マネジメント信仰が会社を滅ぼす
深田 和範
どちらが主役か
本書は冒頭で「マネジメント」と「ビジネス」をこう定義している。「ビジネス」=何らかの事業を行うこと。「マネジメント」=事業をうまく運営すること。企業活動で言えば、何かをつくるなり売るなりして利益を得ること、つまり「何をやるか」がビジネスであり、それを最大化、安定化させるために「どのようにやるか」がマネジメントである。従って、あくまでも主役はビジネスであり、マネジメントは黒子である。「何を当たり前のことを」と思われるだろう。そう、このことについて、異論のある人はまずいないのではないか。
ところが現実はそうではないらしい。マネジメントによってビジネスが抱える問題を全て解決できるという思い込みが広がっている。そのため、営業や製造の現場の第一線でビジネスを行っている人よりも、企画や人事など本部でマネジメントを行っている人のほうがエラクなっており、主従が逆転してしまっているのだ。これがタイトルの「マネジメント信仰」である。決して、昨今の「もしドラ」(「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」、岩崎夏海著・ダイヤモンド社)ブームに対するいわゆるカウンター本でもなく、マネジメントを全否定するものでもない。「マネジメント信仰」について警告を発する本である。
ただ真似るのはなぜ
これは何もビジネスに限ったことではないだろう。スポーツの現場においても同様である。強いチームの練習方法や運営方法、本に書いてあるトレーニング方法など、手法をただ真似るということは、よくあることだ。そして、それで満足してしまい、本来の目的を忘れてしまう。
なぜ、こういうことが起こるのだろう。答えは簡単。ラクだからである。すでにどこかで誰かが実践してみて、うまくいった手法というのは、自分もうまくいくという保証があるように錯覚してしまうのだろう。本書を読み始めた頃は「あるある、こういうこと」と面白がっていられるが、だんだんそうも言っていられなくなる。私は「これはウチの会社のことでは?」と錯覚したり、「管理部門に読ませたい」と感じた。本書を読んだ多くの人もそう思うはずだ。会社や上司のことだと思っていられるうちはまだいいが、「自分のことかも…」と思う箇所もあり、読み進めるのが怖くなる。
本書では、徒にデータや理屈を振り回す「真似ジメント」ではなく、「経験と勘と度胸」で勝負すべしということが書かれていて、その具体例として、うまくいった事例、失敗した事例がいくつか紹介されている。しかし本書の目的は、結果とそれに至る経緯を評価することではない。本書は「マネジメントが下手だからビジネスがダメになったのではない。マネジメントなんかにうつつを抜かしているからビジネスがダメになったのだ」という主張で始まり、「マネジメントなんて小難しいことを言っていないで、さっさとビジネスを始めよう」という訴えで締めくくられている。一貫して「意思を持て」「決断せよ」「リスクを引き受けよ」と読者に迫ってくるのだ。
信じる道を
私は小学生の陸上クラブの指導をしているのだが、常に不安を感じている。彼らの、一生に一度しかない「今」を、そして無限の未来を、私の拙い指導で台なしにしてしまうのではないだろうかという不安である。だから、あれこれ理屈をつけて、あらかじめ逃げ道をつくっているのではないのか。指導方法やトレーニング方法を勉強したり、データを集めたりするのは、子どもたちのためでなく、自分を守る理論武装のためではないのか。本書を読んで「自分のことか?」と感じるのはそういうことである。
「もしドラ」で描かれているように、ドラッカーの言う「われわれの事業は何か。何であるべきか」「顧客は誰か」の問いは、企業に限ったことではなく、あらゆる分野のあらゆる組織に普遍的なものだと思う。
何のために、誰のために、何に向かって。スポーツに関わる一人一人がその問いに向き合い、自分なりの答えを探してほしい。そして勇気を持って自らの意思で決断し、信じる道を突き進んで行かれることを願う。
(尾原 陽介)
出版元:新潮社
(掲載日:2011-06-10)
タグ:マネジメント ビジネス 組織
カテゴリ 人生
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子どもの運動能力を引き出す方法 親子遊びと姿勢チェックが第一歩
佐藤 雅弘
コーディネーショントレーニングとコンディショニングを中心に、その意味や重要性を丁寧に解説している。親向けの本にしては専門的な言葉が多く、とっつきにくい感じを受ける方もいるかもしれないが、それでも頑張って読んでみてほしい。それだけの価値のある本だろう。
私が思うに、コーディネーショントレーニングとコンディショニングの共通点は、どちらも即効性がなく効果がわかりにくいが、それでいてとても重要な要素であることだ。だからこそ、日々の小さな積み重ねが、後々の大きな差となって現れる。
本書では、親子での遊びやスキンシップを通して、子どものコーディネーション能力を高めたり、正しい姿勢を習得できるよう、さまざまなメニューが紹介されている。
ただ、私も3児の父であるが、経験上、親が子にこのような”指導”を行うことは非常に難しいだろうと思う。なぜなら、親は子どもの能力を高めてやろうという狙いをもって接しているが、子どもは純粋に親と遊んでいるだけであり、つまらなければ違う遊びをせがむからだ。子どもからすれば、せっかく楽しく遊んでいるのに、親がコーチ面をしてあれこれ指示を出してくるのがうるさいのかもしれない。
ならば、親も純粋に子どもたちと遊べばよい。
本書にあるような遊びのメニューや理論的背景を踏まえつつ、とにかく親子で体を動かして思い切り遊ぶ。これに勝る幼年期のトレーニングはないように思う。親の役割は、子どもに、身体を動かして遊ぶことの楽しさを伝えることである。
親に必要なのは、一にも二にも体力なのだ。
(尾原 陽介)
出版元:高橋書店
(掲載日:2012-10-13)
タグ:コーディネーション
カテゴリ 運動実践
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スポーツ少年のメンタルサポート 精神科医のカウンセリングノートから
永島 正紀
まず、著者は序章で自分の立ち位置をこう規定している。
「スポーツをすることそのものより、スポーツとの取り組み方により、さまざまな精神的問題や心理社会的問題が生まれることを示し、とくに現代の子どものスポーツのあり方や現状について精神科医の目を通して考えてみたいと思います」。
精神科医である著者が、少年スポーツの現場にいる指導者とは違った視点で、スポーツについて語っている。
現場の指導者やプレーヤーの家族の方々にもぜひ読んでいただきたい本である。おそらく、本書で語られていることにはなかなか同意しづらいという人も大勢いることと思う。とくに、勝ち負けの価値観については、そうだろう。だが、だからこそ読む価値もあるのだといえる。
スポーツは、そのとらえ方により、さまざまな顔を持つ。身体運動を通した人間教育、人と人とのコミュニケーション・ツール、健康・体力づくりの手段、レクリエーションの場、自己実現の舞台…。これらの共通項は「スポーツは遊び」だということである。「たかがスポーツ」なのである。プレーヤー本人も指導者も保護者も、それくらいのスタンスがちょうどいいんじゃないの、と著者は主張している。
本書を読んで、私のような一般社会人のボランティア指導者の役割について、ふと思ったことがあるそれは、「たかがスポーツ」という価値観を子どもたちに示すことではないだろうか、ということである。「スポーツができるからといって、それが何か世の中の役に立つのか?」。時にはそう言って、プレーヤーにスポーツとの関わり方について、疑問を抱かせることも必要かもしれない。子どもたちがさまざまな職種のコーチたちとの交流を通じて、多様な価値観に触れることにより、スポーツとの距離感や自分の立ち位置を確認するのだ。
数年前に90歳で他界した私の祖母の面白いエピソードがある。彼女がまだ働き盛りのころ、近所の高校の校庭で学生たちがバスケットボールをしているのを見て、こう言ったそうだ。「あんな穴のあいたカゴに何回球を入れたって、落ちるに決まってる。高校生にもなって、あの子ら大丈夫だろうか…」
スポーツなんて、所詮そんなもの。「たかがスポーツ」であり、「遊び」であり、「世の中の役に立たないこと」なのである。だからこそ、おもしろいのだ。だからこそ、熱く、真剣に、夢中になれるのだ。
(尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2012-10-13)
タグ:スポーツ精神医学 メンタル 部活動 ジュニア
カテゴリ メンタル
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学校スポーツ ケガをさせずに強くする
森部 昌広
フィジカルトレーニングやコンディショニングの重要性を訴える内容の一冊。
スポーツの指導者の中で、身体能力を向上させるトレーニングや体調管理について、「必要ではない」と思っている人はどのくらいいるのだろうか? おそらく、ほとんどの指導者は、「必要だ」と認識しており、何らかの取り組みをしていると思う。
ところが最近、ちょっとした異変が起きている。「フィジカルトレーニングは必要ない」という意見が台頭してきたのだ。サッカー指導者のジョゼ・モウリーニョ(2010年現在イタリア・インテル監督)の流儀が注目され始め、日本でも『テクニックはあるが「サッカー」が下手な日本人』(村松尚登著、ランダムハウス講談社)が出版され、売れ行きも好調らしい。もちろんこれは、身体能力の向上やコンディションを整えることを軽視するものではなく、実際に起こりうる状況を想定した練習を繰り返すことで、それに必要な身体能力も必然的に向上するという考えで、フィジカルトレーニングとプレー練習を別々に行わないという点がこれまでの主流と違っている。
ただ、フィジカルトレーニングについて、どのように考えていようとも、競技スポーツにおいて身体能力の向上やコンディショニングが重要事項であることには変わりはない。
本書のタイトルの「ケガをさせずに強くする」ことは、種目や国やレベルが違っても、スポーツの現場における共通の命題なのである。ところが現状では、フィジカルトレーニングやコンディショニングの重要さが繰り返し叫ばれている。
なぜか。おそらく、それらが正しく理解・実践されていないせいであり、本書がそれを基礎からわかりやすく丁寧に解説してくれている。スポーツ指導に携わる人は、本書の内容をよく理解したうえで、各現場に合ったアプローチ法を研究してほしい。
(尾原 陽介)
出版元:毎日新聞社
(掲載日:2012-10-13)
タグ:トレーニング
カテゴリ スポーツ医科学
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子どものメディカルフィットネス レジスタンストレーニングによる体ほぐしの運動
都竹 茂樹 梶岡 多恵子
レジスタンストレーニングが「体ほぐし」?「筋トレ」でしょ? 誰もがそう思うに違いない。私もその一人。
レジスタンストレーニングのポイントは、どれだけ重いウエイトを持ち上げるかではなく、刺激を与えたい筋肉にどれだけ意識を集中できるかという点にある。それが、体への気づきを促し、緊張とリラックスのコントロールを可能にし、深い呼吸は心身のリラックスを導く。そういう風にレジスタンストレーニングをとらえたことはなかったので、なるほどと納得。
ただ、少し疑問に思う点もある。果たして本当に、子供たちがレジスタンストレーニングによって体をほぐせるのか? ということである。紹介されている学習指導案と同じことを、私は指導できるだろうかと考えると、答えは「NO」である。
子どもたちは目に見えるはっきりとしたフィードバックを欲する。重さとか距離とか回数とかタイムとか、そういうものだ。
「どこの筋肉が硬くなってる?」と問いかけても、子供たちのからは「オレ20回やったよ」などという反応が返ってきそうな気がする。
子どもの興味を自分の身体へと向けさせることは、かなり困難だ(少なくとも私にとっては)。
しかし、子供たちにとって後々の大きな財産となるのは、重さでも距離でも回数でもタイムでもなく、あとがきにもあるように「自分の体と対話できる能力」だ。
それを磨くため、私も日々未熟ながらも、手を変え品を変え「気づき」を促しているつもりである。
「レジスタンストレーニングによる体ほぐし」という組み合わせは万人向けではないかもしれないが、思い切って試してみる価値はあると思う。
(尾原 陽介)
出版元:ぎょうせい
(掲載日:2012-10-14)
タグ:子ども フィットネス 体ほぐし トレーニング
カテゴリ 運動実践
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キッズテニス 「好き」を見つける 「楽しい」を育む
伊達 公子
キッズテニスのメニュー例が示されているが、ハウツー本ではない。本書は、なぜキッズテニスなのか、キッズテニスを通じて何をどうしたいのか、という著者の考えが詰まっている。その答えの1つとして「総合型地域スポーツクラブ」が挙げられており、著者はそれを理想としている。
しかし、本書の発行は2004年。末端のスポーツ現場にいる私は、現在、総合スポーツクラブは早くも転換期にきていると感じている。地域に根づいた多種目多世代コミュニティーとしての「総合型地域スポーツクラブ」が提唱され、行政の後押しもあって各地で競うように設立されたが、理念のみが先行し、運営が立ち行かなくなるクラブや矛盾を抱えて立ち往生しているクラブが増えてきている。そして、これからはクラブの淘汰・再編・統合が進むだろうと感じている。
なぜ、そうなってしまったのか? 多くの総合型スポーツクラブはその目的が「総合型スポーツクラブの設立」だったからだと思う。総合型スポーツクラブを通して何をしたいのか、という目的も無くただヨーロッパのシステムを模倣した結果なのだろう。
また、「子どもの頃はいろんなスポーツをやるとよい」と言われ、スポーツクラブを掛け持ちする親子も多い。親も子もヘトヘトだ。さらに指導者も困る。うまいけど他のクラブとの掛け持ちで練習を休みがちな子と、下手だけど毎日真面目に練習にくる子と、さあ、先発メンバーに選ぶとしたらどっち? 確かに「総合型スポーツクラブ」なるものが各地に存在するようにはなった。しかし、どこかで何かを履き違えてしまったような気がする。果たして、著者が見た夢は実現したのだろうか。そんなことを考えながらこの本を読んでみるのもよいと思う。
(尾原 陽介)
出版元:岩波書店
(掲載日:2012-10-15)
タグ:総合型スポーツクラブ ジュニア指導
カテゴリ 指導
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バク転完全攻略本
吉田 哲郎
私はバク転ができない。だからこの本の内容が正しいのかは判断しかねる。ただ、いろいろな意味で面白い本であると思う。
面白さの第一は、この本には、バク転ができるようになるためのことしか書いていない点だ。ありがちな、「バク転で子どもたちに笑顔を云々…」とか「人間形成をなんたらかんたら」というようなことにはまったく触れられていない。
「バク転ができればカッコイイのは間違いなし!」というためだけに、バク転を完成させるための練習法だけが書いてある。
そして第二はその練習法である。バク転に必要な要素を分解し、さまざまな技でそれを習得してゆくのだ。最終的にそこで習得した感覚や身体の使い方を統合し、バク転を完成させるという流れになっている。まさに「攻略本」だ。
もうひとつ、面白いと思う部分がある。それは、冒頭および各カテゴリーの扉ページに記載してある警告だ。
・あらゆる人がバク転を成功させることを保証するものではない
・物的損害、障害、後遺症、死亡などの可能性がある
・すべての運動におけるリスクは、運動を行う本人が負う
など、当たり前のことばかりだが、それをズバリと書いているのは、他のハウツー本ではあまり見たことがない。そんなことまで警告しなきゃならなくなったのか、とちょっと寂しい気持ちにもなったが。
子ども向けの本なのでとてもわかりやすく、私(38歳)も練習次第でできるようになるんじゃないかという気持ちになった。でもやっぱり、やめておいたほうがいいだろうなぁ。
(尾原 陽介)
出版元:スタジオタッククリエイティブ
(掲載日:2012-10-16)
タグ:バク転
カテゴリ 運動実践
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子どもの目の健康を育てる
枝川 宏
自分と他人は、見えている世界が違う。考えてみれば当たり前のこと。だけどそれは、ものすごく新鮮な驚きでもある。
「色を見分ける力は6~10歳でおとな並み、ものを見る経験も必要」「距離感や立体感を知る力は6歳くらいでおとな並み」「立体視の発達には3歳までが重要な時期」。おおお、なるほど。
本書はタイトルの通り、子どもの目のトラブルのしくみや予防・対処方法などを細かく解説する本である。しかし、私が本書を読んだ感想は冒頭のとおりである。
こんな例がある。小学生にハードルや走り高跳びをやらせると、すんなり跳べる子と躊躇してしまう子がいる。ハードルや高跳びのバーと自分との距離感がうまくつかめるかどうか、という問題だと考えている。なんで跳べないのかなぁ、と不思議に思うこともしばしばだが、本書を読んで少し納得。これまでの経験や目の特性によって、ひとりひとりが認識している世界が違うのだ。
私には3人の子どもがいる。今年で12歳(男)、9歳(女)、4歳(女)だ。3人3様、それぞれのものの見え方が違うのだなぁ。中でも、一番下の娘が見ている世界は、私と全然違うのかもしれないと思うと、ものすごく面白い。一体、どんなふうに見えているのだろう。
(尾原 陽介)
出版元:草土文化
(掲載日:2012-10-16)
タグ:眼
カテゴリ 医学
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ホイッスル! 勝利学
布施 務
読んでいる間、ずっと苦しかった。「本気でぶつかっているのかい?」と問い詰められ、「“エッジ”に立って飛んでみろよ」と挑発され、「目標は手の平に載っている。握る努力をするのかしないのか。決めるのは自分自身だぜ。」と試されたみたいだ。
本書は本来、「たとえ持って生まれた人柄や個性は変わらなくても、考え方の習慣はトレーニングで変えられる」という前向きな内容の本である。
しかし、私にはそう感じられた。家庭と仕事とボランティアでのスポーツ指導と、どれもこれも言い訳ばかりの中途半端。ああ、なんてダメなオレ…。読み進めるにつれ、どんどんどんどん自虐的な気分になってゆくのだ。
この本は、今まさにプレーヤーとして夢を追っている小中高生向けに書かれている。しかし、指導者にこそ読んでほしい本、いや読むべき本である。
「本気」なのか? 「断固たる決意」はあるか? 指導者たる者は、生徒に精神論を語る前に、自分のことを見つめなおし、「できない自分」と向き合う勇気を持たなければならない。
落ち込んでいる場合ではない。私も「できない自分」と向き合おう。そして、心の中に本気の火を灯し、「今、この瞬間」に全力を尽くそう。読後には、そういう気持ちにさせてくれた。背中を押してくれる一冊である。
(尾原 陽介)
出版元:集英社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:メンタル
カテゴリ メンタル
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裸足ランニング
吉野 剛
私も裸足好きの一人である。しかし、残念ながら今のところ、私の暮らしている社会では裸足のまま出歩くわけにはいかない。いくら裸足が身体によいことが立証されたとしても、家の周りを裸足で歩いたり走ったりしていては、ご近所の人にどう思われるだろうか。家族からも、恥ずかしいからやめてと言われるだろう。しかし、本書のような本が出ることで、裸足が1つのスタイルとして認知されれば、私も大手を振って裸足で出歩けるというものだ。
本書の中で、裸足ランニングの火付け役として「BORN TO RUN」(クリストファー・マクドゥーガル著・NHK出版)が紹介されている。しかし、その舞台は山岳トレイルのウルトラマラソン。一部の特殊な人たちのことのようで遠い存在だが、本書の舞台は近所の公園。これはいい。ぐっと身近だ。その気になったらすぐにでも実行できる。もしあなたの家族に小さな子どもがいるのなら、子どもと一緒に芝生のある公園で裸足になって遊んだらいい。それなら他人の目も気にせずに裸足の心地よさを堪能できるだろう。
私が裸足についていろいろと調べたのは大学の卒業論文を書いているときだ。そのタイトルは『各種履物からみた歩行における踵の動き』という。さまざまな靴を履いて歩き、下腿と踵の角度変化のパターンを比較し、履物が歩行に及ぼす影響を考えるという内容である。その際に基準としたのが、裸足歩行での角度変化パターン。つまり、裸足歩行のパターンと似ているか違っているか、という観点で履物の比較をした。つまり、「裸足歩行は最も自然で身体を傷めない理想的な歩行である」という前提であった。裸足や履物についてのさまざまな文献を読んだ影響だろうか。それ以来、自分なりに生活の中でできるだけ裸足になったり、シューズを選ぶ際にも裸足の感覚に近いかどうかということを重視するようになった。そんな縁もあってか、偶然、本書『裸足ランニング』が目に飛び込んできて即、購入。私が本書を画期的だと思うのは、屋外を裸足で走るためのハウツー本だということだ。裸足で走るためのトレーニング方法というのが面白い。しかし、正直に言って、少々残念な点があることも否めない。なぜ裸足ランニングなのかという強いメッセージが感じられない。たとえば「裸足ランナーへの10のメッセージ」。「自然に帰ろう」という言葉で始まっているが、最終的に「気持ちよい思いをして、なおかつ走力がアップするなんて、最高でしょう?」と締めくくられている。また別の箇所では、裸足ランニングを取り入れたらレースで大幅に自己ベストを更新した、というようなことが書かれている。これでは走力アップのためのトレーニング手法の1つでしかないという印象を受けてしまう。裸足になることで足が本来持っている機能が最大限に発揮され、それによってタイムが大幅に向上する可能性があることを示し、裸足のよさをアピールしたいのだということはよくわかるのだが。
ランニングシューズは走るための道具として発達してきたはずだ。仮にそれが、かえって足の故障を誘発しているとしても、たまたまその設計思想が間違っていただけで、「ランニングシューズは要らない」という結論に直結するとは思えない。もしかして、今後さらに研究が進み、より優れたシューズが開発され、本当に必要な道具として発展してゆくかもしれないのだ。
裸足について調べたり考えたりすればするほど、疑問がわいてくる。「裸足ならば自然で理想的な状態なのか」「そもそも自然な状態が理想的なのか」「ランニングシューズという道具は本当に不要なのか」といった問いを、私は卒論以来、未だに抱えたままである。先行研究や著者自身が行った実験の結果、さらに裸足ランナーの実例を紹介し、「『裸足=ケガが多い』は科学的根拠がない」と述べているが、「裸足=ケガをせずに速く走れる」ことや「全てのランニングシューズがケガを誘発する」こともまだまだ科学的根拠が乏しいと言えるのではないか。
私は裸足ランニングにも興味がある。しかし、どんなにそれに心酔しているとしても、こういうことを一人一人が問い続け、議論を深めなければ、一過性の流行で終わってしまうと思う。本書がランナーたちにどんな波紋を広げるのか。果たして裸足ランニングは普及するのか。これからが楽しみだ。
(尾原 陽介)
出版元:ベースボール・マガジン社
(掲載日:2011-02-10)
タグ:ランニング
カテゴリ 運動実践
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逆システム学 市場と生命のしくみを解き明かす
金子 勝 児玉 龍彦
“フィットネス”という概念が日本にも紹介されてずいぶん経つと思うのだが、その意味がしっかりと浸透していないなぁと思うことがある。フィットネスとは、何だかわからないけどおしゃれなトレーニングのことなのだろう、という程度にしかとらえられていないと感じるのだ。
僕の職場は公共の体育館である。“フィットネスルーム”もある。やれ空調がどうだとかBGMがどうだとか、色々な要望が寄せられる。どうやら、夏涼しく冬温かい快適な空間で体を動かしたいらしい。
エアロビクスのプロのインストラクターでさえ「暑いから空調をもっと強くしろ」と言ってくる始末である。それは“フィットネス”ではないだろうと個人的には思っている。
“フィットネス”とはすなわち環境に適応する力のことであり、トレーニングはそれを高めるために行うものなのだと思う。では、空調のきいた快適な空間でトレーニングすることが果たして“適応する力”を高めることになるのだろうか。 本書は生命科学や経済学の知識に乏しい僕にとってはかなり難しい本であり、正直、理解できない部分も多かった。だが、キーワードである「多重フィードバック」という考え方は大いに参考になると思った。適応するしくみを多様で複雑なものに進化させることで生存できる可能性を増すのだ。
あるコーチが言っていたトップアスリートの条件を思い出した。「なんでも食えて、いつでもどこでも寝られること」。これも「適応する力」ということなのだろうか。ちょっと違うかな?
(尾原 陽介)
出版元:岩波書店
(掲載日:2012-10-16)
タグ:経済 生命
カテゴリ 生命科学
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知性はどこに生まれるか ダーウィンとアフォーダンス
佐々木 正人
「語る前に見よ」。
行為に何らかの意図を読み取ろうとしてはいけない。行為は「はじまり」があって、「まわり」に出会い「変化」するのだ。そして「変化」には目的も方向もない。「変化」の「結果」が残るだけである。その「結果」から行為に意図や目的をくっつけて説明するというのは、大きな誤りなのだ。
本書には、かなりのページ数を割いて、ダーウィンが観察したミミズだとかキャベツの子葉だとかモグラだとかのことが書いてある。そこだけでもかなり面白かった。
「ミミズは地球の表面を変えるために生きているのではなく、ミミズの生の結果が大地を変えただけだ」とか、「モグラはトンネルを探しているわけではなく掘りながら土の中にあるやわらかさのつながりを発見しているのだ」という言葉が本書に書かれているが、それらが私の心の中で次第に存在感を増している。
ただ「まわり」に出会って「変化」する。私も「まわり」に出会って変化するし、私自身が誰かを何かを変化させる「まわり」でもあるのだ。ミミズが耕した大地のように、モグラが掘ったトンネルのように、変化した歴史と痕跡をひっくるめて「生きている」ということなのかもしれない。
私とはなんとちっぽけなものなのだろうと思う。それは決して不快な気持ではなく、むしろ、清々しい。
(尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:アフォーダンス
カテゴリ その他
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知能の謎 認知発達ロボティクスの挑戦
けいはんな社会的知能発生学研究会
「人間らしさとは何か」
「自己と他者の境界はどこか」
「『私』が『私』であるとはどういうことか」
このことについて、自分の考えを論じられる人はどのくらいいるのだろうか。私のように思索などとは無縁の者は、考えることすらままならず、そういうのは哲学者や文学者にお任せ…と諦めてしまう。
本書は人工知能の話で、ロボットの開発者がこういう哲学的な問題に正面から取り組んでいるというところが面白い。人工知能やロボットの開発といっても、人間そっくりのロボットをつくりたいという正統派から、人間理解の手段として人間の本質を再現するようなロボットをつくって動かしてみるという人まで、いろいろなアプローチがあるのだが、とにかく「人間らしいロボット」をつくるためには、まず「人間らしいとはどういうことか」について議論しなければならない。言われてみればもっともである。
以前、地域スポーツクラブの立ち上げをお手伝いしたとき、会員管理システムが必要だということになった。でも、パッケージものではこちらの要望に合うものがなさそうだし、それをカスタムしてもらうとなるととんでもない金額になる。そんなとき、知り合いのSEがボランティアでプログラムを組んであげると言ってくれたので、渡りに船とばかりにお願いすることにした。クラブの負担はサーバーやクライアントなどのハードウェア代だけ。関係者は「いやはや、これぞまさしく地域総合型だねぇ」などと調子に乗って好き勝手に要望したら、SEさんから「そんなの無理」と一蹴されてしまった。結局、ルーチンワーク中心の事務システムに落ち着いたのだが、どうやら、我々が普段何気なく判断している「◯◯のときは□□、だけど◯△になったら□×、さらに△◯となったら××」ということをコンピューターにやらせるのは、大変なことのようだ。
人間の事務を肩代わりさせる道具としてのシステムでさえこうなのだから、人間らしい人工知能となるとそれはもうものすごく大変なのだろうということは素人なりに想像できる。近い将来、人間そっくりなロボットが出現するのだろうか。楽しみなような、怖いような…。
(尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2013-05-27)
タグ:ロボット
カテゴリ その他
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ヒート
堂場 瞬一
私の人生に影響を
自分の考え方、大げさに言えば自分の人生に影響を与えた本は? と問われたら何を挙げるだろうか。何かにつけ影響を受けやすい私は、どれを挙げればよいか迷ってしまうほどたくさんある。『北の海』(井上靖)、『燃えよ剣』(司馬遼太郎)、『永遠のセラティ』(山西哲郎・高部雨市)、『ブラックバッス』(赤星鉄馬)、『マネー・ボール』(マイケル・ルイス)、『水滸伝』(北方謙三)、『のぼうの城』(和田竜)などなど。そこに、もしかして本書『ヒート』も加わるかもしれないと感じている。こういうことは後になってわかることなのだから、今はまだ「かもしれない」段階なのだが。
本書はベストセラーとなった「チーム」で異彩を放ったオレ様ランナー・山城悟をキーマンとして、男子マラソン世界最高記録の樹立を目指す物語である。
世界最高記録を狙える大会として、神奈川県知事の鶴の一声で新設されることになった「東海道マラソン」。日本マラソン界の至宝と言われる山城悟に世界最高記録を「出させる」ため、元箱根駅伝ランナーの行政マン音無太志は県知事の特命を受け、超高速コースを設定し、日本人による世界最高記録の樹立をお膳立てしようとする。そして30kmまでならトップレベルの甲本剛にラビットとして白羽の矢を立てる。この3人がそれぞれの矛盾を抱えながら、奇跡の42.195kmに挑むというストーリーだ。
現在の男子マラソン世界最高記録は、ケニアのパトリック・マカウの持つ2時間3分38秒。1km2分55秒ペースで走ればフルマラソンは2時間3分4秒。計算上は世界最高記録である。もしそれが実現できたら、とんでもない記録が生まれる。もちろん「机上の空論」である。山城も「そんなに簡単に計算できるなら、苦労はしない」とにべもない。それでも、企画担当者の音無は「机上の空論」を現実のものにするため、次々と対策を講じてゆく。しかし、本番ではそんな計算を全てふっ飛ばしてしまうような、まさしく「HEAT」が繰り広げられる。
なぜ私は本書に惹かれるのだろうか。まず、山城の意外な純粋さ。傲慢で、自分の身近にいたら大変困る奴だが、走ることに対しての純粋な気持ちには心を打たれる。そしてもう1つは、登場人物たちが抱えているさまざまな、決して解消されない矛盾。私という人間が元来ヒネクレているのかもしれないが、そういうのが好きなのである。
山城は言う。「客寄せパンダはごめんですよ」。
「走りもしないで応援だけしている連中の心境がどうしても理解できない」山城は、沿道の観客を「本当はこちらを『見世物』として見下しているのではないか」と断じる。だが、「沿道の観客」の一人である私はこう思う。実業団チームに所属している山城は、その時点で客寄せパンダであり、だからこそ給料をもらっているのではないのだろうか、と。それは甲本も同じである。現役マラソンランナーでありながら、金のためにペースメーカーを引き受けるが、常にそういう状況を後ろめたく感じ、「ブロイラーの気持ちがわかるような気がした」と自嘲している。本当はどこかの実業団チームから誘いを受け、マラソンランナーとしてもう一度勝負したいのだ。しかし、実業団で走るということは金のために走るということにほかならないのではないのか?
そういえば、冒頭に列挙した私の人生に影響を与えたと思われる本も、さまざまな矛盾をはらんでいるものばかりである。読むたびに、違った角度から物事を考えさせられ、刺激を受ける。
現実をもとに生まれる熱
本書からも多くの矛盾や疑問が投げかけられてくる。ペースメーカー、人為的要素満載の高速コース、スポーツと金、スポーツを利用しようとする政治家…。これらにモヤモヤした感じを常に抱きながらも、ストーリーに引き込まれて一気に読破してしまった。
本書は小説である。フィクション、つまりつくり話である。「あり得ない」と一笑に付してしまう人もいるだろう。だが、それならば、『燃えよ剣』の土方歳三も『のぼうの城』の成田長親も実在の人物ではあるが、ストーリーは脚色を加えたつくり話である。『水滸伝』の豹子頭林冲や青面獣楊志などの登場人物に至っては実在したかすら疑わしい。しかし、人々の心をとらえ続けて離さない。事実かどうかはさして重要ではない。現実をデフォルメしたリアルなフィクションが一番面白い、と思う。本書はまさにそんな一冊ではないだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:実業之日本社
(掲載日:2012-06-10)
タグ:マラソン
カテゴリ フィクション
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ルーズヴェルト・ゲーム
池井戸 潤
企業チームの存在意義
中堅電子部品メーカーの青島製作所は、折からの不況と金融恐慌に端を発した経営不振に対応するため、リストラを断行しようとする。それはノンプロ野球部も例外ではない。かつて名門と呼ばれたが、今では完全に会社のお荷物チーム。会社は危機を乗り越えられるか?
野球部は廃止か、存続か?100人規模のリストラを断行しようとしているのに、年間3億円の経費がかかる野球部をなぜ存続させるのか。リストラの対象となった社員にはとても納得のいくものではない。たとえどんなに勤務成績や態度が悪くても、午前中しか仕事をしていない野球部員よりは会社に貢献しているはずだ。私が青島製作所の社員だったとしても、リストラよりも野球部廃止が先だと考えると思う。当の野球部員は、「会社の活性化」とか「広告塔」という言葉にすがり、とにかくよい成績さえ残せば何とかなるのではないかと考えているのだが、それが何だか浮いているように感じられてしまう。会社内には、廃止意見ばかりでなく存続を望む声もあるのだが、存続させる意義を最後まで明確に打ち出せない。
本書を「逆転を信じてあきらめずに最後まで戦い抜く人たちの物語」として読めば、ラストは「よかったよかった」で読み終われると思う。しかし、野球部にとっては、なんの解決にもなっていない結末でもある。新たなパトロンを見つけてラッキーというだけで、そのパトロンも代替わりをしたりすれば結局また、同じことが起こりうる。
プロスポーツチームが行う本当の地域貢献とは
プロランナーの為末大さんが、著書「インベストメントハードラー」(講談社)でこんなことを書いている。「誰が私の何に対価を支払っているのかを常に考えるようになりました。(中略)スポーツは、必ず必要というものではありません。なくなっても生活がままならなくなることはない。けれども、スポーツは世の中から必要とされていて、スポーツ選手という職業が存在しています」。また、クリエイターの糸井重里さんも同じようなことを言っている。「クリエイティブの仕事は、必要のないものだけど、欲しがられるものだとぼくは思っている」。
私の住んでいる富山県には3つのプロスポーツチームが存在する。サッカーJ2「カターレ富山」、野球独立リーグ「富山サンダーバーズ」、バスケットボールbjリーグ「富山グラウジーズ」である。それぞれが地域貢献を掲げ、本業のプレー以外にもさまざまな活動を展開しているが、首をかしげたくなるものも多い。海岸清掃のボランティアや交通安全キャンペーンのチラシ配りである。そういうことをしてほしくて行政や地域や個人が支援しているわけではないだろうに、と思ってしまう。チームは、誰が何に対して対価を払ったり支援したりしているのか、プロスポーツチームが行う本当の地域貢献とは何か、ということをもっと真剣に考えてはどうだろうか。
手段以上の「何か」としてのスポーツ
これ以上書くとどこからか叱られそうなので、話を元に戻す。スポーツにお金をかける意義って何だろう。
スポーツが何かの手段として扱われるようになって久しい。子供がスポーツをすることは学業成績やコミュニケーション能力に好影響を与えるとか、メタボの予防や改善にスポーツをしましょうとか、そういった文脈で語られることが増えてきた。スポーツを単なる手段としかとらえていない人は、その成果に対して対価を払う。もっと安価で効率的な手段が見つかればさっさとそちらに乗り換えてしまうだろう。
では、私たちのようなスポーツを手段以上の何かと思っている人たちは、何に対して対価を払っているのだろうか。それは、上手く言えないが「スポーツそのもの」ではないだろうか。スポーツは「必要はないけど、欲しがられるもの」というよりも、「捨てられないもの」なのだと思う。何度整理整頓しても、捨てられなくて手元に残ってしまうものが誰にでもあるだろう。たとえば子供が小さい頃に書いてくれた似顔絵や、父の日にくれた手づくりの贈り物。スポーツはそれに近いのではないか、と思う。
役に立つとか立たないとか、必要か不要かではなく、スポーツそのものを楽しみたいし、子供たちにもそう伝えていきたい。ただこれではやはり、スポーツにお金をかける意義について、うやむやなままなのだが……。
(尾原 陽介)
出版元: 講談社
(掲載日:2012-08-10)
タグ:野球
カテゴリ フィクション
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ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか
鈴森 康一
ユニークな本
冒頭に「生き物は、自然界で長い進化の歴史を経て生まれたもの、いわば『神様が設計したロボット』である」という言葉が書かれている。本書はロボットの設計者が、理詰めで考えに考えてたどり着いた結論に、生き物が先に到達していることに対する畏敬の念と、それを超えたいという野心とが入り混じった、非常にユニークな本である。私のような工学的知識の皆無な者にはよくわからない部分も多いが、そういうことを気にせずに楽しく読めた。
しかし私は、これには少し違和感を覚える。ダーウィンの進化論は「変化(進化)には目的も方向もない」ということを基本としている。そして、「生き物は枝分かれを繰り返すことで多様性を増してきた」と主張している。途絶えてしまった枝は二度と復活しないし、枝が後から交わることもない。しかし、ロボットは何かの目的のために設計されるものである。枝を分かれさせるのも交わらせるのも、途絶えた枝を復活させるのも人間の意図次第で可能だ。
そう、生き物は意図的にその形や機能を獲得したのではなく、今生きている種は、枝分かれを繰り返して今も途絶えていない種だというだけである。たとえそれらが理にかなっている形態や機能を持っていて、それを神様が設計したのだとしても、自分の設計したロボットが意図せずそれに似てしまったというのは、ロボット設計者の傲慢ではないだろうか。それは、自分たちが神様に近づいたと言っているのと同じだから。そのうち自分を創造主と錯覚してしまうのではないか、というとSF漫画の読み過ぎだろうか。
ロボットは、色々なタイプの試作品を作り、改良を加えたり、後戻りして設計しなおしたりして、より完璧を目指すことができる。一方、生き物も確かによくできている。しかし、理詰めで設計されているわけではない。手持ちの能力で何とか目の前の現実に対処してきた結果の産物である。生き物の機能や形態や行動が理にかなっているというのは、後づけの理屈なのではないだろうか。『PLUTO(プルートゥ)』という漫画をご存知だろうか。鉄腕アトム「地上最大のロボット」を浦沢直樹さんがリメイクしたものである。ロボットに「命」はあるのか。ロボットが感じる喜びや悲しみや怒りや憎しみといった「心」は本物だろうか。結局、ロボットと人間はどう違うのだろうか、という問いかけがドスンと伝わってくるすごい漫画である。
現実の世界では、ロボットはどこまで発達するのだろうか。従来のロボットのイメージは産業用ロボットのようにパワフル・頑丈・正確というものであった。しかし近年、生き物のように柔らかさを備えたロボットの研究開発が進んでいるらしい。スキッシュボットという大きさや形や柔らかさが自由に変わるロボットは、身体の形を自在に変えて狭い空間にも入り込んでいける。ドラえもんの手にそっくりなロボットアームは、相手の形に合わせて形を変えることでどんな形状のものでもつかむことができる。意外に感じるが、従来のロボットはドアノブを持ってドアを開けたり、ビーカーのような硬くて割れやすいものをつかむのが苦手であった。しかし、ロボットが柔らかさを獲得することでそれらが可能になる。さらに、多少の損傷なら壊れた組織を自分で修復してしまうようなロボットの実現の可能性も示唆されている。
こうなると、漫画や映画の世界が現実のものになるということも、全く否定できなくなりそうだ。人工知能が飛躍的に発達し、「心」が芽生えることも近い将来本当にあるかもしれない。
命は生き物にしかないか
本稿の構想を練っている時期に、私は身近な人を2人も亡くした。このことは、私に生命について考えるという機会を与えてくれた。
ロボットが生き物に近づけば、それを「命」と呼ぶようになるのだろうか。ロボットが稼動している状態を「生きている」というのだろうか。ロボットが修理不能となり廃棄せざるを得なくなったことを「死」と捉えるのだろうか。長年苦楽を共にしたマイカーを廃車にするときに泣いた、という話はよく聞くが、それとは違う次元でロボットにも「命」があると言えるのか。それとも、「命」とは生き物にしかないものなのだろうか。
生き物とロボットの違いってなんだろう。
(尾原 陽介)
出版元: 講談社
(掲載日:2012-12-10)
タグ:進化 形態
カテゴリ 身体
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ウサイン・ボルト自伝
ウサイン・ボルト 生島 淳
よい本とは
私は最近、本の良し悪しについて感じたことがある。わかりやすいことや、共感できることが書いてある本は、実は意味がないのではないか。自分が漠然と思っていたことが言葉になっていて、「そうそう、それが言いたかった」というのは確かにうれしい。しかし、自分の理解が及ばないことや思いつきもしなかったことが書いてある本を読んだ方が、たとえそれを理解できなくても、自分の肥やしになり世界が広がるきっかけになるかもしれない。だから、共感できない・理解できない本をよい本というべきなのではないか。
本書は、盛りに盛った自慢話である。それに、ずいぶんとあけすけだ。こう感じるのは、私が謙虚さと節度を美徳とする平凡な日本人だからかもしれない(ジャマイカでは普通のことなのだろうか?)。しかし、それでいて嫌味がなく、読後感は不思議と爽やかである。
印象に残るシーン
ボルトといえば、非常に印象に残っているシーンがある。
何の大会のテレビ中継だったか忘れてしまったが、とにかくオリンピックか世界陸上の4×100mリレーの決勝。
レースのスタート直前、第3コーナー上で待機している3走のボルトの様子がアップで写っている。「On your marks」のコール後に観客に静かにするよう促す「シィーッ」という効果音(?)が会場のスピーカーから流れる。ボルトは微笑みを浮かべながら、それに合わせて人差し指を唇に当て、次いで両掌を下に向け軽く上下させ「静かに静かに」というジェスチャーをしていた。
決してふざけているわけではない。リラックスというよりも、本当に無邪気に決勝レースを楽しんでいるように見えた。そのおどけた姿を見て、私は、この人には誰も敵わない、と思った。
強さの秘密
どうやらボルトの強さの秘密は強烈な闘争心と自負心にあるらしい。
まず闘争心。強敵や敗北がボルトの心に火をつけ、大きなレースになればなるほど燃える。
私も一応陸上競技者であったのだが、ボルトのように「相手をやっつけてやる」という気持ちでレースに臨んだことは一度もなかった。むしろ逆に、他の選手のことは意識せずに自分の最高の走りをして自己ベストを狙うことだけに集中していた。
勝ちたい気持ちは当然あるのだが、よい記録を出せば順位は後からついてくると考えるようにしていた。他の選手のことを気にすると集中できなくなってしまうのだ。これは私の取り組みの甘さと気持ちの弱さの表れなのだろう。
が、ボルトは違う。「タイムを狙うことは考えない」「最強の選手に勝たなければ面白くない」「記録はトッピング、金メダルはケーキそのもの」というように、勝つことを最大の目標としている。「おいブレーク、こんなことは2度と起きないからな」2012年のジャマイカ選手権で、チームメイトで後輩のヨハン・ブレークに優勝をさらわれたときに、ボルトがブレーク本人に宣戦布告した言葉だ。
なんという負けず嫌いなのだろう。
そして自負心。2009年の自動車事故で九死に一生を得たボルトが感じたのは、神からのメッセージだった。「俺が生き残ったのは、地球上で最速の男として選ばれたというお告げであり、事故は上界からのメッセージだと受け取った。勝手な考えかもしれないが、神は最速の男の座に就くのは俺だと考えているようだ」
また、別のページではこんなことも書いている。ドーピング問題に対しての考えだ。「だいたいドーピングというのは、競争できるだけの身体的能力を欠いている連中がするもので、俺はそんな問題は抱えていなかった」
普通、こんなこと言えない(これもジャマイカでは普通?)。
世界が広がる本
自分の才能と努力に絶対の自信を持ち、最高の舞台での強敵との勝負を楽しんでいるからこそ、レース前のおどけたしぐささえも観客には愛嬌と映るのだろうか。 次元が違いすぎて共感できることはほとんどないが、トップアスリートの精神状態に触れることができて、世界が広がる本だと思う。ただ、もし日本人がボルトの流儀を真似をしたら総スカンを喰うことは間違いないだろうが…。
(尾原 陽介)
出版元:集英社インターナショナル
(掲載日:2016-04-10)
タグ:陸上競技 自伝
カテゴリ 人生
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なぜ人は走るのか ランニングの人類史
トル・ゴタス 楡井 浩一
走る目的の変遷
原題(Running: A Global History)の通り、古今東西のランニングの歴史である。人々が何を得るために走ってきたのかにフォーカスし、その変遷を探っている力作。
ところで皆さんには、実生活において、足が速くて役に立ったという経験があるだろうか。私にはある。高校生の頃のことである。せっかく前夜に終わらせておいた宿題を家に忘れてきた。当時私は家から片道徒歩10分の高校に通っていたのだが、授業の休み時間(10分間)の間に家まで走って取りに行き、次の授業に遅刻することなく、事なきを得たのだ。私のマヌケな事例はさておき、古来より人々が走ってきた目的は何だろうか。金と名誉。この2つは今も昔も変わらない。
古代から19世紀半ば頃までは、伝令走者が活躍した時代である。名誉ある職で、報酬もよい。貴族は駿馬や強靭な走者を抱えることを、実際上もステータスとしても重視した。走者が主人の名にかけて競争する見世物のようなレースも開催されて、優勝者には大変な名誉と賞金が与えられていたようだ。
その一方で、下層階級の間で様々な賭けレースも盛んに行われていた。勝者には高額な賞金が与えられ、時には走者が自分に賭けることもあった。それに伴い不正やいかさま・八百長なども横行していた。わざと負けたり、調子の悪いふりをしたりしてハンディキャップや配当を操作したりもした。そういった下層階級の者たちが金を賭けて騙し騙されしながら走る姿に対抗した、上流階級の「あんな風にはしたくない」という気持ち、言い換えれば差別意識が生んだ倫理観が、19世紀後半から台頭するアマチュアリズムである。
上流階級の紳士とは、労働をせず資産の利子や土地収入によって生活していた人たちのことであり、身につけた知識や技能を生活のよすがとするのは紳士失格を意味する。彼らにとっては、金を賭けたり賞金の授受などは唾棄すべきことである。紳士たちは、腐敗や不正のないスポーツ、「競技のための競技」を目指した。そういう背景から生まれたアマチュアリズムは、下層階級を近代スポーツから排除していった。
本当のプロランナーとは
現在ではアマチュアリズムというのは死語に近い。報酬の多寡や地位にかかわらず、卓越した能力を持った者には「プロフェッショナル」として尊敬の眼差しを注がれ、「アマチュア」は大したことないとか低レベルの者といった、見下した表現に使われている。
現代ではすっかり立場が逆転してしまった感のある「プロ」と「アマ」であるが、走ることで報酬を得てそれで生活するという、本当の意味でのプロランナーとはどういうものだろうか。私が本書の中で一番印象に残った一節を引用して紹介したい。「ヨーロッパから見れば、アフリカはランナーの国のように見えるかもしれない。しかし、アフリカでジョギングが流行ったことはないし、車を持っていない住民は走ることより歩くことを好む。ヘンリー・ロノの子どもたちは、ケニアの理想的なトレーニング場の近くに住んでいるにもかかわらず、走ってもいないし、体を鍛えることすらしていない。ハイレ・ゲブラセラシェが走ったのは、家計に余裕を持たせて、自分の子どもたちが父親のように走らなくてすむようにするためだった」
結局、見世物レースが形を変え、今も続いていると感じるのは私だけだろうか。
いつかやめる日はくる
私の指導するクラブの子どもたちはなぜ走っているのだろう。クラブの練習日には宿題を超特急で終わらせ、友達とも遊ばずにせっせと通ってくる。まさか、親が将来儲かることを期待して、というわけではあるまい。自分は走ることが得意だから、それを磨いて活躍したいと思っているのかもしれない。
しかしいずれ、その子たちにも走ることをやめる日がくるだろう。楽しみとして走り続けることはあっても、競技者としていつまでも走ることはできない。そうなっても、クラブで速く走るために練習を続けた日々が、子どもたちにとって、よい思い出となってくれればそれでいいし、その経験が他のことにも参考になってくれたら、なおいいと思う。生活のために走るということの過酷さを思うと、金にもならないことに情熱を傾けられる今の境遇に感謝しなければならない。
(尾原 陽介)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2013-04-10)
タグ:人類史 ランニング
カテゴリ その他
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弱くても勝てます
髙橋 秀実
何とも言えない温かさ
髙橋秀実さんは私の好きな作家である。そこらへんにいる普通の人が何気なく発した面白い一言を、実にうまく拾っていると思う。そしてそれには何とも言えない温かい眼差しが注がれているように感じる。
本書の舞台は超進学校として名高い私立開成高校の硬式野球部。開成高校にはグラウンドが1つしかなく、他の部活との兼ね合いで硬式野球部が練習に使えるのは週1回3時間程度。そんな環境でかつては東東京大会のベスト16入りを果たしたこともあるらしい。
だが、本書に開成野球部独自のメソッドが紹介されているわけでもないし、ドラマチックな盛り上がりもない。そもそも「勝てます」というタイトルの割には、最近はあまり勝てていないようなのだが、そこがまた、何とも言えない味わいになっていると思う。
本書で中心となるのは、野球部監督の青木先生である。監督の言葉が随所に紹介されているのだが、その1つひとつがとても面白い。「猛烈な守備練習の成果が生かされるような難しい打球は1つあるかないか。試合が壊れない程度に運営できる能力があればいい」「自分たちのやり方に相手を引っ張り込んでやっつける。勝つこともあれば負けることもあるけど、勝つという可能性を高める」「ギャンブルを仕掛けなければ勝つ確率は0%。しかしギャンブルを仕掛ければ、活路が見出せる。確率は1%かもしれないが、それを10%に引き上げれば大進歩」
その「やりたいこと」「ギャンブル」「活路」とは、勢いに任せて大量点をとるビッグイニングをつくり、「ドサクサに紛れて勝っちゃう」ことである。高校野球の公式戦はトーナメントなので、10回のうち1回しか勝てない確率だとしても、その1回が本番ならそれでいいのである。思わず笑ってしまったのが、守備のポジションを決める基準である。
・ピッチャー/投げ方が安定している。
・内野手/そこそこ投げ方が安定している。
・外野手/それ以外。
おそらく、これをイチロー選手が聞いたら怒るだろうなと思うのだが、その理由を読むと納得。「勝負以前に相手に失礼があってはいけない」からなのである。まともに投げられない部員もいるのが開成高校。ストライクが入らないとゲームにならないので、打たれるにせよストライクゾーンに安定的にボールを投げることが開成高校のピッチャーの務めなのだ。
「偉大なるムダ」を真剣に
何とも頼りない感じを受けるのだが、青木監督は勝ちにこだわり、何とかしようとする。勝利至上主義ゆえではない。青木監督の考え方を読んだときには、じーんと胸が熱くなった。なんと素敵な先生だろう。「野球には教育的意義はない。野球はやってもやらなくてもいいこと。はっきり言えばムダ。しかし、これだけ多くの人に支えられているのだから、ただのムダじゃなく偉大なるムダである。とかく今の学校教育はムダをさせないで、役に立つことだけをやらせようとするが、何が子供達の役に立つのか立たないのかなんてわからない。ムダだからこそ思い切り勝ち負けにこだわれる。勝ったからエラいわけじゃないし、負けたからダメなんじゃない。負けたら負けたでしょうがない。もともとムダなんだから。勝ちにこだわると下品とかいわれたりするのだろうが、ゲームだと割り切ればこだわっても罪はないと思う」
体罰やオーバーユースの問題が起こるたびに、短期間で成果を出さなければならない学校部活動ではなく、長期的視野に立ったクラブチームでの一貫指導のもとで活動するべきだという意見が出る。それはそうかもしれないが、学校部活動があるからこそ、多くの子どもたちがいろいろなスポーツに触れることができるという側面もあるのではないか。現に、この開成高校の生徒たちは、部活動だからこそ野球を楽しめているのである。おそらくこの子たちは、部活動がなければ高校まで野球を続けていなかっただろうと思う。
学校部活動はプロ養成所ではないし、そもそも全員がプロを目指しているわけでもない。どんな活動でもいいから、1人でも多くの子どもたちに「偉大なるムダ」を真剣に楽しむ機会を提供する。部活動には教育的意義がないということに教育的意義があるのかもしれない。
(尾原 陽介)
出版元:新潮社
(掲載日:2013-08-10)
タグ:野球
カテゴリ 指導
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マウンドに散った天才投手
松永 多佳倫
結果的に一瞬の輝きに
病気や故障がなかったら、どんな大投手になっていただろうか。あと10年遅く生まれていたらメジャーリーグでどんな大活躍をしただろうか。諦めきれない、整理しきれないものを心の奥にしまい込み、「悔いはない」と言いきる。そんな男たちの苦闘を取材したのが本書である。
筆者は本書のテーマを「一瞬の輝きのためにすべてを犠牲にし、壮絶に散った生き様」としている。だがそれは、今さえよければ、ということではない。本当は長く一線級で活躍したかった。しかし結果的に、「一瞬の輝き」となってしまったのだ。
登板機会が与えられればうれしい。全力で投げる。ひときわ輝く才能を持っているだけに、与えられる機会も多い。それが結果的に酷使されることになる。“150キロのダブルストッパー”元中日の上原晃は言う。「潰されたとは思っていない。投げさせてもらえるのはとても嬉しいことだし、あくまでも自己管理の問題。昔はロングリリーフっていうのが頻繁にあって、決まった状態で投げていない。ロングリリーフはブルペンで準備する作業が多い。つまり、何回も肩を作らなきゃいけないので、かなり負担も大きい。でもあの当時はそれが普通だった。首脳陣に対して何の悪感情も持っていないよ」
そのフォームは正しいか
持って生まれた才能だけでやっていると、いつか故障する。だが、そのことに気づくのは、故障してからだ。
すごい球を投げている今のフォームが、無理があるのかないのか。故障につながりそうなら直さなければならないが、それを見極めるのはとても難しいと思う。うまくいっている状態をいじるのはとても勇気がいるものだし、ましてや、ずば抜けた才能を持っている者に対しては、指導者も口出ししにくいだろう。その投げ方だからこそ投げられる球なのか。それともフォームをいじったらもっとよくなるのか。もしかして持ち味を殺してしまい、ただの平凡な投手になってしまうのではないか。
元ヤクルトの“ガラスの天才投手”伊藤智仁のスライダーは、鉄腕・稲尾和久(元西鉄・故人)をして「伊藤のは高速スライダーじゃない。本物のスライダーだ」と言わしめた。その伊藤のフォームを、江川卓がテレビ中継での解説で「あの投げ方では絶対に肘を壊します」と言い、本当にそうなってしまった。江川の慧眼か、コーチの蒙昧か。それとも仕方のないことだったのか。“江夏二世”近藤真市は、現在中日の一軍ピッチングコーチをしている。彼は言う。「いいモノがあって入ってきているのだからフォームはいじらない。本人が悩んだ時やこのままでは危ないと感じたり、勝負をかけるタイミングの時にフォームのことを言う」「一番大事なのは、怪我をする前にいかにストップをかけてやれるか。これさえ念頭に置けば、あれこれいじらずブルペンで気持ちよく投げさせてやるだけでいい」、確かにその通りなのだろうが、それこそが難しいんだよなぁ、とも思う。
野茂のトルネード投法やイチローの振り子打法など、個性的なフォームで成功した選手もいる。それらを矯正しようとした当時の指導者を笑うこともできるし、やりたいようにやらせた指導者を褒め称えることもできる。だが、それはあくまでも結果を知っているから言えることなのだ。
迷いを抱えて
私は地域の陸上クラブで小学校1〜3年生の指導を担当している。その中にはめちゃくちゃな走り方なのに速い子もいれば、走り方は悪くないのに遅い子もいる。とにかく自分の走り方で気持ちよくたくさん走らせよう、と思ってはいるのだが、本当にそれでいいのか。早い段階から徹底的にドリルを行って、正しい走り方を身につけなければならないのではないか、という迷いをいつも抱えている。
私には才能を見抜く目などない。子どもたちが、いつか競技を辞めるときに「やり切った」と思えれば、それでいいと思っている。そのためには、頑丈な身体が何より大切。私は400mハードルをやっていたが、アキレス腱を痛め、思うように走れなくなって競技から遠ざかっていった。子どもたちにはそんな思いをしてほしくない。そうならないためにはどうしたらいいのだろう。
そんなことを思いながら、本書を読んだ。
(尾原 陽介)
出版元:河出書房新社
(掲載日:2013-12-10)
タグ:野球
カテゴリ スポーツライティング
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「世界最速の男」をとらえろ! 進化する「スポーツ計時」の驚くべき世界
織田 一朗
スポーツの面白さとタイム
タイム計測についての背景や仕組みについての詳細な記述がとても面白い本である。ただ、著者は元セイコー社員の「時の研究家」であるせいなのだろうが、タイム計測に傾きすぎているという印象を受ける。
著者は「究極のスポーツ計時は、アスリートに格別の制約や負荷をかけることなく、ありのままの姿でスポーツに励む最高の状態を数値化することだ」と言い、未来のスポーツの可能性として、競技会に一度も出場したことのない「世界最速の男」が誕生するかもしれない、とも言っている。
確かに計時を主として考えれば、その通りかもしれない。だが、スポーツを主として考えれば、全く逆だ。ありのままではいられない格別の制約や負荷の中で、いかによい状態でプレーできるか、というのがスポーツの面白さなのではないか。だからこそ、陸上でも水泳でもスキーでも、選手が一堂に会して競技会を行うのであって、タイムの比較だけなら、大会を開かずとも世界ランキング表を作成するだけで済んでしまうだろう。タイムとは、順位を決定するための資料であり、時間と空間を越えて選手を比較するための指標でもあるが、それ以上にはなり得ないのではないか。
「記録なんて」
このことについて、興味深い文章が2つある。
まず、伊東浩司氏(100m日本記録保持者)が書いた『疾風になりたい「9秒台」に触れた男の伝言』(出版芸術社)の一節である。「私も世界ランキングの6位か7位に名を連ねたことがある。しかし、外国に行ったら、そんなものまったく話にならない。日本は高速トラックだし、風がいいと向こうの人は思っている。事実、10秒00のタイムも『どうせ日本で出したんだろう』と言われたことがあった。高野さん(高野進:東京世界陸上・バルセロナオリンピック400mファイナリスト)に『記録なんてクソ食らえだ』とさんざん言われていた。『記録を持っていても、勝てなかったら意味がない』と」タイムトライアルとレースとの違い、とでも言えばよいのか。
「俺の」記録
とはいえ、陸上や水泳選手にとって、タイムには格別の思い入れがあるのもまた事実である。2つ目は高校生の短距離走を題材にした小説『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著・講談社)で、サッカー選手からスプリンターに転身した主人公の初レース後の気持ち。「43秒51、俺、この数字、忘れないかも。どうってことないタイムなんだろうけど、俺のもんだ…っていうか俺らのもんだ。(中略)陸上やってる奴が、なんであんなにタイムのことばっかり言うのか、少しだけ理解できたよ。名刺代わりとか看板とか思ってたけど、それだけじゃないね。出したタイムって、ほんとに“俺のもん”なんだよね。面白いや」
タイムと順位は、選手のレベルや目標によって、ウェイトの置き方は違う。自己ベストで優勝というのが最高なのだが、そううまくはいかない。ほとんどの選手が、たとえ予選落ちでも、せめて自己ベストをマークしたいと思ってレースに臨んでいるはずだ。
優勝は一握りの選手しか狙えないが、自己ベストは全ての選手が狙える。だからやはり、正確なタイム測定が不可欠であることは間違いない。本書には、正確なタイム測定の必要から計時装置が発達し、また、装置の発達により、競技運営も様変わりしていく様子が紹介されていてとても興味深い。
手軽な計時装置に期待
現場の指導者の希望としては、その技術を競技会だけでなくもっと広く、どこでもだれでも手軽に利用できるようにしてほしい。ピストルと光電管とストップウォッチを連動させた自動計時装置が市販されているが、なかなか手を出しにくい金額である。仮に購入できたとしても、機材の保管や運搬や設置の問題に加え、一人ずつしか測定できないのであれば、とてもじゃないが使えない。私が指導しているクラブでも時々タイムトライアルや記録会をするのだが、待ち時間ばかり多くなってしまうし、人手もかかるのであまり頻繁にできない。
小さな子どもたちを指導する上で重要なことは、いかに待ち時間をなくすか、である。普段は少ない待ち時間でタイムを意識できるようにいろいろ工夫しているのだが、もし、安価でコンパクトで設置も簡単という自動計時装置が市販されれば、指導方法にも大きな変革が起きるだろうと思う。「世界最速の男」の測定も結構だが、私はそちらのほうにも期待をしたい。
(尾原 陽介)
出版元:草思社
(掲載日:2014-04-10)
タグ:計時 タイム
カテゴリ スポーツ科学
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諦める力
為末 大
なぜ反発という反応か
ネガティブなイメージの「諦める」と、ポジティブなイメージの「力」が合わさったタイトル。数ある「力」関係の本の中で、これほど身も蓋もないタイトルも珍しいと思う。だから、しばしばウェブなどで本書について「炎上」したりするのだろうと思う。
その炎上騒ぎを眺めていると、この「諦める」に対してしばしば引き合いに出されていたのが、人気バスケ漫画『スラムダンク』の「諦めたらそこで試合終了ですよ」という安西監督の名セリフ。だがこの漫画でも、実は諦めている場面もある。主人公たちが諦めないのは「試合に勝つ」ことであって、「手段」は諦めている。とくに、クライマックスの試合。主人公チームのエースが、相手チームのエースに対して1 on 1で挑むが、どうしてもかなわない。そこで味方を生かすパスを出すよう戦法を切り替えることで劣勢を打開していく。漫画ではそれを「プレーヤーとしての成長」という描き方をしていた。
著者が言っているのはそういうことなのだと思う。ただ、著者である為末氏は、世界陸上銅メダリストという、我々から見たら「成功者」であるので、その成功者から「見込みのなさそうなことは諦めた方がいい」と言われると反発も大きいのだと思う。だが、為末氏としては、世界で勝つために100mから400mHに転向したのに、それでも世界一にはなれなかったのだから成功できなかった、という思いが強い。そういう経験から導き出されたのが「諦める」ということなのだと思う。「スポーツはまず才能を持って生まれないとステージにすら乗れない。僕よりも努力した選手も一生懸命だった選手もいただろう。でも、そういう選手が才能を持ち合わせているとはかぎらない」、これなど、多くの人から反発を買うこと必至である。しかしこれは、誰もが薄々、あるいははっきりと感じていることなのではないか。「それを言ったらおしまい」とばかりに、「やればできる」のだと安易に撤退の決断を先延ばしにしているだけなのではないか。「そのときの率直な感想は、『自分の延長線上にルイスがいる気がまったくしない』というものだった。僕がいくらがんばっても、ルイスにはなれない。僕の努力の延長線上とルイスの存在する世界は、まったく異なるところにあると感じた」というのは、為末氏がカール・ルイスの走りを生で見たときの述懐である。
さすがだと思う。身体的才能に加え、こういうドライなセンスが、氏を世界的トップアスリートに押し上げたのだと思う。
「諦める力」とは
「やればできる」に対する「それじゃあ、できていない人はみんな、やっていないということなんですね?」という著者の問い。私なら何と答えるだろう。
仮に「できる」を「目的が達成されること」、「やる」を「目的を達成しようとする意志を持って行動すること」と定義する。この場合、「やる」は「できる」の必要条件、「できる」は「やる」の十分条件、ただし「やる」は「できる」の必要十分条件ではない。
問題は何をもって「できる」とするのか、だ。それをもっと突き詰めて考え、そのために何を「やる(あるいはやらない)」べきかを戦略的に捉えようよ、というのが本書の趣旨だと思う。
自分が思い描いている自分と、本当の自分とのギャップ。それを見極め、できそうなこととそうでないことを冷徹に切り分けていく。「諦める」とは「明らめる」である。「力」とは「能力」であり「エネルギー」でもある。自分が本当にやりたいことは何なのかを明らかにし、どんな手段をとれば達成可能なのか見極めるには、相当に高い分析能力と膨大なエネルギーを必要とする。
その一方で、目的を達成しようと創意工夫する過程こそが面白い、という魔力も存在するので、理屈で簡単に切り分けられないところが、なかなかやっかいだ。その魔力が手段を目的にすり替えてしまう。私などはその典型だと思う。
やればできる、への答え
さて、件の問いに対する私なりの答えはこうだ。「やればできるとは限らないが、やらなきゃできない」
だいたい、目的なんて変わるものだし、そんなにはっきり手段と目的を区別できるものでもない。そもそも、成功しなきゃいけないなんて決まりもない。だから、行為に意味を求めるより行為そのものを楽しみたい。
それもまた成功の1つだと思うのだ。
(尾原 陽介)
出版元:プレジデント社
(掲載日:2014-08-10)
タグ:陸上競技 努力 才能
カテゴリ 人生
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xはたの(も)しい 魚から無限に至る、数学再発見の旅
スティーヴン・ストロガッツ 冨永 星
避けてきた数学
数学というのは、学生時代は、できればおつきあいしたくないものの1つであった。
それでも大人になるにつれ、さまざまな場面で数字で表わされる事柄を見ると、やはり逃れられないのだなと感じる。仕事に就いた今も、数字と向き合わない日はない。学生時代にもっとしっかり勉強しておけばよかったと今さらながら思っている。そういう負い目もあり、時折、数学や物理に関する本に手を出してみたりもする。
書店でふと本書と目があってしまった本書の原題は「The joy of χ -a guided tour of mathematics, from one to infinity」。「χの喜び 1から無限の数学のガイドツア-」かぁ。なんだか難しそうだが、面白そうでもある。思った通り、難解な部分もあるが、エッセイとして読むのには文句なく面白く、ところどころにある例題に立ち止まり、じっくり考えてみるのも楽しかった。
導いた答えは
「1週間の休暇を取ることになったあなたは、出発する前に、ぼんやりした友人に弱っている植物に水をやっておいてくれと頼む。水やりを欠かすと、その植物は90%枯れる。そのうえ、ちゃんと水やりをしても枯れる確率が20%、さらにその友人が水やりを忘れる可能性が30%。このとき、(a)植物がこの1週間を乗り切れる可能性、(b)あなたが戻ったときに植物が枯れていたとして、友人が水やりを忘れた可能性、(c)友人が水やりを忘れたとして、戻って来たときに植物が枯れている可能性はどのくらいか」
このような実際的な問題は、私たちの身の回りに数えきれないほどある。
日々、好むと好まざるとにかかわらず、必要に迫られてどうにか対処しているのだが、どうも数学というのは実際とちょっと違うのではないかと感じるときもある。
この友人に水やりを頼む問題も、どれとどれをかけ合わせるべきなのか、わけがわからなくなる。そこで私が導いた答えはこうだ。(a)(b)(c)ともに50%!。枯れるか枯れないか、水をやったかやらないか、2つに1つだからだ。
水やりを欠かすとその植物が枯れる確率は90%ということだが、言い換えると10回に1回は水をやらなくても枯れないということである。しかし、タイムマシンでもない限り、同じ植物と条件で10回試してみることは不可能だし、そもそも、忘れる可能性が30%もある友人にこんな大事なことを頼んではいけないのではないか、とつい余計なことが気になってしまう。
わからないなりに楽しい
科学的思考ができない奴だと言われるかもしれない。著者も「このような問題で正しい答えを得るには、全てが確率通りに起きるとみなす必要がある」と書いている。しかし、やはり、10回中1回の確率だとしても、最初の1回目だけが現実の結果なのだと思う。10,000回に1回の確率と言われていることが連続で起こることだってあるだろう。
単純化することで、却って自分が感じている実感と数字との間に隔たりができる。なんとなくうまく言いくるめられているような妙な警戒感を持ってしまう。その挙句、数学など閑人が小難しい理屈をこねて悦に入っているだけなのではないかと思ってしまう。ついていけない者の僻みだろうか。「数学とは元から存在するものを人が“発見”するのだろうか? それとも人間による“発明”なのだろうか?」という議論が古くからあると聞く。eとかiとかπとか√とか、そういうものは人間が考え出したのであって「元から存在する」のではないだろうと思う。
一方で、私が見えていないというだけで、実際にそこらへんにあるのではないかという気もしてくる。
数学者たちには、私には見えない世界が見えていて、私には分からない言語(数式)で会話をしている。残念ながら私には「x」に喜びも楽しさも頼もしさも感じられないし、無限に微分積分に正弦波に指数・対数…とクラクラしそうなテーマが続く。それでも、ぐいぐいと読み進めてしまう力が本書にはある。きっと、著者が「ね、面白いでしょ」と無邪気に話しかけてきているせいだ。翻訳本によくある日本語の違和感も全くなく、読みやすい。
この「ガイドツアー」で全く別の世界をのぞき見させてもらい、自分の知らない世界の存在を感じ、わからないなりにとても楽しかった。
(尾原 陽介)
出版元:早川書房
(掲載日:2014-12-10)
タグ:数学
カテゴリ その他
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近くて遠いこの身体
平尾 剛
どのように共有するか
著者は元ラグビー日本代表で、現在は大学の講師。スポーツ教育学と身体論が専門で、「動きを習得するために不可欠なコツやカンはどのように発生するのか、そしてそれを教え、伝える(伝承する)にはどうすればよいかについて思索しています。」とのこと。タイトルにも惹かれて本書を買ったのだが、残念なことに、これについて全くと言っていいほど触れられておらず、著者自身の回顧録のような内容である。オビの推薦文にあるように、本書の内容(=著者の経験知)が「パブリックドメイン」として共有できるとも思えない。感覚も身体の動きも人によって千差万別。たとえトップ選手の感覚であっても、それを共有し、他人が自分の経験知とすることができるものなのだろうか。
「身体能力を高めたい僕たちが本当に知りたいことは、そこに至るにはどうすればよいかという方法論である。でも残念ながらそんな方法論は存在しない。自らが試行錯誤しながら身体を使い続けるなかでの体感を、ひとつ一つかき集める以外に、そこに至る方法はないだろう。」と本文にある。ということは、結局、自分であれこれ試してみるしかないということなのだ。そこに先人の経験知を共有していれば、その試行錯誤の方向性が定まりやすいということはあるかもしれない。だが問題は、それをどうやって共有するか、ということだ。
伝えるために必要なもの
本書で、漫画「バガボンド」について触れられている。吉川英治著『宮本武蔵』を原作とする人気長編漫画である。著者曰く「身体論の研究にはもってこいの書」だそうだ。そこで私は、司馬遼太郎著『北斗の人』を連想した。
幕末に隆盛を誇った「北辰一刀流」の開祖・千葉周作が主人公の歴史小説である。司馬曰く「北辰一刀流がなければ、幕末の様相も多少変わっていただろう」というほどの革命的な流派だそうだ。「『他道場で三年かかる業(わざ)は、千葉で仕込まれれば一年で功が成る。五年の術は三年にして達する』という評判が高く、このため履物はつねに玄関から庭にまであふれ、撃剣の音は数町さきまできこえわたって空前の盛況をきわめた」というほどであり、その特徴は「凡才でも一流たりうる」という独特の剣術教授法であった。そして千葉は、剣法から摩訶不思議の言葉をとりのぞき、いわば近代的な体育力学の場で新しい体系をひらいた人物なのだそうだ。
一方、武蔵が開いた「二天一流」は幕末期には衰退していた。武蔵が記した「五輪書」にも刀の持ち方とか足さばきとか、具体的なことが書いてあり、摩訶不思議な言葉を並べているわけではない。たとえば「太刀の取様は、大指人さし指を浮けて、たけたか中くすしゆびと小指をしめて持候也」という具合である。しかし、この違いはなんだろう。時代背景も違うし、流行が流行を呼んだということもあるかもしれない。そもそも2人の剣豪を比較するつもりもないのだが、ここで私が考えたいのは「凡人でも一流たりうる」ためのコツやカンを、他人に伝えることは可能なのかということである。
本書にあるとおり「言葉を手放し、『感覚を深める』という構えこそが、運動能力を高めるためには必要」であり「『感覚』を拠り所にすれば、そこには努力や工夫の余地が生まれる」のだとしても、その感覚や経験知を伝えるためには結局言葉や方法論が必要なのではないか。
ブルース・リーは映画『燃えよドラゴン』(1973)で「Don’t think! Feel!」と有名なセリフを言ったが、実際には「感じろ!」だけではコツやカンを伝えることはできない。もっとコツやカンとは何ぞやということを掘り下げないと、それをどう伝えるかも考えられない。
本書に紹介されているエピソードに興味深いものがある。ラグビーの強豪ニュージーランドの20歳以下の代表チームと対戦した際に著者が経験した「狩るディフェンス」だ。わざと走り頃のスペースを空けて走りこませ、挟み撃ちにするのだ。ニュージーランドのラグビーの中でその技が伝統として継承されているという。メンバーの入れ替わる代表というチームで、阿吽の呼吸が必要なこういうプレーがどのように伝承されているのか。イメージなのか感覚や経験知なのか。ここにコツやカンとは何か、どう伝えるかというヒントがあるように思う。とても興味深いテーマに挑んでいる平尾氏の続編を期待したい。
(尾原 陽介)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2015-04-10)
タグ:身体感覚 ラグビー 教育 コツ カン
カテゴリ 身体
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ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち
ダニエル・ジェイムズ・ブラウン 森内 薫
漕艇部員の悩み
私の娘は中学2年生で、漕艇部に所属している。
今は自分の競技の悩みよりも、チームメイトとの相性が合うとか合わないという文句を自宅に帰ってから吐き出しており、いくら思春期だとはいえ、聞かされる方は大変である。
まあ、そういう、周囲から見れば取るに足らないことを自分にとっては大ごとと錯覚して振り回されるのも、子どもから大人への成長過程での通過儀礼なのだろうから、そっと見守るしかないのだろう。
ただ勝つために漕ぐ
本書の邦題は『ヒトラーのオリンピックに挑んだ...』となっているが、原題は『THE BOYS IN THE BOAT~Nine Americans and Their Epic Quest for Gold at the 1936 Berlin Olympics』である。金メダルを追い求めた壮大な冒険譚というニュアンスだと思うのだが、「ヒトラーのオリンピックに挑む」と言ってしまうと、どうしても政治的な匂いを感じてしまうので、どうもあまり好きになれない。
本書で余計だなと感じるのは、当時のドイツの詳細な記述に多くのページを費やしていることである。
ナチスドイツの狂気が加速していく中でプロパガンダとして行われたベルリンオリンピックにおいて、アメリカクルーが逆境をはねのけ、後に枢軸国と呼ばれアメリカと敵対するドイツやイタリアと勇敢に戦った。そのことにアメリカの優位性や正当性を投影するのは、白けてしまうし、またそれを「(ヒトラーは)自分の運命の予兆を目にしていたのに、それに気づかなかったのだ」と言ってしまうのはいかがなものか。
ベルリンオリンピックはナチスの大掛かりなプロパガンダであったのかもしれないが、この選手たちは純粋にボートを漕いだのだと思う。「M.I.B」(mind in boat、心はボートの中に)の掛け声のとおり、「シェル艇に足を踏み入れた瞬間から、ゴールラインを越える瞬間まで、舟の中で起きることだけに心を集中させる」ことを実践し、オリンピックの決勝レースで、圧倒的に不利な状況で、彼らはそれをやってのけた。そのことにただ感動するばかりだ。
両親に捨てられて過酷な生活を余儀なくされ、「もう二度と誰かに依存したりしない。家族にも、他のだれにも頼らない」と心に誓ったジョー・ランツ。そのジョーが、「チームメイトに対して自分の全部を明け渡し」、「仲間をただ信頼」するまでに変化した。そしてオリンピックの決勝レース前に出場不可能なほど体調を崩した整調(クルーのリード役。こぎ手全員の調子を揃える役割を担う。ストロークとも)のために「僕らはひとつのボートに乗ったただの九人ではなく、みなでひとつのクルーなのだから」と確信し、補欠を乗せようとしたコーチに「僕らがゴールに連れて行きます。乗せて、ストレッチャーに固定さえしてくれたら、みんなで一緒にゴールまで行ける」と直談判するに至る。これはナチスに挑んだ若者ではなく、漕艇を通じて成長する若者の物語だと思う。
本稿を書く少し前、映画『バンクーバーの朝日』を見た。スポーツのすごさと同時に、戦争へと進む社会の中での無力さも感じたのであるが、本書でもまた同じ気持ちを味わった。
アメリカクルーだけでなく、ドイツもイタリアもその他の参加国のクルーも、みな純粋にただレースに勝つためにボートを漕いだのだと思う。自分のエゴも政治的なことや人種のことなども、「ガンネルの外に投げ捨てボートの背後に渦をまかせて」いたのだと思う。
私の想像であるが、ドイツのクルーはそれをしたくても、時代や社会がそれを許さなかったのかもしれない。だから私は、1936年のベルリンオリンピックを「ヒトラーのオリンピック」としている本書の邦題を好きになれないのだと思う。
スポーツは誰のものか
スポーツは、プレーヤーや観客のものだ。ボートを一番速く漕ぐのは誰か、などという、実生活では何の役にも立たないことに老若男女が夢中になること自体がとても貴重なのだ。そして、望めばそれができるという今の日本に感謝しなくては、と強く思う。
さて、件の私の娘。
漕艇競技自体を楽しむことはもちろんだが、漕艇を通じて精神的にも成長してほしいと思う。ジョーたちのように、チームメイトに自分の全てを明け渡すことは難しいかもしれないが、せめてもう少し謙虚になって仲間を尊重する態度が身につかないものだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:早川書房
(掲載日:2015-08-10)
タグ:オリンピック 漕艇
カテゴリ スポーツライティング
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ヘンな論文
サンキュータツオ
研究、研究者への愛
著者はお笑い芸人でありながら大学の非常勤講師も務め、さらにはアニメオタクでもある。そんな著者の趣味の一つである珍論文コレクションの中から、13本の論文を紹介しているのだが、本書の目的は内容について言及することではない。学問とは、研究とは、いかなるものなのかについて熱く語るための本である。本書全体から学問や研究、またそれに情熱を傾ける研究者への愛が感じられる。
タイトルの「ヘン」以外にも、「ヒマなのか?」とか「どうでもいいことすぎる!」というような、どちらかというと失礼な部類の言葉を芸人さんらしい軽妙な文章に織り交ぜているのだが、それが全然不快ではないのは、愛情を感じるからである。
学者とは
学問とは「問いに学ぶ」ことである。だから、「問いをたてる」ことがまず大切だ。それが役に立とうが立つまいが。「やりたいこと」「知りたいこと」がまずあって、それにもっともらしい理由を後付けするなんとも愛らしい人種、それが学者である。
本書で紹介されている論文はどれも面白そうだが、中でも僕が好きなのは「『コーヒーカップ』の音の科学」である。「コーヒーカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、お湯を入れてスプーンでかき混ぜると、スプーンとコップのぶつかる音が、徐々に高くなっていく」ことに気付いた女子高校生と物理の先生がその謎を究明していくのである。
まず、音が高くなっているのは気のせいでは? という当然の疑問に対し、何をしたかというと、コーヒーカップとスプーンの接触音を録音してパソコンに取り込み、その周波数特性を測定したのである。その結果、気のせいではなく本当に音が高くなっていることが確認されたのである。また、それはインスタントコーヒーは関係なくカップがお湯で温められたことが原因では? という可能性もきちんと実験により、そうではないことを実証している。
そこから研究を進め、様々なものをひたすらコーヒーカップに入れスプーンでかき混ぜ、ついにあることをつきとめるのだ。詳しい内容は本書を読んでいただきたいが、私が魅かれたのは、立てた問いに対し愚直に向き合う、その清々しいまでの姿勢である。考えられる可能性を一つ一つ丁寧に検証してゆき、結論にたどり着く。それが「だから何?」と言われそうなことであろうと何だろうと、お構いなしに。
研究の面白さ
著者は言う。「美しい夕景を見たとき、それを絵に描く人もいれば、文章に書く人もいるし、歌で感動を表現する人がいる。しかし、そういう人たちのなかに、その景色の美しさの理由を知りたくて、色素を解析したり構図の配置を計算したり、空気と気温を計る人がいる。それが研究する、ということである。だから、研究論文は、絵画や作家や歌手と並列の、アウトプットされた『表現』でもある」
先ほどのコーヒーカップの音の研究も、それがわかったからと言って世の中が変わるものではない。だがそれを、不思議だと思うことを解き明かしてみたいという純粋な気持ちの表現だとすれば、これほど楽しい読み物はないとも言える。
自分のことを振り返ってみると、論文といわれるものを書いたのは大学の卒業論文だけである。しかし確かに、そのときは楽しかったと思う。先行研究や本を読み漁り、実験をし、考え、の繰り返し。そこで味わった楽しさは、その後の自分のベースにもなっていると思う。
その途中こそが最も楽しいということを知ってしまったので、締切の迫っている仕事でも、あえてわき道にそれてしまったりして時間が足りなくなってしまうこともしばしばある。「問いに学ぶ」という姿勢は、人生を豊かにしてくれると思う。今後私が何かの論文を書くなんてことは、まずないだろうが、知りたいことにまっすぐ向き合うという楽しさは、論文を書かずとも味わえるはずだ。
「なに、この、人生アウェーな感じ!」といわれるような「ヘン」な人に、私もなりたい。
(尾原 陽介)
出版元:角川学芸出版
(掲載日:2015-12-10)
タグ:研究
カテゴリ その他
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采配
落合 博満
常勝の秘訣
本書が刊行されるのとほぼ同時に、著者は監督ではなく元監督という立場になっている。退任の記者会見でも「普通のおじさんになった」とキャンディーズのようなことを言っていたように思う。ただ、本稿では敬意をこめて、あえて「監督」という呼び方をしたいと思う。
落合監督といえば、あまりよい印象を持たない方も大勢いると思う。少なくとも1人、身近にそういう人を知っている。私の妻である。彼女曰く、とにかく何だかエラソーで好きになれないのだそうだ。ぶっきらぼうなもの言いと「オレ流」のイメージが定着してしまっているのだろう。
しかし、すごいリーダーであることは間違いない。監督をしていた8年間で、中日ドラゴンズは4度のセ・リーグ優勝を果たしている。また、2007年には53年ぶりの日本一に輝いているのだが、その年から導入されたクライマックスシリーズ制によりリーグ2位から日本一になったということで、物議を醸したこともまだ皆さんの記憶に新しいと思う。そしてリーグ優勝が出来なかった年でも、2位が3度、3位が1度という、まさに常勝軍団になった。
その秘訣はビジネスにも通ずるのではないかというわけで、本書はビジネスマン向けの書物といった体裁になっている。しかし、書かれている内容は当然、プロ野球のことばかりであるので、スポーツの現場で日々奮闘している指導者・スタッフ・選手の方々にも違和感なく読める。
地道な努力
本書を読めば、誰もがどこかに共感を覚えるはずである。それがどの部分かは読者の置かれている状況によるのだろうが、「そうだよなぁ」とうなずく部分は必ずあるはずだ。なぜなら、当たり前のことばかりが書かれているからである。中日ドラゴンズは、当たり前のことを当たり前にできるように、地道にコツコツ努力して常勝軍団になったのだということがよくわかる。しかし、当たり前だと思っていることほど、実はよくわかっていないものだ。その例として、本書の中で私がおや? と感じたことを紹介したい。落合監督の勝負に対する姿勢だ。
監督は「最大のファンサービスはあくまでも試合に勝つこと」であり、「理想は全試合勝てるチーム」であると言いきる。しかし一方で、ペナントレースを制するために「50敗する間にどれだけ勝てるか」を追い求め、選手たちには「勝てないときは負けない努力をしろ」と説く。だが、勝ち目がないと見ればその試合はあっさりと捨ててしまうのか、といえばそうでもない。例えば、アメリカ流の「大差で勝っているチームが勝敗に関係のない場面でバントをしてはいけない」という、最近日本にも定着しつつある暗黙のルールについて噛みついている。大量リードでも逆転されることはいくらでもあるのに、どうして勝敗に関係ないと言えるのか、最後まで全力で戦うべきではないのか、というのだ。
これら1つひとつは至極当たり前だ。しかし、こうして並べてみると、何だか矛盾しているようにも感じる。どういうことかと何度も読み返していると、ある結論に行きあたった。
大切なのは「理想はパーフェクトなものを描き、それに1歩でも近づいていけるよう、現実的な考えで戦っていく」ことであり、「常に考えておくべきは、負けるにしてもどこにチャンスを残して負けるか」なのである。
これもまた当たり前のことかもしれない。しかし、ブレずにこういうことをきちんと地道に実践できるかどうかが、成功への分かれ道なのだろうなと思う。
本当の「オレ流」
本書は『采配』というタイトルでありながら、選手起用などについての詳細にはあまり触れられていない。そういうことを知りたいのにと思うのだが、きっと監督なら「企業秘密」とか「自分で考えろ」で終わりだろう。
しかし、ぶっきらぼうでもエラソーでもない。監督は選手やスタッフだけでなく、審判やその他関係者にも敬意を持って接する。また、仕事の成功と人生の幸せとは全く別物と考えている。マスコミがつくり上げた「オレ流」のステレオタイプとは正反対である。
視線はクール、態度はドライ。それでいて、心は熱く人柄はどこまでも温かい。これこそが落合采配の秘訣なのだろう。
(尾原 陽介)
出版元:ダイヤモンド社
(掲載日:2012-02-10)
タグ:野球 監督
カテゴリ 指導
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マラソン哲学 日本のレジェンド12人の提言
小森 貞子 月刊陸上競技
世界と戦った人たち
昨年、フルマラソンに初挑戦し、何とか完走できた。タイムは4時間14分。中間地点では、世界のトップならそろそろゴールかな、と考えるだけの余裕があった。その後、楽しかったのは30km過ぎまで。あとはひたすら、早くゴールについて休みたいと考えていた。
さて、本書。12人の“レジェンド”たちが、2020年東京オリンピックで、日本選手がマラソンでメダルを取るために必要なことを語るというもの。登場するのは、宗兄弟をはじめとする一時代を築いてきたそうそうたるメンバー。 内容は提言というよりも体験談という印象。マラソンが強くなる直接的な方法は示されてはいないが、世界と戦ってきた人たちが肌で感じたことを読むことができるよい本だと思う。
余裕をもって、走れるか
本書には、大きな大会前に行った練習メニューが紹介されている。僕のような長距離の素人には、悲しいかな「ものすごくたくさん走っているな」という感想しか浮かばない。一つ一つのメニュー自体には目新しいものはないように思う。しかしその組み合わせ(距離や時間、ポイント練習の内容、ポイント練習とポイント練習との間隔など)が、レベルの高いことを余裕をもってできる力をつけるためのキモなのだということはおぼろげにわかる。
そう、この“余裕をもって走る”ということが、それぞれが共通して発信している重要なメッセージだ。余裕を持って走り続けられるペースを少しずつ少しずつ高めていく。そしてそのためには、矛盾するようだが、限界ギリギリでトレーニングをする。本書の中で、高橋尚子さんがこんなことを言っている。
「『今日の練習、きつくてイヤだな』と思う気持ちが芽生えた時こそ、実は一番伸びるとき。乗り越えなければならない壁にぶち当たって、その壁を乗り越えたら、一段上に行ける。」
そういえば、私が以前レビューを書いた『ウサイン・ボルト自伝』にも「乗り越えるべき瞬間」という言葉があった。「それは、身体があまりの痛みに耐えられなくなり、アスリートに向かってやめろ、休めという信号を発してくる瞬間のことだ。それこそが、成功への秘訣を手にできる瞬間なのだ。もしもその選手がその苦しみを乗り越え、もう2本いや3本余計に走ることができたら、そこから身体能力は向上して、それから選手はどんどんと強さを増していく。」
山下佐知子さんも、指導者としての立場から、もどかしさを吐露している。「トレーナーや栄養士がチーム内にいるのが当たり前になっている中で、本来どんどん踏み込むためにケアするはずが、何かを守る方に行き過ぎている気はする」と手厳しい。「今の選手は・・・」という言葉が多く出てくる。それは、ありがちな若者批判ともとれるのだが、それだけではないと思いたい。
為末大さんは著書『諦める力』のなかで、「スポーツはまず才能を持って生まれないとステージにすら乗れない」と書いている。レジェンドたちは、今の若い選手たちが、せっかくステージに乗れるだけの才能を持っているのに限界ギリギリの練習をしていない、もったいないと歯がゆく思っているのだ(もちろん反論はあるだろう)。私も数あるスポーツの才能の中で、壊れない身体というものがとても重要だと思っている。限界を乗り越えてなお、走り続けられる頑丈な身体というのは、どんな高度な技術よりも優先的に獲得すべき能力だと思う。
準備して楽しみたい
私は本書に登場する選手たちの活躍をリアルタイムで見ていた世代である。中山竹通選手は、ソウルオリンピックで4位入賞を果たしたレース後に「1位になれなければ4位もビリも一緒」と言ったと伝えられる反骨の人。“Qちゃん”高橋尚子選手は、これまでの歯を食いしばって根性でゴールにたどり着くという日本女子マラソン選手のイメージをガラリと変え、風のように駆け抜けた姿が印象的だった。そんな個性的な選手たちが現役時代に何を考え、どのように走っていたかに触れることができる、心躍る一冊である。
さて私はというと、前回のマラソンのゴール直後は「もう2度としない」と思ったはずが、またもやフルマラソンにエントリーしてしまった。走りに余裕など持ちようがないのだが、どんなにレベルは低くとも、走るからにはしっかり準備してマラソンを楽しみたいと思っている。
( 尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2016-08-10)
タグ:マラソン
カテゴリ 指導
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見えないスポーツ図鑑
伊藤 亜紗 渡邊 淳司 林 阿希子
「たとえ話」の活用
コツやカンといった実践知を獲得し、エキスパートとなるには長い年月が必要である。そしてその実践知は、明示されてない暗黙知であることが多い。しかもそれは、厳密にはその本人だけにしか当てはまらない。プレーヤーであれば、それをどう自分に取り込むか、指導者であればどう選手に伝えるか。ということを解決する1つの手段として、たとえ話が用いられてきた。
カヌーイストの野田知佑氏のエッセイにオールの漕ぎ方についてのコツが書いてある。氏が大学のボート部で、たとえ話のうまいコーチに教わったコツだそうだ。ボートやカヌーではオールを水に入れて水をつかむ動作をキャッチというのだが、初心者には難しい。オールを下手に水に叩き込むと、水を割ってしまい推進力にならない。うまく水をつかむコツは、「キャッチは女の尻をなでる時の要領でやれ、お前ら、ワカッタカ」だそうである(『のんびりいこうぜ』より)。いや、今ならこれは問題になりそうだが、1938年生まれの氏の大学時代のことなので許されたい。
しかし、たとえ話というのはそれを受け取る側にも相応の知識と経験がいる。「当時、僕のクルーは全員、純真無垢の正しい青年がそろっていて、女の尻はおろか手を握ったこともない奴ばかりでさっぱりワカラナイ。みんなで顔を見合わせて途方に暮れたものである。それで練習中フネを止めて真剣な顔つきで前の座席で漕ぐ奴の尻をなでたりした。知らない人が見たら、きっと誤解したと思う」ということになってしまう。
アスリートの感覚を“翻訳”
本書『見えないスポーツ図鑑』の取り組みは、視覚障害者とスポーツ観戦をする方法を探るところから始まった。そこから、トップアスリートの感覚を“翻訳”することで、初心者もそれを味わえるようにすることへと派生する。それを本書では「一つの道を究めた先人がいる道を、少しだけ同じ感覚で歩かせてもらうためのショートカットを作りたい」「私たちの身体感覚に新しいボキャブラリーをもたらしてくれる」「トップアスリートの感覚をインストールする」などと書かれていて、これはなかなかよい表現だな、と感心した。
“翻訳”のコツは、見た目を離れることと抽象化すること。前者は「非日常的な競技を、競技以外の動きに置き換えて伝えること」、後者は「競技の要素を一度抽象化して、もう一度具体化する、ある種の“見立て”」である。これは、とくに指導者であれば常にぶつかっている問題だと思う。たとえを使ったり、擬音を使ったりして、どうにかして感覚を伝えようとするが、うまくいかないことの方が多い。
その感覚を、手近なものを使って疑似的に体験してみよう、というのが本書でいう“翻訳”である。紹介されているのは10種目。ラグビー、アーチェリー、体操、卓球、テニス、セーリング、フェンシング、柔道、サッカー、野球。その内容は、そのままウォーミングアップとして使えそうなものもあるし、練習の合間の休憩時間にレクリエーションとして楽しめそうなものもある。もちろん、その種目の全てを“翻訳”できるわけはない。そして「競技の要素を一度抽象化して、もう一度具体化する」というのも、言うのは簡単だが、大変難しい。それでも楽しそうに、各種目のエキスパートと著者らがああでもないこうでもない、と言いながら、それぞれの種目のオイシイところが次第にクローズアップされていき、一応の形になるまでの過程はとてもおもしろい。
“翻訳”するなら
私は小学生に陸上競技を教えているのだが、私だったら、陸上競技の何を“翻訳”するだろうか。私が陸上競技に触れたのは小学校5年生か6年生の頃だ。走るのが速く、市内の小学校対抗の陸上大会に選抜メンバーで選ばれたのがきっかけだったと思う。それ以来、陸上競技との関わりは続いているが、何が楽しいのだろうと掘り下げて考えてこなかった。工夫して記録を伸ばすところが私の性にあっていて、やっている本人は楽しいのだが、そういうことではないんだよな。子どもたちに、陸上競技のここがオイシイところだよ、とアピールする材料が思い浮かばない。指導者でなければ、自分が楽しいからやっている、で問題ないのだが、仮にも指導者を名乗るのなら、その辺りの自分の考えを持っておくべきだろう。
自分の競技者や指導者としての実績に自信を持てないから、教え方のスタンスも定まらないのかもしれない。かといって、自信満々の指導者もイヤだなぁ。
(尾原 陽介)
出版元:晶文社
(掲載日:2021-04-10)
タグ:感覚
カテゴリ 身体
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オレたちは「ガイジン部隊」なんかじゃない! 野球留学生ものがたり
菊地 高弘
「野球留学生」の実態
高校野球界において、野球部でプレーすることを目的に、所在地外の地域から越境入学する生徒のことを「野球留学生」と呼ぶ。揶揄的に「ガイジン部隊」と呼ぶ者もいる。甲子園出場校のメンバーに県外出身者が多いと、地元民でさえ冷ややかな視線や心ない声を浴びせることもある。「県外から集めているのだから勝って当然」と。しかし、当の生徒たちはどのような日々を過ごしているのか。地元の高校生と何が違うのか。その実態を伝えることが、本書の目的である。
私自身は、地域の代表(高校野球に限らず)とは何か、その明確な考えは定まっていない。「ガイジン部隊」を否定したくなる気持ちもわかる。だって、地元の選手が出られなくなってしまうではないか。
「高校数の多い大阪で甲子園に行くより、地方の方が確率が高い」「福岡は甲子園出場校が分散していて、どうしても甲子園に行きたい子は、県外の甲子園に行く確率の高い高校に行く」と本書にある。腕に覚えのある選手が、甲子園に出やすそうという理由で地方の高校に入学することへの、素朴な感情としての拒否反応が生まれてしまう。本来、都道府県の代表とは、それぞれの地域内で技を競い合って決めるものだろう。そして、たとえ全国大会で初戦敗退しようとも、そこでプレーするのは地元の選手であるべきである。代表になるために他の地域に移ったり、逆に他の地域から補強したりするのでは、代表の意味がないのではないか。
覚悟が必要
もちろん、これは一面的な見方に過ぎないことはわかっている。完全な思い込みだ。甲子園を目指すということは、選手本人にとってものすごく貴重な経験であることは間違いない。さらに野球留学によって、慣れない土地で夢をかなえるために仲間とともに奮闘するという経験は、かけがえのない財産になると思う。だが、選手本人も受け入れる側も相当な覚悟が必要である。地元にいい子がいないから県外から補強している、とか、甲子園に出やすいから地方に来た、というイメージだけで、それを簡単に批判したり揶揄すべきではないことは十分に承知しているつもりだ。
メリットにも注目
本書は野球留学の関係者にインタビューをして書かれたものなので、肯定的・好意的な意見がほとんどだ。その中でもなるほど、と思ったのは島根県の取り組みである。島根県は「しまね留学」と銘打ち、県を挙げて留学生を呼び込もうとしている。人口減少により子どもが少なくなって、公立学校が廃校になれば子どもを持つ家族はその地域から出て行ってしまい、ますます人口が減少する。その対策として島根県の公立高校では積極的に県外からの生徒を募集している。
メリットとして、次の3 つが挙げられている。①「関係人口」が増える、②一時的にせよ人口が増え地域経済が回る、③島根の子も育つ、である。島根を第二の故郷として特別な気持ちを持ってもらえば、島根に戻ってくる人もいるかもしれないし、島根の子どもたちにとっても他の地域から来た子との交流によって世界が広がるのだ。
ラグビーワールドカップでは、多くの海外出身選手が「日本代表」として活躍し、日本中が熱狂した。それはよくて、なぜ高校野球は県外出身者ですらダメなのか。確かに説明がつかない。ただ高校野球の場合は、その後の人生の方が長いことを忘れてはならないと思う。私は、高校生までの部活動は、あくまでも教育の一環としての課外活動であり、それは勉学や遊びの一つだと考えている。その課外活動のために親元を離れてまで遠くの学校に通うというのはやりすぎだと感じる。たまたまその高校に集まったメンバーで精いっぱいやれば、それでいいじゃないか。しかし、野球留学をきっかけに彼らの世界が広がるのなら、それも悪いものでもないのかもしれない。現に本書に描かれている高校生たちは、それによって日々成長しているではないか。
最後にちょっと不満を。本書は「野球留学生を嫌う地域住民は、もっと誇りに思うべきだ。全国から選ばれる学校が、自分たちが住む町にあるのだから。」と結ばれている。もともと野球留学生側の視点で書かれている本でもあるし、人口減少の問題からも、この結論は納得できる。だがこの一節によって、留学生側(=選ぶ側)の傲慢さを感じてしまった。
(尾原 陽介)
出版元:インプレス
(掲載日:2021-08-10)
タグ:野球
カテゴリ スポーツライティング
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科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点
佐倉 統
役に立たないという現実を知って
「世の中にはな、ふたつのものしかない。役に立つものと、これから役に立つかもしれないものだ」。
本稿の締め切りが迫る某日。焦るとつい他のことをしてしまうのは人間の性だ。ベッドに転がって iPad を開き Kindleに逃避。たまたま開いたのが『竜の学校は山の上』(九井諒子)というファンタジーコミックだ。ああこれ、今回の『科学とはなにか』じゃん、と思った。こういうのをセレンディピティというのかな(たぶん違う)。舞台は現代日本。竜が絶滅危惧種に指定され保護されているが、年々予算は縮小されている、という世界。国内唯一の竜学部がある宇ノ宮大学には竜の利用方法を模索する竜研究会がある。新入生のアズマ君は竜が好きで、将来は竜に関わる仕事がしたいと思っているが、竜は役に立たないという現実を思い知り落ち込んでしまう。冒頭のセリフは、そんな彼に部長のカノハシ女史が言った言葉だ。カノハシさんは続ける。「なくしてしまったものを、あれは役に立たなかったってことは言えるけど、それは所詮、狐の葡萄。だから簡単に捨てちゃいけないんだ。でも役に立たないと諦めたら、それでは捨ててしまうのと何も変わらないだろ」。
科学を外側から
今回取り上げる『科学とはなにか』は、竜ではなく科学技術をどう飼い慣らす(使いこなす)かを、つかず離れずの外側の視点から見ることがテーマである。著者はチンパンジーの研究で理学博士号を取得したが、その過程で、科学が社会と無縁ではいられないことを痛感し、学者にはならず科学技術と社会の関係を研究する道を選んだという。科学者としての側面を持ちつつも、あくまでも「外側」の方である。
副題に「三つの視点」とある。明確には分けて書かれていないのだが、この「視点」が本書を読む上での重要な骨子であると思うので、私なりに三つにまとめてみた。
まず、一つ目。科学技術とは何か。科学とは自然界の成り立ちを知ること、技術とは人工物をつくること。本書では、両者の融合体という意味で「科学技術」という言葉が多用されている。科学の成果は普遍的で客観的である。ニュートンの力学法則は、日本だろうがアメリカだろうが、どこでも等しく成り立つ。しかし、いつでもどこでも「正しい」知識というのもまた、存在しない。我々は、場面や状況に応じて、それに適した知識を使い分けているのだ。たとえば、今では天動説を信じている人は珍しいだろう。しかし日常的には「夕日が沈む」というように、天動説的表現が普通に使われている。「地球の自転によって現在地が影の部分に入りつつある」とは言わない。日常生活における知識の目的は、「便利」「幸せ」「安全」など、とにかく日々の生活を安定・充実させることが第一。科学的な正確さは、そのための参考情報の一つに過ぎない。
二つ目は、科学技術は誰のものか。科学者というと、知的好奇心に突き動かされ、損得や善悪に無頓着で、純粋に世界の成り立ちを解き明かしていく人というイメージがある。一方、フランシス・ベーコンが「知識は力なり」と言ったように、科学や知識は利用するものである、という認識もまた一般的だろう。実際に我々は、多くの場面でその恩恵を受けている。しかし「力」は良いことばかりではない。不幸な例の最たるものは戦争利用だろう。2 度にわたる世界大戦での悲惨で凄惨な経験を経て、1999年「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」(ブタペスト宣言)において、「知識のための科学」「平和のための科学」「開発のための科学」「社会における科学と社会のための科学」の 4 つの宣言が採択された。しかし、科学研究分野にも民間企業が台頭し、そのあり方が大きく変質してきている。科学を駆動する原理が、知識の獲得や公共への貢献から経済活動へと変わってきているのだ。
最後の三つ目は、科学技術をどう飼い慣らすか。科学の成果は普遍的・客観的ではあるが、それが生み出されるプロセスも、それが世に出てからの扱い方も、文化システムが違えば大きく変わる。一方、文化や文脈に依存する暗黙知的な「場の力」から離れ、科学的知見を活用できるような社会的なデザインも必要だ。
さて、「竜研究会」。竜の使い道についてのカノハシさんたちの結論は、作品中では語られていない。どうかそれぞれに明るい未来が訪れますように、と願わずにはいられない。
(尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2021-12-10)
タグ:科学論
カテゴリ その他
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エチ先生と『銀の匙』の子どもたち 奇跡の教室 伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀
伊藤 氏貴
型破りな授業
かつて私立灘高校において、型破りな国語の授業が展開されていた。エチ先生こと橋本武氏が担当する学級では、小説「銀の匙」(中勘助著)を 3 年間かけてじっくり読み、その世界を追体験するのである。それは「なんとなくわかったで済まさない」という徹底したもので、主人公が近所の駄菓子屋に行く場面では、生徒たちに小説と同じ駄菓子が配られたり、凧上げのシーンでは実際に凧を作って校庭であげたり、小説中の「丑紅」の言葉で立ち止まって十干十二支や二十四節気の話に脱線したり、といった具合なのである。そして、その授業ではいつも、ナビゲーターとして、エチ先生が工夫を凝らした手づくりのプリントが配られていた。
本書を読み終え、すごいなぁと感動すると同時に、ある違和感を感じた。本書の帯にこう記されている。
「文庫本1冊×3年間=東大合格日本一」
「21世紀に成功するための勉強方『スロウ・リーディング』の極意に迫る」
これが本書の内容を的確に紹介しているとは、とても思えない。本書で紹介されているデータでは、エチ先生の「銀の匙」の授業を受けたことをきっかけに、生徒たちは東大や京大の合格者数を急増させ、灘高を一流進学校へと押し上げるのだが、それはエチ先生が求めた「結果」ではないことは本文でも触れられている。また、各章の後にある「HASHIMOTO METHOD」というコーナーも違和感の原因だと思う。この授業について解説するというものであるが、「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」というエチ先生の言葉が重要なキーワードとして本文中に記されているのにもかかわらず、「スロウ・リーディング」はこんなに役に立つんですよ、というような内容なのだ。
本当の結果とは
本書にケチをつけようという気は毛頭ない。だが、違和感を感じていることは事実である。私はこの違和感を、エチ先生と本書が投げかけている波紋ではないかと思っている。
知識とは何か。学校の授業は、教師と生徒の関係はどうあるべきか。そして、教育が目指すべき本当の「結果」とは何なのか。そのヒントを本文から引用して紹介したい。卒業文集に編集後記として掲載されたエチ先生の文章の一部である。本書の中で、私が最も好きな一節だ。
「教室での関係はすでに終わつた。授業料でつながれていた束縛はなくなつた。目に見えない校則でしばられていた枷は外された。嘗て教室で国語を手がかりとする教師と生徒であつたという、精神的な連帯感だけとなつた。これから、諸君と私との間に、新しい楽しい関係が生じなければならないと思う。是非、そうしてほしいと思う。しかし、たとえそうならなくても私は嘆かないつもりである。私のために諸君の自由を束縛することはできないからである。私はまた、自分の手許から飛び立つていつた小鳥たちのことは忘れて、新しく“灘”という巣へやつて来た小鳥たちのために、夢中になつて餌ごしらえをすることであろう。その小鳥たちも、私の手の及ばなくなるほど成長した時に、私の手から飛び立つていくだろう。私はだまつて見送るだろう。そうして私は老いていく。それが私の一生である。」
要するに、教師の役割は生徒を巣立たせることだけであり、その仕事は巣立つまでの餌ごしらえなのだ、というエチ先生の腹のくくり方が軽やかでもあり、重くもある。数年後には何の関係もなくなってしまうかもしれない小鳥たちのための餌ごしらえを、休まず丹念に情熱を込めて続けてきたことこそがエチ先生の本当のすごさなのだ。スロウ・リーディングという方法論だけが注目され一人歩きをしてしまっては、肝心なことが見過ごされてしまうような気がする。私が本書に対して感じている違和感は、このことなのだと思う。
親であれ職業教師であれボランティアのスポーツ指導者であれ、小鳥たちの餌は、自分で探し、自分の身体で運び、自分の手で与えるべきだ。きっとそれが、子どもを育てるということなのではないだろうか。
エチ先生の言う「結果」とは、生徒たちが卒業して還暦を過ぎても前を向いて歩いていることであり、そのために小鳥たちに与えた餌が『銀の匙』と授業プリントである。さて、私は小鳥たちにどんな餌を見つけられるのだろうか。そして、私が関わった子どもたちは、どんな大人になるのだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:小学館
(掲載日:2011-10-10)
タグ:教育
カテゴリ その他
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「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学
諏訪 正樹
身体知の学び
「Don't think! Feel!」。ブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』(1973)の冒頭で、リーが弟子の少年にカンフーの稽古をつけるシーンでの有名なセリフである。
本書のキーワードは「身体知」。身体と頭(言葉)を駆使して体得する、身体に根差した知と定義されている。コオーディネーション、アフォーダンス、暗黙知、自動化、オノマトペなどの様々な知見を織り交ぜ、身体知の学びについて探求している。
熟練とは、膨大な反復練習によって身体が勝手に動く境地に達している状態であり、思考や言葉は不要であるというのが大方のイメージだろう。だが、本書では言葉の重要性を説いている。身体の細部にわたって「ああでもない、こうでもない」と言葉を駆使して模索する時期を経て、それらが収束し包 括的な言葉にすべてが含意されるようになり、さらに上達を目指してこの二つが交互に出現する動的プロセスが学びである、というわけだ。
言葉による認識
『はい、泳げません』(高橋秀実・新潮社)は、前代未聞のスイミング・ルポ、と銘打った不思議で抜群に面白い本である。泳げない著者が美人鬼コーチの指導のもと、言葉を駆使した指導によって泳げるようになっていく。著者がどうにも及び腰なのがたまらなくおかしいし、言葉によって着眼点がはっきりしたり、やっぱりなんだかわからなくなってしまう様子も面白い。
私もスポーツ指導者の端くれであり、体感を言葉にすることの大切さは痛感している。この美しき鬼コーチはすごい人だ、と感心する。
本書では、言葉によって気づかなかったものが意識されるようになる例として、ダルメシアンの画像というものが示されている。単なる白黒のまだら模様が「これは犬の写真です」という説明でダルメシアンが見えてくるのだ。
逆に解釈すると、よくわからないものを言葉で表すことは意味を固定することだとも言える。輪郭がは っきりする代わりに、その周辺のぼんやりした部分を切り捨てているのではないだろうか。よくわからないものをあえてそのままにしておくことで、逆に認識されることもあるのではないか。言葉は曖昧なものにアクセスするための入口ではある。しかし、言語化することで、かえって不自由さが増してしまうこともあるのかもしれない。
トップ選手の動き
私の手元に「陸上競技マガジン 7 月増刊‘91東京・世界選手権に見るトップアスリートの技術」(ベースボール・マガジン社)という資料がある。当時大学生だった私は住んでいたアパートの部屋で手に汗握ってこの大イベントをテレビ観戦していた。長嶋茂雄さんの「ヘイ! カール!」の記憶もいまだ鮮明である(若い人には何のことやらわからないだろうな)。
この資料には、東京世界陸上におけるトップ選手の技術を測定・分析した貴重なデータが載っている。男子100m決勝のデータを分析した結果、そこで提唱 されているのが「脚全体を1本の棒のようにしたキック」。分析では、カール・ルイス( 1 位、9 秒86、当時世界記録)とリロイ・バレル( 2 位、9秒88)と大学男子短距離選手29名(ベスト記録10秒60 ~ 11秒50)とを比較している。比較している要素は、膝関節・股関節・足関節の伸展速度など。分析の結果、大学選手と大きく違うのは股関節の最大伸展速度(大腿の後方へのスイング速度)が高いこと、膝関節と足関節の伸展速度が低いことであった。そして、次のように結論づけている。
「ルイスは大腿の後方スイング速度を、膝を固定する(膝全体を 1 本の棒のようにする)ことで、効率的に足先のスイング速度に変えている。(中略)これまでの我々の常識を打ち破るキック法であることは間違いない」
しかし果たして、ルイスやバレルは「膝を固定」する意識だったのか。それとも、何か別の意識の結果なのか。
この世界陸上から25年。リオ五輪陸上男子 4 ×100mリレー決勝。日本チーム銀メダル。ライブでテレビ中継を見ていた。絶叫した。「うおー! スゲェスゲェスゲェ !」。感動なんていう澄ました言葉では言い表せない歓喜。まさか日本がアメリカの前を走るなんて。
これは「常識を打ち破るキック法」を日本人選手が体得した成果なのか。それとも、もっと違う感覚や技術の賜物なのか。そしてそれは、どんな感覚なのだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2016-12-10)
タグ:こつ スランプ
カテゴリ スポーツ医科学
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カンプノウの灯火 メッシになれなかった少年たち
豊福 晋
原石の証明
“カンプノウ”とは、スペインの名門サッカーチーム FCバルセロナ(愛称バルサ)のホームスタジアムのことである。そして“メッシ”とは、リオネル・メッシ選手。バロンドール(欧州最優秀選手賞)を五度も獲得した、史上最高と謳われるバルサのスパースターである。そんなことは言われるまでもない、という方も多いと思う。それはそうだろう。サッカーはワールドカップのときくらいしか見ないという私でも名前を知っているくらいだから。
カンプノウでプレーするということは、バルサのトップチームの一員となることであり、サッカー少年たちの夢である。スペインではサッカーチームの下部組織をカンテラ(cantera)と呼ぶ。直訳すると石切り場。カンプノウへ辿り着くためには、その採石場で、自分がダイヤの原石であることを証明し続けなければならない。
バルサのカンテラは昔から数多くの素晴らしいサッカー選手を輩出していることで有名で、世界的に高い評価を得ているそうだ。バルサの特徴は、スカウティングに力を入れ、世界中から多くの才能ある選手を確保するとともに、育成した選手を積極的にトップチームに昇格させ、試合に起用することらしい。
しかし、ここで言う育成とは私たちがイメージするものとは大きく違うようだ。競争する環境を与え、そこから抜きん出た才能を持つ選手を選り分けていくというもので、当然、淘汰されていく者のほうが多い。
淘汰された者のその後
本書は一枚の古い写真から始まる。13歳のメッシ少年がチームメイトとともに写っている写真だ。メッシは1987年生まれ、13歳でバルサに入団したとのことなので、入団したての2000年ごろの写真だろう。筆者の頭にある思いがよぎる。メッシは大成功を収めたが、その他の少年たちは今どうなっているのだろう。彼らの現在地を知りたい。
メッシを超える少年と言われたディオン・メンディは田舎のボクシングジムでコーチをしている。カンテラでの過度なプレッシャーに押し潰されて鬱病にかかってしまったフェラン・ビラは、立ち直って、下部リーグでプレーしながら実家の肉屋で働いている。自然科学博物館の動物飼育員ロジェールと公立小学校の給食世話係ロベールの兄弟は、カタルーニャ独立運動に参加している。他にも電気工、下部チームの指導者、警察の特殊部隊、害虫駆除業者、ビールの営業など、実に様々な仕事に就いて、必死に自分の人生を生きている。
サッカー好きの少年の元に、ある日憧れのバルサのスカウトから「テストを受けてみないか?」と声がかかる。晴れてテストに合格し、意気揚々とカンテラに乗り込む。しかし現実は残酷だ。地元では敵なしでも、世界中から才能を持った少年が集まるバルサのカンテラでは普通の選手に過ぎないのだ。そこから、重圧に耐えて才能と努力と運でトップチームへの階段を上り続けなければならない。足踏みしたら最後、カンプノウへの道は閉ざされる。
バルサのカンテラの選手が、一部でプレーできるレベルになる確率は10%程度だそうだ。その中からキャリア後を保証できるほどの高給取りになれる選手はほんの一握りだ。
大人にできることは
マシア(選手寮)のカルラス・フォルゲーラ寮長は、長年にわたりクラブの少年たちに「人生はバルサでは終わらん」と教えてきた。この教えのおかげか、本書に登場するメッシの元チームメイトたちは皆、力強く前を向いて現実と戦っている。バルサに対する恨み言も(少なくとも本書の中では)言っていないし、かつてメッシとプレーしたことがある、ということにも誇りを持っていると語る。これはやはり、バルサの育成方法が優れているということなのだろうか。
子どもたちには「メッシのようになりたい」という夢は必要だ。そのほうが断然楽しい。一方で、本書では「誰もがメッシになれるわけじゃない」という言葉がたびたび出てくる。ディオンは言った。「それは辛い現実かもしれない。でもな、アミーゴ。だからこそ人生ってのはおもしれえんだ」
夢を諦めるなというのはたやすい。しかし、我々大人が子供たちにすべきことは、夢を追いかける姿を見守ると同時に、それが叶わなかったときに現実を受け入れられる人間になっているよう、教育することだ。
それにはまず、親や指導者が現実を直視しなければならない。
(尾原 陽介)
出版元:洋泉社
(掲載日:2017-04-10)
タグ:育成 サッカー
カテゴリ スポーツライティング
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我ら荒野の七重奏
加納 朋子
エンターテイメント
帯には「子供の部活なのに……頑張るのは、親!?」「笑って泣ける部活エンターテインメント」という惹句が並ぶ。主人公の山田陽子は、“ミセス・ブルドーザー”の異名を持つ多忙を極めるやり手のキャリアウーマン。目の前にあるもの全部をぶっ壊して、更地にしてしまうと恐れられているのだ。
その“ミセス・ブルドーザー”が、息子・陽介の中学校の吹奏楽部入部をきっかけに保護者会活動に巻き込まれていく、というストーリーだ。
なるほど、エンターテイメントな小説である。見事なまでのご都合主義。
そもそもが親目線の小説なので仕方ないのだが、陽子は「たかが中学校の部活動」「なんだってそこまで親がかりなわけ?」と言いながら、問題を解決し環境を整えるのはすべて親である自分。しかもその解決方法たるや、文字通りブルドーザーのごとき圧倒的力技。いやいやいやないないない…とツッコミながら、引き込まれて最後まで一気に読んだ。
子どもの自主性はどこへ
部活動については、教員の労働問題としてここ最近ある問題がクローズアップされている。多くの先生が部活動の顧問を強制的に受け持たされているにもかかわらず、“自主的活動”扱いとされ、手当がほとんど出ていないというのだ。国は教員の負担軽減のため、今年4月から「部活動指導員」を制度化し、外部指導者を学校教育法に基づき学校職員として位置づけるようになった。しかし、その待遇面に関してはほとんど進展がないようで、依然として部活動指導はボランティア活動であることに変わりないらしい。
この小説の舞台である公立中学校の吹奏楽部も保護者会によるボランティア活動で運営されている。もちろん学校からも予算が出ているし、メインの指導者こそ音楽経験のある教師だが、各パートの指導は様々な伝手で講師を依頼したり、経験のある親が務めたりしている。定期演奏会の会場確保や準備運営やスポンサー探し、また、コンクールなどの会場への生徒の引率や楽器の運搬も保護者会の仕事だ。保護者会は発言力を増し、指導者の方針や指導方法に口を出すようになることもある。顧問の先生は、保護者会を敵に回しては部活動自体が成り立たないので、無下にはできなくなってくる。親が熱心に応援したり手伝ったりすればするほど、教師や生徒への要求はエスカレートしてゆく。子どもたちの自主的な活動であるはずの部活動なのに、優先されるのは周囲の大人たちのプライドやエゴだ。
「たかが中学校の部活」で、それを支えるべき親同士が保護者会内での勢力争いを繰り広げる。陽子自身も、子どものためというのはきっかけに過ぎず、自らのプライドのために戦っているのではないか。もちろん、面白おかしく誇張されたフィクションではあるのだが、部活動の主体であるべき子どもたちが置き去りにされているように感じる。
入部当初、トランペットに憧れて吹奏楽部に入った陽介が涙ながらに陽子に訴える。「トランペットはダメだって言われた。ファゴットというのやれって」。それが「陽子の内にある、闘争心という名のダイナマイト」に火を点け、即刻顧問にねじ込みに行ってしまう。とんでもないバカ親っぷりである。
しかし物語のラストで、陽子は子供の自立が親の望みなのだということ思い至る。やや唐突な感じは否めないのだが、このラストはよかった。
部活動のよい面
とかく批判されがちな部活動というシステムだが、よい面もたくさんあると思う。前述の通り、陽介の担当楽器はファゴット。自身の希望に反して割り当てられた楽器ではあったが、少しずつその魅力に気づき、いつしか管楽器のリペアマンになりたいという夢を持つようになった。「ぼくは自分でそんなに才能ないのはわかってるけど、でもファゴットが好きだから。演奏人口も少なくて、だからわからないことや困ることも多くて……それでもいろんな人に助けられてきたんだ。だからぼくも、誰かを助けてあげられたらって思って。」
これは、部活動というハードルの低い活動ならではのことだと思う。中学・高校は、子ども時代の終わりであり大人時代の始まりでもある。その多感な時期に、様々な価値観に意図せず触れられるチャンスが部活動にはある。それこそが部活動の教育的価値ではないだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:集英社
(掲載日:2017-08-10)
タグ:吹奏楽
カテゴリ フィクション
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