子どもにスポーツをさせるな
小林 信也
衝撃的なタイトルである。著者の小林信也氏が「30年以上にわたってスポーツの世界で仕事をしてきた」作家だと知ればなおさらかもしれない。
だが、スポーツが視聴率主義、商業主義、勝利至上主義などでがんじがらめになっており、取り組む目的やそこから何を学ぶかが置き去りになってしまっている現状が、ゴルフの石川遼選手から氏の住む武蔵野市の中学校まで幅広い実例を交えて繰り返し述べられているのを読むと、氏が心からスポーツを敬愛し、だからこそ危機感を抱いていることが伝わってくる。
マスメディアや関係者が視聴率や利益の獲得を目指す際、意図してか意図せずかスポーツの本質には触れられない。第五章「あたらしいオリンピックの実像」内で東京五輪招致について言及した部分では、日本国民、の前に東京都民であっても招致に向けた流れに乗りきれない、どこか他人事のように思える不思議さや違和感の正体はこういうことだったのかと気付かされた。
とは言え、本書はマスメディアに疑問を呈することが目的ではない。視点はあくまで現場に携わる作家より上にはならない。それは、小林氏が小学生の息子さんとともに、現在進行形で、自らの身体を動かしてスポーツに取り組んでいるからではないだろうか。
通読すると、“スポーツをさせるな”というタイトルは、親を含む大人がさまざまな思惑を持って子どもにスポーツを“させる”のではなく、子ども自身が楽しいから、好きだからスポーツをする。もしくは子どもとスポーツをしよう、ということを表しているのではないかと思えた。
(北村 美夏)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2011-12-13)
タグ:スポーツ報道 野球 ゴルフ サッカー 五輪 教育
カテゴリ スポーツ社会学
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タンパク質の生命科学
池内 敏彦
脚光を浴び、ほとんど毎日のように報じられる生命科学だが、専門的で複雑なため、一般には理解しにくいことが多い。だから、勉強したくない、関連書も読んだけれどわかりにくいからもう読まないという人も少なくないだろう。
この本は、書名通りタンパク質を生命科学の視点で述べているのだが、「はじめに」のむすびで著者は「これから、タンパク質の構造と機能を中心にタンパク質のすべてを解説していきたいと思う」と記している。この自信のすごさ。
だが、それは期待を裏切らない。全3章で構成、1章では「タンパク質とはどのようなものか」で、まさにもつれた糸をほどくかのように語っていく(2章は「タンパク質と遺伝子」、3章は「タンパク質と生命」)。文化系の人でも、こう説明されれば容易に理解できるだろう。酸とは何か、酸化とは何か、という昔習ったかもしれないことをちゃんと整理しつつ、解説を進めている。驚く腕前である。
「ある程度知識のある人が読むのだろうから、基礎知識までは触れません」と言わず、難しいことを「これならわかるでしょ」とわかるように説明している。それでいて内容は極めて高度である。
著者は、京都大学ウイルス研究所、大阪大学蛋白質研究所を経て、現在関西大学工学部教授。「説明する」ということのお手本のような1冊である。
新書判 210頁 2001年12月29日刊 800円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2002-03-15)
タグ:タンパク質
カテゴリ 生命科学
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高血圧の医学
塩之入 洋
30歳以上の日本人のうち、約3300万人(男性1600万人、女性1700万人)が高血圧であると推定されている。平成8年度の高血圧性疾患受診患者数は749万人、これは3300万人の22.7%にしかすぎない。高血圧を放置すると、脳血管障害、心臓病、腎臓障害、血管障害などを合併するリスクが高くなる。では、高血圧とわかった人はどうすればよいのか。
この本には「あなたの薬と自己管理」という副題がついている。高血圧に関する知識全般と、特に薬について詳説し、生活習慣改善の仕方や自己管理のあり方を説いている。もちろんこれらの知識があれば、高血圧の予防にもつながる。
高血圧が広く知られるようになって100年、日本では近代的な治療が開始されて50年。薬の開発もどんどん進んでいるようだが、運動療法指導管理料がまず高血圧を対象としたことからわかるように、運動や食事、喫煙なども大きく関係する。少しでも気になる人は読んでおいたほうがよい。
新書判 236頁 2002年1月15日刊 780円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2002-03-15)
タグ:高血圧
カテゴリ 医学
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身体の文化史
小倉 孝誠
近代フランスの文学と文化史を専門とする著者の『<女らしさ>はどう作られたのか』(法蔵館、1999)に次ぐ身体に関する著作が本書である。副題は『病・官能・感覚』。
「女性の身体とジェンダー」「身体感覚と文化」「病はどのように語られてきたか」の3部構成からなるこの本の特徴は、文学への身体論的アプローチを試みているという点である。主に近代フランスにおける身体とそれにまつわる欲望や快楽、感覚、病について、文学作品、回想録、医学書、衛生学関係の著作、歴史書、礼儀作法書などを基に考察している。日本の文学作品についても随所に出てくる。
文学において身体は常に取り上げられる要素であり、さまざまな作品を通じてその時代の身体の捉えられ方を知ることができる。病のくだりで「健康という、本来は私生活上の配慮であったものが、現代ではさまざまな行政と政治のメカニズムによって引き受けられるようになった」とあるが、そこに至る背景を読み解くうえでも参考になる。
2006年4月10日刊
(長谷川 智憲)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2012-10-11)
タグ:身体 フランス 感覚 文化史
カテゴリ 身体
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給食の味はなぜ懐かしいのか?
山下 柚実
副題は「五感の先端科学」(先端科学に「サイエンス」とルビが振ってある)。
さて、誤解のないように、まず本書は「給食」の本ではないと言っておこう。副題のほうが正確に内容を示している。第一部「感覚器官のサイエンス」では、味覚(伏木亨・京都大学大学院教授)、嗅覚(高田明和・浜松医科大学名誉教授)、触覚(宮岡徹・静岡理工科大学、井野秀一・東京大学助教授)、聴覚(岩宮眞一・九州大学教授、戸井武司・中央大学教授)、視覚(三上章允・京都大学教授、廣瀬通孝・東京大学教授)との対話。第二部では、「五感・クオリア・脳」と題し、脳科学者・茂木健一郎氏、臨床哲学者・鷲田清一氏との対話が収録されている。
これだけのメンバーだから面白くないはずがない。「感覚」という科学として取り扱いにくかったものが、どんどん解き明かされていく。なぜ、あるものを心地よく感じ、別のものを不快に感じるのか。文字や匂いからある色を感じたりするのはどういうことか。リラックスしたほうがなぜ感覚は鋭くなるのか。
感覚は誰にもあるが、見ても見えていなかったり、聞いても聞こえていなかったり。不思議な世界、五感は「5つの感覚」を超越していく。勉強になることも多いので、おすすめ本です。
2006年7月10日刊
(清家 輝文)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2012-10-11)
タグ:五感 感覚 記憶 科学
カテゴリ 身体
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ピアニストは指先で考える
青柳 いづみこ
プロの世界観は面白い
何かの“プロ”が書いた本は、分野を問わず面白いものが多い。
山下洋輔というジャズピアニストの影響だ。プロの話にはその世界に本気で身を置いた者にしかわからない感覚や独自の物の見方が反映され、未知の世界に連れていってもらえるのが面白い、というような話が確か氏のエッセイにあった。
フリージャズというジャンルのただならぬプロである氏のエッセイ集も当然面白く、登場するミュージシャンたちの波乱に満ちた日常と、それを巧みに描写する文章力。そして何よりも文章のあらゆるところにただよう知性と教養に私は完全にノックアウトされ、昼夜を問わず読んでは笑いころげたものだ。
プレーヤーの文章には、人柄だけでなくその人のプレースタイル(この場合、演奏スタイル)が出るように思う。氏の文章は、隙間が見えないほどに文字が多い。しかし絶妙の抑揚とともにスピード感にあふれ、ぐんぐん加速するように話の世界に引き込まれる。と思っているうちに急転直下、畳みかけるように話題を展開させたと思ったら猛烈な盛り上がりをみせ、時には静かにフェードアウトするような余韻をもって、終わる。読み終えた後には心地よい高揚感が残る。実によく“スィング”する。彼の音楽もまた、まさに文章から受ける印象と同じように聴こえるのだ。
同じ印象を受ける演奏
今回紹介するのはクラシックのピアニストが書いたものだ。帯には「ピアニストの身体感覚に迫る!」「身体のわずかな感覚の違いを活かして、ピアニストは驚くほど多彩な音楽を奏でる」などとある。
どうも最近、“身体感覚”とか“身体を通して考える”といった記述があると、読みたくてたまらなくなってしまうクセがある。音痴なうえにピアノも弾けない私だが、未知の世界の身体感覚を味わってみたくて仕方がない。おまけにピアノの“プロ”が書いた本だ。面白いに違いない。
著者は、ドビュッシー弾きで、同時に研究者でもあるピアニストだ(近くにいた哲学の先生に聞いた)。文章から受ける印象は、まず、リズムとテンポが心地よい。どのページも文字の配置が美しく、字面からとても軽やかで華やかな景色が浮かぶ。音楽を聴いてみると(哲学の先生からCDを借りた。クラシック通なのだ)、おぉ! 果たして、そこには文章から受けた印象と同じ! 美しい音楽が響き渡るじゃないの!
ピアニストという人たちは実にいろいろなことを考えながら演奏をしている。指使いはもちろん、腕や脚、つま先や踵といった身体の部分のこと、もちろん全身の使い方、身体とピアノとの関係のこと、さらには演奏用の椅子、会場や聴衆の雰囲気といった環境などに加え、作曲家の意思や昨今の名ピアニストによる名演の歴史まで考えたり感じていたりして弾いている。要するに、クラシック音楽の学問体系を背負って弾いていると考えられる。にもかかわらず、恍惚の表情を浮かべたり、無心のまま指はあたかも自動的に動いているように見えたりすることもあるのだ。
ピアノは競技と違って、速く弾けるほうがよいとか、大きな音で弾いたほうが勝ちとかで勝敗を決めるものではないが、これらの技術は演奏の表現力を左右することもあるためピアニストにとって重要なファクターの1つとなる。手(手のひら、手指の長さ)も大きいほうが、どうやら有利に働くようだ。
勝ち負け以前に
こうなると、「ピアニスト」を“アスリート”に置き換えて読みたくなってくる。
アスリートたちも、当然いろんなことを考えたり感じたりしながらスポーツをしている。外国人選手に比べて不利な身体特性を克服するため日々涙ぐましい努力を続けていることなど、共通点が多いように思う。出版物やブログから読みとる限りにおいて、計り知れない精神力や知性を感じさせるアスリートも数多く存在する。
その一方でアスリートの場合、教養だの科学だの品性だのを無視し、大学で何を勉強したのか、どうやって卒業したのかわからないようなヤカラでも、“プロ”になれたり、“世界”と戦えたり、“オリンピック”に出場できたりすることも、残念だがあり得る。ピアニストの場合、音楽の体系や教養を身につけることなく演奏の技術だけに優れていたとしても、大成することなどあり得ないだろう。
本書は一見難解な部分でも、確かな理論と教養に裏づけられた説明が、平易な文章で丁寧になされている。したがって、ピアノの経験やクラシック音楽の知識がなくても読むのに心配はいらない。ただし、専門的な知識や経験があったほうがより深いところに理解が及ぶであろうことは、ほかのどんな分野にも共通することとして容易に想像がつく。
スポーツを行うということは、勝ち負け以前に、身体運動を通して教養を身につけようとする行為にほかならない。才能やガムシャラな肉体的努力だけでなく、ちゃんとした教養を身につけるための努力が必要だ。そのほうが、アスリートである前に“人”としての人生が、実り多いものになるだろう。自戒の念も込めてそう思う。
(板井 美浩)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2007-12-10)
タグ:身体感覚 ピアノ
カテゴリ その他
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子どもにスポーツをさせるな
小林 信也
スポーツの醍醐味
みんな黙ったままうつむいていた。薄暗いロッカールームのこもった空気に、戦い終わった男たちの汗の匂いが溶け込んでいた。少しの涙も混ざっているようで、それが空気をやや重たくしていた。通路を挟んで反対側にあるロッカールームで歓声が上がった。幾人かの男たちの目からみるみる涙がこぼれ出し、嗚咽が洩れた。男たちのキャプテンが、男泣きに泣きながら、ロッカールームに戻ってきた。監督に支えられながら、やっとのことで立っていた。
少し経って落ち着きを取り戻した彼は「俺たち無敗ですよね」と笑顔を見せた。その笑顔は素晴らしい男の顔だった。私がトレーナーとして帯同していた高校ラグビー部が、全国大会の準決勝で同点抽選の上決勝進出を逃したときの出来事である。この成長こそがスポーツの醍醐味だ。その顔を見て心の底から実感させてもらった。
嘆きではなく
さて「子どもにスポーツをさせるな」と銘打った本書はスポーツライターである小林信也氏の著作である。もちろんこのタイトルを額面通りに受け取るわけにはいかない。知れば知るほど突きつけられるスポーツの闇の部分に、懐疑的になりそして悲観的になり、そこに飛び込んでいく無垢な子どもたちに不安を感じることは確かにある。
しかし本書は、今さらその嘆きを世に叫ぶものではない。小林氏は42歳のときに男の子を授かった。上の娘さんとは14歳違い。そのお子さんの成長過程で、「悲観的なスポーツライターは、確かな指針を得て前向きなスポーツライターに生まれ変わった」という。そう考えるに至った過程が、本書のテーマになっている。
勝利へのこだわりは悪いものではない
WBC 決勝の国歌斉唱の際にガムをかむ選手。勝つためには手段を選ばない指導者。言動と行動にギャップのあるお偉い様。麻薬に手を出す選手。スポーツの本来持つ恩恵から見放された例は数多い。その一方でスポーツを通じて己の心身と向き合うことに気づくものがいる。生と死を実感し命の尊さを知るものがいる。困難を克服してできなかったことができることの喜びを知るものがいる。礼儀や感謝の気持ちを知るものがいる。「スポーツ」というひとくくりでは到底考えられない。この社会に起こるすべての事象にはプラスとマイナスの顔が混在しているのだ。
たとえば、勝利にこだわる姿勢を勝利至上主義という言葉にしてしまうと、それが悪いことであるかのような印象を受ける。しかし勝つためにありとあらゆることに努力することは決して悪いことではない。勝つために何をしてもいいということではなく、勝つという目標に向かって、己を磨き、仲間と力を合わせ、スポーツを離れた日常生活におけるすべての取り組みを見直す。そうして磨き上げたもの同士が戦えば、自分のことも、相手のことも自然に尊重できるようになるだろう。理想論ではあるが、それこそがスポーツを通じて可能な、大人への成長ではないだろうか。本書でも好例としてプロゴルファーの石川遼選手のことが取り上げられている。確固たる自分自身の核を持ち、マスコミの無責任な馬鹿騒ぎっぷりを実力で何と言うこともなく制してしまったあの若者は瞠目に値する。
男の顔を
実は私も42歳のときに初めての子どもとして男の子を授かった。彼はこれから混沌とした世界の中でさまざまな人々に出会い、喜びや悲しみを知り、誰かを傷つけては誰かに傷つけられ、馬鹿な夢を持っては希望に溢れ、時にどうしようもない絶望という壁にぶち当たるだろう。そんな現実に立ち向かっていく若い力を、その可能性を信じたいと思う。先回りして段取りしすぎることは控えたい。いざというときにはガツンと軸を正してやらなければならないし、また時には強く抱きしめてやらなくてはならない。そして自身で自分をつくり上げるべく努力し、男の顔を手に入れてくれればいい。
スポーツはその成長のために、唯一とは言わないが非常にいい手段だ。いつか自分の息子が男の顔になったと実感できるまで、親父にできることは、男の目で見つめられても恥ずかしくないよう己を鍛え続けることくらいだ。
(山根 太治)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2009-09-10)
タグ:スポーツセーフティ
カテゴリ エッセイ
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子どもにスポーツをさせるな
小林 信也
かつて、ラグビーの日本代表監督を務めた宿沢広朗さんが、言った言葉がある。「これほどの努力を人は運と言う」。楕円形のラグビーボールが、最後に自分たちに弾んで勝利につながった。素人がやったなら「ラッキーバウンド」である。しかし、何百、何千回と繰り返し練習している者からすればそれは、「ラッキーバウンド」ではない。勝利のための「準備」があったからこその結果なのである。勝利至上主義ではいけない、しかし競技スポーツは勝つことが目的である。勝つことを目指すからこそ、「準備」が大事になってくる。
「準備不足」ではなかったかと、WBCの4番バッターがケガをして帰国したことを著者はこう語る。今、茶髪やモヒカンが悪いと言えば、「考え方が古い」「それと打撃は関係ない」と言われそうだが、真っ直ぐな姿勢は何に取り組むにも基本中の基本だ。普段の姿勢は、スポーツのパフォーマンスにも直接影響する。頭や理屈で言い訳できる分野ならともかく、スポーツは身体でやるものだ。だから、ごまかせない。謙虚さを失い、ひたむきさをなくしたらそれが身体の甘さ、隙につながる。だからこそ、スポーツは貴いのではないか。スポーツ界はいま、もっとこうした原点を見直し、改めて共有すべき時期にきている。
現在、競技スポーツに携わる者の一人として、著者の言う「スポーツの原点」を共有したいと思う。
Chance visits the prepared mind ――幸運は準備した者に味方する。
(森下 茂)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2012-10-13)
タグ:ジュニア
カテゴリ エッセイ
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人種とスポーツ 黒人は本当に「速く」「強い」のか
川島 浩平
近年、陸上短距離界でのジャマイカ選手の躍進などにより、黒人の身体能力への関心が高まっている。実際に、近年の世界大会において、男子100mの決勝に進んだ選手はすべて黒人であり、NBA選手も8割近くが黒人である。本書はそうしたことを学術的観点から明らかにしようとするものである。
大学教授である筆者の研究成果および国内外の学術論文による知見がふんだんに盛り込まれており、奴隷制や人種差別などの歴史的背景や文化的背景から慎重に読み解こうとするものである。
この手のタイトルによくある、「骨格が…」や「日常生活で走る量が」といった一面的な背景から書かれたものではないため、答えを急いてしまうと少し退屈するかもしれない。しかしながら非常に読み応えがあり、多方面からの考察と事実に基づいた豊富な知識を得ることができる。そしてあとがきにあるように、「人種と知能」という面にも同時に答えようとしている。
黒人に対して身体的な偏見を持ちがちな我々にとって、非常にバランスのとれた見方を提供してくれる一冊である。
(山下 大地)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2015-04-28)
タグ:人種
カテゴリ 身体
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人種とスポーツ 黒人は本当に「速く」「強い」のか
川島 浩平
19世紀にさかのぼって探る
「人種が違う...。」オリンピックの陸上短距離走での勇姿やNBAバスケットボールでのスーパープレイを見ていてそうつぶやいた人は少なくないだろう。大腰筋の太さや下腿三頭筋からアキレス腱の形状などを説明されて、さもありなんと納得した人も多いだろう。黒人は生まれつき身体能力の優れた「天性のアスリート」だと考えることに確かに抵抗は少ない。
しかし、本書はそのステレオタイプや生得説でことを断じる姿勢に疑問を投げかけている。そして解剖生理学的な側面で全てを捉えるのではなく、黒人を取り巻いてきた歴史や文化などの環境的要因について再検討している。著者の川島氏はアメリカの歴史、社会、文化の専門家である。
かつて「人種間の生存競争で、黒人種に勝ち目がないことは明らかである」と「滅び行く人種」とされていた黒人が、いかに「生まれながらのアスリートと」表現されるようになったのか、本書では19世紀まで時をさかのぼりそのルーツを探る。19世紀後半にはすでに野球選手や騎手、またボクサーとして、黒人の中にもわずかながら優秀なアスリートが存在していたようだ。しかし人種関係が悪化していた黒人「不可視」の時代では、彼らは「不当な仕打ちによって黙殺される運命を共有」するしかなかった。
その後も「黒人劣等」を確固たるものとされていた時代は続く。白人至上主義世界で行われていた20世紀初頭の近代オリンピック黎明期にも、黒人はほとんど目立たない存在でしかなかった。アメリカ国内でも、優秀な黒人アスリートは、黒人が身体能力が優れている象徴にはならず、黒人という劣等人種の中の例外的に優秀な存在として「白人化された黒人」と表現されていたという。しかしオリンピックが「国家間、人種間の優劣を決定する競争」としての存在感を増やす中、「多種多様な人々からなる」アメリカが「多種多様な競技種目で最高の成績を収める」必要に迫られたことで、1930年代により多くの優秀な黒人アスリートが頭角を現すことになった。それでもまだ「黒人は劣る」という認識が「白人と同等に」運動能力があると改められただけである。では、この100年ほどで黒人はスーパーアスリートにミューテーションでも起こしたのだろうか。
活躍の舞台
「アフリカ大陸からアメリカ大陸への厳しい航路を生き延び、過酷な奴隷環境を耐え抜いた黒人達はこれまで人類が味わったことのない淘汰を受けて遺伝子を残した」という説も生まれた。その真偽はともかく、これ以降、黒人は生まれながらに運動能力に長けているというステレオタイプが萌芽し拡大する。劣った人種である黒人に後塵を拝した白人の慰めにもされたこの認識は、黒人が自分たちが飛翔する大きな舞台の1つを手に入れたことを意味した。アメリカンフットボール、ベースボール、バスケットボール、というアメリカ三大スポーツを初め、ボクシングや陸上でも、ようやく黒人アスリートの台頭が始まる。
では黒人が全員生来の優れたアスリートか。もちろんNOだ。華やかな場所で輝かしい活躍ができるのはごく限られた人間だけだ。その陰で埋もれ消えゆく数え切れない人間がいるのだ。スポーツのみが出世する唯一の方法と信じ、本当にやるべきことを見失い、自分自身を袋小路に追い込む多くの黒人の若者たちがいることも忘れてはならない。
川島氏は言う。「スポーツでの有利、不有利とは、競技が誕生してから今日までの歴史的な過程の中にある。それは第一に競技の特徴や規則、第二に競技者個人の素質、才能、精神力および運。第三に指導者と競技者、そしてプレイを観戦し、視聴する一般の人びとによって培われた競技に対する見方、期待、価値観、こうしたものが相互的に作用するなかで決定されるものである」と。そして黒い肌という共通点を持つ黒人は本当は簡単に「黒人」と括れないことも意識すべきである。実は「遺伝的な多様性」を持ち、「厳密には定義不可能」とさえ言えるのである。その中で自分の強みを適合した競技特性や規則の中で最大限の努力を払って磨き上げた人間が、適切な時代に適切な場所において、他の様々な要因を味方に付けて初めて輝きを放つのだ。
足枷に気づくために
物事を理解するときに自分が得心しやすいところだけに目を奪われ、それでわかったつもりになることはよくある。先入観が邪魔をして核心に近づけないこと、いや隠れた核心が存在することにすら気づかないことが多い。こんな考え方が己を前に進めることの足あしかせ枷になる。
本書はステレオタイプに振り回されず、物事の本質を追求する姿勢を正すきっかけにもなるはずだ。水泳、陸上競技という黒人の対照的なステレオタイプの象徴となる競技についても1つの章を割いて興味深い考察がなされていることも付け加えておく。読了後は「黒人だから」という一言で済ませようとする発言がいかに浅薄で軽率なものかが理解できるだろう。
日本人も、平泳ぎでの潜水、背泳でのバサロスタートを封じるルール改正やノルディック複合でのルール改正など、スポーツが純粋に身体能力だけで決しないものであることは痛みを持って知っているはずだ。そして様々な形で存在するステレオタイプや既成概念に苦しむとともに、それらを雄々しくブレイクスルーすることで新しい価値を見い出すことに挑戦してきたはずだ。自分自身を縛るような思い込みは捨ててしまったほうがいい。そこに気づくだけでも価値がある。
( 山根 太治)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2013-01-10)
タグ:人種
カテゴリ スポーツ医科学
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残念なメダリスト チャンピオンに学ぶ人生勝利学・失敗学
山口 香
著者は13歳で柔道全日本体重別選手権を制し、ソウルオリンピックでは銅メダルに輝いた。引退から25年以上経ってもそう紹介される立場ならではの、アスリートのあるべき姿、日本の社会におけるスポーツの価値論を展開する。
著者は「技能練習を重ねても人間教育にはつながらない」という柔道の祖・嘉納治五郎氏の言葉を引く。確かに、競技外でも素晴らしい人はいるが、勉強や私生活はいまひとつの「残念なメダリスト」も少なくない。メダリストが社会から尊敬され、スポーツの価値を高めるためには、選手自身の取り組みも重要ながら、家族や指導者、マスコミなどの接し方も大きいと著者は言う。スポーツに関わる一人としての言動を改めて考えさせられる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2016-03-10)
タグ:スポーツ
カテゴリ 人生
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画像診断 病気を目で見る
舘野 之男
画像診断はどのような原理で身体を診ることができるのか。使い分けは、そして、どういった経緯で開発されたのか。それらを研究者の立場から紹介したのが本書である。
私はトレーナーという立場から、画像診断をしてきたクライアントに出会うことがある。だからこそ、本書を読めば、画像診断について理解でき、クライアントへのアドバイスとして活用できそうだと思い、興味津々に読み始めた。しかし、この本を読み終えた後の私の感想は「難しかった」、この一言に尽きてしまう。画像診断の原理についても詳しく書いてはあるのだが、知識の足りない私にはそれらを理解するに至らなかった。
鍼灸の学校に通っていた私は、臨床医学の授業もあり、本書に出てくる単語は見たことがあったが、理解が足りていない。そんな私でも、数多くある画像診断が、それぞれの開発者たちの切磋琢磨、時には連携して開発、改良してきたことを知ることはできた。
読み進めている途中で、医学部に行った方々は、この本をどこまで理解するのだろうか、ドクターは画像診断の成り立ちを純粋に楽しんで読むのだろうか、そんな疑問を抱く自分がいた。それはトレーナーを目指している学生時代、ドクターとコミュニケーションが取れるようになれと言われることが何度かあったという理由からだ。
研究を現場に落とし込む役割もするトレーナー。多くの人とコミュニケーションを取れるように、専門と一般の橋渡しができるように、幅広い知識は身に付けておきたい。私にとって本書の難しさが、また更に学びを深めようというモチベーションになった。今の私はドクターとの共通言語を身に付けているだろうか、そう考えさせられた。
画像診断に関わることがある人は読んでみてはどうだろうか。その診断技術について何を理解して、何を理解していないのか、今の自分を推し量る一冊になるだろう。
(橋本 紘希)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2016-05-18)
タグ:画像診断
カテゴリ 医学
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学術的に「正しい」若い体のつくり方
谷本 道哉
若い身体をつくる、つまり心肺機能や筋力などが著しく衰えてしまわないようにするには何をすべきかを、資料を用いながら平易に解説している。まずは体操から始め、「10分筋トレ」をコツコツ重ね…と、学術的に正しい内容を書けば地味とも言える。
本書は、その地味なことが若々しいスタイル、充実した未来へとつながっていくのだというつなぎが巧みである。最終章にまとめられた食事のコツもトレーニング指導者にとっては当たり前だが、一般の人はそれすらあやふやであり、科学的根拠のあることを広く伝えるのも重要な役割の1つだとわかる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2015-05-10)
タグ:トレーニング
カテゴリ スポーツ医科学
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健脚商売 競輪学校女子一期生24時
伊勢 華子
2012年に復活した女子競輪。競輪学校1期生と、廃止前に活躍した元選手のうち8名にスポットを当てた。学校部活動などで親しみのある種目ではないのに、なぜこの世界に身を投じたのか。バンクを走ることで何が見えたか。彼女たちが目の前で話しているかのような描写で明らかにしていく。浮かび上がるのは「生活」だ。タイトルに商売とあるからか賞金額から子供時代の小遣いの額までポンポン出てくる。自分の身体だけを頼りに、生きていくために漕ぐ。そこに、女性ならではのタフさだけでなく「夢」も感じられるのが、競輪の、プロスポーツの醍醐味だと改めてわかる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2016-08-10)
タグ:競輪
カテゴリ スポーツライティング
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プロレスという生き方 平成のリングの主役たち
三田 佐代子
私たちの世代にとって、ヒーローといえばプロ野球の長嶋茂雄であり、王貞治でした。そして野球と人気を二分する形でプロレスのジャイアント馬場とアントニオ猪木も子供の憧れでした。娯楽が少なかった分だけ人気が集中しました。今では考えられませんが、ゴールデンタイムには野球かプロレスのどちらにチャンネルを合わせるかで悩んだものです。
平成という時代は「多様化」という言葉がキーワードになるかもしれません。数多くのスポーツが注目されるようになり、野球もプロレスもゴールデンタイムの地上波で見ることはかなわなくなりました。それでも昭和とは違う形でプロレスも生き残っています。本書は平成のプロレス事情を紹介したものです。
平成のプロレスのキーワードもやはり「多様化」だったようです。馬場・猪木のストロングタイプのレスリングだけではなく、様々な要素で客を惹きつけることで生き延びる数多くの団体とレスラー。元々いたファンにプロレスを見せるということが難しくなった時代に奇想天外なアイデアで新たなファンを獲得する姿は進化といっていいかもしれません。路上でプロレスをしたり、人形相手の試合をしたり、透明人間と闘うという設定の独り相撲ならぬ独りプロレスもあるそうです。そのアイデアだけでも興味をそそります。
本書は選手に対する賛美だけではなく、リアルなプロレスの苦労であったり失敗なども赤裸々につづられています。かつて子供のころに憧れた完全無欠のヒーローではなく、生身の人間の生き様そのもの。登場する人たちの息遣いが聞こえてきそうなエピソードは人間臭さを感じさせます。
レフリーが登場したり裏方の人が登場したり、いろんな人がいてプロレスの興業が成り立つのが理解できました。かつてワイドショーをにぎわした女優沢田亜矢子さんの元夫であるゴージャス松野さんのエピソードは印象的。福島県で大震災にあい、プロレスラーとして東北の人たちを勇気づける話は心が温まります。
平成から令和に時代が変わり、プロレスはこの後どんな進化を遂げるんでしょうね。プロレスファンはもちろんのこと、プロレスに興味のない方でも楽しく読むことができます。
(辻田 浩志)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2019-08-07)
タグ:プロレス
カテゴリ 人生
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健脚商売 競輪学校女子第一期生24時
伊勢 華子
何人かの(元)女子競輪選手のドキュメンタリー作品です。有名選手のサクセスストーリーとは程遠い一人一人の人間像が描かれています。本書の特徴といえば肝心の競技に関わる部分がとても少なく、女子競輪選手のストーリーというよりもむしろ一人の女性のストーリーが幅広く描かれています。
想像するに競輪の熱心なファンが期待しそうな、勝つための苦労話とか、血のにじむような努力を経て栄冠を勝ち取るというようなスポーツドキュメンタリーにありがちな話はありません。飼っていたウサギが死んでしまったとか、ダンサーになりたかったけどあきらめたなど、肩透かしを食らいそうなほど競輪とは関係のないストーリーが大半を占めます。
叙事的ともいえる淡々とした描写は筆者の作風そのものだと感じましたが、感情的なものをあえて抑えた書き方だからこそ、読者の想像力が掻き立てられ、登場人物の人となりや感情を頭の中で描いてしまいました。感動を強制されるような表現は皆無といっていいでしょう。そんなところに筆者の凄みすら感じてしまいました。
私なりに感じた裏テーマは「挫折」だと思います。夢があり挫折して競輪の世界に入ってきた者もいれば、競輪の世界で挫折した者もいました。人は挫折したからといって死ぬわけではありません。むしろ挫折してからの生き方にこそ意味があるように受け止めました。
正直、華やかな作品とは言えませんが、じっくり読めば多くの人に共感を与える作品だと思いました。
巻末に登場人物の近況が記されていました。80歳を超え競輪とは無縁の生活をされている方もいます。明日の栄冠を夢見て頑張っておられる現役選手もおられます。皆さんの今の生活を知ってすごく救われた気がしました。それだけ皆さんに感情移入して読んでいたのでしょう。
(辻田 浩志)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2020-02-20)
タグ:競輪 女性
カテゴリ スポーツライティング
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ヨハン・クライフ スペクタクルがフットボールを変える
Miguel Angel Santos 松岡 義行
オランダの英雄ヨハン・クライフ。「トータルフットボール」の申し子として、数々の偉大な業績を残し、70年代には最優秀選手、90年代には監督としてもその名声を轟かせ、「名選手にして名監督」の代名詞となった。そんな彼を慕う、Jリーグ柏レイソルの西野監督も、この本に大きな称賛を送る。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2000-09-10)
タグ:サッカー
カテゴリ スポーツライティング
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アイロンと朝の詩人 回送電車 III
堀江 敏幸
走り方に出てくるもの
走り方には人が出る。
人それぞれの個性を特徴づけるものはいくつもあるが、私にとって極端に違いのわかるのが全速力で走ったときのフォームだ。言葉をどれだけ重ねるより、その人が走っている姿を見ればいっぺんにどんな人かがわかるような気がする。頭で理解するとか言うのでなく(科学的でない表現を承知のうえで言えば)肌で感じるのである。
走るフォームには人それぞれの身長や体重、手足の長さあるいは筋の出力特性といった解剖学的・生理学的特性も関係しているのはもちろんだが、しかしそれ以上に性格とか気質あるいはもっともっとプリミティブなものが深く関わって「ホントウノワタシ」が表出するように思う。
豪放磊落で通っている人が几帳面で神経質な走り方をしていたり、逆に普段は穏やかな紳士と認識されている人格者が、走ってみたら気性の荒さが丸出しになったりするのが判って面白い。顔や名前は忘れてしまっても走るのを見たら誰だったかどんな人だったかが思い出せた、などということもよくある。
なぜわかるのか
この感覚はしかし私に限ったものではないと思う。とくに多くのスポーツ関係者、とりわけコーチやトレーナーなど選手の動きをよく観察する立場にいる人たちならより鋭い解読能力を持っているだろう。走り方に限らず、跳ぶ・投げる・打つ・舞う、などの運動動作から応用することも可能であるに違いない。さらには書画や陶芸、音楽などの芸術作品の中にも、見る人が見ればわかる作家の個性が潜んでいることに異を唱える人は少ないと思われる。
なぜ、そんなことが見たり聞いたりするだけでわかるのか?
それは“全力で走る”あるいは“全力で表現する”ということは小手先の技術や理論では武装できないところであり、その人に染み付いた“身体のクセ”のようなもの、すなわち、つくり手の生の姿が身のこなし方や作品に投影されてくるからではないかと思う。
文章も例外ではなく、言葉として書かれている内容とか意味とかとは別次元のところ、つまりリズムやテンポ、字面からただよう空気感などから、作者の趣味嗜好品格人柄が浮かび上がってくるような気がする。
組み合わせが創造に
さて今回紹介する書籍だが、体育の本でもトレーニングの本でもない。散文集だ。
ただし、いたるところに身体や動作についての詳細な観察場面が出てきて、独特の清潔感と静けさの中で語られて行く。
1つひとつの題名からは、トレーニングとの関連どころか、それらが何を意味しているのか連想することさえ難しいエッセイが並んでいる。しかし一見無関係で妙な組み合わせに思える話が、読み進むに連れてそれぞれの関係性が解き明かされ、ジグソーパズルをはめるように最後にはちゃんとつじつまが合って決まる。そして何となくだが、だんだんとなぜこの本が「アイロンと朝の詩人」という題名なのか、副題にどうして「回送電車」とあるのかが伝わってくる。
“創造とは組み合わせの問題である”と誰が言ったか知らないが、よく言われることである。組み合わせとは基礎の応用であって、何かと何かを組み合わせることでそれぞれにはなかった新しいものを生み出すことができたとしたら、それは何か1つの創造をしていることになる。
こういう人が身体動作について考える文章の中に、新しいトレーニングのヒント(組み合わせ)が隠れていないだろうかと思って読みながら、「文章がすうっと身体に入ってきた」なんていう表現を創りだす人が、いったいどんな走り方をするのか見てみたい衝動に駆られるのだ。
(板井 美浩)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2008-08-10)
タグ:散文
カテゴリ その他
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プロレスという生き方 平成のリングの主役たち
三田 佐代子
プロレスの歴史は長い。その中でも本書は平成のレスラーおよび関係者にスポットを当てる。著者が平成8年よりプロレスキャスターを務めることもあるが、間近で見てきた「今」のプロレスを伝えたいという想いが伝わってくる。メジャー団体にも触れつつインディー団体を取り上げ、女子プロレスや経営者、レフェリー、メディアにもスポットを当てる。スターレスラーもただ持て囃すのではなくいかにしてその立ち位置に上り詰めたか、といった切り口だ。それが「生き方」となるくらい情熱を注ぐ人が多く、その人たちがさまざまな形で支えることで「プロレス」が成り立っていると改めてわかる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2016-11-10)
タグ:プロレス
カテゴリ 人生
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ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと
村上 靖彦
著者は冒頭でこう言う。
「本書では、身体医学と精神医学を連続的に扱い、医療や福祉、ピアサポートなども連続的に扱う。さらには、心と身体と社会も連動的に語られることになる。特に身体については、医療行為の対象となる『臓器』としての側面ではなく、私たちが内側から感じるあいまいな〈からだ〉としての側面にクローズアップしていく。
内側から感じる〈からだ〉の感覚や動き、好不調、気分といったものは、日常的に『心』と呼ばれているものと混じり合う。つまり、私たちの内側からの感覚という視点に立ったとき、身体は客観的に扱うことのできる『臓器』ではなくなり、心と〈からだ〉の区別はあいまいになっていくのだ。」
あいまいなものはとかく排除されがちだと思う。とくに、客観的な指標が重視される現代医学では、画像で表れないもの、数字で示せないものは、「無い」に等しい。しかし、その原因がどうしたってわからないものでも、症状があるという状態はある。とすると、指の隙間からこぼれ落ちるもの、それはささいな、取るに足らないことかもしれないが、見逃すべきではない。
人が発するどんな表現であれ、キャッチする人がいて初めてサインとなる。それは「SOS」として聴き取る人にとってのみ、サインとしての機能を果たし、そしてしばしば、聴き取ることそのものが、ケアとなる。
それは存在を認める、という応答なのだろうと思う。
責任:responsibilityは、レスポンス(反応)するアビリティ(能力)を持ったひとが負うものだと、聞いたことがある。
イヴ・ジネストによって提唱されたユマニチュードという認知症ケアの技法では「目を合わせること」を重要な要素としている。なぜかというと、相手を見ない、ということは、「あなたは存在しない」というメッセージを送ることになる。「あなたは、ここにいるのですよ」というメッセージを送ること、これがユマニチュードの原点だという。
ケアするひと、ケアラーには一般には考えられないほど、感覚の鋭敏性が光る。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の母親を看病する川口さん(逝かない身体)の場合を、著者はこう書く。
「母親の身体は動かないが、娘は代わりに身体の発汗や熱を〈からだ〉のサインとして読み取る。〈中略〉発汗や発熱は生理的な現象であって、意図的な意思表示ではない。それでもこれらがサインたりえているのは、身体の生理現象を〈からだ〉からのサインへと翻訳するケアラーの側の感受性ゆえである。生命を感じ取るという仕方で、川口は母親との〈出会いの場〉を開き続けている。」
ある本で、ALSの患者さんを数人で介助しているグループの対談を読んだ。印象に残っているのは、介助している人たちの「発声の仕方」が、静かにお腹から声を出している、というインタビュアー側の感想だった。
受信モードに徹する介助者には、自身の声でサインをかき消してしまわないように、という配慮が板についている。
ケアの視点で見たときに、身体医学と精神医学を区別する必要は必ずしもない。本書で用いてきた〈からだ〉という概念は身体と心の双方にまたがる経験だ。心身の区別は、そもそも西欧医学が学問的に導入した人為的なものにすぎない。
不眠に悩んだり自傷行為に走る女性たちが、ボディワークとグループセッションによって、身体性と過去のプロセスを再確認し、自らの言葉を獲得する例や、ユージン・ジェンドリンの「フォーカシング」によって、悩みを思い浮かべたときの身体感覚に着目し、言語表出することで、イメージが変容し、実際に身体が楽になる、という例などは、心と身体は分けられないということを示している。
著者はケアについてこう語る。
「ケアは人間の本質そのものでもある。そもそも、人間は自力では生存することができない。未熟な状態で生まれてくる。つまり、ある意味で新生児は障害者や病人と同じ条件下に置かれる。さらに付け加えるなら、弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質である。誰の助けも必要とせずに生きることができる人は存在しない。人間社会では、いつも誰かが誰かをサポートしている。ならば、『独りでは生存することができない仲間を助ける生物』として、人間を定義することもできるのではないか。弱さを他の人が支えること。これが人間の条件であり、可能性でもあるといえないだろうか。」
紹介しきれなかったが、ミルトン・メイヤロフのin place、ドナルド・ウィニコットのホールディング、熊谷の、自立は依存先を増やすこと、など、ケアを読み解くヒントとなるキーワードが溢れている。
(塩﨑 由規)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2022-06-06)
タグ:ケア
カテゴリ その他
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フランス現代思想史 構造主義からデリダ以後へ
岡本 裕一朗
本書は、フランス現代思想を通史的に描くことを目的とする新書である。特筆すべき点は、著者も述べているように「それぞれの思想を、いわば外から眺めるような態度で相対化している」(p.iii)ところだと言えるだろう。その利点は、本書を読み進めていく中で明らかとなってくる。
まず一際目を引くのは、「ソーカル事件」を踏まえて、いわば「ポストソーカル事件」的な視点を持ってフランス現代思想を捉え直そうとしているところである。著者は、1995年に「ソーカル事件」を起こしたソーカルが、その2年後にブリクモンとの共著として出版した問題作『「知」の欺瞞』から、彼らの次のような言葉を引いている。「われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘することだ。しかし、はっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは、社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要であると感じており、明らかにインチキだとわかる物について、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。特に、ある種のテクストが難解なのはきわめて深遠な内容を扱っているからだという評判を『脱構築』したいのである。多くの例において、テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだということを見ていきたい」(本書p.5-6に引用されている文章を再引用)。
著者は、このようなソーカルとブリクモンによる重要な問題提起を引き受け、次のように述べている。「フランス現代思想を問題にするならば、『ソーカル事件』は何よりも出発点に据えるべきであろう。なぜなら、『ソーカル事件』を真剣に受け止めなければ、フランス現代思想は『ファッショナブルなナンセンス』として、全く意義を失うように見えるからだ」(p.5)。このような筆致からは、現代における「フランス現代思想」の持つアクチュアリティを語ろうと奮闘する、著者の決意が感じ取れるだろう。
そして著者は、マルクスがヘーゲル哲学にとった態度を参考に、フランス現代思想を浄化する方法を見つけようとする。その試みから「“濫用された数学や科学的な概念” を取り除いて、その “合理的な核心” を引き出」すという試みへと繋がり、フランス現代思想の「精神」を見定めることになる(p.7)。そこで明らかとなるのが「『西洋近代を自己批判的に解明する』態度」であり、筆者はこれを「フランス現代思想の『精神』」と呼ぶ(p.8)。本書はいわば、このような「精神」を補助線として展開されているフランス現代思想史なのである。
本書の構成は、「フランス現代思想をどう理解するのか」を問い直すプロローグから始まり、第1章から順に、レヴィ=ストロース、ラカン、バルト、アルチュセール、フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、デリダというように、構造主義からポスト構造主義への構造主義的運動が思想史的に記述され、第6章では「ポスト構造主義以降」の思想の展望として、新たに現れてきた「転回」について述べられている。そして最後には、そのような転回が開く可能性と我々に残された課題について語るエピローグを置くという形で締められている。
第1章では、レヴィ=ストロースの構造主義について記述されているが、それは「一般の入門書では定石となっているが、ハッキリいって、実像とはかけ離れている」構造主義のイメージを解体することから始まっている(p.14)。「ソシュール言語学が構造主義の起源とみなされていいのか」や「『実存主義から構造主義へ』という流れは本当なのか?」、「構造主義の四銃士、あるいは五人の構造主義者たちを十把一絡げにしていいのか」などの問いが検討されている。
この中で最も注目に値すると考えられるのは、最後の問いについてである。「構造主義」や「ポスト構造主義」が語られる際、ともすればそこに含まれる思想家たちの差異は無視され、同じような思想を持つものたちとして一挙に語られがちである。入門書ともなれば、よりそのような事例も増えることだろう。しかし、本書はそのような傾向に警笛を鳴らし、より実像に即した理解を提示している。例えば、第1章から第2章にかけて、レヴィ=ストロースが初期の頃に提示していた(つまり、最初期の構造主義でイメージされていた)「構造」とソシュール言語学の影響を受けたその後の構造主義者達が語る「構造」の違いを明確にしている。こういった点を詳述できるのが、いわば相対化して俯瞰的に見ることの利点だと私は考えている。その意味では、本書は「懇切丁寧」な入門書なのである。
この書評を読んでくださっている方々は、もしかすると自分たちの分野と本書の繋がりが希薄であると感じられているかもしれない。しかし、その点については改めて検討してみる必要がある。
著者も述べているように、現代を理解するためには西洋近代への問い直しが必要になってくる(p.8)。まさしく、それを試みたのがフランス現代思想の思想家たちだったのであり、その仕事から我々が学び取れることは、現在においても数多く残されていると考えられる。医学の文脈においても、近代医学との影響関係は頻繁に指摘されているし、それらはさらに「科学」という営みにまで拡張できるかもしれない。あらゆる決定において「Evidence-based(証拠に基づく)」ということが優先されるようになってきた現在、改めて「フランス現代思想」を眺めることで何かしらのヒントを得ることができるだろう。その見通しを通史的に描いた本書は、医療やスポーツの関係者にとっても必読の書なのである。
(平井 優作)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2024-01-16)
タグ:現代思想
カテゴリ その他
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リベラルとは何か
田中 拓道
保守とリベラルの対立に関する分断などが様々なメディアを介して煽られていたり、ソーシャルメディアにおけるエコーチェンバーやフィルターバブルが問題になっている現代社会において、改めて「リベラルとは何か?」と問い直すのは極めて重要な作業だと言えるだろう。ともすれば、本書でも指摘されているように「『リベラル』という言葉を語ること自体、どこか偽善的で、時代遅れであるようにすら感じる人もいるだろう」(p.iii) 。しかし、私としては、本当にそのような態度でいいのだろうか、という疑念が拭えない。私たちは社会の中を生きているのであるし、社会について考えることは自らについて考えることでもあるはずだ。本書は、そのような思考に同伴してくれるコンパクトな案内図として、17世紀における自由主義の起源から現代日本のリベラルまでを通覧させてくれる。
本書の目的は「『リベラル』と呼ばれる政治的思想と立場がどのような可能性を持つのかを、歴史、理念、政策の観点から検討すること」であるが、そのために2つの方法が採用されている(p.i) 。ひとつは「歴史的な文脈の中で、リベラルと呼ばれる考え方が登場し、何度もの刷新を遂げてきた経緯を明らかにすること」、もうひとつは「リベラルをできるだけ具体的な政策と結びつけて理解すること」である(p.iv-v)。これらを起点に描かれる本書の内容はまとまっており、大まかな歴史の流れを把握しやすいようになっている。しかし、この書評では本書の内容を要約することはしない。ここでは、本書を読むにあたっての一つの関心を提示することで、読者の興味を喚起することを目指しつつ、評することにさせていただこう。
私が本書に関心を持った理由を提示することは、スポーツ関係者や医療関係者にいくつかの興味を喚起することに役立つかもしれない。そのような関心のひとつが、本書で扱われている思想的背景が、人間の「統治」というものに、どのような影響を与えてきたのかを考察するということである。
19世紀イギリスにおける産業化による負の帰結をいかにして社会問題として解決するのかという問いと、そのような反省の少し前に確立されていたエドウィン・チャドウィックを先頭に進められた公衆衛生政策の問題、あるいはそのような公衆衛生政策運動と功利主義哲学の関係や、フランスの哲学者ミシェル・フーコーがリオデジャネイロで行った有名な社会医学についての講演の冒頭で取り上げた「べヴァリッジ計画」の思想的問題(フーコー, 1976: 2006)、エリオット・フリードソンが医療社会学の古典的名著『医療と専門家支配』の序章で記している「自然科学的な疾病概念を社会的逸脱行動へと一層拡大して適応しているのは、自由主義的イデオロギーをもったブルジョアジーである」(フリードソン, 1970=1992: 7) という指摘について考察することなど、実に重要な興味深い問題が多数あるが、それらについて考えるためには政治哲学に関する思想史的知識は外せない部分だろう。人々が社会についてどのように考えてきたのかという歴史は、人々が人間をどのように理解していたのかということと切り離すことができない。そのような歴史の中で生じた諸事象の帰結と過程の中を、現代に生きる私たちも歩んでいる。そのため、これらの歴史について知ること、社会について知ることは、私たち自身について知ることでもあると言えるだろうし、私が先ほどから述べているのは、このような意味においての重要性なのである。私たちスポーツ関係者や医療関係者の実践が、どのような認識の上に成り立っているのかを理解することは、現在の在り方を考える一つの契機となりうるだろう。
たとえば、本書の第1章で述べられているが、自由主義的な思想の起源には医師であり、ブルジョワジーでもあったイギリスの経験論哲学者ジョン・ロックの哲学が重要な寄与をしていた。彼は自己主権論を唱えたのであるが、それは封権的な支配勢力と格闘する革命派のブルジョワジーの見解としてであり、個人の自由や自律を推進する彼の思想は、自分自身を管理する経済的余裕などを有するブルジョワジーにとっては望ましい思想であったが、そうでない人々にまでそれを強いる自己責任論を帰結してしまうという限界を内包していた(日野, 1986: 43-53)。その後、様々な福祉形態の検討がなされてきたが、未だに自己責任論は根深くわれわれの中に浸透している。私たちは、それをどのように把握し、対処すればよいのであろうか?
どこまで個人の自由や自律を保障し、どれだけの介入を国家に許すか、そして、その介入形態はどのようなものにするかなど、これらの問題は依然として切迫した問題である。「1970年代以降、リベラルはさまざまな挑戦を受け、今なお刷新の途上にある」ということを顧みれば、これらはまだ生きた問題であるし、私たちそれぞれが取り組んでいかねばならないのである (p.v) 。
リベラルについて問うことは、単に政治経済的な問題を狭小的に考えることではなく、私たちの諸実践に考えを巡らせることでもある。それらは、市場経済の内部における問題だけではなく、家庭内におけるケア労働の問題や医療実践に関わる私たちの認識を広く問うことでもあるのだ。「政治における思想とは、それ自体、人びとを動かす一つの『力』である」 (p.v) 。そのように考えれば、本書が提示する問題は実に多くの人に開かれた問題であることが理解できるだろう。
参考文献(本文内での掲載順)
ミシェル・フーコー, 小倉考誠. (2006). 「医学の危機あるいは反医学の危機?」, 『フーコー・コレクション4 権力・監禁』, 筑摩書房, pp. 270-300. (Michel Foucault. (1976). Crise de la médecine ou crise de l'antimédecine?, Revista centroamericana de Ciencias de la Salud, nº 3, pp. 197-209.)
エリオット・フリードソン. (1992). 『医療と専門家支配』, 恒星社厚生閣. (Eliot Freidson. (1970). "Professional Dominance: The Social Structure of Medical Care", Atherton Press.)
日野秀逸. (1986). 『健康と医療の思想』, 労働旬報社.
(平井 優作)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2024-04-18)
タグ:社会 リベラル
カテゴリ その他
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