武道的思考
内田 樹
武道の本旨は「人間の生きる知恵と力を高めること」であり、「他人と比べるものではない」と述べる筆者。そして「比べていいのは『昨日の自分』とだけだ」とも述べている。
本書の中で何度も出てくる「武道が想定しているのは危機的状況で、自分の生きる知恵と力のすべてを投じないと生き延びることができない状況」というフレーズに象徴されるように、現在の日本にとって非常にタイムリーな内容になっている。
(磯谷 貴之)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-01-18)
タグ:武道 哲学
カテゴリ 人生
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日本シリーズ全データ分析 短期決戦の方程式
小野 俊哉
本書は、プロ野球日本シリーズ全59大会350試合のスコアを電子化し、解析を試みたものである。さらに、1903年以来、全104大会開かれているアメリカ・メジャーリーグのワールドシリーズ606試合のデータと比較。また五輪、WBCを含む短期決戦を勝ち抜く秘訣、勝敗のカギを握るのは何なのかを探っている。
短期決戦で最も大きなカギを握るのは、エースでも4番でもなく監督。短期決戦に強いチームと弱いチームの違いも、監督を軸に見てみるとすっきりわかると著者がいうように、選手個々の能力や精神論的なことはほとんど記されておらず、監督を中心としたデータのみからの解析。いままであまり見たことのない内容で、表やグラフと本文を見比べながら、短期決戦での勝敗の因果関係を客観的に理解できる。
日本シリーズでは勝敗パターンはどのようなものが多いか? 4勝3敗が最も多い。ではメジャーと比較してどうか? その中で必勝パターンはあるのか? さらに監督の経験値と勝率も比較…。このように地味なことでも深くデータとして掘り下げていく。このことより森監督の2戦目必勝理論の理由、悲運の名将西本監督などの采配の妙に名前がついたことにもデータから納得できる。
ほかにも川上巨人4回猛攻の謎、終盤を負けない男・古葉竹織、1点差勝利をものにする三原マジックなど、名監督の采配をいろいろな角度からデータで読み解く、読み応えのある一冊である。
私は、クライマックスシリーズはペナントレースでの積み重ねが軽いものになってしまうと感じていたが、五輪・WBCにオールジャパンが参加するようになって短期決戦の人気が高まり、外すことのできない新マーケットとなった以上、短期決戦まで分析し勝利するチームこそ、本当の日本一、世界一にふさわしい監督、チームではないかと思う。
(安本 啓剛)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-01-18)
タグ:野球 データ分析
カテゴリ 指導
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人はどうして疲れるのか
渡辺 俊男
「若いころと違って年を取ると疲れる」なんて言葉を耳にします。私だって何度となくそんなことを言ったことがあります。若いころのほうが運動量も多いのに、どうして年を取ったほうが疲れるのか? 若いころとは違い、責任の重い立場にあるから疲れるのか? そうなると疲れは身体の問題ではないのか? 日曜日にゆっくり休んだのにどうして月曜日の朝は疲れているのか?──「疲れ」というものを改めて考えてみると不思議なことがたくさんあります。「疲れ」とはいったい何なのか? 本書は日常当たり前に起きる現象をさまざまな角度から分析しています。
「疲れ」にはマイナスのイメージがあります。誰だって疲れるのは嫌だし、疲れ知らずで動けたら素晴らしいかもしれません。しかし疲れなければ休息をとることもないでしょう。そこに待っているのは「破たん」であることは容易に想像がつきます。その流れにブレーキをかけるために「疲れ」が存在するのであればそこに積極的な価値を見出すことができると筆者は説きます。動くことこそが動物のアイデンティティであり、動くことにより食物を獲得し、エネルギーを得て活動ができるのですが、「動く」「疲れる」「休む」という要素こそが生命活動のシステムであり、これらの要素のバランスが効率をもたらすということを知らされました。
現代社会における我々を取り巻く環境は大きく変化し、疲労というものの質も、筋肉を中心としたものから感覚器官の疲労や精神的な疲労などに変わりつつあり、ますます「疲労」というものの正体がつかみづらくなってきたとあります。時代の推移により「疲労」も変化するというのは興味深いところです。
こんな引用があります。「C・ベルナールは『生きていること』を定義して、『下界の環境の変化に対して、生体の内部環境の生理的平衡状態(ホメオスタシス)を保つ努力である』と言いました」。動くものが動物であるかと言えばそうではありません。機械は動きますが自ら下界の環境変化に対して恒常性を持ちません。これこそが動物と無生物との分水嶺。ここで筆者は、安定した変化のない環境に馴らされて生体の内部環境を変化する力を失うことは、生物としての活力を失うことと言い切り、そのことが「死」に向かうことであると指摘します。安定した楽な生活を求めようとする私たちに対して警鐘を鳴らすと同時に、活力に満ち溢れた生活を営むためのヒントを与えてくれているように思えるのです。
最後の疲労回復法の章も必見です。疲労を軽く見て病的な状態に陥ることもありがちです。よりよく生きることは上手に「疲れる」ことである。そういった発想で日々を暮らしてみると、自分の心や身体との新しいつきあい方が見つかるような気がするのです。
(辻田 浩志)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-02-07)
タグ:生化学 疲労
カテゴリ 生命科学
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武道的思考
内田 樹
著者がブログや各種媒体で発表した内容を「武道」のテーマに沿って編み直したものである。
武道的であるということは、危機的状況下において生き延びていく、そのための知恵と力のことを指す。心身の修行と文献を読む中で得られた実感を伴う道筋が、教育問題や時事問題などを通して示されていて、かなりの刺激がある。とくに合気道の稽古に関する部分では、身体の感受性が高まるような気がする。どういう心持ちを、準備をしているかが常に問われるのだ。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2011-07-10)
タグ:武道
カテゴリ 人生
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生活習慣病を防ぐ七つの秘訣
田上 幹樹
生活習慣病の予防・改善は簡単である。生活習慣を改めればよい。では、なぜ問題になるか。生活習慣を改めるのはとても困難だから。
たいていの人は、何がからだに悪いかだいたいわかっている。食べすぎ、運動不足、喫煙、度の過ぎた飲酒、睡眠不足などなど。生活習慣病は自覚症状がないまま進行するので、気がついたときは「大変!」な状態で、肥満、高血圧、高脂血症、糖尿病という「死の四重奏」が代表例である。だが、多くの人は「よい習慣」も実は知っている。その逆だからである。
この本は、その「わかっちゃいるけどやめられない」状態からどう抜け出すかを、脅すでもなく、諭すでもなく、多くの症例と、著者の病院でとったアンケートの結果を示しつつ、「あ、みんなそうなのか、そうすればいいのか」とすんなりわからせてくれる。そこがすごい。
本書によれば、1975年から25年を経た現在、牛肉の輸入量は10倍、豚肉が4倍強、鶏肉は20倍になっている。また、高血圧患者3000万人、うち治療を受けているのは750万人(25%)、同様に糖尿病は1400万人に対して218万人(約15%)、高脂血症患者2700万人に対して500万人(約20%)とのこと。
もちろん運動についての章もあるが、この本1冊を読むと相当勉強になる。700円では安い買物です。
新書判 222頁 2001年9月20日刊 700 円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-10-03)
タグ:生活習慣病
カテゴリ 医学
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医学は科学ではない
米山 公啓
医療費抑制の文字が新聞やテレビで頻繁に流れる。「抑制」はわからぬでもないが、「削減」と言われると、必要でも削るというニュアンスが生じ、それでよいのかと思わせられる。その医療費抑制に「科学的根拠」が乏しいものに医療費は使えないという考え方がある。いわゆるEBM、科学的根拠に基づく医療というものである。これに対して首をかしげる人は多い。科学的根拠があるに越したことはないが、それだけで医療は成立するだろうか。そこに現れた本書。いきなり「医学は科学ではない」ときた。新書なので、あっという間に読めるが、医学、医療、科学について、医師でもある著者がかなりはっきりと書いている。「医学という科学的に十分確立できていない、不安定な科学といえる学問では、病気というものを十分にはとらえきれず、それが患者に不安を抱かせるのだ」(第5章医学を科学と誤解する人たち、P.132より)。
医療は患者のためにあるのだが、医学は誰のためにあるのだろうか。
2005年12月10日刊
(清家 輝文)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-10-10)
タグ:医療 科学 医学
カテゴリ 医学
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美しい日本の身体
矢田部 英正
本誌(月刊スポーツメディスン)でも何度か登場していただいた矢田部さんの新著。矢田部さんの著書には『椅子と日本人のからだ』(晶文社)と『たたずまいの美学』(中央公論新社)があるが、この新書は、これまでの成果をまとめ、さらに深い考察を加えた感じがする。
1章「和服のたたずまい」以下、「『しぐさ』の様式」「身に宿る『花』の思想」「日本美の源流を彫刻にたずねる」「日本人の坐り方」「日本の履物と歩き方」「基本について」と計7章からなる。つまり、和服、動作、能の「花」、仏像の美、坐位を中心とする姿勢、ぞうりやワラジ、ゲタと靴、それによる歩行など、矢田部さんが研究し、また日々接しておられるテーマが並んでいる。面白いから読んでくださいと言うしかないが、一部だけ引用しておこう。
「一見、何の役にも立っていないようで、あらゆる物事の認識の基盤になっているのが実は人間の身体で、それは自分を取り巻く風や光や光に照らされた世界を感じ取るセンサーの役割を果たしてもいる。その感覚能力に磨きをかける一つの方法として、坐って姿勢を整えることを好んで選択してきた歴史が日本にはあり、その澄んだ感覚で世界を見つめる感受性こそが、実は日本文化を美しく秩序立ててきた基盤にあるものだと私は考えている」(P.148より)
2007年1月10日刊
(清家 輝文)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-10-11)
タグ:歩行 履物
カテゴリ 身体
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フットボールの文化史
山本 浩
この本には、民衆のフットボールがどのように、パブリックスクールでのフットボールに変遷し、現代のフットボールの形になったかが描かれている。英国でのエリート教育にフットボールがどのように用いられ、パブリックスクールの卒業生らによるルールの整備、審判の登場の経緯、観客の登場、リーグ戦、プロ化といったことがわかりやすく説明されており、スポーツ史を学ぶ人にとっての入門書として最適だろう。
オフサイドの説明をできる人はたくさんいるだろうが、オフサイドがなぜ反則なのかを説明できる人は多くないだろう。われわれ日本人にとって、ルールは「あるもの」「決められるもの」であって、自分たちで議論して「つくるもの」ではないように思う。
なぜ、それがいけないことなのか。なぜ、そのルールがあることにより、平等や公正が保たれるのかを考えないがゆえに、ルールの変更の議論に、日本人は参加できる交渉力を持たないように思う。そして、ルールが変更されるたびに日本不利のルール変更がなされたとマスメディアは叫ぶ。
どのような時代背景や価値観があるか、主導権は誰が(どの地域の人間が)握っていて、それを日本が握られない理由はどこにあるのか。そういったことを理解すれば、スポーツの国際的競争力を不当に貶められることはなくなるだろう。
(松本 圭祐)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-10-13)
タグ:スポーツ史 フットボール
カテゴリ その他
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解剖学教室へようこそ
養老 孟司
大昔、人間の身体の構造は何もわからず、解剖をしてそれを描写するところから始まった。もちろん、臓器の名称、役割などもわからないまま何もないところから解剖が始まり、努力の末、少しずつ現在まで発展してきた。
本書では、解剖学の歴史とともに養老氏のものの見方が理解できる。「なぜ解剖をするのか、だれが解剖を始めたのか、何が人体を作るのか」。このようなことは改めて考えはしないかもしれない。しかし、ただ単に人体の構造と機能を理解するだけでなく、現在に至るまでの過程を知ることよって、さまざまな視点から人体について見ることができるようになるであろう。
他にもさまざまな解剖に関する本を出版されているが、本書には養老氏の原点があらわれているように思う。
(清水 歩)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-10-13)
タグ:解剖
カテゴリ 医学
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賢い皮膚 思考する最大の“臓器”
傳田 光洋
皮膚は外界と接しており、内外を区切る役割を持つ。細菌やウイルス、乾燥などから身を守り、熱など危険なものを察知して致命的な事故を防ぐ役割を持っている。サブタイトルにあるように最大の臓器でもあると考えられるのだそうだ。著者は皮膚の研究を続けていく中で考察を深めていくが、それをもとに皮膚の構造や機能について広い視野から最新の研究成果をまとめている。
興味深いのは、表皮にポリモーダル痛み受容器があるという発見である。神経伝達物質の存在やその受容器の存在についても明らかになっており、皮膚が情報処理をしている可能性について示唆している。本書ではさらに一歩踏み込んで東洋医学的なアプローチの有効性についても仮説を示している。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2010-03-10)
タグ:皮膚
カテゴリ 身体
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ないもの、あります
クラフト・エヴィング商會
人のイマジネーションってすごいと思います。「想像」とは必ずしも虚構であるとは限りません。物質的にはなくても頭の中で想像すると確かに存在することってたくさんあると思います。「-1」なんて数字は物質的には表すことはできないと思います。もちろん証明は可能でしょうが「物」としてないものはないのです。人の感情や意識なんて「物」としてはありません。しかしそれを否定する人はいないはず。
「堪忍袋の緒」「口車」「思う壺」「冥土の土産」など書いてみれば「物」として存在しそうなんですが決して存在しないもの、それを商品として売ろうっていうんですから何やら怪しげ。「クラフト・エヴィング商會」という架空のお店を立ち上げ想像の産物を売るという企画。あくまでも本書は商品カタログの体裁となっているのがポイント。
絶妙のセールストークで次々に商品を売り込んでくるんですから読者の私たちも心して聞かなければいけません。言葉巧みな売り込みは一流セールスのそれ。私もかつて営業のお仕事をしていましたが、そのとき先輩や上司から教わったのは絶対に嘘はダメということ。メリット・デメリットをきちんと説明した上で取引相手が納得しないと長期的な取引はしてもらえないと叩きこまれました。もちろん本書のセールストークもそのあたりはきっちり押さえてあります。本当にこんな商品があったら欲しいなと思った時点で、術中にはまっていたんでしょうね。
商品となった言葉の本質にあらためてうなずくばかり。想像力の豊かさと淡々と語られる商品説明には思わず身を乗り出してしまいます。こんな面白い商品カタログは初めてです。
最後に掲載された赤瀬川原平さんのエッセイ「とりあえずビールでいいのか」も秀逸。
(辻田 浩志)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2013-09-06)
タグ:遊び 言葉
カテゴリ フィクション
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なぜ人は走るのか ランニングの人類史
Thor Gotaas 楡井 浩一
「ランニングの人類史」というサブタイトルの通り、「走り」の歴史が詰まった本です。古代はまさに命がけで走っていました。地球環境が変わり森の多くがサバンナになった時代、サバンナを走り獲物を追いかけたことが、活動領域という点において森にとどまった類人猿との決定的な分かれ目になったそうです。人類の繁栄に少なからず「走り」が関わっていたようです。
時代は変わり、交通手段がなかった頃、伝令という重要な役割が「走り」に課せられ、そこで命を落とした者を記念してレースという競技の起源だそうですが、その残酷さ過酷さゆえに人々の熱狂を生み、今に至るまで人気競技の座を得ていることには考えさせられました。
レースになり勝敗がかかる以上、人々は勝つためにあらゆる手段を駆使しました。お金も絡んでくるし、ドーピングの問題も発生するし、靴や時計などの関係用具の発達など、ランニングの光の部分と影の部分の双方が絡み合って様々な歴史を刻んできたようです。走りの歴史は人類の歴史とぴったり寄り添っているようにも見えます。
日本で人気の駅伝という競技は個人主義に走らず団体の和を重んじる日本人の国民性ゆえに定着したようです。そういう意味では「走り」には文化も反映されるようです。
歴代の有名ランナーのエピソードから一般人のジョギングの歴史まで、事細かに紹介されています。まさに「走りの百科事典」といえる一冊です。
(辻田 浩志)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2015-07-22)
タグ:ランニング 歴史
カテゴリ その他
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強くて淋しい男たち
永沢 光雄
本著は当時活躍していたアスリート達への取材記録ともいうべきものであろうか。当然インタビューも含まれている。といっても、出版されてすでに16年経っているので、現在彼らの多くは引退しているものと思われる。
この中で取り上げられているのは格闘技選手が多いのだが、その中で特に私が興味を持った取材対象を紹介しておきたい。
プロレス団体「ドッグレッグス」。コアなプロレスファンであっても知らない人のほうが多いのではないだろうか。身体障害者(以下、障害者)のプロレス団体である。で、この団体ができた経緯が興味深い。ドッグレッグスは元々はごく普通のボランティア団体だった。
そこに所属する障害者2人がひとりの女性をめぐって対立。女性は2人から熱烈なラブコールを受けるも、どちらにも興味がなく去っていった。2人の間には遺恨だけが残り、それからというもの酒が入る度に女性が去ったのを相手のせいにして殴り合いの喧嘩をしたそうだ。これを見かねたボランティア団体の代表が「プロレスで決着をつけろ!」ということで結成された。
念のために言うが選手たちは皆、障害者である。ロープのない、厚めのビニールシートが敷かれているだけのリングの上で選手たちが熱戦を繰り広げている。マイクパフォーマンスといったプロレスならではのショー的な要素あり、加えてそれ以上に真剣勝負、本気で戦っている。出血することも珍しくないし、見ようによってはマジ喧嘩かと誤解されてしまう(実際はちゃんとプロレスの訓練を受けている)。それゆえ、この団体は常に障害者やボランティア団体から「障害者を見せ物にしている」との批判に晒されてきた。しかし、この団体に所属するある選手が団体のパンフレットにこう書いている。一人の大人としてやりたかったことがプロレスだった。そして、健常者と障害者との間に流れる‘社会の川’に橋を架けるのが障害者プロレスであると(本文より省略して抜粋)。
普段、障害者と過ごす環境にない者が障害者と相対するとき、どういう風に接すればいいのか、どんな会話をすればいいのか、妙な緊張感に包まれてしまうことはないだろうか。普通の会話であっても彼らを笑ったり批判してはいけないのではないかと。しかし選手からしてみれば、リングの上で滑稽なことをすれば笑ってくれればいいし、反則技で相手に執拗な攻撃をしようものなら野次を飛ばしてくれて構わない。あえて健常者という言葉を使うならば、健常者と同じように接してくれたらいいと言う。つまり、彼らにとっては健常者も障害者もないのだ。そういう意味で、「障害者だから」という冠をつけているのは、むしろ我々のほうかもしれない。
かつては入場料がたったの300円、観衆が30人足らずだった興行も、噂が噂を呼んで以降、大きな会場で3,500円取れるまでに大きな興行を打てるようになったそうだ。やがてマスコミにも大きく取り上げられ映画や本になった。
社会通念からいって、こういうイレギュラーな事柄に関しては、とかく批判的に捉えられがちである。そこらのテレビコメンテーターであれば、大上段に構えて批判的なコメントをすることが容易に想像できる。しかしどうだろう。大事なのは当事者がどう捉えているかではないだろうか。プロレス団体ドッグレッグスの選手たちは自らの意思で参加している。志を持っている。充実した人生を過ごしているのだ。もはや外野がとやかくいうことではあるまい。
彼らは立派なアスリートである。
(水浜 雅浩)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2015-08-31)
タグ:プロレス 障害者
カテゴリ 人生
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なぜ人は走るのか ランニングの人類史
トル・ゴタス 楡井 浩一
走る目的の変遷
原題(Running: A Global History)の通り、古今東西のランニングの歴史である。人々が何を得るために走ってきたのかにフォーカスし、その変遷を探っている力作。
ところで皆さんには、実生活において、足が速くて役に立ったという経験があるだろうか。私にはある。高校生の頃のことである。せっかく前夜に終わらせておいた宿題を家に忘れてきた。当時私は家から片道徒歩10分の高校に通っていたのだが、授業の休み時間(10分間)の間に家まで走って取りに行き、次の授業に遅刻することなく、事なきを得たのだ。私のマヌケな事例はさておき、古来より人々が走ってきた目的は何だろうか。金と名誉。この2つは今も昔も変わらない。
古代から19世紀半ば頃までは、伝令走者が活躍した時代である。名誉ある職で、報酬もよい。貴族は駿馬や強靭な走者を抱えることを、実際上もステータスとしても重視した。走者が主人の名にかけて競争する見世物のようなレースも開催されて、優勝者には大変な名誉と賞金が与えられていたようだ。
その一方で、下層階級の間で様々な賭けレースも盛んに行われていた。勝者には高額な賞金が与えられ、時には走者が自分に賭けることもあった。それに伴い不正やいかさま・八百長なども横行していた。わざと負けたり、調子の悪いふりをしたりしてハンディキャップや配当を操作したりもした。そういった下層階級の者たちが金を賭けて騙し騙されしながら走る姿に対抗した、上流階級の「あんな風にはしたくない」という気持ち、言い換えれば差別意識が生んだ倫理観が、19世紀後半から台頭するアマチュアリズムである。
上流階級の紳士とは、労働をせず資産の利子や土地収入によって生活していた人たちのことであり、身につけた知識や技能を生活のよすがとするのは紳士失格を意味する。彼らにとっては、金を賭けたり賞金の授受などは唾棄すべきことである。紳士たちは、腐敗や不正のないスポーツ、「競技のための競技」を目指した。そういう背景から生まれたアマチュアリズムは、下層階級を近代スポーツから排除していった。
本当のプロランナーとは
現在ではアマチュアリズムというのは死語に近い。報酬の多寡や地位にかかわらず、卓越した能力を持った者には「プロフェッショナル」として尊敬の眼差しを注がれ、「アマチュア」は大したことないとか低レベルの者といった、見下した表現に使われている。
現代ではすっかり立場が逆転してしまった感のある「プロ」と「アマ」であるが、走ることで報酬を得てそれで生活するという、本当の意味でのプロランナーとはどういうものだろうか。私が本書の中で一番印象に残った一節を引用して紹介したい。「ヨーロッパから見れば、アフリカはランナーの国のように見えるかもしれない。しかし、アフリカでジョギングが流行ったことはないし、車を持っていない住民は走ることより歩くことを好む。ヘンリー・ロノの子どもたちは、ケニアの理想的なトレーニング場の近くに住んでいるにもかかわらず、走ってもいないし、体を鍛えることすらしていない。ハイレ・ゲブラセラシェが走ったのは、家計に余裕を持たせて、自分の子どもたちが父親のように走らなくてすむようにするためだった」
結局、見世物レースが形を変え、今も続いていると感じるのは私だけだろうか。
いつかやめる日はくる
私の指導するクラブの子どもたちはなぜ走っているのだろう。クラブの練習日には宿題を超特急で終わらせ、友達とも遊ばずにせっせと通ってくる。まさか、親が将来儲かることを期待して、というわけではあるまい。自分は走ることが得意だから、それを磨いて活躍したいと思っているのかもしれない。
しかしいずれ、その子たちにも走ることをやめる日がくるだろう。楽しみとして走り続けることはあっても、競技者としていつまでも走ることはできない。そうなっても、クラブで速く走るために練習を続けた日々が、子どもたちにとって、よい思い出となってくれればそれでいいし、その経験が他のことにも参考になってくれたら、なおいいと思う。生活のために走るということの過酷さを思うと、金にもならないことに情熱を傾けられる今の境遇に感謝しなければならない。
(尾原 陽介)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2013-04-10)
タグ:人類史 ランニング
カテゴリ その他
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アフガニスタンの診療所から
中村 哲
著者は、アフガニスタンとパキスタンのあいだ、ティルチ・ミールというヒンズー・クッシュ山脈の最高峰に登るため、当地を訪れた。道すがら、病人をみた。しかし、必要な医薬品は手に入らず、著者いわく子どもだましの、診療のまねごとをしながら、病人を見捨てざるをえなかったという。それ以降もたびたび、アフガニスタンを訪れることになる。
1984年5月には「らい根絶計画」のため、ペシャワールに着任、86年、アフガニスタン難民問題にまきこまれ、JAMS(日本アフガン医療サービス)を組織、87年活動を国境山岳地帯の難民キャンプに延長、88年アフガニスタン復興の農村医療計画を立案、89年アフガニスタン北東部へ活動を延長し、今日に至るとある(執筆時)。
著者を駆り立てたのは、ヒンズークッシュ山脈を訪れたときの衝撃、あまりの不平等という不条理にたいする復讐だという。しかし、同時に、ただ縁のよりあわさる摂理、人のさからうことができないものによって当地に結びつけられた、とも。識字率や就学率は、都市化の指標にすぎず、決して進歩や、文化のゆたかさを、さし示すものではない。発展途上国を後進国としてみるなら、先進国を発展過剰国と呼ぶべきだ。私たちは貧しい国に協力に出かけたが、私たちはほんとうに、ゆたかで、進んでいて、幸せなのか。国際協力は、自分の足もとを見ることからはじめるべきだ、と著者はいう。
アフガニスタンと聞いてどんなイメージをもつか、人それぞれだと思う。しかし身近に感じるという人は日本では少ないのでは、と想像する。アフガニスタンという国は多民族国家らしい。複雑な民族構成や、歴史的な経緯については、残念ながら頭に入ってこなかった。人々の持つしきたりや習わしにも馴染みのないものが多い。ただ、その土地で文字通り生き死にした著者の目を借りれば、そこにいるのは泣き笑い、病み苦しむ、自分たちとなんら変わりのない人たちだと知れる。それだからこそ著者は、人々が置かれた環境の不公平さに憤然としたのではなかったか。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2022-07-26)
タグ:医療
カテゴリ 人生
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聞く技術 聞いてもらう技術
東畑 開人
ひとの話を「聞く」ということの難しさ、に悩むひとは多いのではないか。ではまず「聞いてもらう」からはじめたら? というのが著者の提案。なぜなら「聞く」は「聞いてもらう」に支えられている、話を聞けないのは、話を聞いてもらっていないからだという。
印象に残ったのは、孤独と孤立の違いに関しての部分。孤独は、心の中に部屋があるとして、そこに内から鍵をかけ、ひとりになれる空間を持つこと。たいして、孤立というのは、その部屋に、嫌なひと、怖いひとがひっきりなしに入ってくる状態をいう。孤独には安心が、孤立には不安がある。ひとは孤独になってはじめて、ひとの話を聞くこともできる。
話す、聞くというのはとても日常的な行為だ。しかし、だからこそわからなくなる。
ケアというのは圧倒的に民間セクターの割合が大きいという(ヘルス・ケア・システム理論,クラインマン)。しかし、民間の世間知だけで対応できないものもある。そういったとき、専門知を持つ専門職のひとが、そのひとが今どういう状態かということを見立てることで、周りもそのひとに配慮することができる。
あるアメリカの先住民の間では、悩みや悲しみを周りに話せる状態は正常、ひとりで抱えるようになると病気とみなされるらしい。
とくに一緒にいることが多いひとのことは、話さなくてもわかっている、と思いがちだ。毎日顔を合わせていると、だからこそ見えなくなってくる部分がある。
話を聞いてもらうこと、聞くこと、その塩梅に正解はないかもしれない。でもとにかく、身近なひとが気になったら「なにかあった?」と声がけすることを大切にしたい。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2022-11-15)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ その他
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ヤンキーと地元
打越 正行
ヤンキーのパシリになって10年間、沖縄の若者と生活を共にし、調査したのがこの本だ。
原付にまたがり、改造車で58号線を暴走する若者に追走し、声をかけ話を聞く。著者は彼らの生活を知るために、自ら建設現場で働くようになる。そこには過酷な労働環境がある。やっと仕事を終えても、しーじゃ(先輩)と、うっとぅ(後輩)という人間関係のしがらみがある。そのなかでひとは処世術としての立ち居振る舞いを身につけていく。
建設業はこのしーじゃとうっとぅという人間関係に支えられている。それは不安定なものだ。建設業自体、受注がなければ仕事がない。見通しが立たない。だからこそ、しーじゃは強くうっとぅを束縛する。ときには暴力も振るう。その関係性はかなり固定的だ。その一方的である関係は、建設現場の作業において安全性や効率の面で機能的ともいえる。しかし反発も生む。
著者は、男性同士の下品な会話、悪ふざけや賭けなどに乗りながら、話を聞き、のっぴきならない人間関係や状況を描く。それは歴史的な経緯や、社会的な構造によって選ぶと選ばざるとにかかわらず、沖縄の若者が投げ込まれてしまったような世界にも見える。出ていけばいい、辞めればいい、と簡単には言えなくなる。
「沖縄」のひとの温かさや、きれいな海。とかく理想化されがちな「沖縄」だが、現実はもっと複雑だ。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2023-07-24)
タグ:社会学 エスノグラフィー
カテゴリ その他
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客観性の落とし穴
村上 靖彦
客観性という概念はたかだか200年くらい、特に西洋文化のなかで言われはじめたに過ぎず、まるで統計や数字が、事物や事象、あるいは人そのものを表しているような風潮は行き過ぎではないか、それらが有用なデータであるのは確かにそうだが、その尺度だけでは測れないものがあるだろう、というのが、大雑把なまとめになるだろうか。
実際のインタビューではだいたい2時間くらい、話を聞く。そのときの話の流れで、即興的な語りを聞く。
意識せずに口をついて出てくる言葉から、浮かび上がってくる、それぞれの経験。交わらないリズムとして表現される生々しいリアリティを読む。それではじめて分かることがある。
統計や数字をみてわかる傾向と、個別の視点に立ちはじめて腹落ちする現実があると思う。
数年前、あるひとに話を聞いた。アメリカで海洋生物学を学んでいた大学時代、難病を発症し、帰国を余儀なくされた。そこから闘病生活に入り、手術をするかどうかの決断を迫られることになった。医師からはかなり高い確率の成功率と、きわめて低い失敗率を伝えられた。
でもそれってなんの慰めにはならない、自分にとっては生きるか死ぬかであり、コインの裏表どちらがでるか、つまり半分なんだ、とそのひとは言った。それはとても、説得力のある言葉だった。
統計や数字でわかることがたくさんある一方で、今を生きる現実存在を取りこぼすことも多々あるのではないだろうか。客観性のみを真実とすることはかなり危うい。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2023-07-25)
タグ:客観性
カテゴリ その他
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他者といる技法 コミュニケーションの社会学
奥村 隆
昨今の“グローバリズム”というのが大変難しい概念に思えてならない。ロシアによるウクライナ侵攻はじめ、昨年度にはイスラエルによるガザ地区への過度な攻撃などの世界各地での争いごとや、毎年生まれる新たなエンタメ作品など、我々は長方形の片手サイズの電子機器を通して見聞きする。加えてどこかの国の大手エンターテインメント会社の会長のスキャンダルが自国のメディアではなくBBCの報道により世に広まるというお粗末な世界線も存在していた。
そんな一個人の身体を大いに飛び越した情報の濁流にのまれることにより暇がない日々を送っている現代人にとって、今一度“コミュニケーション”について考えるというのはそこまで無駄な営みではないように思える。どれだけ長方形の電子機器とにらめっこしていても、目の前にいる生身の”他人”との時空間の共有は避けられない。まぁbitの単位としての“他人”という存在もあるが、どちらにせよ“他人”っていうのが生きていくうえでは厄介にならざるを得ないのは、これを読んでいるあなたにも理解できるだろう。
しかし“コミュニケーション”と一口にいっても様々な文脈がある故、いまいちピンとこないと思っていた矢先に今回題材とする本書を見つけた。
本書は序章~第六章構成となっている。
第一章では、「思いやりとかげぐちの体系としての社会」というテーマで、社会の「原形」をモデリングし、その中で起こる困難さを描いている。奥村は存在証明という視点から、他者による承認の体系を論じそこから派生せざるを得ない葛藤の体系を描出する。この「承認と葛藤の体系としての社会」を「原形」とし、この「原形」が抱える問題を解決する体系として、「思いやりの体系」を論じる。しかし「思いやりの体系」も同様に体系自身が作り出してしまう問題があり、それを解決するために「かげぐちの領域」があると展開する。このような「承認と葛藤の体系としての社会」というモデリングを基点とすることの良し悪しを大局的に描いている。
第二章では、「『私』を破壊する『私』」というテーマで、第一章に引用していたR・D Laignの統合失調症についての議論を用いて、「存在論的不安定においての他者による承認によってもたらされる“危機”に対する戦術」について論じられている。そこからそもそも「存在論的不安定」な状態に置かれるコミュニケーションパターンとは何かという問いから“家族という存在”について展開していく。
第三章は、「外国人は「どのような人」なのか」というテーマ。“異質性”を前にしたとき私たちはどのような「技法」を身につけているのかという問いから始まる。朝日新聞と週刊誌の記事から「外国人─女性労働者・留学生、就学生」というジャンルで分析をし特徴を紹介した後、それらから抜き出せたマスメディアのラベリングの特徴を「客体−主体・ネガティブ−ポジティブ」のマトリクス表で整理。そこから「異質な他者のまま」その”主体”と向き合う技法は何かと展開していく。結語としては、その技法が何かはマスメディア分析では見つからなかったが、考えていくべき対象であることには違いないというものだった。
第四章、「リスペクタビリティの病」は、社会学者ブルデューの高級ホテルでの振る舞いから見る階級別の特徴から、中間階級の病である「いまある私」と「あるべき私」のズレを論じた話を、同じく社会学者のホックシールドの「The managed mind」の感情管理における「表層演技」「深層演技」に繋げて、「リスペクタビリティ(きちんとしていること)」から陥る病を繋げて論じるというダイナミックな展開であった。また、リスペクタビリティのもう一つの病として、リスペクタビリティを他者に強いることを挙げ、歴史学者のMooseがナチズムと関連づけて展開しているものを引用していた。
第五章、「非難の語彙、あるいは市民社会の境界」では「自己啓発セミナー」に関する週刊誌の記事分析から我々の持つ技法と「社会」を編成する様式を検討するというものであった。セミナー記事の語彙分析から、「過剰な効果」として非難する傾向と、「過小な効果」として非難する傾向を見出した。それらを踏まえて、現在の「私」をつくる技法が「コントロール不可能性」を基軸とするのか「コントロール可能性」を基軸にするのかという問いを考察する展開があり、「市民社会」という概念を巡るエリアスの議論を用いて「コントロール不可能なもの」を処理する空間についても考察していた。最後に「自己啓発セミナー」に対する非難の性差について言及していたが、データの偏りや不十分さからあくまでの仮定の話をしたに過ぎなかった。
そして第六章。「理解の減少・理解の過剰」。「他者といる技法」というタイトルを見て購入を検討した人はこの章を読めば満足できるだろう。「他者と共存することはいかにして可能なのか」という大きな問題を「理解」という技法に限定して展開している。議論のたたき台としてアルフレット・シュッツの「理解」についての構図を紹介した後に、他者を理解することの構造や「理解の過小・過剰」による苦しみ、それらと「暴力」「差別」の関係を考察していく。その過程で他者と「共存」するためには「理解」という技法にとらわれず別の技法、「わかりあえないままいっしょにいるための技法」について検討する必要性を論ずる。そして最後その技法について述べていく。
大まかな構成はこのような感じだ。各章はそれぞれ独立した文章を基にしているため、どこから読み始めても問題はない。筆者のコミュニケーションにおける大局的な視点が十分に盛り込まれている書籍となっている。
各章毎に疑問に思ったことや言いたいことはたくさんある。しかしこの世の中は各個人毎の欲望で成り立っているわけではないことはあなたも重々承知だろう。
各章の外面を書きだすだけで一杯になってしまった。そこで最後の悪あがきとして、第六章で「わかりあえないままいっしょにいるための技法」として筆者から提示された、「話しあう」について思ったことを垂れていく。
筆者はこの技法は、「いま『理解がない場所』にお互いがいることをはっきりと認めることなしに始まらない」(p294)と述べる。これを前提として「話しあう」というのはある2つで構成されているという。
1つは「尋ねる・質問する」。これは「わからなさ」に付き合っていこうとするときにのみ開かれる。もう1つは「答える・説明する」。これは相手が私を「わかっていない」と感じるときにしか始まらない。この2つで構成されている「話しあう」は、わかりあうという「理解」を進めるための時間ではなく、「わかりあわない」時間の過ごし方についての技法であると筆者は述べる。
「わかりあわない」というのは「他者」を「他者」のまま発見するという回路が開かれているというもので、居心地は良いとは言えないがたくさんの発見や驚きを与えてくれるとも述べていた。
本書は「他者といる技法」をビジネスライクに呈示する易しいものではなく、我々が普段何気なく行っているコミュニケーションパターンを概念を通して再認識かつ再検討していく構成となっている。そしてその過程でいかに我々が「理解」という技法に固執しているか。というのが本書の核心であり、そうでない技法について考えていく土台となるような意図が込められている。そのため、タイトルに吸い付いた私みたいな輩は「話しあう」というのが展開されたときポカンとするだろう。
しかし、コミュニケーションというのはそんなものなのかもしれない。私と他者の間に何か強力な装置をおいて進歩していくものではないのだ。
本書でも述べられているように、「理解」における“原理的”な基準と、“実践的”な基準は全くもって異なる。アルフレット・シュッツが言うように、コミュニケーションは原理的には不可能だが、実践的には不都合がないのだ。だからこそ「わかりあえなさ」を忘れて「理解」の沼にとらわれてはいけないのだ。私と他者の間の谷は大股で跨げるようなものではないのだ。それを数百ページにわたってちゃんと考えさせてくれる書籍であった。
(飯島 渉琉)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2024-05-14)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ その他
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