スポーツと芸術の社会学
井上 俊
マーティ・キーナートはMSNのコラム「イチロー、メジャー8試合目で伝説となる」で、4月11日オークランド戦の8回裏の三塁への完璧な送球について、「イチローが右翼から送球した場面は、額縁に入れてルーブル博物館のモナリザの隣にに飾っておくべきだ。それくらい美しかった」というシアトル・ポスト新聞のジョン・ヒッキーの言葉を紹介している。
著者は京都大学大学院教授で日本スポーツ社会学会会長でもある。
スポーツ社会学はまだ新しい学問だが、「社会制度としてのスポーツというとらえ方によって、社会学という学問の枠組みにフィットする形でスポーツを扱うことができるようになり、したがってスポーツ社会学という領域が確立し、その研究分野も広がってきた」と言う。
しかし、1970年代から社会学そのものの理論的枠組みが変化、それに対応してスポーツという現象を捉え直すと、例えば現象学的社会学のパースペクティブからは制度よりむしろ「体験」としてのスポーツ、解釈学的立場からは「テクスト」としてのスポーツという捉え方が出てくると言う。
「……つまり、社会学が単に既成の理論の適用によってスポーツを分析するというだけではなく、逆にスポーツ体験の分析が社会学に跳ね返って社会学の理論を豊かにしていく、そういう可能性がひらかれてくるのではないか」
「スポーツ○○学」は数多い。
だが、単に対象がスポーツになっただけで、まさに「既成の理論の適用」であることも少なくない。
その意味で著者が言うその「可能性」は魅力的である。
冒頭に挙げたキーナートのコラムには、イチローの送球に対する見方が数多く紹介されている。
これも「スーパープレー」をその場でみるという「体験」と理解できる。
収録の「武道のディスクールにおける『自然主義』」はおすすめ。
井上 俊著 四六判 202 頁 2000年11月30日刊 1900円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:世界思想社
(掲載日:2001-11-25)
タグ:社会学 体験
カテゴリ スポーツ社会学
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子どもにスポーツをさせるな
小林 信也
衝撃的なタイトルである。著者の小林信也氏が「30年以上にわたってスポーツの世界で仕事をしてきた」作家だと知ればなおさらかもしれない。
だが、スポーツが視聴率主義、商業主義、勝利至上主義などでがんじがらめになっており、取り組む目的やそこから何を学ぶかが置き去りになってしまっている現状が、ゴルフの石川遼選手から氏の住む武蔵野市の中学校まで幅広い実例を交えて繰り返し述べられているのを読むと、氏が心からスポーツを敬愛し、だからこそ危機感を抱いていることが伝わってくる。
マスメディアや関係者が視聴率や利益の獲得を目指す際、意図してか意図せずかスポーツの本質には触れられない。第五章「あたらしいオリンピックの実像」内で東京五輪招致について言及した部分では、日本国民、の前に東京都民であっても招致に向けた流れに乗りきれない、どこか他人事のように思える不思議さや違和感の正体はこういうことだったのかと気付かされた。
とは言え、本書はマスメディアに疑問を呈することが目的ではない。視点はあくまで現場に携わる作家より上にはならない。それは、小林氏が小学生の息子さんとともに、現在進行形で、自らの身体を動かしてスポーツに取り組んでいるからではないだろうか。
通読すると、“スポーツをさせるな”というタイトルは、親を含む大人がさまざまな思惑を持って子どもにスポーツを“させる”のではなく、子ども自身が楽しいから、好きだからスポーツをする。もしくは子どもとスポーツをしよう、ということを表しているのではないかと思えた。
(北村 美夏)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2011-12-13)
タグ:スポーツ報道 野球 ゴルフ サッカー 五輪 教育
カテゴリ スポーツ社会学
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身体と境界の人類学
浮ヶ谷 幸代
“正常範囲”の支配
科学的トレーニングが浸透している現在、様々な方法によって得られた身体・体力に関する測定数値を私たちは頼りにしている。しかしながら測定値がある一定の境界を超えた(届かなかった)とき、それを単純に「おかしなこと」と捉えてしまうと「<いまここ>に生きる身体」は断片化してしまい、測定した数値に支配されてしまうことになる。ところが、私たちは自身の身体を生物学的・生理学的に数値化されたモノサシだけで把握するように小さいころから刷り込まれてはいないだろうか。
たとえば幼少時から行われる体力測定や、大人になってからのメタボ検診などの結果を受けとめ、さまざまな対応をすることはある意味で正しい。しかし測定値がある範囲(境界)から逸脱していたとき、“おかしなこと”“劣ること”といった負のイメージを当てはめることがある。その時点で人は“数値”という権力に支配されてしまうことになる。本来、測定値とはすべて連続性を持つものであって、“境界”は後から人工的な意義づけをして設定されたものである。したがって、数値は“正常範囲”にあることが正しくそれから外れることは忌み嫌うべきことであるとするような考え方を持ったとき、それはその値を示した身体の主体となる人の行動ばかりか人格をさえ否定しかねない可能性を伴うことになってしまうのである。
手段としての数値
本書の著者、浮ヶ谷幸代は、医療人類学を専門とする文化人類学者である。本書では身体を、「世界的身体」「社会的身体」「政治的身体」といった切り口から眺め、「臓器移植、精神障害、糖尿病における身体観や身体技法」などについて「さまざまなトピックスを通して、人、モノ、状態、観念における境界領域の連続性とその特異性について考察」されたものである。
本欄では「身体感覚を研ぎ澄ます」と題された第5章を主に紹介したい。「生活習慣病」なかでも「糖尿病」に焦点をあてたものだ。ほとんどの生活習慣病は、とくにその初期には自覚症状がない。ではなぜ自分が糖尿病であるのかを知るのかというと、それは健康診断による検査数値からである。「とりわけ、中高年世代にとって、自分の身体や健康に関する情報のほとんどは、健康診断によって露わにされる臓器の状態や機能にかかわる検査数値」である。現代は「あたかも科学的な数値が人間の身体のすべてを物語る、とでもいいたげな健診社会」であると浮ヶ谷はいう。
しかし「科学的数値は、それが普遍性、客観性、論理性を旨とする科学的思考の根拠とされているため、生理的身体を表象するという意味において非人格的」であるとばかりはいえない側面も持っている。「人間が意味の網の目(=文化)に生きる動物」である限り、その数値は無味乾燥なもので終わることはなく「医療での診断や治療のための指標となるだけでなく、日常生活においてさまざまな意味を生み出している」のである。糖尿病の人にとって「科学的数値は身体に働きかける手段となり、自分の身体とどう向き合うかという身体技法を編み出す契機となる」のだ。すなわち「血糖値を手がかりに自分の身体に働きかけることを通して、自己の身体と他者の存在への気づき、そしてそれを契機とする周囲の人との関係の調整を生み出し「『<いまここ>を生きる身体』を知覚させる。と同時に、自分の身体に気配りをすることが、結果的に他者の存在に配慮すること」になるのである。
体育という相互交渉の場で
さて、われわれの分野に目を転じてみると、これと同じようなことが選手とコーチの間に生じていることに思い当たる。何らかの体力測定値をもとに選手は自己の身体感覚との擦り合わせを図ろうとし、コーチは測定値と選手の動きやその他にも選手の身体から発せられる多くの信号を手がかりとして、相互交渉の場が生じているのである。
一方で、子どもの体力や運動能力は高いのがよいというのに異論はないが、だからといって測定値の低い(正常範囲=境界を逸脱する)子どもに対する配慮は忘れたくないものである。子どもの体力が正常範囲に入るよう躍起になって運動させることが私たちの仕事ではない。体力が低いのは“劣っている”こと“悪い”ことだというレッテルを子どもに貼った時点で、その大人は“数値”という権力に支配されてしまうことになるからだ。それよりも、身体を通して自己を育み、周りの人との関係を育む、“体で育む”ことこそがわれわれのなすべきことなのである。
“体を育む”ことに気を取られ、その子どもの身体(人格)を否定することなど絶対にあってはならないのである。
(板井 美浩)
出版元:春風社
(掲載日:2011-04-10)
タグ:身体論
カテゴリ スポーツ社会学
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スポーツ哲学の入門 スポーツの本質と倫理的諸問題
シェリル・ベルクマン・ドゥルー 川谷 茂樹
タイトルに入門とある通り、スポーツ哲学のトピックが網羅された労作だ。とくに現代社会におけるスポーツの価値や、ドーピングなどの倫理的問題について多くのページを割いている。すぐに目を通せる分量でも、結論を得られる分野でもないが、スポーツに関わるなら知っておくべき内容ではないだろうか。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ナカニシヤ出版
(掲載日:2012-08-03)
タグ:スポーツ哲学 倫理 ドーピング
カテゴリ スポーツ社会学
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やわらかアカデミズム・わかるシリーズ よくわかるスポーツ文化論
井上 俊 菊 幸一
教科書のような体裁で、多岐に渡るトピックがコンパクトにまとめられている。欄外にて用語説明や文献紹介がなされ、基礎から発展までカバーする。教育、ビジネス、地域といった様々な視点を含み、調査法にまで言及している本書は、スポーツを学ぼうとする人にとって必携の書と言っても過言ではない。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ミネルヴァ書房
(掲載日:2012-08-03)
タグ:スポーツ文化論
カテゴリ スポーツ社会学
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ウエルネスグリーンレポート2002
日本ウエルネス
財団法人日本ウエルネス協会が発行する機関紙「ウエルネスムーブメント」の別冊保存版(2002年春季号)。
同協会は、昭和57年(1982年)設立の厚生労働省が所轄の財団法人。通常この種のものは「白書」と呼ばれるが、グリーンレポート「緑書」としたのは、「時代状況をより積極的に捉え、現状分析にとどまらずに、ウエルネスという新しい視点でライフスタイルの提言、提案をしようという試みから」とのこと。
本書を作成するために特別の調査を行ったわけではないが、「世代別ウエルネスライフヘの提言」では、乳幼児期、学童期、思春期、青年期、壮年期、中年期、高齢期、後期高齢期ごとに章を設け、広い範囲から適切なデータを選択して紹介している。また、「主要省庁における2002年度予算と重点施策の概要」という章を付し、各省庁のウエルネス関連の予算項目と予算額が列記されている。
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:日本ウエルネス協会
(掲載日:2002-06-15)
タグ:調査報告 白書
カテゴリ スポーツ社会学
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スポーツの源流
佐竹 弘靖
現代におけるニュースをきっかけとして、スポーツ種目のたどった道のりを掘り下げていく。源流を訪ねる旅である。野球、バドミントン、ポロ、柔道など、そしてオリンピックが取り上げられており、数々のエピソードや背負ってきた歴史が当時の社会情勢とともに描写される。
スポーツは、時代によって求められる形に変化することで今まで受け継がれてきたのである。各競技の特徴、あるいは特有の性格のようなものがどこに由来するのか、見えてくる気がする。視野を少し過去のほうへ広げてくれる本である。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:文化書房博文社
(掲載日:2009-09-10)
タグ:スポーツの歴史
カテゴリ スポーツ社会学
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幻の東京オリンピックとその時代 戦時期のスポーツ・都市・身体
坂上 康博 高岡 裕之
題名にある「幻の東京オリンピック」とは、立候補したがリオデジャネイロに開催決定した2016年のものではなく、戦時中の1940年のものである。開催決定までの誘致活動の様子、そして返上に至る過程について、スポーツ社会学的な分析が行われている。
各地の大規模な運動公園など、さまざまな運動施設はスポーツを行うインフラを担っているが、すでにこの時期から計画・整備が始まっていたことが本書により明らかにされている。オリンピック誘致と連動して、さまざまな変化が起きていること、それが戦後にも大きな影響を及ぼしていることが興味深い。
そのほかの題材として、都市空間、広告における写真表現、学生野球、集団体操などが取り上げられ、当時どのような動きがあったのかが文献に基づいて立体的に浮かび上がる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:青弓社
(掲載日:2010-04-10)
タグ:歴史 オリンピック
カテゴリ スポーツ社会学
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野球場で観客はなぜ「野球に連れてって」を歌うのか
佐山 和夫
2010年夏、明治神宮球場を中心に行われた世界大学野球選手権大会では、7回表終了時のグラウンド整備の間にこの曲が流されました。もっとも、普段、この曲を歌うことに慣れていない神宮親父たちはキョトンとしてしまったのですが。
タイトルにもある、「私を野球に連れてって」を野球場でなぜ歌うのかや、野球のベースがなぜ左回りか、なぜ他の球技と違ってボールを持っているチームが守備であるかといった筆者が抱く疑問は、普段野球に近い距離にいる人ほど、疑問に思わない点であるように思います。私自身はそんなことを考えたことさえありませんでした。
しかし、野球のルールのルーツを知ることにより、アメリカ人の価値観や野球というものの本質をアメリカ人がどう考えているのかということに触れることができました。ルールや習慣は、今の形に至るまでに形ややり方が変化していき、なるべくしてなっています。あとがきで筆者自身が「私個人の勝手な思い込み」と述べているように、ところどころに疑問を持ってしまう見解もありますが、こういったことに着目し、考えることは、野球を、ひいてはスポーツをより楽しんで観たりプレーしたりすることができるのではないでしょうか。
(松本 圭祐)
出版元:アスキー・メディアワークス
(掲載日:2012-10-16)
タグ:野球
カテゴリ スポーツ社会学
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「東洋の魔女」論
新 雅史
産業社会学を専攻する著者ならではの視点で、「東洋の魔女」と呼ばれた日紡貝塚女子バレーボールチームが再分析されている。
レクリエーションとして始まったバレーボールが、繊維業界の変遷や東京オリンピック開催、テレビの普及といったさまざまな要素を経て「東洋の魔女」という必然を生んだ。国中に切望された金メダルを獲ることこそが魔法を解く鍵、つまり一女性としての出発であったというのは、彼女らをバレーボール選手として捉えるだけでは見えてこないもので、新鮮だ。
それから時代は大きく変わったが、アスリートであると同時に学生・社会人でもあり、場合によっては母や妻でもある「女子選手」がどうバランスを取るべきかは、現代にも共通するトピックではないだろうか。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:イースト・プレス
(掲載日:2013-11-10)
タグ:バレーボール 東洋の魔女
カテゴリ スポーツ社会学
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現代スポーツ社会学序説
海老原 修
歌は世につれ世は歌につれと言いますが、歌だけでなく言葉も世につれ人につれ変わっていいと思うわけです。なぜ、こんな奥歯にものが挟まったような言い方から始めるのかというと、本章のタイトルが小生には少々合点がいかないからであります。
たとえば、本書には力道山が出てきます。力道山と言えば日本のプロレスの生みの親であります。この力道山が、敗戦に打ちひしがれた日本国民に与えたインパクトは計り知れないということは周知の事実ですが、実は、本書では「GHQマーカっと少将、法務局フランクリン・スコリノフといったキーパーソン、彼らが(力道山のような)日本人選手を探していたことなどを考え併せるとき、プロレスが政治的な判断を伴なう文化統制であったという仮説が頭を離れない」という米国による恣意的なお膳立ての上で力道山は暴れ、わが日本国民もまんまとその意図にはまった可能性が強いことを示唆しています。
こうなると、もうスポーツが社会に与えた影響というような可愛らしいお話では済まない訳で、いわばスポーツを手段とした国民の思想コントロール、あるいは戦勝国による敗戦国の洗脳であると思うわけであります。こんな過激な仮説を本書は随所に配置しながら、タイトルは「現代スポーツ社会学序説」という、まるで狼が赤頭巾ちゃんの洋服を着ておばあさんの家のドアを叩いているような違和感、矛盾感を持たざるを得ないわけです。
サブタイトルに「日本的文脈とイメージの逸脱者中田英寿」と付けた論文もあります。この中で著者は「学校体育や企業スポーツを基盤とする日本のスポーツは、教育や福利厚生、あるいはそれぞれの組織共同体の維持といった文脈が付与されている」とし「ゲームより練習が重視され、競争よりも健康に価値観がおかれるように、スポーツの“社会的文脈”よりも“身体運動の物理的形式”に(スポーツの)イメージが偏る傾向」を日本の今までのスポーツに対して指摘したうえで、プロサッカー選手中田英寿は“日本的文脈からの逸脱者”であるとしています。これはこれで非常に興味深い結論なのですが、中田英寿が現代の若者に対して非常なカリスマ性を持っているという著者の指摘の延長線上には、スポーツ選手に限らず、日本的文脈から逸脱する若者が続々とこれから生まれるという推論とこれからの日本人気質の変化についても視野に入れた議論があっていいのではないかと思うのです。つまり、この中田英寿の日本逸脱ぶりを検証するという作業は、きわめて近い将来の若者論、あるいは日本人論へと話が思い切って拡散していいと思うわけであります。それだけの筆力を十分にこの筆者は備えていると見たとき、これほどまでに広がりを予感させる議論の萌芽を用意しておきながら、本書が“スポーツ社会学”という枠組みの中だけで議論を終える窮屈さや、あるいはタイトルに興味を持たない人々にはこれらの先鋭的低減が目に届かない無念さを小生は感じてしまうのであります。
多分、これはもう現代社会においてすでにスポーツと社会を明確に分離できないことを意味している証拠だと思います。元来、“スポーツ社会学”なる言葉は社会におけるスポーツという分離が可能な時代の造語にすぎません。スポーツが、まだまだ市民権を得ていなかった時代の一般向け造語だと思います。
歌は世につれ、世は歌につれ。専門家の皆さん、“スポーツ社会学”から“逸脱”する気はありませんか?
(久米 秀作)
出版元:杏林書院
(掲載日:2003-05-10)
タグ:社会学
カテゴリ スポーツ社会学
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映画に学ぶスポーツ社会学
杉本 厚夫
『ロッキー』を始め、12本のスポーツ映画を取り上げ、その1本1本の映画から読み取れるメッセージを、社会学的見地から解説。そこから、さまざまな問題点や今後のスポーツのあり方などがみえてくる。
(月刊トレーニング・ジャーナル)
出版元:世界思想社
(掲載日:2006-03-10)
タグ:映画
カテゴリ スポーツ社会学
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そろそろ、部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義
中澤 篤史
運動部活動究に取り組む中澤氏の、『運動部活動の戦後の現在―なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』(青弓社)に続く著作。部活はよいと讃えるのでも、部活は悪いと断罪するのでもない。当たり前にあるようでいて実は日本独特のものである部活を疑い、歴史を再確認し、「今」の部活に関するさまざまな情報を見比べた上で、「これから」を一緒に考えていこうと巻き込んでいく。スポーツは身近なものであるが、身近過ぎるゆえに、改めて考えたり、多くの人の力を集めるきっかけがつくりにくいとも言える。そういった場合のアプローチの仕方としても参考になるのではないだろうか。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:大月書店
(掲載日:2017-05-10)
タグ:部活動
カテゴリ スポーツ社会学
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そろそろ部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義
中澤 篤史
「部活」は、日本固有の文化なんだ。知らなかった。
部活には「自主性」の名の下に、教員、学生、保護者が動員されている。自主的な活動なのだから、お金も保障も充分でない。
中学運動部顧問の時間外労働平均時間は過労死ライン80時間を超えている(平成18年度の文科省報告書による)。
平均が過労死ラインを超えてるって、異常事態だ(令和2年4月から時間外勤務が月45時間以内に改善が図られていなければ、校長が職務責任を問われるという「働き方改革」が行われているが)。
さらに体罰の問題がある。桜宮高校バスケットボール部の事件は、大いに世間を賑わせた。キャプテンの子が顧問の先生に宛てた手紙には、批判や不満とともに、自分が顧問の先生の要求に、必死に応えようとしている想いが吐露されている。しかし、彼はこの手紙を先生に渡すことなく、部活に行き続け、最後は死を選んだ。このような事件も「部活」の暗黒面としてある。
だが、多くの人にとって「部活」は、キラキラした青春の代名詞ではないだろうか。少なくとも自分自身にとってはそうだし、たびたび漫画やドラマの舞台になるのを考えれば、一般的なイメージはそんな感じだろう。
だが(だからこそ?)、その裏側には献身を、あるいは参加を、強制されるような実態があり、スポーツの語源(デポルターレ=遊び)からは程遠い現実がある。
「部活」が、さまざまな犠牲を払わなければ成り立たない慣習上の制度であるとするならば、今後も制度疲労としての軋みが、生じ続けることになるだろう。
(塩﨑 由規)
出版元:大月書店
(掲載日:2022-05-02)
タグ:部活動
カテゴリ スポーツ社会学
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