立つとか立たないとか、必要か不要かではなく、スポーツそのものを楽しみたいし、子供たちにもそう伝えていきたい。ただこれではやはり、スポーツにお金をかける意義について、うやむやなままなのだが……。
(尾原 陽介)
出版元: 講談社
(掲載日:2012-08-10)
タグ:野球
カテゴリ フィクション
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我ら荒野の七重奏
加納 朋子
中学の吹奏楽部が物語の舞台。正直どんなところでも物語になるもんだなと感心しました。人がそこで生きている以上、それそのものが物語であるわけですが、母親が主人公というのは意表を突かれた感じがしました。慣れないシュチエーションに戸惑いつつ読んでみると、今どきの親子関係で話が展開。私が子供のころとは全く違うし、私の子供の世代とも様子が違いそうですし、何よりも父親と母親とでは子供に対するスタンスが違いますので、異次元の物語を読んでいるような違和感を覚えつつスタート。
ところがひとたびストーリーが転換すれば疾走感のある展開が次々に待っています。冷めた気持ちで読んでいたのですが、中盤から後半にかけて物語にのめり込んでいきます。中学生の母親たちの凄まじいパワーは、恐ろしくもあり痛快でもあります。作者のたたみかけるようなストーリーの進め方は主人公のパワーと相まって読者を引きずり込むように思えました。
こんな環境はあまり好きではありませんが、物語として読む分にはこんなに面白い話はありません。結果よければすべてよし。最初はもめていた母親たちも次第に分かり合え、子供たちも成長してハッピーエンド。予想を裏切らない結末ではありますが、軽快な小説はこうでないといけません。
頑張っているおかあさんの物語です
(辻田 浩志)
出版元:集英社
(掲載日:2018-07-10)
タグ:吹奏楽
カテゴリ フィクション
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あめつちのうた
朝倉 宏景
舞台は甲子園、そしてグラウンド整備の阪神園芸。ここまでは実在します。登場人物は架空の人。すごくリアルな雰囲気の中で物語は進みます。主人公は高卒一年目新入社員の大地。一年先輩の長谷は意地悪で元高校球児。甲子園でビールの売り子をしている真夏は重い病気を患った過去があり、プロの歌手を目指しています。大地の高校時代の同級生一志は同性愛者で大学の野球選手。18歳19歳の若者四人の物語です。
登場人物はいたって普通の人。特別な人はどこにも登場しません。4人が4人とも夢があり、悩みがあり、葛藤があります。どこにでもいそうな若者たちばかりです。しかし人の数だけドラマがあり、身近に感じられる彼らだからこそ物語に入り込んでしまいました。主人公はグラウンドキーパーという仕事を通じて成長し仲間との関係を深めていく展開に、一つずつ小さな感動を積み重ねながら読みました。何気ない小さな感動の積み重ねがクライマックスに近づくほど大きなものになっていることに気づきました。
阪神園芸の先輩社員の甲斐の言葉がこの物語の核心部分ではないかと感じました。「結果として感謝されることがあったとしても、それを目的にしたらあかん」「それぞれの持ち場を必死になって守っているだけ。それで給料もらってる」この言葉こそ本書の核心なのかもしれません。世の中で働いている一人一人がさほど感謝されることもなく、黙々と自分のやるべきことを必死でこなして過ごしている。作者はそんなことを語りかけたかったのかもしれません。だからこそ素直にすべての登場人物に共感でき、この作品を読まれた方にも自分自身を投影されながら読まれる方も多いのではないかと想像しました。
登場人物のギクシャクした人間関係も最後には心でつながる形で終わったのはすごく救われた気がしました。4人がそれぞれの生き方に対し、まっすぐ前を向いて歩きだすところで物語は終わります。何となく彼らと別れがたい気持ちが強くなりました。続編ができればぜひ読んでみたいです。さわやかに吹き抜ける一陣の風と共に、土のにおいが鼻をくすぐる読み心地が残りました。とても気持ちのいい一冊です。
(辻田 浩志)
出版元:講談社
(掲載日:2021-01-25)
タグ:物語
カテゴリ フィクション
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我ら荒野の七重奏
加納 朋子
エンターテイメント
帯には「子供の部活なのに……頑張るのは、親!?」「笑って泣ける部活エンターテインメント」という惹句が並ぶ。主人公の山田陽子は、“ミセス・ブルドーザー”の異名を持つ多忙を極めるやり手のキャリアウーマン。目の前にあるもの全部をぶっ壊して、更地にしてしまうと恐れられているのだ。
その“ミセス・ブルドーザー”が、息子・陽介の中学校の吹奏楽部入部をきっかけに保護者会活動に巻き込まれていく、というストーリーだ。
なるほど、エンターテイメントな小説である。見事なまでのご都合主義。
そもそもが親目線の小説なので仕方ないのだが、陽子は「たかが中学校の部活動」「なんだってそこまで親がかりなわけ?」と言いながら、問題を解決し環境を整えるのはすべて親である自分。しかもその解決方法たるや、文字通りブルドーザーのごとき圧倒的力技。いやいやいやないないない…とツッコミながら、引き込まれて最後まで一気に読んだ。
子どもの自主性はどこへ
部活動については、教員の労働問題としてここ最近ある問題がクローズアップされている。多くの先生が部活動の顧問を強制的に受け持たされているにもかかわらず、“自主的活動”扱いとされ、手当がほとんど出ていないというのだ。国は教員の負担軽減のため、今年4月から「部活動指導員」を制度化し、外部指導者を学校教育法に基づき学校職員として位置づけるようになった。しかし、その待遇面に関してはほとんど進展がないようで、依然として部活動指導はボランティア活動であることに変わりないらしい。
この小説の舞台である公立中学校の吹奏楽部も保護者会によるボランティア活動で運営されている。もちろん学校からも予算が出ているし、メインの指導者こそ音楽経験のある教師だが、各パートの指導は様々な伝手で講師を依頼したり、経験のある親が務めたりしている。定期演奏会の会場確保や準備運営やスポンサー探し、また、コンクールなどの会場への生徒の引率や楽器の運搬も保護者会の仕事だ。保護者会は発言力を増し、指導者の方針や指導方法に口を出すようになることもある。顧問の先生は、保護者会を敵に回しては部活動自体が成り立たないので、無下にはできなくなってくる。親が熱心に応援したり手伝ったりすればするほど、教師や生徒への要求はエスカレートしてゆく。子どもたちの自主的な活動であるはずの部活動なのに、優先されるのは周囲の大人たちのプライドやエゴだ。
「たかが中学校の部活」で、それを支えるべき親同士が保護者会内での勢力争いを繰り広げる。陽子自身も、子どものためというのはきっかけに過ぎず、自らのプライドのために戦っているのではないか。もちろん、面白おかしく誇張されたフィクションではあるのだが、部活動の主体であるべき子どもたちが置き去りにされているように感じる。
入部当初、トランペットに憧れて吹奏楽部に入った陽介が涙ながらに陽子に訴える。「トランペットはダメだって言われた。ファゴットというのやれって」。それが「陽子の内にある、闘争心という名のダイナマイト」に火を点け、即刻顧問にねじ込みに行ってしまう。とんでもないバカ親っぷりである。
しかし物語のラストで、陽子は子供の自立が親の望みなのだということ思い至る。やや唐突な感じは否めないのだが、このラストはよかった。
部活動のよい面
とかく批判されがちな部活動というシステムだが、よい面もたくさんあると思う。前述の通り、陽介の担当楽器はファゴット。自身の希望に反して割り当てられた楽器ではあったが、少しずつその魅力に気づき、いつしか管楽器のリペアマンになりたいという夢を持つようになった。「ぼくは自分でそんなに才能ないのはわかってるけど、でもファゴットが好きだから。演奏人口も少なくて、だからわからないことや困ることも多くて……それでもいろんな人に助けられてきたんだ。だからぼくも、誰かを助けてあげられたらって思って。」
これは、部活動というハードルの低い活動ならではのことだと思う。中学・高校は、子ども時代の終わりであり大人時代の始まりでもある。その多感な時期に、様々な価値観に意図せず触れられるチャンスが部活動にはある。それこそが部活動の教育的価値ではないだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:集英社
(掲載日:2017-08-10)
タグ:吹奏楽
カテゴリ フィクション
CiNii Booksで検索:我ら荒野の七重奏
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