痛い腰・ヒザ・肩は動いて治せ
島田 永和
朝日新書の最新刊。著者は大阪・島田病院の島田先生。「動いて治せ」がキーポイントである。送っていただいた本の表紙の裏に直筆で「人生動いてナンボ!」と書かれていた。島田先生の師匠は、故・市川宣恭先生。プロボクサーでもあった整形外科医で、この先生から、スポーツ選手の診療を学び、安静の弊害を叩き込まれたという。「人間は動いてナンボや」という市川先生の人生哲学。その哲学に従い、スポーツ診療場面、安静について、痛みと向き合う方法、そして患者さんの「尊厳」という4つのテーマに分けてまとめたのが本書。
ケガや病気のとき、医師も患者も「安静」を考える。それは正しいが、いつまでも安静では治るものも治らない。むしろ動いたほうがよい。スポーツ選手の場合が特別ではない。この本を読むと、医師の考え方もわかるし、患者としてどう考えるべきかもわかる。「尊厳」は、相手に対しての「敬意」が出発点と記す。スポーツ医学は、社会全体をみていくものと考えるが、その意味でも共鳴できるところに満ちた本。おすすめします。
2008年6月30日刊
(清家 輝文)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2012-10-13)
タグ:腰痛 膝痛 肩痛
カテゴリ 医学
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101歳のアスリート
下川原 孝
世界記録ホルダーの「カッコいい」生き様
男子たるもの、いくつになっても「カッコいい」と言われたいもの。高齢化社会の危機が叫ばれているとは言え、世の中にはその夢(?)を実現しているダンディで伊達者のおじ様、おじいちゃんが立派に存在しているのもまた事実である。
そもそもダンディや伊達の定義とはいかなるものだろうか? 辞書やインターネットによれば、Dandyとは、「身体的な見た目や洗練された弁舌、余暇の高雅な趣味に重きを置く男性」のこと。伊達とは「好みがしゃれていること。考え方がさばけていること。また、そのさま」とある。すなわち、自身の内面・外面はもちろんのこと余暇の過ごし方に至るまで洗練されている、さばけている、と思わせる何かを感じさせる(とくに男性としての)生き方、とも言えるだろう。
本書の著者、下河原孝氏はそういった意味ではまぎれもなく「カッコいい」老人である。御年99歳にしてマスターズ陸上へ初参加、さらには101歳にして投擲系2種目においてマスターズ世界記録を樹立し、103歳の現在は3種目の世界記録ホルダー。1世紀を生きてなお、競技の世界にチャレンジし記録を打ち立てている人、ということでさぞやストイックな求道者を想像するかもしれないが、さにあらず。「自分の身体をよく知ること」「やり過ぎないこと」を信条とし、年を取るほど記録が伸びる自らの身体を「自分でもおかしいと思います」とサラリと言ってのける。行きつけのスナックでは100歳過ぎであることをネタにただ酒をご馳走されることを楽しんでしまう。かと思いきや、趣味を持つことや感謝の心といった普遍的なものの大切さをこれまたサラリと述べることもできるその姿には、文字通り洗練され、さばけている「ダンディで伊達」な男ぶりを垣間見ることができると言えるだろう
老いも若きも、「カッコいい」生き様の参考となること請け合いの一冊である。
(伊藤 謙治)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2012-10-13)
タグ:マスターズ
カテゴリ 人生
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101歳のアスリート
下川原 孝
まんざらでもない“歳をとる”
“人は誰しも歳はとりたくないものである”とはよく聞く言葉である。“歳をとる”という言葉は、どちらかというと否定的な使われ方をする言葉である。しかし、いざ歳をとってみると“あれ? まんざらでもないな”などと思っている人も多いのではないだろうか。“歳をとったからこそできること”、“歳をとってみてわかるようになったこと”が結構多く、歳を重ねることで、若いときには気づかなかった新しい世界が開けたりするものだ。
むしろ二十歳前後の学生たちのほうが歳をとった歳をとったと嘆いていたりして、私の半分にも満たない歳のクセに何を言っておるのだ! などと目くじらを立てたりもしてはみるものの、なんてことはない、彼らはいわゆる“自虐ネタ”で盛り上がっているだけなのだ(果たして私も学生時代似たようなことを言っていたものだ)。
“早く歳をとりたい”
一方、“早く歳をとりたい”とはマスターズ陸上の競技会に参加するとよく聞く言葉である。マスターズ陸上とは、ベテランズ陸上とも呼ばれ、男女ともに35歳以上になると参加できる競技会である。5歳刻みでクラスが分かれており、たとえば35~39歳の男子ならばM35、女子の場合はW35というように頭に性別を表す記号を入れて示す。年齢クラスが上がるときは、今までのクラスを“卒業”したとか、新しいクラスに“進級”したなどと内輪では言っている。
各クラスの選手同士で競われるので、同じクラスの中でなら“進級したて”の若いほうが有利に違いないと考え、たまに調子のよいときなど決まって“記録はこのままで早く歳とって次のクラスに進級したいなあ”などとアサハカにも皆同じことをつぶやくのである(果たして私もこのまま早く次の年齢クラスに進級したい)。
若々しい老人
“歳をとった人”つまり“高年齢者”のことを一般に“老人”と呼ぶようだが、老人とは“若さがない人”のことではない。誰が言ったか知らないが“人は歳をとるから老いるのではなく、人は希望を失ったときに老いるのである”という考え方をしてみると納得がいくと思う。そういった意味で、マスターズ陸上界には“若々しい老人”がウジャウジャといる。
本書の主役であり著者でもある日本最高齢のアスリート、下河原孝氏もその一人だ。“M100”クラス、投てき三種目(ヤリ投げ、円盤投げ、砲丸投げ)の世界記録保持者である。
「101歳で、マスターズ陸上で世界記録を出した体力と健康の秘密」についてさまざまなエピソードを絡めて紹介されている。エピソードと言ってもただごとではない。たとえば、下関市(山口県)で行われた全日本マスターズにおいて、ヤリ投げで世界新記録を出したときのものだ。釜石市(岩手県)に住む氏は「在来線で新花巻まで二時間かけて行き、そこから新幹線に乗り換えて東京までまた数時間。東京から姫路まで行き一泊して、翌日、下関へ。二日かけてようやく辿り着く長旅」を経て初めて競技に参加できるのである。
柔軟な考え方
「くよくよしていたら長生きなんてできません」とは言うが鈍感になれということではない。「歳とともにだんだん動かなくなってくる」身体には「年寄りならではの感覚」を大切にして「体力をつける発想ではなく体調を整えるという発想」に「思い切って切り替えて」いく柔軟な頭を持ち、「よく動いて、動きすぎず」「なんでもパクパク」「よく噛んで」食べる。ビールだって毎晩飲む。「何がよくて何が悪いか」より家族と「食卓を囲んでとって」いることが「とても幸せなことです」と説く。耳が遠くなったのをいいことに「都合の悪いことは聞こえないふり」をし「呆れられることもあるのですが、それさえ聞こえないふりをして」しまうというのには笑った。
いくつもの大病をさえ乗り越えたにもかかわらず「ただあるのは、曲がりなりにも100年以上生きてきて、今も健康という事実だけ」という謙虚さの前にはただただ恐れ入るしかない。
(板井 美浩)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2009-06-10)
タグ:マスターズ
カテゴリ 人生
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神の領域を覗いたアスリート
西村 欣也
神の領域とは、どのような意味を持つのだろうか。目に見えるもの、見えないものさまざまにあると思うが、共通の認識は持てないのではないかと思う。
さまざまなアスリートにインタビューをしたものを載せているが、個人的な意見としてはもっとインタビューされる側の気持ちを汲み取るような質問が欲しいような気がする。たとえばこの一文。「あなたの非凡な才能を子孫に伝え、21世紀にさらに進化させたいと思いませんか?」という著者の質問に対し、聞かれたスピードスケートの清水宏保選手はこう答えている。「結婚はそういう目的でするものではないでしょう。僕の父は胃がんで56歳で亡くなった。僕自身、ぜんそくをずっと抱えています。身長は161cmしかない。いい遺伝子を持っているとはとても思えない。それでもここまでこられる。それを示したくてやってきた部分もあります。生物学的な進化に無縁でも、自分が生きている間に自分を進化させることができるのです」
清水選手の「自分が生きている間に自分を進化させることができる」という言葉を引き出せたことは、評価できる。しかしながら、清水選手の本当の気持ちはわからないが、私だったらこの質問をされたら、「なぜこんなことを聞くのだろう?」と考え込んでしまう。神の領域に届かない、理解することが不可能でも、近づこうとするならばもっと違うことを聞いてほしい。
しかし、丁寧な取材をしていることも読み取ることができる。橋本聖子選手がアルベールビルオリンピックで冬季五輪史上日本人女子初銅メダルを獲得したときに、痛めている膝を冷やす氷もなくリンクから整氷車が吐き出したザラザラな氷を集めて、膝に当てたという一文などはそういったところが読み取れる。
日々選手や患者と向き合い、当たり前になっている感覚や言葉を、他者に伝える際にはとても有益な本である。
(金子 大)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2012-10-13)
タグ:インタビュー
カテゴリ スポーツライティング
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早実vs.駒大苫小牧
中村 計 木村 修一
今年のドラフト会議でその動向が注目された斎藤佑樹投手。彼を語る上で2006年夏の甲子園を欠かすことはできない。
37年ぶりの決勝戦の引き分け再試合を戦った早実、駒大苫小牧の両チームでは何が起きていたのか。徹底した取材によりその舞台裏が明かされる。来シーズンのペナントレースをより楽しむためにも、あの夏の出来事をもう一度確認していただきたい。
(村田 祐樹)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2012-10-16)
タグ:野球 勝負
カテゴリ スポーツライティング
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応援する力
松岡 修造
「押せ・押せ・やるぞ!」
野球部の応援リーダーが声をかける。なぜだかわからないが、チャンスの時に「押せ・押せ」の応援をスタンドですると、得点が入るのだ。というより、「押せ・押せ」をすれば得点が入るのだと信じていた。それは、高校時代の野球部での応援のことだ。私が所属していたチームは、全員野球をモットーに日頃から、「声」の力を信じていた。指導係の先輩からは「本当の声を出せ」と毎日のように言われ、我々は必死になって「声」をはりあげ練習した。
そして、迎えた夏の大会。ベンチ入りできない多くの野球部員がスタンドから、仲間を信じて「声」を出すのだ。まさにグラウンドとスタンドが一体となって戦っていた。残念ながら甲子園にはあと一歩届かなかった。しかし、あのときのスタンドで感じた「目に見えない力」の存在を私は信じている。
著者の松岡修造さんは、「応援する力」の存在を自身の選手時代に味わった。それは1995年ウィンブルドンでの3回戦のことだ。2セットを取られ、もう後がない4セット目、単純なミスをしてしまい、気持ちの上ではもう完全に負けていた。そのとき、「修造、自分を信じろ!」と観客席から声が響いた。この声をきっかけに、別人のように変わることができ、接戦を制した。そして、それは松岡さんのその後の「応援人生」の原点となるのだ。
著書の最後に松岡さんはこう語る。
「僕はこれまで応援していたのではなく、応援することにより、紛れもなく自分自身が応援の思いを受け取って前に進んでいたのです」と。
そうなのか、私たちもグラウンドの仲間を応援することで、自分達が前に進めていたのかもしれない。
ならば、松岡さんが言うようにいつでも誰かを「応援」していきたい。
(森下 茂)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2015-03-19)
タグ:応援
カテゴリ 人生
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頭で走る盗塁論 駆け引きという名の心理戦
赤星 憲広
いつもの風景から何を得るか
毎日通る通勤路でふと立ち止まって、そのいつもの風景を少し注意深く眺めてみる。いつものように木が2本そびえ立ち、田んぼが広がり、変わらぬ家々の佇まいがある。ところが、もう少し目を凝らすとただのあぜ道に草が生い茂り、小さな花が芽吹いていることに気づく。見過ごしがちなそんな些細な光景が、今の季節そのものを、そしてあんなに肌寒かった季節からの移ろいを感じるきっかけになり、心にほのかな彩りを加えてくれる。
そう思えば、日々の雲の様子にも心が動くようになるだろう。ただのいつもの景色ではなくなるだろう。インフォメーションとインテリジェンスの違いといった使い古された表現を借りなくとも、同じ風景から得られることは人によってさまざまであり、その得られた内容をどのように活かすかも人それぞれである。
定点カメラで撮った映像を早送りで見るなどすれば気づくことも多くなるかもしれない。しかしたとえそのような道具があったとしても、そこに価値を見い出す、あるいはそこから価値を生み出すには、基礎となるさまざまな知識や豊かな感性が必要であり、そのための自然な心構えといったものが身についていなくてはならない。
価値を見出す選手
野球選手がヒットやフォアボールで一塁ベース上に立った場合、その視界には相手チームのピッチャーを初めとする守備陣が写る。また味方の次打者をバッターボックスに認めるだろう。ベンチや一塁コーチとのコミュニケーションがあるにせよ、その光景をただ平板なインフォメーションとして捉えているだけでは、誰がそこを埋めていようが大して変化がないものとなる。しかし見る人によっては、その中に多大な価値を見出すことができる。そしてそこから手に入れたインテリジェンスには、野球のプレー全体に大いなる利益をもたらすものとなる。27.43m先にある次のベースを自らの足で陥れるために、得るべきものをすべて得ようとし、それを基軸にプロ野球選手としての自分の存在価値を高めようとした貪欲な選手、赤星憲広氏が本書の著者である。
盗塁をするには、ヒットを打つにせよ四死球になるにせよ塁に出なくてはならない。そこから打率が上がらなければ盗塁数も増えないだろうと単純に考えてしまいがちだ。しかし赤星氏によると二塁を陥れるためのインテリジェンスは打撃へも好影響を与え、「盗塁が多いから、ヒットも多くなる」という一見逆説的な結果が導かれる。
すべてのプレーが変わる
これは守備に関しても同様で、「野球全ての視野を広げてくれる」インテリジェンスになるのだと言う。「60個盗塁できれば三割打てる理由」があるのだ。各投手の自分でも気づいていないようなクセを研究し、把握することはもとより、配球の特徴、捕手の考え方や動きの特徴、2塁ベースカバーの状態、サーフェスの条件、二番打者との呼吸など、果ては目の錯覚までも利用して、できうる限りの準備を整える。そうすれば「走る勇気を持つこと」ができる。そうすれば野球のすべてのプレーが変わる。
スライディングなどテクニカルな考え方も述べられてはいる。しかし「『足が速い』=『盗塁ができる』ではない」という言葉からもわかるように、「きちんと準備することで8割決まる」という考え方が重要だ。考える力がなければ気づくこともできない。気づくことができなければ準備は整わない。準備が整わなければ行動を起こす勇気は持てない。その思考こそが肝要なのだ。1塁からの風景は、彼には他の多くの選手とは違って見えていた。野球選手としての存在価値を、その風景の解析から突き詰めようとしていた。日々の暮らしの中で目にしている光景には気づいていないだけでさまざまな価値が潜んでいる。何かとことんこだわれるものを持っていることは幸せである。
ところで私の世代では、かの福本豊氏がスピードスタートという印象が強い。年間106個という驚異的な盗塁数の記録を持つこの人の足を封じるためにクイックモーションは生み出されたという。福本氏も投手のクセを見抜くことには当然ながら秀でていたとのことだが、赤星氏の守備におけるダイビングキャッチに関しては「ケガの危険性も高くなる」また「うまい外野手は飛び込まずに落下地点できっちり捕る」と公言していたそうである。
果たして、赤星氏はダイビングキャッチにからんだ頸部のケガの影響で引退に追い込まれた。また、赤星氏は愛煙家だったという。これだけの理論家が自らのコンディショニングに関してこれらをどう考えていたのか興味がある。持論もあるのだろうか。以上蛇足ではある。
(山根 太治)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2013-05-10)
タグ:盗塁 野球
カテゴリ 指導
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身体のいいなり
内澤 旬子
うらやましい心のしなやかさ
世にあまたの“スポーツ感動物語”があるが、実は主役(選手)にとっては“好きで夢中にやった結果そうなっちゃっただけの物語”を、まわりの感動したい(させたい)者たちが寄って集って感動の物語に仕立てているだけなのかも知れない。“がんばる”ことは選手にとって当たり前のことだからだ。
そんな“がんばった姿”に、私の妻は我慢することなく感動し、大いに涙を流す。スポーツ番組やダイジェスト、さらにはお涙ちょうだい式の“がんばった”物語を観てもそうで、見事に制作者の意図にひっかかり、ボロボロと大粒の涙を流す。そのたび子どもたちから冷かされているが、子どもたちは、そういう母を茶化しては自分も泣きそうになったのをごまかしているのだ。
齢をとると涙もろくなるというが、むしろ感受性が豊かになり素直に反応できるようになった結果がそうさせるのだと思う。心が弱くなったり脆弱になるのでなく、むしろ心がしなやかになるのだ。
うーむ、素晴らしい。妻のような素直(単純?)な人格を手に入れたいものである。私はというと(涙もろい年頃になって早幾年だが)、冷やかされるのが嫌で、バレないよう目をぬぐったりしている体たらくなのだ。
さて今回の『身体のいいなり』は、乳癌を患い、治療の「副作用から逃れたくて始めたヨガにより」、癌の発覚前より「なぜかどんどん元気になっていった」自らの体験をつづったエッセイである。決して“闘病記”ではないと著者の内澤旬子はいう。闘病記とは、よほど「進行した状態の癌の治療に向き合う場合」をいうのであって「初期癌の治療で『闘う』と言われても、気恥ずかしく申し訳ない気持ちで一杯になる」のだそうだ。「世の中にはもっともっと苦しい、それこそ文字通りの『闘病生活』を送っている人がたくさんいる。それに比べたら私の癌なぞ書くほどの体験と思えない」という気遣いもあってのことなのだろうと思う。
身体の声を聴く達人
「生まれてからずっと、自分が百パーセント元気で健康だと思えたためしが」なく、「『病気とはいえない病気』の不快感にずっとつきまとわれてきた」身体がどんどん元気になってきたというのだ。その体調のよさとヨガとの因果関係はわからない(著者も言及していない)が、しかし小さい頃から「じりつしんけい、とか、きょじゃくたいしつ、という言葉を聞き知って」おり「当然のことながら、運動は大嫌い」だった著者が、「筋肉オタク」を自称するまで「ヨガ」にハマっているのである。その理由は「気持ちいい」からだ。「マット一枚のスペース」があればでき、身体によさそうなヨガを「スピリチュアルなものとは距離」を置きつつ恐る恐る始めたところ「なんの魔法をかけたのですかというくらい」「布団に入った瞬間にことりと眠りに落ちた」ほどに不眠から解放されたのだ。そして「そのうちに終わった後、身体の真ん中、心臓の裏側あたりが強烈に気持ち良くなる」身体感覚との出会いで決定的にヨガが好きになっている。運動など苦手でも、このような身体の声を聴けることは立派に“体育の達人”といえる。
癌以前にも「足指を一つずつつまんでほぐしてもらい、身体のどこかに手を当てて、身体の中に流れのようなものを作るという」「操体」という「治療術」で「ある日突然、腕がくるくる」と「動かしたかったように」動くという体験をしている。さぞ気持ちよかったろうと思う。
この“キモチイイ”というキーワードは重要で、ちょっとしたボタンのかけ違いで“がんばる”ことが先行すると、いとも簡単に人は運動嫌いになってしまう。
身体は、がんばりたい?
「『がんばって』は私がなにより嫌いな言葉」なんだそうだ。しかし治療に関して著者は「それなりに大変な思い」と控えめに表現はしているものの、「二度の部分切除を経て乳腺全摘出、そして乳房再建と手術」を重ねるなど、相当な修羅場をくぐって癌と闘い、“がんばって”生きてきたことは想像に難くない。
表紙のイラストにしても、裸の女性が右手を植物に絡まれながらも、左手で乳房を引ん剝いて“病気のいいなりになんかなるものか”とばかりにベロを出し、がんばっているではないか。“がんばる”という行為は、“キモチイイ”という身体感覚の反対側にあるようなものかもしれない。だけど運動の“キモチイイ”を知っている人は、“がんばった”先に“キモチイイ”が待っていることも知っている。
そんなに“がんばらない”ことにがんばらないで、“がんばりたい”と身体が言っているのだから、がんばる“身体のいいなり”になってもいいんじゃないかなあと、お節介ながら思うのである。
(板井 美浩)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2013-10-10)
タグ:身体 不調 闘病
カテゴリ 身体
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少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす
永井 洋一
(編集部注:この書評原稿では、上記『少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす』とともに、『ベストパフォーマンスを引き出す方法』室伏広治、咲花正弥、ベースボール・マガジン社が取り上げられている)
「体罰」に対する認識
スポーツ指導者と体罰についてどう考えるか、理想的な指導者とはどのような存在か、アスレティックトレーナーを目指す学生に問いかける。小さなクラス内でのグループディスカッションにもかかわらず、実際に体罰を受けたことがあるという数々のエピソードが語られる。そして、その多くが体罰を受けた側の受け取り方次第でそれが意味のあることだと考えている。自分が悪いことをしたから、失敗したから、そして強くなるためには、それは仕方のないことだと容認しているのだ。そう考える学生には「体罰」が悪質な「暴力」だという認識はない。
『少年スポーツダメな大人が子供をつぶす!』で著者の永井洋一氏は、本書が我が子にスポーツを体験してほしい親御さん、スポーツ指導者、スポーツファンに向けた提言書であるとしている。「スポーツとともに人生を歩み、現在もスポーツ指導者として現場に立ち、スポーツなしの人生は考えられない、スポーツを愛して止まない」からこそ、膿みきった病巣、とくにスポーツ現場に存在する暴力の問題を、指導者側の問題としてのみならず、親の問題、選手自身の問題、メディアの問題、スポーツ系部活動の仕組みの問題などさまざまな視点から論理的に掘り下げている。最終章では、学校スポーツ系活動の現場では、教育という理念を損なわず、競技の普及と競技力向上を同時に推進することは不可能だと断じている。
答えはわかっているはず
一方『ベストパフォーマンスを引き出す方法』では、日本を代表するアスリートである室伏広治氏と彼をサポートするチームコウジのコンディショニングコーチである咲花正弥氏が、それぞれの立場からさまざまな提言を行っている。内容は基本的なことで、日本体育協会スポーツ指導者共通テキストに含まれているようなことである。これは決して批判ではない。世界レベルのトップアスリートであっても、基本的なことから真摯に取り組むことが重要だと再確認できるからだ。「選手たちが自発的に、意欲的に取りくむようになるのを促すことは指導者の仕事のひとつであり、腕の見せ所」「言われたからやるのではなく、楽しい、面白いと感じて意欲的に取り組まない限り、長続きはしない」「成長期の真っただ中にある選手の場合、何をすべきかは難しいところ。その点は指導者の知識が重要であり、腕の見せ所となる」「与えられたことをただこなすだけでは、究極を目指すことはできない」「必要な時に必要な栄養を与えることが大切」「日本の子どもたちを見ていると、指導者に対してどこか萎縮している印象を受ける」「叱られまいと指導者の目を気にしながら、失敗しないように無難なプレーをするようになる」「いいことは褒め、悪いことは指摘する」「大事なのは、成功し続けることではなく、失敗に終わったときにどうするか」「やるべき時期にやるべきことをやらないのは本当の失敗」「チャレンジせず失敗することは、本当の失敗」「自主性を持たせたトレーニングで、自ら壁を乗り越えようとさせる」「成長していくことが楽しい、競技が面白いと感じる気持ちを植えつける」以上本書から抜粋した両氏の言葉の数々は、スポーツに関わる人間にとって金科玉条とも言えることばかりである。スポーツ界がどうあるべきか、皆答えはわかっているはずなのだ。
こんな当たり前のことを当たり前に行うことがどれだけ難しいのか、みんな普通に考えればわかるはずのことが、どれだけないがしろにされているのかは、『少年スポーツダメな大人が子供をつぶす!』で永井氏が論じる内容が非常に説得力を持つことでもわかる。その通りと膝を打つことがほとんどである。ただ、この本だけを読んでいたらどうしても違和感が拭いきれない。
取り組みに光を
冒頭で取り上げたグループディスカッションに参加したある学生は、中学校で体罰を受けて苦しんだが、高校の部活では人間性を磨くことを顧問の先生から学び、救われたと言う。学校生活の中で部活動の場を、絶好の教育環境として真摯に取り組んでいる例は、そしてそれが競技力向上をも伴っている例は本当にないのだろうか。
スポーツという題材を、教育者としての自らの役割をより効果的に遂行し、自らをも高める機会にしている指導者は少なからず存在するのではないか。スポーツジャーナリストとしての著作であるならば、自身の取り組みも含めたそのような人の活動も同書で対比して取り上げ、もっと光を当てるべきではないだろうか。部活を排除し、クラブスポーツが主体になったとしても、愚かな指導者はそう簡単に消えてなくならないように思う。だからこそ、真っ当に取り組む人たちをもっと取り上げるべきではないのか。それが私にとっての違和感の正体だ。
少年スポーツの問題は暴力や指導法の話だけではない。たとえば高校ラグビーを見ても、トッププレイヤーは忙しすぎる。公式戦、練習試合、代表招集、遠征、合宿などが、休みのほとんどない日々の練習の合間に繰り返される。どれだけ考えられた練習内容でもケガのリスクは上がり、選手は疲弊する。
実際に高校生で膝ACL再建術や肩関節脱臼手術を受けている選手が少なからず存在する。また部活以外で自分を成長させる経験も著しく制限され、ラグビー選手としてのみならず、人として将来を見据えた育成になっているかはなはだ疑問だ。こんなシステムはつぶしてクラブスポーツ化し、シーズン制を導入する方がいいと考える。ただ、そんな現状の問題点をあげつらってそれをダメだと断ずるだけでなく、よりよい方法で取り組んでいるチームにスポットをあて、成功例をつくるべく悪戦苦闘している指導者を紹介してもいいではないか。そういった意味では『ベストパフォーマンスを引き出す方法』では、それでいいんだと希望と勇気を与えられるのである。
我がクラスのグループディスカッションでは最後に、体罰や無茶苦茶な指導をしている指導者の下でアスレティックトレーナーとして働くとしたらどうする、ということを考えてもらう。体罰を暴力だと認識した上で、選手にとって最善となる自らの具体的なアクションをひねり出してもらうのだ。唯一無比の模範解答などあるべくもないが、「長くスポーツを好きでいてくれるよう指導してほしい」というスポーツ関係者ならば当たり前に持つはずの気持ちを大切に、当たり前のことを当たり前にできるように、我々は取り組まなければならない。
(山根 太治)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2014-01-10)
タグ:育成 指導
カテゴリ 指導
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応援する力
松岡 修造
熱血応援のイメージが強い著者。選手として五輪に出場した際から各競技会場に足を運んでいた。そこまでするのは、海外での試合中声援に力をもらった経験、そして自分で自分を応援しようとしてもなかなかうまくいかないことを身をもって知っているからだ。
ただ、本書は「自分がいかに応援しているか」ではなく、「応援することによっていかに力を与えられたか」に多くのページが割かれている。「応援」はスポーツに限ったものでなく、家族や同僚など身近な存在相手にも行える。ただ「頑張れ」と言うのではなく、状況やその人に合ったやり方を見極める、それが応援する力だ。
応援は時に「苦言」と思える場合もある。それもポジティブに受けとめられる、「応援せずにはいられない人」であろうという著者のメッセージには、日々の取り組みを振り返らずにはいられない。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2014-07-10)
タグ:応援
カテゴリ その他
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知って感じるフィギュアスケート観戦術
荒川 静香
技術解説と注目選手紹介を中心とした本書。ソチ五輪前に発行されたものだが、内容はわかりやすい。また、今だから話せる五輪の舞台裏の話も興味深い。
国内でフィギュアスケートに注目が集まっていくのを選手・解説者として体感した著者ならではの視点により、競技の新しい面が見えてくる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2014-08-10)
タグ:フィギュアスケート
カテゴリ その他
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筋肉の栄養学 強いからだを作る食事術
川端 理香
昨今、パーソナルトレーニング施設の増加や、身体に対する健康意識の高まりにより、ネットや書籍などで栄養の情報が多くなりました。プロテイン販売の売上規模が増加し、コンビニエンスストアでもサラダチキンなど高たんぱくを意識した食材を目にします。
私たち人間は基本的に三食のご飯を食べます。その食事で何を選び、どれくらい食べればよいか、また食事全体のバランス量はよかったのか、日々悩ましい問題です。
この書籍は長年アスリートの側で食事について見守ってきた管理栄養士による食事のお話です。帯には「食事で筋肉を作る」と入っており、食事で体質改善を目指す方にはぜひ手に取って欲しいです。
まずは各5大栄養素の話から、具体的にどのように食事を摂っていくか、そして最後に経験談、Q&A形式という構成です。管理栄養士による食事指導は、「怒られる」「否定される」という認識がアスリートにはあり、よくチームの就任時には選手から、また怒られるとぼやかれたと述べています。だからこそ、食事の見直しは、選手が継続していく内容と改善する内容を明らかにすることが栄養指導の始まりです。あるサッカーチームではシーズンの終盤に除脂肪体重を上げたというエピソードがあります。食事の意識改革を行い、成功した例であり大変興味深いです。
著者は、最後にこれまでの経験を振りかえった際、食事環境の重要性を述べています。それは、チーム事情や移籍、結婚、海外、子どもの有無、寮生活、学校生活、友人関係、職場と多岐に渡り、環境は年々変化します。そのためにはまず食事に関する知識を得ておく必要があり、その知識を本書から得ることができます。
私も昔、太っていたときは暴飲暴食気味でしたが、和食を中心に食事の見直しを行い、痩せることができました。今現在は少し太ったので改めて食事を考え直すよいタイミングです。本書の通り食事を改善するのも難しいです。なかなか一度にできることではなく、何度も自分で試す必要があります。ですが、試す価値は十分にあります。食事が義務にならず味わって食べるご飯は美味しいです。ぜひ、普段の健康に意識を持つきっかけになることを願っています。
(中地 圭太)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2020-05-16)
タグ:スポーツ栄養
カテゴリ 食
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