いのちは即興だ
近藤等則
模倣から独自性へ
北京オリンピック(2008年)陸上男子400メートルリレーの銅メダル獲得は記憶に新しいところだが、近年の陸上短距離走における発展には、“日本人らしい走り”の追求がきっかけとなっていることは間違いないだろう。
人類史上、100メートルを9秒台で駆け抜けた選手は、そのほとんどがアフリカ系のいわゆる“黒人”であることから、彼らの走りを研究し、なかば模倣することで速くなろうということが永い期間にわたって行われてきた。それを脱却し、“なんば走り”や“すり足走法”などと呼ばれる日本古来からある身体の使い方で持って世界に通用する走りが工夫され、現在の成功が導かれるようになったのである。ただ“○○走法”というのは理解を助けるための1つのキーワードだから、本来あるそれとは意を異にするとも考えられるが、要するに“自分らしい”走り方を見つけそれを極めることが重要であると、このことは物語っている。
大地が共演者
さて、本書の著者、近藤等則は世界を股にかけて活躍するジャズ・トランペット吹きである。最近は「地球を吹く(Blow the Earth)」と題して、人間相手ではなく世界各地の大地そのものを“共演者”として活動しており、演奏場所は「イスラエル・ネゲブ砂漠を皮切りに、ペルー・アンデス、ヒマラヤ・ラダック、沖縄・久高島、アラスカ・マッキンレー、熊野など」多岐にわたる。
ジャズの特徴として、“インプロビゼイション(即興演奏)”がある。とはいえ、テーマとなるメロディやテンポはあらかじめ決められており、「そのあとその」テーマ「のコード進行に基づいて」即興演奏をしていくのが一般的である。近藤が目指したのは、「演奏が始まる前になにもきめない」ことが「唯一の約束事」といった、最もラディカルな部類のフリー・ジャズだ。したがって、人が相手でも、自然が相手でも、演奏は全くの即興で行うということが彼独特の演奏スタイルということになる。
では何を拠りどころとして“共演”するのか。それは、「場の空気」や「バイブレーション」である。「地球を吹く(Blow the Earth)」では、「人類が登場する以前のバイブレーションがまだ残っている地球のあちこちで演奏」するとして、たとえば「イスラエルのネゲブ砂漠」は「ヨーロッパ大陸、アジア大陸、アフリカ大陸、三つの交差点」「だからユーラシアのへそ」であって、「その昔、モーゼがさまよい、ヨハネやキリストがいた場所」のバイブレーションを感じながら演奏をするのである。
本当の強さ
「ジャズというのは黒人の音楽」である。二十歳のとき「プロのミュージシャンになろうと決心した瞬間、からだが凍りつくぐらいのショックがあった」と彼はいう。「感動していればよかった」側から、「感動させる側に回らないといけない」ことに気づいたものの、「あるときチャーリー・パーカーのレコードを聴いていたら、突然そのアルト・サックスの音が黒人のスラング英語で話しかけているように聞こえ」たからだ。
しかし「ジャズから音楽を始めるけれど、ただ黒人のコピーをする」のではなく、いずれは「自分の音楽に行く」この方法しかないだろうと思うことで克服している。彼らのような「厳しい人生体験もしていない自分が、どうしたら彼らと対等か、それ以上の何かを持てるようになるだろうかと考えたとき、唯一学べるのは、日本の求道者や絵描き」ではないかと思ったというのだ。
スポーツと音楽、ジャンルは違えど、自分の拠って立つべき精神性を発揮した人は強い。「トランペットを吹き始めてから四十七年になる」ミュージシャンの半生である。独特の視点で世の中を眺め、行動している姿は示唆に富んでおり魅力的である。とはいえ「短気で、ストレートな性格のせいか、ホラ貝吹きの海賊の血を受けついでいるせいか、ラッパに惹かれてしまった」男の半生、その駆け出しの頃の記述は必勝抱腹まちがいない。
(板井 美浩)
出版元:地湧社
(掲載日:2010-02-10)
タグ:陸上 音楽
カテゴリ 人生
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多田富雄詩集 寛容
多田 富雄
優しさに満ちた文章
本書の著者、多田富雄は国際的な免疫学者である。しかし活動は一科学者の枠にとどまらず、さまざまな分野での執筆活動のほか、能への造詣深く、いくつもの新作を編み出したりもしている。2001年、旅先で脳梗塞を起こし、一命を取り留めるも重度の右半身マヒと摂食・言語障害の後遺症を持つ身となる。以来、2010年に亡くなるまでの間に物した全ての詩を集成したものである。
この間、ほかにも『落葉隻語ことばのかたみ』(青土社)、『残夢整理昭和の青春』(新潮社)などなど、単著共著を含め何冊もの書籍を出版している。それ以前にももちろん多くの書籍がものされているが、いずれもその風貌よろしく紳士的で優しさに満ち、感情を極力抑えた文章で貫かれている。
悟りではない
しかし、この「寛容」の文だけが他のものと全然違っているのである。免疫学者としてずっと“いのち”を見つめてきた著者の、“死”に直面し、そのことを思わぬ日はない生活の中で書かれた詩集だから、きっと“悟り”の境地からの言葉が紡がれているのだろうと興味津々で読み始めたら、いきなりカウンターパンチをくらった。
死ぬことなんか容易い
生きたままこれを見なければならぬ
よく見ておけ
地獄はここだ
(「歌占」2002より)
なんだか、やたら烈しいのだ。「寛容」という書名、あるいは“免疫寛容”という言葉と関連づけても、およそ連想できないような強い口調で書かれていて面食らってしまった。“悟り”どころか、生に対する執着、自由がきかないことへの不満やイライラがぶちまけられているように思え、何とも言えない、胸にザラつく読後感を覚えたものだ。あの優しい風貌、文体にあって、実は鬼のような人だったのかなどと思ったりもした。
超越といっても何を超えるのか
聖というも非人の証し
下人も超越者も変わりない
生者は死者を区別するが
生きるも死ぬも違いはない
空なるものは求めても得られない
そうつぶやくと精神が蓮華のように匂った
背中に取り付いた影は飛び去った
(「卒都婆小町」2004より)
くじけそうになりながらも読み進めるうちに、上記のような一節が出てきた。もしやと思ったが、結局最後まで、“死”に対して烈しく挑みかかり、まるで強いアレルギー反応を起こしているようだった。
死への礼儀は生きること
悔しいので何度も読み返してみたら、ヒントはほんの初めのほう(2編目)にあった。
未来は過去の映った鏡だ
過去とは未来の記憶に過ぎない
そしてこの宇宙とは
おれが引き当てた運命なのだ
(「新しい赦しの国」2002より)
“死”を受け入れることが“悟り”だと思っていた私が甘かった。いまある“生”を精一杯生きることこそ、実は“死”を受け入れることであり、それこそが“死”に対する礼儀なのではないか。そう思って全編読み直してみたら、やっと著者の意図するところがわかったような気がした。
“からだ”を見つめることは究極的には“いのち”を見つめることである。などと、日頃学生を前にしたり顔でしゃべっている自分を戒め、反省しなければ、と思った。
なお、免疫寛容とは、自己あるいは、ある条件下での非自己(抗原)に対して、免疫反応が起こらないこと、また、その状態のことを指す。
(板井 美浩)
出版元:藤原書店
(掲載日:2011-08-10)
タグ:詩 死生観
カテゴリ 人生
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身体と境界の人類学
浮ヶ谷 幸代
“正常範囲”の支配
科学的トレーニングが浸透している現在、様々な方法によって得られた身体・体力に関する測定数値を私たちは頼りにしている。しかしながら測定値がある一定の境界を超えた(届かなかった)とき、それを単純に「おかしなこと」と捉えてしまうと「<いまここ>に生きる身体」は断片化してしまい、測定した数値に支配されてしまうことになる。ところが、私たちは自身の身体を生物学的・生理学的に数値化されたモノサシだけで把握するように小さいころから刷り込まれてはいないだろうか。
たとえば幼少時から行われる体力測定や、大人になってからのメタボ検診などの結果を受けとめ、さまざまな対応をすることはある意味で正しい。しかし測定値がある範囲(境界)から逸脱していたとき、“おかしなこと”“劣ること”といった負のイメージを当てはめることがある。その時点で人は“数値”という権力に支配されてしまうことになる。本来、測定値とはすべて連続性を持つものであって、“境界”は後から人工的な意義づけをして設定されたものである。したがって、数値は“正常範囲”にあることが正しくそれから外れることは忌み嫌うべきことであるとするような考え方を持ったとき、それはその値を示した身体の主体となる人の行動ばかりか人格をさえ否定しかねない可能性を伴うことになってしまうのである。
手段としての数値
本書の著者、浮ヶ谷幸代は、医療人類学を専門とする文化人類学者である。本書では身体を、「世界的身体」「社会的身体」「政治的身体」といった切り口から眺め、「臓器移植、精神障害、糖尿病における身体観や身体技法」などについて「さまざまなトピックスを通して、人、モノ、状態、観念における境界領域の連続性とその特異性について考察」されたものである。
本欄では「身体感覚を研ぎ澄ます」と題された第5章を主に紹介したい。「生活習慣病」なかでも「糖尿病」に焦点をあてたものだ。ほとんどの生活習慣病は、とくにその初期には自覚症状がない。ではなぜ自分が糖尿病であるのかを知るのかというと、それは健康診断による検査数値からである。「とりわけ、中高年世代にとって、自分の身体や健康に関する情報のほとんどは、健康診断によって露わにされる臓器の状態や機能にかかわる検査数値」である。現代は「あたかも科学的な数値が人間の身体のすべてを物語る、とでもいいたげな健診社会」であると浮ヶ谷はいう。
しかし「科学的数値は、それが普遍性、客観性、論理性を旨とする科学的思考の根拠とされているため、生理的身体を表象するという意味において非人格的」であるとばかりはいえない側面も持っている。「人間が意味の網の目(=文化)に生きる動物」である限り、その数値は無味乾燥なもので終わることはなく「医療での診断や治療のための指標となるだけでなく、日常生活においてさまざまな意味を生み出している」のである。糖尿病の人にとって「科学的数値は身体に働きかける手段となり、自分の身体とどう向き合うかという身体技法を編み出す契機となる」のだ。すなわち「血糖値を手がかりに自分の身体に働きかけることを通して、自己の身体と他者の存在への気づき、そしてそれを契機とする周囲の人との関係の調整を生み出し「『<いまここ>を生きる身体』を知覚させる。と同時に、自分の身体に気配りをすることが、結果的に他者の存在に配慮すること」になるのである。
体育という相互交渉の場で
さて、われわれの分野に目を転じてみると、これと同じようなことが選手とコーチの間に生じていることに思い当たる。何らかの体力測定値をもとに選手は自己の身体感覚との擦り合わせを図ろうとし、コーチは測定値と選手の動きやその他にも選手の身体から発せられる多くの信号を手がかりとして、相互交渉の場が生じているのである。
一方で、子どもの体力や運動能力は高いのがよいというのに異論はないが、だからといって測定値の低い(正常範囲=境界を逸脱する)子どもに対する配慮は忘れたくないものである。子どもの体力が正常範囲に入るよう躍起になって運動させることが私たちの仕事ではない。体力が低いのは“劣っている”こと“悪い”ことだというレッテルを子どもに貼った時点で、その大人は“数値”という権力に支配されてしまうことになるからだ。それよりも、身体を通して自己を育み、周りの人との関係を育む、“体で育む”ことこそがわれわれのなすべきことなのである。
“体を育む”ことに気を取られ、その子どもの身体(人格)を否定することなど絶対にあってはならないのである。
(板井 美浩)
出版元:春風社
(掲載日:2011-04-10)
タグ:身体論
カテゴリ スポーツ社会学
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競技力向上のトレーニング戦略
Tudor O. Bompa 尾縣 貢 青山 清英
ピリオダイゼーションの重要性
本書は、比較的珍しい単独の著者による包括的なトレーニングの理論書だ。
今回の翻訳が日本国内では初版本となるが、原著ではすでに第4版まで重ねられているだけあって、近年の基礎的研究成果などもふんだんに盛り込まれ、整然としてしかもよく練られた内容となっている。読み進むにつれ、学生に戻って教科書を読んでいるような気分になり、目先の仕事に追われてばかりで木を見て森を見ない思考に陥っている昨今の自分を反省したりした。
ピリオダイゼーション(期分け)理論という本書の主題をトレーニングの科学的基礎と実施方法という両輪が支える形で、大きく3部から構成され「競技力向上のトレーニング戦略」がダイナミックに展開されている。
週単位(ミクロサイクル)から数週間単位(マクロサイクル)、さらには年単位あるいはもっと長期にわたるピリオダイゼーション、そしてそれが鍛練期であるのか試合期であるのか、それぞれ密接な関係を持たせ熟考したうえでピリオダイゼーションを行うことの重要性が、いくつもの具体的パターンとともに示されているのである。
戦略と戦術
本書を読むための核となるであろう「戦略(strategy)」という語と、それに似た「戦術(tactics)」という語について述べる。両用語ともほぼ同様のことを意味するが、戦略(strategy)は「シーズン全体、あるいはより長期にわたって、選手やチームのプランを構築、遂行する技術」であり、対する戦術(tactics)は「1つのゲームや試合のみを対象にしたプランに関する」比較的短期のものであるところで両者わずかに異なっている。また、戦術の「価値と重要性」は「相手との攻防の中でのスキルの完成」が必要な競技では比較的高く、「調整力とフォームの完成」が重要な競技では比較的低い。このことから、戦術は競技の成功において重要な要素ではあるが、大局的なトレーニング計画の構成要素の1つとして考えるのがよさそうである。
この「戦略」という語が意味するところと、トレーニング計画におけるピリオダイゼーションの重要性との関連を考えると、原題「PERIODIZATION Theory and Methodology of Training(ピリオダイゼーションの理論と実際)」を副題にしてまでも、翻訳版である本書の本題を「競技力向上のトレーニング戦略」とした訳者の戦略的意図とその意義がわかるような気がするのである。
一気に読み通す
さて、本書は「監訳者あとがき」にもあるように、トップアスリートやコーチだけでなく広く一般のアスリート、コーチにも「即利用できる合理的・効率的なトレーニングに関する示唆」が盛りだくさんに含まれている。辞典のように興味のある部分だけ開いてつまみ読みしても十分使用に耐えると思われるが、いっそのこと全項目を読み通してしまったらどうだろう。
輪読形式でじっくり読み込んでもよいし、一人孤独に蛍の光で読んでもよい。
一人で読む場合には、難解な部分があってもいちいち立ち止まって調べごとの迷宮に入ったりする前に、一気に読み通してしまうのがよい。そのほうが、きっと本書が伝えようとしているトレーニングの体系的内容が脳内に残るだろう。そして、それぞれのアスリート、コーチの頭脳の中で熟成し日本の伝統的な鍛練の理論とともにじっくりと練った戦略的トレーニング理論ができあがれば、これまで以上に多くのアスリートが世界に羽ばたくことになるだろう。
などと言ったら出しゃばりすぎだろうか。
テューダー=ボンパ 著、尾縣 貢・青山清英 監訳
(板井 美浩)
出版元:大修館書店
(掲載日:2007-06-10)
タグ:ピリオダイゼーション トレーニング
カテゴリ トレーニング
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匠の技 五感の世界を訊く
田中 聡
幻の三代目豆腐職人
豆腐屋の長男として産まれた私は、いずれ「板井豆腐店」の三代目として豆腐職人になるはずだった。
うちの豆腐は「大豆の風味がよく生きていて旨い」と評判だったようだ。ところが時代とともに近代的機械を使った量産化の波が押し寄せ、しかしそれに乗らずに一家の手作業だけでつくった豆腐を細々と売るだけではやがて立ち行かなくなってしまったらしい。私が4歳の頃、父親が豆腐職人からサラリーマンに身を替えて家計を支えることとなり、豆腐屋は廃業するに至った。そのため豆腐屋の三代目を名乗ることはできなくなったが、逆に家業に縛られることもなくなった。お陰で好き勝手な進路へ進ませてもらうことができ、現在のような立場に身を置いて好きな棒高跳びも(たしなむ程度ですが)続けたり、学生の練習指導を(冷やかし程度ですが)することができているのである。
独特の動きとリズム
おぼろげだが、豆腐をつくっている祖父や両親の姿を、祖母に背負われてワクワクしながら眺めていたのを覚えている。大豆を茹でて擂ったものを入れた麻袋を搾ると、後にはオカラが白い固まりとなって残されている。白く濁った液体しかないと思っていた袋の中から固体が取り出される瞬間が手品のようで面白く、せがんでやらせてもらうのだが、ほんのちょっとしか搾れず麻袋はまだ水っぽくてブヨブヨしている。代わって父がやると信じられないほどたくさんの搾り汁が取れ、カラッカラのオカラが出現するのだ。また、できたばかりの豆腐が、水を一杯に張ったフネと呼ばれる容器に放たれ、ゆったりと水の中で横たわっている姿は、何か巨大な生き物が水槽で泳いでいるようで幻想的だった。そして、そのとてつもなく大きな豆腐を祖父は左手1つで自在に操り、右手に持った包丁でスイスイと所定の大きさに切り分けてしまうのである。
うちのほかにも近所には建具屋、鍛冶屋、銅板屋、のこぎり屋、床屋があって、職人のオジちゃんたちが独特の動きとリズムを持って働いている姿はいつまで見ても飽きることはなかった。
また不思議だったのは、彼らにどんな質問を投げかけても、その都度子ども心にもストンと腑に落ちる答が返ってきたことだ。この人達は皆、今している作業の行程全体での位置づけがすべてわかっていて、作業の細部を見つめたり全体を俯瞰したり、意識を自在に行き来させることができていたのに違いない。つまり、基礎を踏まえているからこそ、どんな質問がきても相手の力量に応じた言葉で答を探し出してくることができたのだと思う。
一流アスリートとの共通点
そう考えてみると、昨今の日本の一流アスリートには、上記のような職人的雰囲気を漂わせている人が多いように感じられる。競技へ取り組む態度というか、行為の認識の仕方が非常に似ていると思うのだ。 動作はどれも簡単で自動的にやっているように見えるのだが、実は一つひとつに長い年月をかけて培われた基礎があるからこそのものである。それらは、容易に真似などできっこない動きであり、淀みなく美しい立ち居振る舞いでもあるのだ。
本書は、職人的仕事を生業とする人たちはどんな身体感覚を持っているのか、「五感のいずれかが鍛え抜かれているプロフェッショナル」な超人たちの話を訊き集めたものだ。
「生業のなかで特殊なまでに鍛えられた鋭敏な」感覚を持った人たちの話がテンコ盛りに盛り込まれ、ワクワク感に満ちた一冊となっている。
(板井 美浩)
出版元:徳間書店
(掲載日:2007-08-10)
タグ:身体感覚 職人 動作
カテゴリ 指導
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スポ-ツに言葉を 現象学的スポ-ツ学と創作ことわざ
山口 政信
宿題に追われて
小学生の頃、夏休みを迎えて何が憂鬱かといって読書感想文と自由研究ほど憂鬱なものはなかった。嫌なものは当然早く片づくはずもなく、いつもギリギリになって大変な思いをしたものだ。
読書が嫌いなうえに作文は下手、探究心もそれほど旺盛でない子どもがそのまま大きくなったらどうなるか? 苦労するに決まっているのだな、これが。
ただし、大学生になってもそのことにまだ気づいていない。棒高跳びの大先輩による「ガーン! グーン! スポーン!」という大名言のせいでもあるのだが、このオノマトペ(擬声語)には棒高跳びのすべてが詰まっていると信じ、長じて感覚的なイメージだけで人間は理解し合えると思っていたからだ。
しかしこれは実際に棒高跳びをやったことのある者、あるいは、その場にいて身振りを見ながら聴いた者でなければわかりにくい感覚なんですね。ちゃんと言葉を用いて表現しなければ普遍的に理解されることは難しい。それも感覚の異なる人たちに理解され、しかもできるようになってもらうためには、体育大学にいたときとは全く別のアプローチが必要なのだ。慌てて「身体」という語が入った本を買ってみたり、「哲学」だの「原理」だのという題のついた本を机に積んでみたり、と苦労が始まった。
すると不思議なことに何かがわかったような気になったらしい。しかし己の無知を知らないというのは困ったもので、いまだわからないこと、知らないことばかりのくせに先日ある会でシタリ顔をして能書きをならべたて悦に入ってしまった。そこへ、柔和な顔をした優しそうな人がニコニコ近づいてきて、うちの雑誌に何か書きませんかなどと言うものだから、ついいい気分になって引き受けてしまったら、さあ大変、何の因果か小学生の夏休みと同じ思いをするはめになってしまった。締め切り当日になって書き始めたのだが、あ! もう日をまたいでしまった…。嗚呼、ついには陽も昇ってきたぞ!
以上、ちゃんと勉強しておかないと大人になって恐ろしい思いをするというお話でした。
頭に柔軟性を持つ
さて本書だが、『現象学的』立場からスポーツ現場に『言葉』さらには『創作ことわざ』を導入しようと試みたものである。「ことわざ」とは「生活の中から生まれ、むかしから伝わっていて、なるほどと思わせる、短いことば」(三省堂の国語辞典より)のことだが、それを『創作』するためには、自分にとっての「当たり前」や「常識」を見つめ直し、構築し直す頭の柔軟性が必要となる。
『現象学』とは、浅学を承知で言うならば、ある観察対象について観察者の主観を交じえずに記述しようとする態度のことである。いくら観察者が客観だと思っていても、そこには彼が育った社会的文化的背景、すなわち観察者にとって『当然と思っていたこと』が反映してしまうのだが、それを『一時的判断停止=エポケー』して『本質に迫る』こと、あるいは自分がある特有の立場でしか観察できていないことを認識したうえで考察をすることである。
つまり、ここにバッタを甘露煮にして食べる県民がいたとしますね、それを見て「うえー! うちの県じゃこんなもの食わねえよ!」という気持ちをいったんカッコで括っておいて(すなわち、エポケー)素直に見つめ、相手の立場を尊重しようとする態度、ということであります。
スポーツ(生徒、選手、技術、戦術)という現象を観察者(教師、コーチ、監督)が一方的に解釈するのでなく相互に理解する態度を養うことで、ありがちな体育会系縦社会の短所を払拭し、スポーツ現場でのコミュニケーションをより有機的なものにしようと本書は訴えているように思う。
「ガーンとやってグーンと行ってスポーンだって言ったじゃないか! 何で分かんないんだよ! ちゃんと俺の話を聴いてんのか? こんにゃろめ!」という経験をしたことがある人ならぜひ読んでおきたい一冊だ。
(板井 美浩)
出版元:遊戯社
(掲載日:2007-10-10)
タグ:言葉 現象学 オノマトペ 指導
カテゴリ 指導
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ピアニストは指先で考える
青柳 いづみこ
プロの世界観は面白い
何かの“プロ”が書いた本は、分野を問わず面白いものが多い。
山下洋輔というジャズピアニストの影響だ。プロの話にはその世界に本気で身を置いた者にしかわからない感覚や独自の物の見方が反映され、未知の世界に連れていってもらえるのが面白い、というような話が確か氏のエッセイにあった。
フリージャズというジャンルのただならぬプロである氏のエッセイ集も当然面白く、登場するミュージシャンたちの波乱に満ちた日常と、それを巧みに描写する文章力。そして何よりも文章のあらゆるところにただよう知性と教養に私は完全にノックアウトされ、昼夜を問わず読んでは笑いころげたものだ。
プレーヤーの文章には、人柄だけでなくその人のプレースタイル(この場合、演奏スタイル)が出るように思う。氏の文章は、隙間が見えないほどに文字が多い。しかし絶妙の抑揚とともにスピード感にあふれ、ぐんぐん加速するように話の世界に引き込まれる。と思っているうちに急転直下、畳みかけるように話題を展開させたと思ったら猛烈な盛り上がりをみせ、時には静かにフェードアウトするような余韻をもって、終わる。読み終えた後には心地よい高揚感が残る。実によく“スィング”する。彼の音楽もまた、まさに文章から受ける印象と同じように聴こえるのだ。
同じ印象を受ける演奏
今回紹介するのはクラシックのピアニストが書いたものだ。帯には「ピアニストの身体感覚に迫る!」「身体のわずかな感覚の違いを活かして、ピアニストは驚くほど多彩な音楽を奏でる」などとある。
どうも最近、“身体感覚”とか“身体を通して考える”といった記述があると、読みたくてたまらなくなってしまうクセがある。音痴なうえにピアノも弾けない私だが、未知の世界の身体感覚を味わってみたくて仕方がない。おまけにピアノの“プロ”が書いた本だ。面白いに違いない。
著者は、ドビュッシー弾きで、同時に研究者でもあるピアニストだ(近くにいた哲学の先生に聞いた)。文章から受ける印象は、まず、リズムとテンポが心地よい。どのページも文字の配置が美しく、字面からとても軽やかで華やかな景色が浮かぶ。音楽を聴いてみると(哲学の先生からCDを借りた。クラシック通なのだ)、おぉ! 果たして、そこには文章から受けた印象と同じ! 美しい音楽が響き渡るじゃないの!
ピアニストという人たちは実にいろいろなことを考えながら演奏をしている。指使いはもちろん、腕や脚、つま先や踵といった身体の部分のこと、もちろん全身の使い方、身体とピアノとの関係のこと、さらには演奏用の椅子、会場や聴衆の雰囲気といった環境などに加え、作曲家の意思や昨今の名ピアニストによる名演の歴史まで考えたり感じていたりして弾いている。要するに、クラシック音楽の学問体系を背負って弾いていると考えられる。にもかかわらず、恍惚の表情を浮かべたり、無心のまま指はあたかも自動的に動いているように見えたりすることもあるのだ。
ピアノは競技と違って、速く弾けるほうがよいとか、大きな音で弾いたほうが勝ちとかで勝敗を決めるものではないが、これらの技術は演奏の表現力を左右することもあるためピアニストにとって重要なファクターの1つとなる。手(手のひら、手指の長さ)も大きいほうが、どうやら有利に働くようだ。
勝ち負け以前に
こうなると、「ピアニスト」を“アスリート”に置き換えて読みたくなってくる。
アスリートたちも、当然いろんなことを考えたり感じたりしながらスポーツをしている。外国人選手に比べて不利な身体特性を克服するため日々涙ぐましい努力を続けていることなど、共通点が多いように思う。出版物やブログから読みとる限りにおいて、計り知れない精神力や知性を感じさせるアスリートも数多く存在する。
その一方でアスリートの場合、教養だの科学だの品性だのを無視し、大学で何を勉強したのか、どうやって卒業したのかわからないようなヤカラでも、“プロ”になれたり、“世界”と戦えたり、“オリンピック”に出場できたりすることも、残念だがあり得る。ピアニストの場合、音楽の体系や教養を身につけることなく演奏の技術だけに優れていたとしても、大成することなどあり得ないだろう。
本書は一見難解な部分でも、確かな理論と教養に裏づけられた説明が、平易な文章で丁寧になされている。したがって、ピアノの経験やクラシック音楽の知識がなくても読むのに心配はいらない。ただし、専門的な知識や経験があったほうがより深いところに理解が及ぶであろうことは、ほかのどんな分野にも共通することとして容易に想像がつく。
スポーツを行うということは、勝ち負け以前に、身体運動を通して教養を身につけようとする行為にほかならない。才能やガムシャラな肉体的努力だけでなく、ちゃんとした教養を身につけるための努力が必要だ。そのほうが、アスリートである前に“人”としての人生が、実り多いものになるだろう。自戒の念も込めてそう思う。
(板井 美浩)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2007-12-10)
タグ:身体感覚 ピアノ
カテゴリ その他
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身体知の構造 構造分析論講義
金子 明友
「わざ」の伝承という難題
スポーツの技を伝えて行くにはどうしたらよいのだろう?「不世出の名選手を次つぎに育てていくコーチ、世界の王座に君臨し続ける選手を生み出す名監督は現実に存在」しているのだが「その固有な評価判断の深層構造」はなかなか語られることはない。「それは先言語的な動感意識の深層にあって言明しにくい」のかも知れないが、一般に「それらは『長年の経験によるのだ』とか『秘伝だ』といわれて、その人固有な能力に帰せられ」、一代限りで終わってしまう場合が多い。
今回紹介する「身体知の構造」は、身体文化における「わざ」の伝承という難題について体系化を試みたもので、恐ろしいほどの忍耐力で書き上げられた一連の書物の最新作だ。「わざの伝承」(2002)に始まり、「身体知の形成 上・下」(2005)に続く4冊目である。
最近私が“身体感”とか“身体知”などといったテツガクの匂いがする分野にめっぽう弱いことを知っている某氏の勧めで手にした。白状してしまうと、これがまた頭にガッツンとくるほど難しい。悔しまぎれに残りの3冊も読んでみたら、ようやく、解るかも知れないこともない…くらいの気持ちにはなることができた。悪口ではない。それほど壮大な内容が厳密な言葉をもって記されているということだ。
現象学的な立場から
この「わざの伝承」という難題を解くにあたり、本書の中では「精密性を本質とする自然科学的立場から身体運動を客観的に分析する」という態度はとられない。ビデオで撮影され映像として客観視された、いわば客体化された身体ではなく「私が動くという自我運動として、現象学的形態学の厳密性に基づいて」身体運動の伝え方を分析しようとしている。
科学の尺度では測れない微細な感覚やコツ、あるいはただの主観として片付けられてしまいがちな事象について、かたくななまでに科学とは別の次元、つまり現象学的な立場から(あらゆる先入見を排除して、とはいえ自分がある特有の立場でしか観察できないことを認識したうえで)の分析を試みているのである。
今さらだが、科学は万能ではない。ある事象を科学的に説明しようとするとき、厳密な実験条件を設定する必要がある。雑音を取り払い、問題点を明確にあぶり出すことで客観的に測定したデータが取り出されるのだが、同時に、ある限られた条件でしかそのことが成り立たないという不便さを背負うことになる。
しかも、そのデータのどの部分に着目して、どう解釈し、どのように考察を進めるかという段階で主観が入り込む可能性があるうえ、科学的理論が広く知れ渡るようになると、尾ヒレが付いたり逆にデフォルメされたりして本来伝えるべき内容とは異なった理論(解釈)が一人歩きしてしまう現象がしばしば生じる。正しい科学的な態度とは、定説をつねに疑うこと、というか、何か一つだけのことを正しいと信じ込むのではなく、いつもニュートラルな態度で物事を見つめようとすることだと思う。科学的な見方が正しい場合もあるが、それが全てではないし振り回されてはいけない。たとえば時計にしたって、瀬古利彦氏は『マラソンの真髄』で、「時計はみんなのタイムを公平に計る機械であって、自分の体調を測るものではない」と述べているが、このような状況が当たり前のように起こる。そこには現象学的なものの見方というのがやはり必要になる。
あくまで“私”
本書が科学的立場をとらないもう一つの理由として、こちらが本義だと思うが、フランスの哲学者 メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908~1961)による心身一元的な身体感の影響があるようだ。昔の教科書を引っ張り出してみた。「メルロー=ポンティは、身体のあり方は、芸術作品に似ていて、そこでは、表現する働きと、それによって表現されるものとが区別されないと云っている。つまり、意識としてのわたしが、身体のうちにいるのではなくて、意識の本性が志向性であるなら、身体こそが意識の根源的なあり方であり、しかもこの意識は『われ思う』ではなくて『われなし能う』ということになってくる」(阿部忍著、体育哲学、逍遙書院、1979)。映像として観察されたものは「物の運動」として捉えられており、精神と一体化した“私”の運動ではなくなってしまう。どんな身体運動も実際に行うのは、あくまで“私”であって、その“私”が“今まさに”行っている運動の感じを自得、伝承しようとする行為を記そうとしているのだ。
齢80になろうとする著者が、今まさに現役の学徒としてこの大作に挑んでおられる姿が思い浮かぶ。私感だけれど、ビデオ画像や動作解析データにも“今まさに私が動いている感じ”を身体に投影できるコーチや科学者も最近はいるのではないかと思う。皆さんの目で確かめて下さい。
(板井 美浩)
出版元:明和出版
(掲載日:2008-02-10)
タグ:身体知 コツ 現象学
カテゴリ 身体
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裏方の流儀 天職にたどりついたスポーツ業界の15人
小宮 良之
スポーツ科学の主役は誰か
骨格筋は無数の筋線維の集合体である。筋線維には速筋線維と遅筋線維があって各人固有の割合(筋線維組成)を持っている。“速・遅”二大タイプの比率は生まれつきのもので変えることはできないが、速筋線維のサブタイプ間では持久力に優れた筋線維へと、後天的なトレーニングにより移行することがある云々、というような話は皆さんご存知のことと思う。
各種スポーツにおける一流アスリートの筋線維組成についての研究が1970~80年代にかけて大いに流行した。とくに陸上競技などは筋の出力特性と競技成績が結びつきやすいため盛んに研究された。若いうちに筋線維組成を調べ、好き勝手な種目を選ぶより、より適性の高い種目を選ぶべきであるというような空気も一部の研究者の間にはあった。「バカを言っちゃ困る。科学の名を借りてそんな横柄なことはやめてくれ」と思ったものだ。どんな一流アスリートでも最初は初心者なのだし、あるスポーツをやってみたらうまく行ったとか、何か感じるところがあったとか、血が騒いだりしたことがそもそもの始まりだと思うのだ。たまたま人に勧められて始めたスポーツがいつの間にか好きになって、どんな苦労があってもなぜか続いてしまったなんてこともあるかもしれない。
ほぼ“自然選択”で適性のあるスポーツを選んで強くなった人たちの筋線維組成を調べて平均を出したら、たまたま種目ごとの差が生じたというだけのことである。個人間のバラツキは非常に大きいし、筋の出力特性はトレーニングによって多様に変化するものなのだ。スポーツの成績は1つの素質だけで決まるものではない。そして何より種目の選択にいたっては、筋線維組成がどうとかいう以前に個人の自由の問題だ。そこを履き違え“科学原理主義”に陥ってはならない。スポーツ科学の主役は誰かをよく考えてデータや理論の解釈をして行くべきだ。好きな種目をトコトンやればいいじゃないか。向いているのいないのと他人から言われる筋合いはないのだ!
教科書ではない指南書として
さて、スポーツはアスリートだけで成り立っているのではない。これもご存知のことと思う。本書は、さまざまな「裏方」と呼ばれる人たちにスポットを当てたものだ。
「スポットライトを浴びるアスリートたちが最高のプレーをするために、人生を賭ける。脇役に徹して、粛々と己の仕事をやり遂げる」人たちのことを裏方という。中には、今まで日本にはなかった職業とか、日本人では初めてその職業に就いた人もいる。既存の制度の有無を問わず、いずれ劣らぬ“クリエーター”ばかりが登場する。
登場人物の誰もが“好きで”自身の仕事を選び、独自の工夫を凝らしながら仕事にいそしんでいる。アスリートたちにとって、なくてはならない役割を担い業務を超えて己を律するその姿は、立場こそ裏方ではあるけれども表とか裏とかの区別を超えた存在として輝いている。
経緯はそれぞれ異なるが、ほとんど皆“まわり道”をして現在の職業に至っている。その経験が今の“好きな仕事”の礎になっているようにも思える。最小の努力で最大の効果を得ようということ、すなわち“効率”のよいことが科学的トレーニングなのだと学校の授業や理論書の多くで教えてくれる。しかし、まわり道の重要性とか、どうやって食っていったらよいのかということは教えてくれない。でもまあ考えてみれば、まわり道という“有機的無駄時間”の過ごし方など、そもそも誰かに教えてもらうものではなかった。
本書は、そうやって天職にたどりついた15人が、まわり道は決して無駄道ではないこと、スポーツの喜びは舞台の表側にだけ存在するものではないことを教えてくれる。しかし教えてくれるのはそこまで。その先は、これを読んだ若者が自身の未来をどう展開させて行くのか、自らの力で切り開いて行きなさいと励ましているように思う。
(板井 美浩)
出版元:角川マガジンズ
(掲載日:2012-10-12)
タグ:裏方 スポーツを支える
カテゴリ その他
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運動・認知機能改善へのアプローチ 子どもと高齢者の健康・体力・脳科学
藤原 勝夫
それって本当?
科学的態度とは、常に疑問を持つということだと思う。定説となっている理論でさえ、むやみに信じてしまうことなくニュートラルな立場で情報と向き合う態度が、私たちスポーツ科学の発展を願う者には必要だ。
たとえば、子どもの体力低下が叫ばれて久しい。このことについて証明するデータは枚挙にいとまがないし、直感(あるいは刷り込み?)的には素直に同感してしまうのだが。体力とは環境への適応結果として現れたものが測定されるのだから、昔のような体力が今の社会には必要なくなったための必然的結果である、とも考えられないだろうか。なのに、子どもの体力が劣った劣ったと叫ばれているところに違和感を感じる。
はたまた授業の場において、現在の体力について感想を学生たちに書かせると “平均より強くてよかったです”、“落ちてて悲しかった”、“やっぱ体力は必要です”、“歳をとっても動けるよう部活ガンバリマス”などなど、判を押したように“体力あることはよいこと”のオンパレードとなることに違和感を覚える。
違和感ついでにもう1つ。“健全なる肉体に健全なる精神が宿る”という表現がいろいろな場でなされますね。この言葉に違和感を覚える人は少なくないと思うのだがいかがだろう。病んだ人には健全な精神が宿らないの? と、突っかかりたくなってしまう。まあ、これ自体じつは誤用で、本来は“健全なる肉体に健全なる精神が宿るように祈りなさい”というのだそうで、こちらの表現ならまだわかる気がするけれど。
目的? 手段?
さて、上記3例に共通して感じる私の違和感とは“体力がないのは悪いことなの?”という点だ。なぜなら、運動できない子は“ダメな子”なの? という連想を禁じ得ないからだ。極論すれば、病気があったり何かの理由で運動ができない人たちの存在を否定することになりかねないという危惧さえ感じるのだ。
体力があることは、確かに日常生活の場において便利だと思う。しかしその測定値が平均から外れていることに一喜一憂し、本来、人それぞれの多様なQOL(Quality of Life、生活の質)を高めるための手段であるはずの体力や運動が目的化し、体力の“大小”を人の能力の“優劣”として短絡的に捉えてしまうことがないようにしたいものである。老いも若きもトップアスリートも、人それぞれに応じた“幸せな体力”のようなものがあると思うのだ。
やはり運動はよい
本書は、これらのヒネクレた疑問に対して、解決するためのヒントを多大にもたらしてくれる。「ウォーキングやジョギングなどのリズミカルな運動は、筋はもとより脳の働きを活性化」し、「片足立ち」や「旗あげ」遊びなどの比較的緩やかな運動でも「前頭前野」の働きが活発になるそうで、「発育期に身体運動を行うことによって、大脳皮質のネットワークが強化され」「前頭前野」の機能が維持されると考えられるようだ。
前頭前野とは、いわゆる“良識”を司る脳の部位だそうだから、子どものときに運動を“実体験”するのはよいことなんだな。それも、緩やかな運動でも活性化するのだとすると、運動が苦手だったり、身体が弱かったりする子どもでも大丈夫そうだな。「コンピュータゲームに慣れてくると、前頭前野の活動は、ゲーム中に低下」するので好ましくないらしい。だけど、ゲームをしている時の子どもの集中力ってのもスゴいんだよなあ。α波がいっぱい出るみたいだし、別の解釈が成り立たないもんかなあ。
子どもの「体力低下の直接的要因は、身体活動量の減少であるが、間接的要因には就寝時刻・起床時刻の遅延化、睡眠時間の短縮化、朝食欠食などの生活習慣があげられる.それらが影響して低体温、自律神経失調、貧血などが惹起され、体調不良の子どもが激増している」のだという。
なるほどなるほど。測定された体力には環境に適応した結果が表れるのだとすると、体力測定値が下がるということは、裏側に好ましくない生活習慣があるということなのか。
などと考えながら読み進めるうちに、実はこれらのほとんどのことは私の“身体”がすでに知っていることに気がついた。さらに、本書の著者たちが考える手がかりとして自分の身体を見つめ、身体のイマジネーションによって研究を重ねてこられたのであろうことに気づかされた。やはり運動ってスゴい!
(板井 美浩)
出版元:市村出版
(掲載日:2012-10-12)
タグ:体力 身体 認知
カテゴリ 身体
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夏から夏へ
佐藤 多佳子
軽やかなリズムで
主に文芸書を手がける作家(スポーツ記者とかスポーツライターとかではない)が、インタビューを元に、その素材を新鮮なまま一冊にまとめたノンフィクションである。題材は、2007年の夏に大阪で行われた世界陸上。それも4×100mリレーにまつわる話題、人物に限ったものだ。
正直この話題だけで一冊の書物になることに少しばかりの疑問を抱きながら読み始めた。だが、すぐにそんな心配はいらないことに気づかされた。
最終的には、この本があったからこそ北京オリンピックで銅メダルが獲得できたのではないだろうか、とまで思うに至った。
膨大で緻密な取材内容が記録されているが、決して表面的なインタビューの羅列ではない。愛情深く、かといって感情に流されることもなく、軽やかなリズムで書き進められて行く。文章のプロだから当然とはいえ「競技経験のない」小説家が書くドキュメンタリーが、この私(いちおう陸上の経験者でもあり、実際の決勝レースはこの目で見た。泣いた)にさえ肌感覚で“それあり!”な記憶を鮮やかによみがえらせてくれるのだ。
異なるものと出会って見える世界
一般にスポーツの感覚的側面は“やった者にしかわからない”という閉鎖的な思い込みの表現で成り立つことがある。確かに、よく知らないと見えてこない世界もあるが、どっぷりと浸り過ぎてしまうとかえって本質が見えなくなってしまうこともある。私が最初に抱いた不安感は多分にこういった理由によるものだ。
しかし、異なる感覚やある種の違和感と出会って初めて見える世界というのもある。たとえば、外国人が地域の伝統文化の見直しや伝承、発展に寄与することがあるでしょう? 私の生まれ育った北信濃の地には、フランス生まれの俳人や、老舗の造り酒屋にアメリカからきた若女将がいて、日本文化に新たな光を当て、地域の発展に貢献している。あるいは、海外青年協力隊などで、外国人として文化の異なる国や地域に行っている日本の方々の活動もこれに似ていると思うが、このような、異文化からの働きかけによってその文化にどっぷりと浸かっていた人たちが自分たちの独自性に気づき、伝統文化の伝承や発展の一翼を担うということは決して珍しいことではない。
その考えからすると、競技の素人(作家=異文化の人)が、玄人(選手、コーチなど=どっぷりの人)が気づかなかった競技の真髄に迫るきっかけをつくり、競技力向上に役立つことは十分にあり得ることになる。
プロセスが競技に役立ったのではないか
要は、記述する側の感受性やバランス感覚が大切ということなのだろう。そのことが次のような節に現れている。「“死ぬ”」ほどハードな冬期練習の取材に行って、「そういうきつい練習を見てみたいと思った。邪魔じゃないかと申し訳ない気持ちがありつつも、やはり、実際に見てみないといけない気がした。そして、実際に見て、かえって、“わからない”ことを実感」することになる。
そのうえで「その膨大な努力のひとかけらを見ること、それを言葉で記することに、大きな意味はないだろう。何かわかったふうなことを書くためには、陸上競技をよく理解した人間が、選手の冬期練習を何カ月もフルに追いかけて見ないといけない。そんな絶望感にひたりながらも、やはり、貴重なドキュメントに立ち会わせてもらったというすがすがしさは消えなかった」という感想を述べているのだ。
立場を明確にして、現象を素直に見つめているからこそ気づく違いを丁寧に書きとめ、理解を深めて行くという態度が貫かれている。このことは逆に、選手にとっては、インタビューされることで自身のことに気づき、記述されたものからのフィードバックを受けて考えが統合され、競技力の向上に役立ったと考えることも可能なのではないか。
本書に描かれている大阪で世界陸上が行われた時期(2007年、夏)と、出版の時期(北京オリンピックの直前、2008年、夏)、その少し前まで選手への取材がなされていたことを考え合わせるとなおのことその思いを強くさせられる。
今、ここに、その時を再現する力がドキュメンタリーにはある。しかも、それが一冊の長編の書物としてまとまることで、別次元の価値、意義が生まれ、未来につながっていくような気がするのである。
(板井 美浩)
出版元:集英社
(掲載日:2008-12-10)
タグ:陸上競技
カテゴリ スポーツライティング
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101歳のアスリート
下川原 孝
まんざらでもない“歳をとる”
“人は誰しも歳はとりたくないものである”とはよく聞く言葉である。“歳をとる”という言葉は、どちらかというと否定的な使われ方をする言葉である。しかし、いざ歳をとってみると“あれ? まんざらでもないな”などと思っている人も多いのではないだろうか。“歳をとったからこそできること”、“歳をとってみてわかるようになったこと”が結構多く、歳を重ねることで、若いときには気づかなかった新しい世界が開けたりするものだ。
むしろ二十歳前後の学生たちのほうが歳をとった歳をとったと嘆いていたりして、私の半分にも満たない歳のクセに何を言っておるのだ! などと目くじらを立てたりもしてはみるものの、なんてことはない、彼らはいわゆる“自虐ネタ”で盛り上がっているだけなのだ(果たして私も学生時代似たようなことを言っていたものだ)。
“早く歳をとりたい”
一方、“早く歳をとりたい”とはマスターズ陸上の競技会に参加するとよく聞く言葉である。マスターズ陸上とは、ベテランズ陸上とも呼ばれ、男女ともに35歳以上になると参加できる競技会である。5歳刻みでクラスが分かれており、たとえば35~39歳の男子ならばM35、女子の場合はW35というように頭に性別を表す記号を入れて示す。年齢クラスが上がるときは、今までのクラスを“卒業”したとか、新しいクラスに“進級”したなどと内輪では言っている。
各クラスの選手同士で競われるので、同じクラスの中でなら“進級したて”の若いほうが有利に違いないと考え、たまに調子のよいときなど決まって“記録はこのままで早く歳とって次のクラスに進級したいなあ”などとアサハカにも皆同じことをつぶやくのである(果たして私もこのまま早く次の年齢クラスに進級したい)。
若々しい老人
“歳をとった人”つまり“高年齢者”のことを一般に“老人”と呼ぶようだが、老人とは“若さがない人”のことではない。誰が言ったか知らないが“人は歳をとるから老いるのではなく、人は希望を失ったときに老いるのである”という考え方をしてみると納得がいくと思う。そういった意味で、マスターズ陸上界には“若々しい老人”がウジャウジャといる。
本書の主役であり著者でもある日本最高齢のアスリート、下河原孝氏もその一人だ。“M100”クラス、投てき三種目(ヤリ投げ、円盤投げ、砲丸投げ)の世界記録保持者である。
「101歳で、マスターズ陸上で世界記録を出した体力と健康の秘密」についてさまざまなエピソードを絡めて紹介されている。エピソードと言ってもただごとではない。たとえば、下関市(山口県)で行われた全日本マスターズにおいて、ヤリ投げで世界新記録を出したときのものだ。釜石市(岩手県)に住む氏は「在来線で新花巻まで二時間かけて行き、そこから新幹線に乗り換えて東京までまた数時間。東京から姫路まで行き一泊して、翌日、下関へ。二日かけてようやく辿り着く長旅」を経て初めて競技に参加できるのである。
柔軟な考え方
「くよくよしていたら長生きなんてできません」とは言うが鈍感になれということではない。「歳とともにだんだん動かなくなってくる」身体には「年寄りならではの感覚」を大切にして「体力をつける発想ではなく体調を整えるという発想」に「思い切って切り替えて」いく柔軟な頭を持ち、「よく動いて、動きすぎず」「なんでもパクパク」「よく噛んで」食べる。ビールだって毎晩飲む。「何がよくて何が悪いか」より家族と「食卓を囲んでとって」いることが「とても幸せなことです」と説く。耳が遠くなったのをいいことに「都合の悪いことは聞こえないふり」をし「呆れられることもあるのですが、それさえ聞こえないふりをして」しまうというのには笑った。
いくつもの大病をさえ乗り越えたにもかかわらず「ただあるのは、曲がりなりにも100年以上生きてきて、今も健康という事実だけ」という謙虚さの前にはただただ恐れ入るしかない。
(板井 美浩)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2009-06-10)
タグ:マスターズ
カテゴリ 人生
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葆光
加藤 直克
深みを与えてくれる啓示
俳句のことを“世界で最も短く、最も美しい詩の形である”と評したのは確かジョン・レノンだが、五七五のたった17文字であらわされる俳句には、一切の虚飾を排除する潔さが必要であるといえる。クドクドとした説明や言い訳が許される余地はないのである。彼のつくった歌(詩)とくに“イマジン”の中には、俳句の美しさに影響された要素が強く感じられるらしい。
さて、今回は一冊の句集を紹介させていただく。同じ職場に身をおく哲学の教授の手になるもので、内輪の人間が著したものを取り上げるのは元来反則かとも思うが、何とぞお許し願いたい。スポーツ・競技という行為の場に深みを与えてくれる啓示がたくさん含まれているように感じるのである。
本当の姿を
題名「葆光」は「ほうこう」と読む。「暗く柔らかな光」という意味なのだそうだ。「『荘子』斉物論篇にある言葉」とのことだが、詳細について紙面の関係上省くことにする(本当は私の無教養が理由。言い訳です)。
ただ、想像するに「暗く柔らかな光」の下では“見よう”として見ないことにはあらゆるものが見えないという世界のことか。あるいは、見え難くなっているのは、暗さに“包まれている”せいであると考えてもよいのかもしれない。だからこそ、より丁寧に心をこめて対象を見つめ、本当の姿を見極めようとする意図がこの題名に込められているのではないだろうか。加えてこの題名には、穏やかで柔らかくはあるけれど、毅然とした姿勢を貫いている作者の人柄をもうまく反映しているように思うのである。
作者が俳句をつくるきっかけとなったのは「二十一世紀を担う100俳人(『俳句α増刊号』2000)」の一人、五島高資という才人の存在が大きいとのことである。時々、時間を忘れて二人で俳句談義をしている姿を見かけるのだが、私にとっては知の巨人同士の会話を間近に見てミーハー心が満たされる瞬間だ。
俳句とは“命”を詠むもの
横で聞き耳を立てていても難しくて実はよくわからないところのほうが多いが、多少なりとも理解できたこと、考察したことをまとめてみると次のようになる。
まず、俳句とは“命”を詠むものである。では命とは何か。ここでいう命とは“場”を共有すること、意思の疎通をはかろうとする気持ちのことであると考える。したがって俳句の世界では、人や動植物だけでなく、物質や自然現象あるいは遠い過去や未来に至るまで、森羅万象に命を吹き込むことができることになる。逆に、たとえ生きていても孤立無援の、他者と“場”を共有しようとしない者には命があるとは言えない、とも考えることができる。俳句を詠むということは、だから“命を見つめる”ということになるのだと思う。
等々と考えていたところ、ふと、この感触はスポーツや運動競技の場の味わいと似ていることに気がついた。競技の場とは、命と命の交感(交歓か)の場であると言えないだろうか。真剣勝負の場であればなおのこと(たとえ身体の接触はなくとも)命のやりとりがなされていると感じる人は多いのではないかと思うがどうだろう。
本書は、九つの章立てで約360の句からなる。分際をわきまえず各章から一句ずつ選んでみた。
群青を一息に塗り込める秋
雪止みて天目に月刺さりけり
墓洗うおまえは誰と問われけり
逃げ水の逃げるあたりに生まれけり
初紅葉ひそかに見つけられるまで
存在の柔らかき重き春歩む
野に集(すだ)く虫に並べる枕かな
舞いながら舞を脱けゆく秋の蝶
齧られし柱に消えるうさぎかな
(本文では「齧」に「口偏」が付く)
たった17文字の裏側に秘められた何かに感動するのと同じように、一瞬のパフォーマンスに込められた命を大切に共有したいと思うのである。
(板井 美浩)
出版元:文學の森
(掲載日:2009-08-10)
タグ:俳句
カテゴリ その他
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つなぐ力 4×100mリレー銅メダルへの“アンダーハンドパス”
石井 信
素質を“磨く”
短距離は“素質”で走るものと思っている人が一般には多い。
確かに高校生ぐらいまでは“素質”すなわち、“センス”と“ノリ”ともう1つ“保護者のおかげ”、で走れている選手は多いと思う。しかし大人になってから、“大人の選手”としての競技力向上には、素質を“磨く”ことがいかに重要かという説明が、朝原宣治という選手のおかげで最近はしやすくなった。
朝原は、北京オリンピック(2008年)男子4×100mリレー(通称、4継=ヨンケイ)で、1走の塚原直貴、2走の末續慎吾、3走の高平慎士とつながれてきたバトンを、アンカーとして銅メダルへと導いた、チーム最年長(当時36歳)のメダリストである。彼は日本人として初めて100m走10秒1台(1993年)、次いで10秒0台(1998年)の扉を開き、2001年には10秒02と、幾度にもわたって日本記録を更新してきた。そして北京オリンピックでの銅メダルまで、なんと足掛け15年にもわたって短距離界を牽引してきた日本陸上界屈指の競技者である。
こんな偉業が、センスと若さの勢いだけでなされるわけがない。日頃、講義や部活動などの中で学生たちにこの例を挙げて“素質”だけではないという話を持ちかけても、数年前まではなかなか理解してくれず閉口していた。ところが今回の銅メダル獲得をきっかけに、“おお! あのアサハラ!”とすんなりわかってもらえるので大変嬉しい。
かつての一流どころがサポート
さて今回紹介する「つなぐ力」は、北京オリンピック銅メダル獲得の裏に隠されたドラマを追った、元陸上競技専門誌記者であるスポーツライターの手になるものだ。「スポーツでは、選手が主役であり、監督とか、コーチとか、あるいは競技連盟の役員は裏方としてこれをサポートする立場」にある。「この本は、そういうサポートに回る人を取材して」まとめたものである。 裏方といっても、高野進、麻場一徳、苅部俊二、土江寛裕などなど、選手としてもかつての一流どころが名を連ねる。本欄の筆者(1960年生まれ)世代にとっては、彼らの選手時代の活躍を目の当たりにした記憶もよみがえり、1冊で二度オイシい状態なのである。
中心的存在となる高野は、「発想力」の人だ。学生時代、400mのライバルとしてしのぎを削った麻場によれば、高野は「いろいろな発想をする能力があって、独創的な考え方」をするが、「ただ独創的なだけではなく、それをいかに実現していくかということも、着実にやって」のける。しかも「独善的にやっていくのではなく、必ず、われわれの意見を聞きながら進めて」いく人物であるという。
アンダーハンドパス採用の理由
4継のバトンパスは「オーバーハンドパス」が世界の主流である。これに対して日本は「アンダーハンドパス」を用いている。日本4継チームにおける「アンダーハンドパス」採用の提案者が高野なのだ。
バトンパスに際し、前走者と後走者は互いに腕を伸ばし合ってバトンを渡す。腕を伸ばし合うので、その距離の分だけ走る長さが短くてすむことになる。これを「利得距離」という。「アンダーハンドパス」は「オーバーハンドパス」に比べ、この「利得距離」が短いとされている。「利得距離」が短いということは、それだけ長い距離を走らなければならないことになり、タイム的にも無視できないほどであるとの計算もなされている。
なのになぜ、日本は「アンダーハンドパス」を取入れているのか。「オーバーハンドパスは、バトンを点で渡さなければならないのに対して、アンダーハンドパスなら線で渡すこと」ができる確実性や、選手にとって「自然に渡せる」「やりやすい」と好評であるなどの利点が紹介されている。
それらを容認しつつも要所に挟まれる高野のコメントは、その視点がやはり独特である。提案者として一歩先を見つめているからか、読み手の予想を心地よく裏切ってくれるのである。センスや勢いだけでない、素質を“磨く”ことに多くの労力をさいた選手時代の経験が高野の発想のもとにあるだろうことは想像に難くない。
“名選手、必ずしも名監督ならず”とは、ひところよく聞いた言葉であるが、こと陸上短距離界に関してはいずれ死語となるに違いない。
(板井 美浩)
出版元:集英社
(掲載日:2009-12-10)
タグ:陸上競技 リレー
カテゴリ スポーツライティング
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わたしが冒険について語るなら
三浦 雄一郎
私にとっての最近の冒険
医学部では上級生になると臨床実習(Bed Side Learning:BSL)で学ぶことに多くの時間が費やされるようになる。BSLに出る前には全国の医学部で共通して用いられる“共用試験”に合格する必要がある。これは臨床前教育の成果を、コンピューターを利用した試験(Computer Based Testing:CBT)と、客観的臨床能力試験(Objective Structured Clinical Examination:OSCE:通称・オスキー)で計るもので、進級(留年)がかかった非常にプレッシャーのかかる試験である。
CBTは、多くの試験がそうであるように“問われたことについて答える”という形態のものである。ところがオスキーでは、学生が医師役となって模擬患者を診察室に呼び入れ、医療面接(問診)したり身体所見(検査:視診・聴診・触診・打診など)をとったりと、これまでとは逆の立場に身をおいた振舞いをしなければならなくなるのである。教わったことについて“聞かれたら答える”というのは難しいようでいて案外簡単なものである。それに比べ“自ら問いかけ、相手の状況を正確に聞きだす”というのは難しい。ぺーパー試験では優秀な成績を修める学生が、オスキーではしどろもどろになったりすることがしばしば起こる。
実は先般のオスキーでこの模擬患者役を仰せつかり、サトウタロウさん(仮名)となって、「うぅぅ、背中から腰にかけて痛いんです、先生、うぅう」などとやった経験が私にとっては大変な冒険だったので早速誰かに話したくなった次第である。
だいたいはベテランのボランティアが模擬患者になるのだが、ほとんどの方が学生との面識はないはずである。そんな中で、グラウンドや体育館でしょっちゅう顔を合わせている私などがヌッと現れる(学生は誰が模擬患者なのか知らされていない)のだから面食らったに違いない。全員そろって4月からBSLに無事出られることを祈るばかりである。
命を懸けてついて行く
さて本書の著者、三浦雄一郎は言わずと知れた大冒険家である。業績を挙げればきりがないが、富士山直滑降、世界七大陸最高峰でのスキー滑降、父(100歳)・子どもたち・孫たち(1歳と5歳)とともに4世代でロッキー山脈をスキー滑降、エベレスト登頂の最年長男性(75歳7カ月)としてギネスに認定され、77歳になる現在は「『80(歳)でそんなことができるのか?』ってことに挑戦してやろう」ということでエベレスト登頂を目指しているという、なんともはやスゴい方なのである。 やはり“オヤジの背中”を見て育ったことが大きく影響しているようだ。100歳でロッキー山脈をスキーで滑った父・敬三は、雄一郎が少年だったころ頻繁にスキーや山行に同行させている。当時のスキー場は交通の便がよいわけはなく、ゴンドラもリフトも現在のように整備されていないから「山中を歩いてはスキーで滑る」わけだ。もとより野遊びが好きな雄一郎少年ではあったが「いっしょに歩いているのは大人たちばかり」の山行では「その群をはずれたら死んでしまう」とばかり、文字通り必死についていかなければならない。普段は「物静かであまりしゃべらない」が、ここぞというときには「口を開いてキッパリと自分の考えを述べ」護るべきものを護ってくれる父の背中を見ながら命を懸けてついて行く。そして今、自身の背中を皆に見せ、先頭を駆け続けているのである。
誰もが冒険し、次世代に背中を見せる
「はじめて行くところはどんなところでもドキドキするものです。そこにふみこんで行くことが、冒険の原点なのです」
少し拡大して解釈すれば、初めての立場やいつもとは違う立場に立って考えてみること、振舞ってみることも、1つの“冒険”にほかならない。
誰もが、先達の背中を見て育った命をここに生き、次世代に背中を見せつつ歩み続けている。ただ1つ懸念することは、果たして子どもたち、学生たちに見せるだけの背中があるのか…。自問を繰り返す日々である。
(板井 美浩)
出版元:ポプラ社
(掲載日:2010-04-10)
タグ:冒険
カテゴリ 人生
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DVDでよくわかる テニスダブルスの必勝術
佐藤 政大 黒田 貴臣
語り合って寝不足に
新入生たちはそろそろ学校に慣れたような気がしてくる時期である。毎朝、皆一様に大学生らしい(眠たそうな)顔をして通学している。
私の勤める自治医科大学は、全国でも珍しい全寮制の医学部である。“医療の谷間に灯をともす(校歌より)”気概を持った若者が全国47都道府県から2~3名ずつ選抜され、いずれは僻地や離島を含めた各地の地域医療を担っていく医者として巣立っていくのである。
寮は個室だが、およそ10人で1つのラウンジを囲んだ部屋配置で生活しており、1年生のみ同じ学年だけでラウンジ単位を構成することになっている。全国各地から来ていることに加え、今年はとくに多浪の末に合格した者やすでに大学を卒業してきた者、さらには社会の空気を吸ってから入学してきた者までいて、ホヤホヤの18歳から30歳までの新入生が絶妙のグラデーションを成して入学してきた。
さまざまな背景を持った学生たちが10人集まって生活単位を構成しているのだから面白くないわけがない。毎夜遅くまで語り合い、コミュニケーションを図っては寝不足になっているのである。
いずれは収まるのだが、このような言葉による濃密なコミュニケーションは出会って間もない者同士にとって重要である。話す内容はもちろんだが、表情や声の質あるいは大きさや話すテンポなど、あらゆる類の情報を感受しあい、互いの理解に努めようとしているのである。
少ない文章で伝授
今回紹介する書籍は、言葉によるコミュニケーションの対極にあるような方法で情報を発信しようと試みられたものだ。監修者の佐藤政大と黒田貴臣は、日本テニス協会のベテランオフィシャルポイントランキング(ベテランJOP)シングルスおよびダブルス両部門で1位にランキングされていたこともある「草トーナメント」テニス界の雄である。この2人が編み出したダブルス必勝に関するさまざまなノウハウやテニスプレーヤーとしてのメッセージを、極限まで文章を少なくした形で伝授しようとしているのである。
本文の中では各種攻撃パターンの展開方法が、分解写真を用いて淡々と進められていく。付属DVDの動画ではさらに言葉が少なくなり、ところどころプレーの要点をさらうためのテロップが出現するだけ。声による説明などいっさい入らないのである。
しかし、いくら文章が少ないとはいえ、細心の注意を払いながら確信に満ちた解説が1つ1つのプレーになされていることが、じっくり読んでみるとわかる。それは歴戦の中で培われ、体験に裏付けられて練られたのであろう戦術が、肌で感じたそのままの言葉でもって表現されているからに違いない。また、動画からは“能書きを並べている暇はない。オレたちの背中(プレー)を見てくれ!”と言わんばかり、全身からさらに多くのメッセージが伝わってくるような気がするのである。
どう読み解くか
さて、ではどのように本書を読み解いていったらよいのだろう。内容を丸覚えするのではあまり意味がないように思える。 「単純な決めの動きではなく、動き出す直前の気配や視線といったところに注目してください。そこにダブルスの本当の醍醐味があります」と佐藤の言うように、個々のプレーそのものよりも全体のつながりや「気配」を彼らの背中から読み取ることを心がける必要が読み手にはあるのではないか。
言葉によるコミュニケーションが重要なことは無論のこと、感覚を研ぎ澄まし、言葉や文字の向こう側にある何かを読み取ることが重要であることが本書の語ろうとするところである。彼らがどんな気配をキャッチし、どう処理して動いているのか、どうやって息を合わせているのか、五感を駆使してつかみ取っていこうとするのが本書の読み方として正しいように思われる。
ともあれ、好きこそものの上手なれとは良く言ったもので、“テニスが好きでたまらない”という雄たけびが、最も強いメッセージとして2人の背中から伝わってくるのである。
(板井 美浩)
出版元:実業之日本社
(掲載日:2010-06-10)
タグ:テニス
カテゴリ 運動実践
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動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか
福岡 伸一
体力があるのはよいこと?
私の大学では、新入生を対象に体力測定を行うことを毎年の恒例としている。全国平均と比較した結果表を渡した後に感想を聞くと、判で押したような内容ばかりで笑ってしまうことがある。たとえば“浪人したけど体力あんまり落ちていなくてホッとしました(笑)”、“受験勉強で体力が落ちて悲しい。もうトシです(泣)”といった具合だ。
体力があるのは“よいこと”、ないのは“劣っている”こと“悪い”ことだというように、小さい頃から刷り込まれてきた結果このような感想を漏らすのではないか。極端な言い方をすると、体育の授業はただ単に身体が丈夫になるためにあるとか、自分はスポーツが得意だから優れているのだという解釈をしている部分もあるように思う。
“体育”とは、“体を育む”でもよいが、“体で育む”と読みたいものだと私は考えている。確かに体力があったり、運動能力に優れていることは日常生活を送る上で便利かもしれない。しかし、運動することに限らず、何かに触れたり、互いに触れ合ったりという身体感覚や体性感覚でもって感動し、身体を通して命を見つめ育む、そういう行為こそが“体育”であってほしいと願っている。 いずれ医師となったとき彼らが向かい合うのは、何らかの理由により心身に不具合を感じている患者や老人である。そういう人たちを相手に、正義の味方(=強者)の理論に陥って高飛車な診療態度をとったりすることなく、同じ目線で、共感できる姿勢を今のうちに身につけておいてほしいのだ。
生命とは動的な平衡状態
さて、本書の著者・福岡伸一は、分子生物学を専門とする生物学者で、かのベストセラー『生物と無生物のあいだ』の著者でもある。一貫するテーマは、さまざまな角度から「生命現象」つまり「生きていること」を見つめ、命について考察を深めているところにある。
表題の「動的平衡」とは「生命、自然、環境―そこで生起する、すべての現象の核心を解くキーワード」である。「生きている」ことすなわち「生命とは」「動的な平衡状態に」あり、そして「それは可変的でサスティナブルを特徴とする」システムなのである。「サスティナブル」なものは「一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できる」のであって「動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている」からこそ「環境の変化に対応でき、また自分の傷を癒すことができる」。決して「何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではない」のである。そこには身体の大小、あるいは強者と弱者などといった区別は一切ないのである。
粘土に触れた感動
閑話休題。1年生を対象に“芸術と医療”という講義を担当してくださっている林香君先生(はやしかく:陶芸家、文星芸術大学教授)にうかがった話。
10年ほど前、重度の知的障害を持った子どもたちの施設で陶芸体験をしたところ、一人の少女がロクロに乗った粘土に手を触れたとたん、グッと手と粘土を見つめ幸せそうな顔になり嬉々として粘土をこねていたという場面を経験したことがあるのだそうだ。視覚と触覚が一致して動作に現れるということは、この少女のような場合には稀なことらしく、粘土に手を触れることで彼女の体に大きな感動が走ったからだろうと施設の先生が大変喜んでくれたという。林先生も驚きを隠せず、この経験がもととなって粘土が持つ未知の力を医療の場に展開する試みを続けているとのことである。
ひるがえって、私たち体育を生業とする者はどうだろう。歩けなくなったらオレはもう終わりだ、なんて思っていないだろうか。“Sports for All”ということを頭ではわかっていても、“この人たちにはあてはまらない”と、どこかに線を引いてはいないだろうか。飛んだり跳ねたり走ったり、汗をかくような激しさはなくとも、そこに“生きている”事実があれば、十分に“体育”は成立する。このようなことを原点に据えたほうが“体育”の可能性がさらに広がるように思えるのだがいかがだろう?
(板井 美浩)
出版元:木楽舎
(掲載日:2010-08-10)
タグ:研究
カテゴリ 生命科学
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医の倫理と法 その基礎知識
森岡 恭彦
体で育む、体育
体育は“体で育む”と読みたい。そのほうが“体を育む”より生命の根源に近いところに触れられそうな気がするのである。
そもそも人が運動をするのは、そこに“心地よく感じる”何かがあるからだ。競技での成功を目指して、健康のため、あるいは痩身を決意してなどなど、運動やスポーツを行う目的や動機は人それぞれだろう。しかし1つ“気持ちよい”という身体の感覚が、もっと根本的な動機として皆にあるのではないだろうか。
汗を流してスポーツすることだけではない
この“快感”という身体感覚を頼りに、“体で育む”ことのできることは何かと考えてみると、せっせと汗を流してスポーツすることだけが体育の範疇(本質)ではないということに考えがたどり着く。もっと多様な身体活動、あるいはもっと幅広い身体状況の(たとえば何らかの理由により動くことが困難な)人たちを対象にできる可能性が体育にはあって、たとえば“伸びをする”ことや“触れてみる”ことだけでも、体育の授業は成り立つのではないかとさえ私には思えるのである。
体力には限界があり、命にも限界がある。体力をつけるため、あるいは維持するために運動をすることはQOLの向上に望ましいというのを否定するつもりはさらさらないが、人はいずれ老化し、不可逆的な病に罹ることさえある。失われていく機能を取り戻すことに限界はおのずと存在するのである。
しかし、たとえ歩けなくなったとしても、家族と手を握り合うことで、あるいは介護者の優しい手技や言葉に触れることで“気持ちよい”を体感することは可能であろうし、またその身体感覚をとおして互いの“体で”何かを“育む”ことができるのではないだろうか。それゆえ体育とは、命をより積極的に生きるための手助けができるもので、人は命ある限り体育を行うことが可能であると考えることもできよう。
そんなことを考えながら体育教師として日々学生と接しているわけだが、しかしながら“命ある限り”などといいつつ、そもそも何をもって生命の始まりとし、何をもって生と死を区別するのか、あるいはまた、自らの意思を表すことや外界からの刺激に反応できなくなってしまった人、いわゆる「植物状態」や「脳死状態」になってしまった人に“体育”は成り立つのだろうか、実は明確な解答を持つまでに私は至っていない。
ときに求められる厳しい選択
私の担当する学生たちは、いずれ医師となって地域医療の現場に立つ使命を背負っている。場合によって、いわゆる山間へき地や離島と呼ばれている地域で医師一人の診療所に派遣され、村一つ、島一つの命を支えなければならない状況におかれることもある。
医師とは「人の命を直接的に扱う」ことのある職業である。それだけに医師にはとくに「倫理的に厳しさが求められる」のである。「『倫理』(ethics)とは簡単にいえば『人の行うべき正しい道』ということ」であるが、しかし「医学が進歩しその力が増大するにつれて社会に大きな影響を及ぼすようになり、また医学や医療についても国際化が進行してきたこともあって」「倫理は国や民族などで異なっており、特に人々の持つ文化や宗教、国家のイデオロギーなどの影響に左右されていて複雑なところがある」。とはいえ「医療の現場ではしばしば相反する倫理的原則のいずれかを選択しなければならない事態がおこる」のであるから、心して学生時代を過ごしてほしいと願っている。
ともあれ「医の倫理と法」と銘打ってはあるが、生命の始まりや、生と死の境目の話題などは医師だけでなく我々体育を生業とする者にとっても、また一市民の立場でも関わり深いところであり多くのヒントを与えてくれ、一読の価値がある。
なお、著者の森岡恭彦は昭和天皇の執刀医としても知られる。その文体は簡明であるが揺るぎなく、周到に押し進めていく力強さには読後の“心地よさ”を感じずにいられない。
(板井 美浩)
出版元:南江堂
(掲載日:2010-10-10)
タグ:医学 医療
カテゴリ 医学
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リハビリの夜
熊谷 晋一郎
厳しいリハビリ
体育とは“体で育む”ことである(本欄10月号)。あえて“何を”という目的をつけない。そうすることで、体育の可能性がより大きく広がり、生命の根源に近づくことができるような気がする。本書を読んで、その思いがいっそう強くなった。
著者、熊谷晋一郎は「新生児仮死の後遺症で、脳性まひに。以後、車いす生活となる。幼児期から中学生くらいまでのあいだ、毎日リハビリに明け暮れ」、東京大学医学部卒業後いくつかの病院勤務を経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任講師を務める小児科医である。生まれるとき「胎児と母体をつなぐ胎盤に異常があったせいで、出産時に酸欠になり、脳の中でも『随意的な運動』をつかさどる部分がダメージ」を受けたため『イメージに沿った運動を繰り出すことができない状態』となった。そのため「健常な動き」ができるよう、厳しいリハビリを受けることになったのである。
「互いの動きをほどきつつ拾い合う」
人の身体は一般に「これからしようとする運動にふさわしい緊張を加え、制御し続け」るため「たくさんの筋肉がいっせいに協調的な動きをすること」ができる『身体内協応構造』を持っている。しかし彼の場合、「『過剰な身体内協応構造』を持っている」ため、「両足は内股になって、ひざは曲がり、かかとが浮いている。両腕も同じように回内して、ひじ、手首は曲がっている」姿勢になる。「ある部位を動かそうとすると、他の部位も一緒に動いてしまう」ため、パソコンを打つにも「全身全霊で」臨まなければならない。この緊張でこわばった身体を「ほどく」ためにもリハビリは必要なのである。
介助者「トレイナー」と彼「トレイニー」の息が合えば、二人の間にあった「壁のようなものは徐々に薄らいでいき、二つの身体がなじみはじめ」「互いの動きをほどきつつ拾い合う関係」が築かれる。しかしトレイナーが「健常な動き」を彼に与えようとし、さらに彼がトレイナーの思うような動きになっていなかった場合、二人の関係は一変する。「『もっと腰を起こして』。私は自信のないまま腰を起こそうと動かしてみるのだが、すぐに、『違う!ここだよ、ここ!』」と否定され、「命令に従おうともがけばもがくほど」「体はばらばらに散らばって」「私の体は私のものではなくなってしまった」。ここにおいて二人の間柄は「加害/被害関係」となり彼の身体はかたくなに閉じたままになってしまうのである。
始めのうちは“からだで育む”関係ができていたのに、トレイナーが「健常な動き」にあてはめようと“体を育もう”としたことが失敗の原因と思われる。この部分、トレイナーとトレイニーの関係を、教師と生徒・学生、監督・コーチと選手、親と子、これらに置き換えて読んでしまい背筋が凍った。
知力に脱帽
身体感覚のパースペクティブ(遠近法・透視図法)を自在に操り、身体という宇宙を大旅行した気分にさせてくれるところが本書の醍醐味といえる。自身の体を客体化して観察し、または観察した他者の運動を自身の内部の感覚として仮想し、それを言葉におこして他者の身体を借りて再現し、感覚と運動の摺り合わせをする作業から学んだ(感じた)ことをさらに文章化する知力には、ただただ脱帽するしかない。バドミントンなどでメッタメタにやられた後の、快感すら感じるようなあの敗北感にも似ている。
運動やスポーツを行うのは“気持ちいいから”という動機がまずはじめにあると思う。この、“快”、“快感”という身体感覚をキーワードに“体で育む”ということを考えてみると、激しい運動やスポーツでなくとも、伸び(ストレッチ)をする、手を握り合う、身体の一部を触れ合う、場合によっては優しい言葉に触れるだけでも“気持ち良い”を体感することは可能で、それらの身体感覚を通して互いの“体で何かを育む”ことができる。“何か”とは、愛かもしれないし、信頼関係かもしれない。これこそが“体育”をすること、であると思うのだ。
(板井 美浩)
出版元:医学書院
(掲載日:2010-12-10)
タグ:リハビリテーション
カテゴリ 身体
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寄りそ医 支えあう住民と医師の物語
中村 伸一
役に立つ機能から離れて
体育とは“体で育む”と読みたいものだと、しばしば本コラムでは述べてきた。体育の本質がそうあってほしいからである。“からだ”で表現し、“からだ”を見つめ、“からだの声”に耳を傾けるといった身体感覚に気づき、人と人との間に“体で”何かを“育む”ということは“体を育てる”こと以上に大切なことだという考えが頭に浮かぶ。いったい何を育むのだろう。それは“愛”であったり“信頼関係”であったり、要するに“絆”を互いの体を通して育むことだ。“からだ”をみつめるということは、“いのち”を見つめること通じることであると思うのだ。
そもそも人が体を動かすのは“心地いい”と感じる何かがそこにあるからだろう。その上に、たとえば競技での成功を目指したり、自己実現のため、健康増進・維持のため、あるいは美容ダイエット(減量)を決意してなどなど、さまざまな動機を乗せて運動やスポーツを実施している人が多いことと思う。そして、それらの運動を安全に、効果的に行うための役割を“体を育てる”体育は担っている。
このような“体を育てる”体育が重要であることは論を俟たないところであるが、この考え方に重きを置きすぎると、何らかの理由(高齢・病気・事故)で歩くことが困難になった人や、あるいは寝たきりになった人に対して“体育”は成り立たなくなってしまう。人の体力には限界があり、命にも限りがあるからだ。
いっそのこと、さまざまな“役に立つ機能”を取り払ってしまい、“心地いい”というエッセンスだけを“体育”の場に残してみると、マッサージをすることや、手を握ること、究極的には近くに身を寄せることだけでも互いの体から発せられる信号を感じ合い、その場に“体で育む”体育が成立するといえるのではないだろうか。
“寄りそう”医師
さて、本書「寄りそ医」である。私の勤める自治医科大学の卒業生、中村伸一の手になるものだ。本学は“医療の谷間に灯をともす”(校歌より)ため、へき地での医療や地域医療を支える目的で、1972年に開設された大学である。中村は、その12期生として卒業し、福井県の名田庄村(現おおい町名田庄地区)の診療所で一人常勤医師として、医師としてだけでなく包括的に村の医療を支え続けている「アンパンマン」である。
専門医が「さっそうと現れて難しい手術をこなす」「かっこいい外科医」のような「ウルトラマン」的存在だとすると、総合医は「人の暮らしに寄りそう地域医療者」であり「医療スタッフはもちろん、ジャムおじさんのような村長やカレーパンマンみたいにパンチの効いた社協局長、メロンパンナちゃんを思わせる看護師や保健師、介護職に支えられる、アンパンマン」的存在だ。しかし、「うまく連携することで両者の特性が、より活きる」ものなのである。
地域の診療所では、患者を「看取る」割合が都市部の病院に比べ高い。しかも「家逝き看取り」の割合が、この名田庄村では全国平均より圧倒的に高い。これは医師の力のみでなく、地域の福祉体制や、住民の意識などの条件がよほど揃わないと叶わないことである。医者が患者を診るという関係より、互いに“寄りそい””寄りそわれる”関係で日々の診療がなされていないと、こうはなりそうにない。
高齢者がガンなどの疾病や老衰により比較的静かに亡くなっていくとき、中村は医師として“医学”的手段を振り回すのでなく、“医療”者として(今は亡くなっている)患者とその家族に静かに“寄りそう”のである。家族もまた中村に“寄りそう”姿は、悲しくも崇高な場面である。
学生(医学部に限らない)という、生身の体を相手にする体育教師の仕事ってなんだろう。やはり“体で育む”体育の場をつくることがまず基本なのだと思う。そしてその基本を実践するためには、“寄りそう”ことがスタートであり、ゴールでもあるような気がしている今日この頃である。
(板井 美浩)
出版元:メディアファクトリー
(掲載日:2012-04-10)
タグ:体育 地域医療
カテゴリ 人生
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数学する身体
森田 真生
なぜ競走に感動するのか
100m走の世界記録は言わずと知れたウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)の9.58秒。2009年の世界選手権(ベルリン)で出されたものだ。
ボルトは前年のオリンピック(2008年・北京)でも当時の世界記録となる9.69秒で優勝しており、度肝を抜くこの異次元的な世界記録更新劇は、多くの人にとって記憶に新しいことと思う。
しかしですね、ちょっと意地悪にこの記録を単なる数値で表してみたらどうなるだろう。9.58秒と9.69秒、その差はたった0.11秒、まさに“瞬く間”でしかない時間、距離にして1mちょっとくらい速くなっただけのことになる。図鑑を見ればボルトより速く足る動物はいくらでもいるし、そこらの犬でさえ7~8秒で100mを駆け抜けるのがたくさんいるではないか。そういう動物の速さに比べたら、人間は圧倒的に遅い部類に入ってしまう。こんな、むしろ“のろま”な人間の競走を見て、なぜ我々は感動するのだろう。
それはきっと“身体の同一化”のようなことが起こっているからではないかと思う。たとえばテレビに映し出される場面に身体ごと入り込んだように、あるいは自分の身体の中にレースシーンが投影されるようにイメージされる、そのようなことが皆さんにはないだろうか。実態としてボルトになったような“感覚”とは違う、場面全体が“情緒”として身体の中に昇華されたような状態というべきか。テレビ画面を見ているだけにもかかわらず、シーンと一体化し、かつ俯瞰するように、間合いを自由に行き来しつつ身体ごとレースを体感するのである。このような“自在な身体”を私たちは誰でも持っていて、同時に、“記録”の裏側や、背景にある物語とかといった“味わい”を読み取る力があるからこそ、“価値のある差”を見出し、感動することができているのではないだろうか。
また、“数”ということに関していえば、世の中には“数”の価値を読み取る力が常人とは比べものにならないほど強く、たとえば「17」と「18」の間には「味わう」べき大きな違いがあるという感性を持つ人たちがいる。数学者である。
情報から浮かび上がる像
今回は「30歳、若き異能の」数学者、森田真生による『数学する身体』。
高校時代、バスケットボールに打ち込んだ森田は、「勝ち負けよりも、無心で没頭しているときに、試合の『流れ』と一体化してしまう感覚が好きだった」。そうした経験の中から「身体」に興味を持ったようだ。大学では初め文系学部に学んだが、岡潔(数学者)によるエッセイの文庫を手にしてから数学を修めようと決心したという知的好奇心のうねりを経て、現在「京都に拠点を構え」る「独立研究者」である。
数学「mathematicsという言葉は、ギリシャ語の(学ばれるべきもの)に由来」する。単に「数学=数式と計算」という理解しかない私にとって、「=」という記号が実は16世紀になって発明された(こんな最近の出来事だったのだ!)ことや、「17」が素数(1と自分以外では割り切れない数)であることで、たった1つしか違わない18や16とは味わいが大きく異なり、だから、数学科の学生の飲み会では「居酒屋の下駄箱が素数番から埋まっていく」ことなど、驚きの記述が連続する。
何かその先にある「風景」が見たいという積極的な動機のもとに、ものすごい吸収力で情報を蓄え、大量の知識がつながりをもって身体に収まっている様子が、全編通して読み取れる。
頭がいい人は違うぜ、と片づけてしまえばそれまでだが、運動がものすごくできる人(オリンピアン・メダリスト)が、実はものすごく努力しているように、勉強がものすごくできる人も、ものすごく勉強しているのだ。書物の中から得た知識が森田の前では像を結び、著者や景色が時代・場所を超え、まるでホログラムのように浮かび上がってくる。それは、森田がそこまで資料を読み込んでいるという証拠だろう。“体育会系だから走るしか能がありません”という前に、“味わい”を探すつもりで読んでみることも“イメージトレーニング”になるのではないか。森田も元はバスケ少年、ルーツは同じだ。きっと同一化できる部分が見つけられるに違いない。
( 板井 美浩)
出版元:新潮社
(掲載日:2016-02-10)
タグ:数学 身体
カテゴリ 人生
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サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて
田口 ランディ
死を悼み悲しむより
もう一昨年のことになるが、自慢の父が75年の実り多き人生を全うした。平均よりも若く、しかも大動脈解離によるあまりに急な逝去ではあったが、100年の月日に勝るとも劣らない、充実した人生を父は歩んだものと信じている。
父の周りには、いつも自然と人の“和”ができていた。そして、その人たちを陰から支え、喜んでもらうことに喜びを感じているようでもあった。
仕事をリタイヤして10年も経ていたが、予想をはるかに上回る大勢の方々が葬儀に足を運んで下さった。父の人生は、人との出会いという賜物によって彩られていたともいえる。その出会いが宝であるとするならば、大きな財産を抱えて父は西方浄土へ旅立っていくこととなった。
上記のような内容で、父の会葬御礼をつくり、引物に添えた。“死を悼み悲しむより、これまでの生を礼賛するような葬式にしたい”これは偶然にも父が亡くなる数週間前に(不謹慎だけど、という前置きをして)聞き出し、父の人生を絶賛する約束をしてあったのだ。
お斎(とき)の席でも、どうか賑やかに笑って父を送り出して下さいとお願いをした。皆さん、涙ながらも父との思い出を愉快に語り合い、大いに盛り上がって葬式とは思えない大宴会となった。一般的にはタブーかも知れないが、生きているうちに聞いておいた父の希望を叶えることができて本当によかった...。
というのはしかし、強がっているだけなんだなあ。あんなに急に死ぬんじゃないよ。本音を言えば、危篤の状態でもいいからせめてひと目、生きているうちに会いたかった...と家族は皆そう思っているのだ。
サンカーラ
さて、今回は田口ランディによる『サンカーラ』だ。
東日本大震災の後、「ブッダについて書いてみたい」と思い立ち、ブッダの教えを拠りどころに「震災後の一年間を通して」「人生から問われた様々な体験について」書かれた、「無常の世をさまよいながら紡ぐ、日常のものがたり(帯より)」である。
生きること、老いること、病むこと、死、生命について考えつつ書き、学び、学ぶほどに迷い、そして書き、「私はなにがしたいのか、私はだれなのか、私はどう生きたいのか」といった、人生における根本的な問題に迫ろうとしている一冊だ。「書けば書くほど、なにかが決定的にズレて」いて「結局、原稿は未完のままだ」とあるが、その先は読者が独自につくっていかなければいけないよと言ってるのかなあ、と思わされたりもする味わいもある。
人は誰しも“死”に代表されるような究極の場面にいつかは遭遇する。遭遇し“体験”することで何かが変わり、別の到達点へと考えを進めることになる。しかし到達したと思ったゴールが、実は新たなスタート地点となり、進んだはずが不思議なことにもとに戻っているというグルグル問答を繰り返し、凡人の頭脳はショートして煙を上げる羽目となる。「サンカーラとは、この世の諸行を意味する」。生まれてこのかた身につけてきた考えや、思い、好み、クセ、信念、信条などの蓄積だ。全てこれらは“無常”であると、ブッダは言った。生きて仏になった人の言葉だ。理解はたやすいが、わかるのは難しい。
勝負とは命のやり取り
オリンピックはスポーツにおける一つの究極であることに異論はないと思うが、スポーツにおける勝負とは命のやり取りのことだ。そのことが画面から伝わるからこそ、テレビで見るだけで深く感動したり勇気(生きる力)をもらったり私たちはするのだろうと思う。だからメダルを獲得するような選手はやはり奮っていて、インタビューのたびに言う事が一皮も二皮も剥けていき、終いには名言の宝庫と化してしまうことがある。そのような若者を発見するのが、オリンピックを夢には見たが所詮凡人だったオッサンの密かな楽しみにもなっている。
先のロンドンオリンピックでは、ボクシングミドル級の村田諒太選手が印象に深い。「金メダルを取ったことがゴールではない。金メダルを傷つけない、金メダルに負けない人生を送るのが自分の役目」という意味のことを言っていた。けだし名言である。
日常は奇跡の連続
さて、またまた私事で恐縮だが、父のことがあった半年後、今度は私が“一命を取り留める”という経験をすることになった。詳細はいつか述べたいと思うが、現代医学のおかげで命はつながり(新しい命をもらったという気さえしている)、こうして駄文を綴り、〆切と闘えるほどの体力を快復することができた。
この体験を通し、日々生きていることは実は一瞬一瞬が奇跡の連続なんだなあ、ということを学んだ。
では、その先はどうか。生まれ変わったように、タメになる名言...うーん、出てこない。しかし、そんな相も変わらぬ日常が、悔しくも嬉しく、愛おしい。
(板井 美浩)
出版元:新潮社
(掲載日:2013-02-10)
タグ:人生 生と死
カテゴリ 人生
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ザ・ミッション 戦場からの問い
山本 美香
生きることは、死ぬことのそばに
のっけから私事で恐縮だけれど、1年前のちょうど今ごろ“一命を取り留める”という経験をした。“左内腸骨動脈瘤破裂除去術”という、漢字練習帳だか早口言葉だかのような手術を緊急で受けることになったのだ。幸い、破裂の方向が隣の静脈だったので助かったが、腹腔内に出血していたら1~2分で意識は喪失し、そのまま(この世に)戻らなかっただろうと後で聞いて震え上がった。
その日は、左脚が倍ほどにも浮腫(むく)んでいて、胸は痞(つか)えるほどに脈打ち、呼吸もいちいち億劫なほどだった。苦しくて死んじゃいそうだなどと思いつつ、しかし授業では学生と一緒に飛び跳ねて騒いだりした。授業が終わって安静にしていても、やはり苦しいので病院に行った。“歩いて? 一人で? 来たんですか?”と診察途中から、妙に慌て顔になったドクターの押す車椅子に乗せられ精密検査をしたところ(すでに心不全をきたしており、身体を起こしているのが不思議なぐらいだったらしい。歩いて行くと言ったら強く制止された)、その日のうちに手術を受ける急展開となった次第。本当に死んじゃう寸前だった!
儚く不確かな中で、何を残せるか
この経験から学んだことは、“生”とは、“死”とすれすれのところにあるものだったということだ。“生きている”と疑問もなく思っていたこの状態は、実は一瞬一瞬の奇蹟が連なった、とても儚く不確かなものだったのだ。
もし死んでいたら……“俺はいったい何を残したのだろう?”“俺はいったい何が残せたのだろう?”。
さて今回は、「山本美香最終講義 ザ・ミッション 戦場からの問い」。ジャーナリストの山本美香が、2012年の春に担当した、早稲田大学での講義を採録したものだ。気合いは入っているが、肩ひじは張っていない。後進への真摯な思いが込められた、丁寧に準備された講義であることが紙面からよく伝わってくる。
山本は、ある報道社に入社して1年目(1991年)に命ぜられた「長崎の雲仙普賢岳の災害報道」が「一つの原点のようなものに」なって、「災害報道」や「戦争報道」を主な仕事としたジャーナリストである。
いかに戦地が危険であろうと、現場での取材を大切にしていた。たとえば、さまざまなジャーナリストからの報道をもとに「外堀を固めていって全体像を分析するという方法もある」が、あえて足を運び、あえて居残って取材を続けるのには「そこ=現場にいれば、耳にも聞こえるし肌でも感じるし、必ず見えてくる」ことがあるからだ。
そこに行かなければわからない“事実の核”となるものがあり、「こぼれ落ちてしまうところ、誰の手もとどかず、誰の目も入らない部分」に「置き去りにされた人がいないかを探していくのもジャーナリストの仕事の一つ」だと思っているからだ。
命は絶たれ、使命は語り継がれた
でもなぜ、そうまでして危険な場所からの取材を続けるのか。学生からの質問、「報道で戦争は止められるのか?」に対する答えが興味深い。「そういう願いがあるからこそ続けられる」というのだ。
戦争を取材するうえで山本が自らに課したこのミッション(使命)は、ことさらに語られることはないが、学生たちへのメッセージとして、また、自身の想いを確認するように、幾度となく講義の中で繰り返される。しかしながら、この年8月、内戦が続く中東シリア北部の街アレッポでの撮影取材中に、政府軍からの凶弾で斃(たお)れた。志半ばで夢絶たれた無念を察するに余りある。
この講義は、ジャーナリストコースを対象に行われたものではあるが、それに限らず生身の学生を相手にする我々にとって非常に示唆に富んだ必読の書ともいえると思う。“俺はいったい何を残すのか?”、“俺はいったい何が残せるの?”、自問する日々は続く。
(板井 美浩)
出版元:早稲田大学出版部
(掲載日:2013-06-10)
タグ:ジャーナリズム 生命
カテゴリ 人生
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身体のいいなり
内澤 旬子
うらやましい心のしなやかさ
世にあまたの“スポーツ感動物語”があるが、実は主役(選手)にとっては“好きで夢中にやった結果そうなっちゃっただけの物語”を、まわりの感動したい(させたい)者たちが寄って集って感動の物語に仕立てているだけなのかも知れない。“がんばる”ことは選手にとって当たり前のことだからだ。
そんな“がんばった姿”に、私の妻は我慢することなく感動し、大いに涙を流す。スポーツ番組やダイジェスト、さらにはお涙ちょうだい式の“がんばった”物語を観てもそうで、見事に制作者の意図にひっかかり、ボロボロと大粒の涙を流す。そのたび子どもたちから冷かされているが、子どもたちは、そういう母を茶化しては自分も泣きそうになったのをごまかしているのだ。
齢をとると涙もろくなるというが、むしろ感受性が豊かになり素直に反応できるようになった結果がそうさせるのだと思う。心が弱くなったり脆弱になるのでなく、むしろ心がしなやかになるのだ。
うーむ、素晴らしい。妻のような素直(単純?)な人格を手に入れたいものである。私はというと(涙もろい年頃になって早幾年だが)、冷やかされるのが嫌で、バレないよう目をぬぐったりしている体たらくなのだ。
さて今回の『身体のいいなり』は、乳癌を患い、治療の「副作用から逃れたくて始めたヨガにより」、癌の発覚前より「なぜかどんどん元気になっていった」自らの体験をつづったエッセイである。決して“闘病記”ではないと著者の内澤旬子はいう。闘病記とは、よほど「進行した状態の癌の治療に向き合う場合」をいうのであって「初期癌の治療で『闘う』と言われても、気恥ずかしく申し訳ない気持ちで一杯になる」のだそうだ。「世の中にはもっともっと苦しい、それこそ文字通りの『闘病生活』を送っている人がたくさんいる。それに比べたら私の癌なぞ書くほどの体験と思えない」という気遣いもあってのことなのだろうと思う。
身体の声を聴く達人
「生まれてからずっと、自分が百パーセント元気で健康だと思えたためしが」なく、「『病気とはいえない病気』の不快感にずっとつきまとわれてきた」身体がどんどん元気になってきたというのだ。その体調のよさとヨガとの因果関係はわからない(著者も言及していない)が、しかし小さい頃から「じりつしんけい、とか、きょじゃくたいしつ、という言葉を聞き知って」おり「当然のことながら、運動は大嫌い」だった著者が、「筋肉オタク」を自称するまで「ヨガ」にハマっているのである。その理由は「気持ちいい」からだ。「マット一枚のスペース」があればでき、身体によさそうなヨガを「スピリチュアルなものとは距離」を置きつつ恐る恐る始めたところ「なんの魔法をかけたのですかというくらい」「布団に入った瞬間にことりと眠りに落ちた」ほどに不眠から解放されたのだ。そして「そのうちに終わった後、身体の真ん中、心臓の裏側あたりが強烈に気持ち良くなる」身体感覚との出会いで決定的にヨガが好きになっている。運動など苦手でも、このような身体の声を聴けることは立派に“体育の達人”といえる。
癌以前にも「足指を一つずつつまんでほぐしてもらい、身体のどこかに手を当てて、身体の中に流れのようなものを作るという」「操体」という「治療術」で「ある日突然、腕がくるくる」と「動かしたかったように」動くという体験をしている。さぞ気持ちよかったろうと思う。
この“キモチイイ”というキーワードは重要で、ちょっとしたボタンのかけ違いで“がんばる”ことが先行すると、いとも簡単に人は運動嫌いになってしまう。
身体は、がんばりたい?
「『がんばって』は私がなにより嫌いな言葉」なんだそうだ。しかし治療に関して著者は「それなりに大変な思い」と控えめに表現はしているものの、「二度の部分切除を経て乳腺全摘出、そして乳房再建と手術」を重ねるなど、相当な修羅場をくぐって癌と闘い、“がんばって”生きてきたことは想像に難くない。
表紙のイラストにしても、裸の女性が右手を植物に絡まれながらも、左手で乳房を引ん剝いて“病気のいいなりになんかなるものか”とばかりにベロを出し、がんばっているではないか。“がんばる”という行為は、“キモチイイ”という身体感覚の反対側にあるようなものかもしれない。だけど運動の“キモチイイ”を知っている人は、“がんばった”先に“キモチイイ”が待っていることも知っている。
そんなに“がんばらない”ことにがんばらないで、“がんばりたい”と身体が言っているのだから、がんばる“身体のいいなり”になってもいいんじゃないかなあと、お節介ながら思うのである。
(板井 美浩)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2013-10-10)
タグ:身体 不調 闘病
カテゴリ 身体
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体育会力 自立した「個」を育てる
礒 繁雄
2種類の「好み」
“ポジティブな好みとネガティブな好みが人にはある”。こんな意味のことを言ったひとがいる。ポジティブな好みとは、“こういうものが好き”という能動的なもので、“今日はカレーが食べたいね”“うん!イイね!”という明るい感じ。対するネガティブのそれは“○○ではないもの”“嫌いなものを取り除いたもの”が好きといった否定的で受動的な志向から好みが形成されるタイプで、“何が食べたい?”と尋ねられたら“美味しいもの”などと抽象的な答え方をして相手を困惑させるイヤミなやつだ。困ったことに私はこちらの人間だった。
ところが、そういうのに限ってプライドだけは高いから人付き合いは大変だ。自分を肯定するために、まずは相手を否定する。だから、ひとの短所を探し出しては、アイツのここが嫌いあそこがダメと否定して自分を正当化しようとするのである。自分より才能があって能力の高い人を否定するほど快感を覚えるから、日本中の、世界中のスゴいやつら全てをドンドン、トコトン、完膚なきまでに否定していったら…アレッ?…誰も?…私も?…いなく?…なっちゃったぞ!
気づき
イヤなやつを抹消すれば有能な自分が残ると思って頑張ったのに、やっとの思いでみんな消したら私という存在も認識できなくなってしまった。世界中の人が皆消えてゼロになっちゃった。相手との対比の中でしか肯定できない自分は、否定すべき相手がなくなることで肯定したい自分すら否定してしまったのである。でも待てよ。ならば、逆に相手を肯定することから始めたらどうなる? 相手の良いところを見つけ、受け入れ、素直になって…おお!…いいぞ!…何だか私も肯定されているようだ。ゼロ(無)は裏返すと無限大とイコールだったのだ!ここにおいて、ネガティブを否定することがポジティブに成り得ることに初めて積極的に気がついた。つまり“悟り”だ。どこか違っているかもしれないが、つまりは、そういうことだ。
やれやれ。我ながら面倒くさい性質だが、そう気づいてからは色々な意味で生きるのが楽になった。油断すると今でも“ネガティブ魂”がアバレそうになるけどね。
ちゃんとしたスポーツ選手には“ポジティブ魂”優勢なひとが多いような気がする。物事をいちいちネガティブからポジティブに捉え直している暇などない。始めからポジティブに取り組んだ方が良いに決まっているからだ。当たり前か。
新しい体育会魂
さて「体育会力」。早稲田大学の競走部(=陸上部)監督、礒繁雄の手に成るものだ。礒は、「三大大学駅伝制覇」「関東インカレ」および「日本インカレ」総合優勝「つまり、学生陸上競技の主要大会の完全制覇」へと競走部を率いた名伯楽である。
平成生まれの「やさしい」気質をもった学生たちと、ポジティブな姿勢の礒が向き合い「学生スポーツの中から、世界で戦える個人が育つ」組織がつくる、新しい(あるいは、真の)体育会魂について語ったものだ。
礒は話術の名人だ。監督として「理論プラス経験タイプ」の冷静な分析眼と客観視でもって組み立てた緻密な論理を、湧き出る自信とともに“これでいいのだ”と言い切ってしまう。すると不思議なことに読み手は“ああ、ナットク!”と胸の内で手をたたいたりさせられているのである。損得や、誰かとの比較ではない“情熱”がベースとなった、自分の理想、自分の考えを、ただただ真摯に述べているからだと思う。
たとえば、「僕の役割は、学生たちがアスリートとして一番華々しく、一番輝いている時にスポーツをやめさせ社会へと送り出すことだと、はっきりと言うことができます」。また、「進学のために将来のためにスポーツをする、つまり日本社会の安定志向に学生を巻き込む危険をはらむ」現行の入試制度についての言及、あるいは「これからは『導かないで導く』ことを追求しようと考えて」いるのだという。“えっ?”という展開にも流石な解答が隠されている。太刀打ちできずとも、見習ってみたいものだと思った。
(板井 美浩)
出版元:主婦の友社
(掲載日:2014-02-10)
タグ:体育会 陸上競技
カテゴリ 指導
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あわいの力 「心の時代」の次を生きる
安田 登
こちとら体育教師、だが驚いた
きっかけは、オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』(岩波文庫)だ。
大正から昭和にかけ東北帝国大学の招きで哲学を教えにきたヘリゲルが、日本文化に触れるため習った弓術を通して知った西洋人と日本人のものの見方の相違を、ドイツ人らしく論理的に説明した講演の記録だ。矢をいかにして的に当てようかとする西洋の考え方に対し、日本の弓術ではなんと、“的を射ようとしてはいけない”のだ。けれど当たらないといけない。しかも、弓を引いた“私”が当てるのではなく、“矢”が自ずと的を射る、という身体のあり様を善しとする、というような内容だった。
ある日、ドイツ語の教授(本職は哲学)にお茶飲み話の中で、体育教師なら読んどかなきゃダメだよと言われ、てやんでい、こちとら体育教師だい、身体のことに関しちゃオイラのほうが......と、なぜか江戸っ子となって息巻いて読んだら、ひっくり返るほど驚いたのを覚えている。
“体育”そのものへの疑問から舞踏へ
身体を科学的に認知するのが一番偉いと思い込んでいた私だが、しかし思い当たることはあった。身体の大きさを把握するもっとも基本的な指標として身長・体重が測定されるが、体調の良し悪しとか元気の度合い(オーラ?)によって人は大きくも小さくも見えるし、“寝た子は重い”というように、オンブの仕方で人は重くも軽くもなるではないか。私たちは身体に対して科学的に認知するよう刷り込まれてきている。しかし、ここにおいて体育の授業、というより“体育”そのもののあり方に疑問を抱くようになっていった。
そこで思いついたのが“何だかわからないものを習ってみよう”ということで、舞踏ダンサー滑川(なめりかわ)五郎の門を叩いた。舞踏(Butoh)とは、日本が発祥とされる前衛ダンスで、バレエに代表される西洋舞踊(舞い踊る)の“動的”なダンスに比べ、舞踏(舞い踏む)の名のごとく、どちらかと言えば“静的”な動き、時には全く動かずに身体から発する殺気だけで沸き立つ情念を表現しようとするものである。
滑川は、天児牛大(あまがつ うしお)らとともに組んだ山海塾で、ワールドツアーを敢行した。まるで“能”のようだと、はじめはヨーロッパで評価され、日本へはむしろ逆輸入の形で紹介された。山海塾から独立した滑川が、大谷石(帝国ホテルなどの建築で使われた岩石)の採石場近くにスタジオを構え、ワークショップを開催していたのである。
片道1時間ほどの道のりを通い、2011年の秋に滑川が急逝するまでのほぼ10年にわたって(後半はほぼ幽霊の劣等生だったけどね)、毎回毎回、目からウロコの刺激的な体験(雲の上を走るとか、石像が数万年かけて崩れていく様とか、横臥する10メートルのお釈迦様を泡で洗うとか、ナンダカワカラナイこと)をさせてもらった。なんとなく見えてきたような、でもその気づきについてまだまだ教えてほしいことだらけだった。しかし滑川のレッスンは、“体育”に対する視野を広げ、思考を深めるヒントを、山ほど私の身体に刻み込んだ。
間(あわい)にあって媒介するもの
さて今回は『あわいの力』。
「能には、シテとワキという二人の主要な登場人物」がいる。主役であるシテに対してワキは「装束も地味で、目立った活躍をすることも」なく「ほとんどの時間、舞台の上でじっとしている」。ワキの役割は、「自分の身体」を「道具」としてシテの手助けをし、「『あっちの世界』と人間とを」「『媒介』する」ことにある。「この『媒介』という意味をあらわす古語が『あわい・あわひ(間)』」というのである。「あわい」という役割は、「ワキ」特有のものではない。シテにもシテなりの、能には能の、舞踏には舞踏の、体育には体育の「あわい」の振る舞い方があると思う。一見、地味で役に立たなそうなこと(教養とか)、目に見えないこと(建物の土台とか)が重要な役目を果たしているというのはよくあることである。
滑川にもらったヒントが私の身体の中で寝かされ、やっと答えらしきものが口にできるようになった。そこにあらわれた本書には、明快な答えがたくさん書かれていた(負け惜しみを通り越して腹立たしいほどに)。中でも「教師は現代におけるワキの担い手」というのにとどめを刺された。
(板井 美浩)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2014-06-10)
タグ:教育
カテゴリ 身体
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高齢者が働くということ 従業員の2人に1人が74歳以上の成長企業が教える可能性
ケイトリン・リンチ 平野 誠一
齢をとりたくて仕方がない
マスターズ陸上などというベテラン選手の大会に出るような人たちは“齢をとる”ということに関して、世間とは少しばかりズレた価値観の中で暮らしている。“長老”が偉いのは当然のこととして、とにかく皆“早く齢をとりたくて仕方がない”のだ。
マスターズのカテゴリーは5歳きざみでクラス分けがされていて、ひとつのカテゴリーの中でレースタイムが同じだった場合、1日でも年上のほうが勝ちとなる。“齢をとるほど体力が低下”しているはずだからだ。そういった意味では、たとえば80歳クラス(80~84歳)では80歳より84歳が有利となる。
しかしまた、ひとつ上がって85歳クラス(85~89歳)になると、今度はそのクラス“最年少”選手として若手のホープに返り咲くことになるのである。
だから88歳の誕生日を迎えられた大先輩に米寿のことほぎを申し上げに行ったとき、“そんなことはどうでもいい”と、遠い目をして宣ったとしても動揺してはいけない。“ああ、早く90(歳)になりてえなあ”とのお言葉が後に続くからだ。マスターズとは、まさに“40、50ハナタレ小僧。60、70働き盛り。男盛りは80、90(歳)”を地で行く世界なのである。
家族経営の工場が舞台
さて、今回は『高齢者が働くということ』。「ヴァイタニードル社」という、アメリカ東部にあって、特殊な注射針などを製造する従業員約40名の家族経営の工場を舞台としたものである。ごく普通の(むしろ小規模な?)製造業ではあるが、ただひとつ違っている点は、従業員の半分を74歳以上の高齢者が占めているところにある。
著者のケイトリン・リンチは気鋭の文化人類学者だ。文化人類学の研究手法に「フィールドワーク(現地調査)」というのがあって、ある文化を共有する集団に対し“外部者”としての目から観察したりインタビューしたりするのだそうだが、もう一歩踏み込んで“内部者”として時間を共にすることで文化の特性を分析しようとする「参与観察」という方法があるそうだ。著者は、約5年の取材期間のうち3年近くを「従業員」として勤め、ヴァイタニードル社の内部にいながら外部者としての観察眼を発揮するという綿密な取材を敢行して本書をものしている。
ケイトリン(この工場では従業員同士を含め社長に対しても互いにファーストネームで呼び合う。従業員の中には先代の社長時代からの者もおり、現社長が少年の頃から知っている)には、「インタビューでたびたび使用してきた質問」に「あなたはお年寄りですか?」というのがあって、従業員は誰もが戸惑いを隠せないようだった。「老い」というのは「文化的に構築された」ものであって、彼らの反応は「年相応の振る舞いに対する文化全体の期待に応えよという社会の圧力があることを指摘する」ものであるという。
働く理由
従業員たちは「人柄や経歴、働く理由も千差万別である」が「働くことに対して、給料だけでなく、帰属感や友達づきあい、さらには生産的なことをしている実感ややりがい、誰かの役に立っているといった経験を求めている」のである。
最高齢が99歳(2011年現在。ほかにも10代からあらゆる世代)の従業員を抱えるこの工場は、「ヴァイタ」すなわち「ラテン語で『人生』という意味」が示すように「まさに人生が(それも意味のある人生が)つくり出されている」「成長企業」であり、世界が注目する「エルダリーソーシング(高齢者に仕事を任せること)」モデルとなっているようだ。
かつてスポーツ界では25歳を越えると“ベテラン”と呼ばれる時代もあった。ましてや30歳を越えて活躍する女性アスリートというのは皆無に近かった。今では35歳を越えてもなお世界の一線で活躍するアスリートも少なくない。
しかし人生80年の時代を迎え、競技の絶頂期を過ぎてからの人生はあまりに長く、引退後のセカンドキャリア問題は多くのアスリートにとって重くのしかかる。競技力を問わず(それによってメシを食っているいないにかかわらず)人生の大きな位置を占めていたものと距離を置くことになるからだ。なんとしてでも、別の人生を死ぬまで歩み続けなければならない。
こうなったら“90になって迎えが来たら、100まで待てと追い返せ。100になって迎えが来たら、耳が遠くて聞こえません”を目指そうじゃないか! と、潔くないかもしれないが50代のハナタレとしては訴えたいのである。
(板井 美浩)
出版元:ダイヤモンド社
(掲載日:2014-10-10)
タグ:人生 働く 組織
カテゴリ 人生
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世界をさわる 新たな身体知の探究
広瀬 浩二郎
皆と同じことで勝てるか
科学的トレーニングの目的の1つに“効率がよい”ということがある。一言で(誤解を恐れずに)言うならば“近道を探す”ということである。しかしながら、近道ばかりで成功する者がいた試しはなく、逆に、遠回りのように見える地道な基礎練習が実は効率的だったり、遠回りをしたからこそ今の成功が…、ということはよく聞く話である。
また、トレーニングが科学的であるためには実証的な数値や理論に基づいていることが求められる。そして、それが多くの人に当てはまり、誰にでも理解できる“言葉”でつづられていることが重要である。しかしながら、どの教科書を見ても書いてないとか、教科書に書いてあることが現場で直接応用できた試しなどないとか、カリスマが出てきて“ブワーッとやれ”と言われたらみんな納得したとか、という話もよく聞く(ような気がする)。
そもそも、皆と同じこと(教科書に書いてあること)をしていて未踏の境地へ達することなどできるはずないし、加えてこういう人はまた“○○ならでは”、“○○だからこそできること”という考え方(この“○○”には“天才”とか“最新機器”などといった有利な言葉だけでなく“地理的に不便(イナカ)”とか“胴長短足”といった、どちらかと言えばハンディキャップとしてとらえられる事柄も含む)ができる人なのである。
このような、科学的理論(一般性)と現実的課題(個別性)に加え、競技力の向上ばかりでなく“人としての成長”などといったさまざまな価値観も現場には導入されてくるから話はややこしくなる。そしてまた、このようなジレンマがあるからこそ現場は面白いのだ(と思いたい)。
「触常者」という、とらえ方
さて今回は『世界をさわる 新たな身体知の探究』である。
編著者の広瀬浩二郎は、国立民族博物館の准教授(日本宗教史・触文化論)で、「視覚に頼らない知的探求の手法として『さわる文化』の可能性を追求、提唱」し、「ユニバーサル・ミュージアム」構想の実現を試みている人である。
一般に博物館とは、「なかなか行くことができない海外の珍しい事物、先人の業績、あるいは肉眼ではとらえられない体内や宇宙の様子などを『目に見える形』で紹介する」ことが主な目的であるのに対し、「ユニバーサル・ミュージアム」とは「ユニバーサルデザイン」の「誰もが楽しめる博物館という意味」である。ひとつの特徴として「さわる」展示を行い、「聴覚と触覚の復興をめざして」いる。「視覚優位の現代社会にあって、あえて“さわる”にこだわることによって」「世の中には『さわらなければわからないこと』『さわると、より深く理解できること』がたくさんある」ことを理解することに眼目が置かれているのだ。
広瀬は「視覚障害者」を「『視覚を使えない』弱者」とはとらえず、「『視覚を使わない』ユニークなライフスタイル」を持つ者「触常者」としてとらえている。対して、視覚を持つ者のことを「見常者」と呼んでいる。言い得て妙。冒頭で、「時に触覚は言語を超えたコミュニケーションのツールとなる」と表現されていることには深く共感した。しかもそれを表現するには“言葉”で言い表すよりほかないという、相反する作業を同時にこなす知力には脱帽した。
本書の中で「さわって楽しむ宇宙の不思議」を担当した嶺重慎(天文学)の言葉が印象深い。「今、『業績』とか『効率』とかいうことばが、社会にあふれています。そこでは『数』がものをいいます。しかし、『数』にとらわれると、目の前にいる『一人の人』が見えなくなります。目の前の人が見えないと、自分も、見失ってしまいます。私たちの行っている活動は、今の社会の価値観に逆行しているようですが、一人ひとりの魂と向き合い、大切にし、ともに感じる感性を育む活動は、時間がかかっても、確実に世に広がっていくものと思います」。
この言葉は“体育”の現場でもそのままあてはまるものとして、常に念頭に置いて一人ひとりの学生と向き合っていきたいと思う。
(板井 美浩)
出版元:文理閣
(掲載日:2015-02-10)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ 身体
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ご飯が食べられなくなったらどうしますか? 永源寺の地域まるごとケア
花戸 貴司 國森 康弘
医師からの問い
「ご飯が食べられなくなったらどうしたいですか?」「寝たきりになったら、病院か施設に入りたいですか?」。逆説のように聞こえるが、これは「最期まで自分らしく生きるために必要な準備」を整えておくためにと発せられる、医師からの問いだ。
本書は「誰しも迎える必然の時である」“死”を、「命を受け継ぐ」ときとして「地域まるごと」の体制で見つめ、それぞれの「人生の最終章」をよりよく“生きる”ための手助けをしようとする診療所医師の活動の記録である。
上昇志向だけでは
若いころ私は、“子どもから大人まで”“一般健常者から競技者までを対象とした健康の保持・増進を目指す”といった内容で授業を行えば、“すべての人を対象にした”体育が展開できるのではないかと考えていた。競技での成功など人生の輝ける一幕に助力することや、いつまでも元気に動ける身体づくりに対する助力といった、“体を育む”ことは、確かに体育の重要な役割の1つではあるけれど。
しかし齢を重ねるうちに、体力には限界があり、命にも限りがあること、いずれ人は老化するし病気にかかることもあること、失われた機能を取り戻すことには限界があること等々、“上昇志向”だけでは人生は済まされないということなどを考えるようになった(何を今さら...だなあ)。
一方で、マスターズ陸上というベテラン選手ばかりが出場する競技会に出るようになって、絶対的な速さだとか高さだとかいった“記録”のほかに何か別の魅力があるように感じられてきた。真剣勝負(命の交歓)であるが故の美しさ、というようなところは一緒だが、何か普通の競技スポーツとは異なった、齢をとったからこその美しさが表現されているように感じられるのである。とくに60歳を越えると、記録がどうしたとかとは異なる魅力が湧き出てくる、あるいはベテラン選手としての“味”が増してくるように思え、マスターズ陸上とはある種“芸事”と同じなのではないかと考えるに至った。
価値観が変わると世の中が違って見えるものである。すなわちベテラン選手は齢をとることで記録が“低下する”ものとして映っていた世界が、実は、精進を重ね一味違うものに“変容する”世界だったのである。競技を通じて、記録だけではない何かを育んでいるのである。
このような感覚を通して、“体で育む”体育というものを考えてみた。すると大きな可能性が体育の授業に内包されているように思えてきた。
医学部の学生という、いずれは人の最期に直面するような職業に就こうとする人たちを前にして、“教養科目”の体育とはどうあるべきかなどと考えたとき、“体を育む”ことだけでは体育という科目に行き詰まりを感じずにはいられなくなっていたところに、一筋の光明が差した気分だった。“体で育む”体育は、身体を見つめ、身体の声を聴き、身体で表現することだ。歩けなくとも動けなくとも、介護者の手技や優しい言葉に触れること、家族と手を握り合うこと寄りそうことで、様々なことを体感することができる。身体を通して絆を育むことができる。
体育の授業とは、命を見つめるものでありたいし、よりよく生きるためのヒントを学ぶ場であることができたらいいなと思う。しかしまた、学生や卒業生の姿を見るにつけ、学ばせてもらっているのは私たち教員のほうかも知れないと本音では思ったりしている。
初めての学生の一人
本書の著者、花戸貴司は、私が初めて受け持った学生の一人だ。ラグビーを愛する、立派な体躯をした元気で優しい学生だったのでよく覚えている。先日、ほぼ20年振りに再会した。何とか私のことを覚えていてくれたようで、「あ、先生! お世話になりました」などと言う。いやいやそんなことはない、あなた方から学びのヒントを山ほどもらったお陰で体育を生業とすることができているんだ。むしろ感謝するのは私のほうで、それより当時の若気の至りの授業、思い出すだけでも恥ずかしく、冷や汗を隠すのが精いっぱいだった。
(板井 美浩)
出版元:農山漁村文化協会
(掲載日:2015-06-10)
タグ:医療 地域
カテゴリ その他
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重力との対話 記憶の海辺から山海塾の舞踏へ
天児 牛大
舞踏家によるレッスンの魅力
以前にも書いたと思うが、齢四十を越え“身体”とか“スポーツ”とか“体育”とかに対する科学的なものの見方に疑問が生まれるようになった私は、“ナンダカワカラナイ”が何だか魅力的な舞踏ダンサー滑川五郎に教えを乞うた。レッスンは、“雲の上を走る”“石像になる”“宇宙の詰まった卵の中で動く”などなど、やはりナンダカワカラナイもので、“強くなるためのトレーニング”や“速くなるための動きづくり”といった思考回路で運動を捉えているのでは到底理解できないものばかりだった。
しかしワカラナイながらも身体の方にはストン!ストン!と心地よく入ってくるものが多かった。何より、挨拶を交わすため向い合った滑川の立ち姿の美しさは圧巻だった。
舞踏といえば「それは白塗りの、時には半裸や剃髪の、あるいは女装をしたダンサーが、ゆっくり動くダンス。リズムに合わない動き、腰を落とした内股、操り人形のような姿態。半眼や白目、歪曲などを伴う大胆な顔の表情(原田広美著『舞踏大全』より)」で動くもの、そのような生半可な知識しか持たない私にさえ、滑川の立ち姿は舞踏が表現する世界の素晴らしさを垣間見た気にさせてくれるのだった。
それぞれに理由がある
さて、今回の『重力との対話』の著者、天児牛大(あまがつ うしお)は、滑川とともに「山海塾」という舞踏カンパニーを1975年に立ち上げた主宰者である(山海塾の活動は現在も続いている。滑川は1987年に独立。2012年逝去)。
本書には天児の半生、作品への想いや創作の理論などが綴られている。天児は山海塾の舞台で「仏倒れ」という振り(直立姿勢から後方にそのままバタン!と倒れる)を見せる、凄まじい身体能力の持ち主である。そういう人の、つまりは舞踏ダンサーの表現法の秘密が書かれているわけで大変興味がそそられる。
たとえば「半眼」で動く、世の中を見る、ということを滑川はレッスンでよく言っていた。半眼とは、仏様のような、瞼を半分開いた(閉じた)状態のことをいう。
そうする理由を天児は次のように説明する。「人はアウト・フォーカスな視野でいるとき、なんとなくその場の総体を身体でレシーブしている。つまりなにかひとつ特定のものをはっきりと見据えていないからこそ、自分の周囲三百六十度にどのような物事が蠢いているかを全容的に把握できる。だがそうしたパノラマからなにかひとつの出来事をセレクトし、自分の視点をある一点にフォーカスしていくと、そこには『選んだものを見る』という揺るぎない意志が生まれる。あるひとつの物事を周囲から切断し、全神経を注ぎ、それを『見る』。そのような確たる意味付けを持って、あらためて行動していくことになる」。半眼が単なる薄目と異なることがよくわかる。
ほかにも、山海塾の稽古場に鏡を置かない理由(滑川のスタジオにもなかった)は「鏡に映る身体を訂正するという表面的手法とは異なる」「自分の内部を覗いていくような」やり方で身体を操作していくためであるとか、「横たわった姿勢から床面に座る姿勢、あるいは立つ姿勢へと最小の筋力で移る」動作は「ゆっくり」「ていねいに」行うことで「身体のうちに緊張と緩和がとなりあっているのをよりよく気づかせ」てくれるといい、外面的な視覚情報よりも、身体内部の感覚を研ぎ澄ますことの重要性を述べている。
また「共鳴と共振」「意識の糸」「息の行方を探る」「ダンスと身体」「成立させたくなるなにものかを求めて」などなど、天児の創作に対する考えが綴られていて舞踏というものが少しはわかったような気にさせられるとともに、これらの理論は競技的運動の中にも案外応用できるのではないかと考えたりもした。
旅路で思うこと
余談だが、自伝的な部分はどうやら天児が「自分で書くのは気恥ずかしい」とかで、「聞き書き」という形式が取られている。しかしながら、この聞き書きをした岩城京子というパフォーミング・アーツ・ジャーナリストの文章がなんとも知的で美しい。聞き出したものを文章化する作業とはいえ、この静謐でスマートな“世界感”には書き手の力量が大きく反映しているに違いない。その上、この仕事を依頼されたのは岩城が二十代の頃だというから才能というのは怖ろしい。この人には芸術の深淵が見えているんだろうなあと、心の底からうらやましい。
それに引き換え私といえば、齢五十も半ばを迎え、悟ることなく毎回グルグル問答を繰り返し、舞踏の何たるか、芸術の何たるか、体育の何たるか、人生の何たるかがいまだ見えず、夜なべに(もう朝だが)文章をひねり出しながら“自分探しの旅”はまだまだ続いているのである。
(板井 美浩)
出版元:岩波書店
(掲載日:2015-10-10)
タグ:舞踏 自伝
カテゴリ 身体
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「共感」へのアプローチ 文化人類学の第一歩
渥美 一弥
身体運動の文化的側面
人が生活していく中で行う身体運動には、いくつかの側面がある。
一つには、生命を維持するための行為で、ひとまずここでは “自然(nature)的身体運動”と呼ぶ。もう一つには、人々が構成する“社会”の慣習が反映された中で成り立ってきた側面があって、ここではこれを “文化(culture)的身体運動”と呼ぶこととして話を進めたい。
たとえば、食物を摂取するという行為。これは、食物を咀嚼したり、嚥下したり、消化・吸収(これは運動というより活動か)するなど、“経口的に栄養物を摂取する”という行為そのもので、命を保つために必須の“自然的身体運動”であるといえよう。
しかしこの“食物摂取”という表現を“ご飯を食べる”という表現に変えてみるとどうだろう。何を、どのように(調理して)“ご飯”として食べるのか、さらにその“ご飯”をどうやって(行儀や作法)食べるのか、などということが加味されてくると、話はややこしくなる。それはもはや“生命維持”のためだけでない、なにか別の価値観が加わった“文化的身体運動”ということになり、挙句は、ご飯の食べ方が悪い(つまり、お行儀が悪い)と“親の躾がなっていない”などと、本人ばかりでなく親まで引っ張り出され罵倒される(“社会”の最小構成単位は“家庭(家族)”だからだ)顛末となる。
身体運動に現れるもの
では、“歩く”、“走る”、“跳ぶ”、“投げる”といった身体運動は、どちらに分類したらいいのだろう。
何かに驚いて飛び退く、あるいは危険から身を護るため走ったり跳んだりして逃げる。これは、自然的身体運動だろう。では、狩猟という行為はどうだろう。獲物を捜し歩き、走って追いかけ、石を投げて仕留める。これは原始の社会では命を支えていくための行為ではあるが、狩猟の背景には文化の気配が濃厚にある。次に、歩きながら種を蒔くなど農耕に関する身体運動、これはどうか。これは“culture”の訳そのものだから当然、文化的身体運動ということになるだろう。さらには、スポーツのような身体運動や、踊る・舞う・演ずるといった表現活動は、明らかに文化的身体運動であるといえよう。
このように考えると、人の身体運動はそのほとんどが文化的なものであって、そこには人それぞれの文化的背景が反映されているということになる。換言すれば、身体運動を見れば、その人となりがわかる、つまり“運動には人が出る”と考えることもできる気がするのである。
人が運動する姿には、それぞれの個性が凝縮されて具現化する。たくさんの言葉を重ねるより、走る姿を一度眺めるほうが、よほど深くその人のことがわかるような気がするのである。
このような身体運動の捉え方について、長いこと感覚的には気づいていたものの言葉では考察することができずにいたところ、大きなヒントを与えてくれる人が現れた。
捉え方が変わる
さて、今回は『「共感」へのアプローチ 文化人類学への第一歩』である。著者の渥美一弥は、同じ職場に身をおく文化人類学の教授だ。あ、また内輪の書籍を取り上げているとお咎めの声も聞かれそうだが、仕方ない。面白いのだ。
渥美は、「カナダ西部の美しい森と海岸線に沿って居住する集団(人類学では一般に『北西海岸先住民』と呼ばれる)の一つであるサーニッチの人々の文化復興運動と民族的アイデンティティの関係の研究」を専門とし、長いこと在野で研究を行ってきた文化人類学者である。私たち(いわゆる体育系の人間)とは明らかに異なる文化的背景をもって世の中を眺めている人である。
だから、渥美との会話は刺激に満ちている。
身体運動の捉え方について、感覚的には気づいていたものの言葉で考察することはできずにいたことに、様々な切り口で見るヒントを与えてくれるのである。己の肌感覚だけで分かっていた(と自己満足に浸るしかなかった)ことを“文(章)化”することで、人に伝えることができる醍醐味に気づかせてくれるのである。
さらに言えば、本書を読むと、自然(nature)と文化(culture)という用語が、実はもっと深い意味を持って考察されるべき言葉であったことがわかる。
“身体運動”とは何か、その捉え方が昨日までと変わること、実に愉快である。モノの考え方が変わると、世の中が違って見えるからだ。
“運動には人が出る”ように、“文章には人が出る”。一語一語、噛みしめるように丁寧に綴られる本書には、渥美の人となりが凝縮されているようだ。日頃の付き合いの中で、分かったような気になっていた勘違いを恥じ入るとともに、この人の本質が垣間見ることができたようで嬉しい(これも早とちりかもしれないが)と、本書を読んで思うのである。
(板井 美浩)
出版元:春風社
(掲載日:2016-06-10)
タグ:文化人類学
カテゴリ その他
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書のひみつ
古賀 弘幸 佐々木 一澄
走りに表れるもの
走りには人が出る。まずは骨格や筋(肉)のつき方を含めた体形、筋線維組成や筋・腱複合体の働き具合(バネ)といった身体的要素に影響を受ける。そしてまた、そのときの内的感覚や視覚から入るフォームや動きなどのフィードバックから走る主体(つまり走っている私)は様々な思いをめぐらせ、どうやったら速く走れるかという方法論や、どうやったらカッコよく or 気持ちよく走れるかといった趣味の問題までもが意識無意識にかかわらず投影される。“なってしまう走り方”とともに、“こうしたい走り方”が、人の走りには反映されてくるからだ。“無の境地”で走れること(人)など極めて稀だろう。
思想や信条まではわからないが、気質や性格、感情や想いなどは走りによく表れるものだ。そのため、スポーツによる交流は人としてプリミティブな部分での深い共鳴を選手同士に芽生えさせ、見ている者には大きな感動を呼び起こさせる力があり、それが、“スポーツは言葉の壁を超える”といわれる素になっているのだろうと思う。
「書」にも表れる
一方でまた「書」にも人が出る。「書は人なり」という言葉もあるように、「書かれた文字」には「書いた人の人格」と「強い関係」があって「書き手の息遣いやその人のセンス」が表れる。「書」は、文字を基本としていることから、より高次な情報がそこに乗る。「政治、思想、宗教、文学など」「さまざまな人間の営みが書を通じて表現」されてきたため、「書の線にはいろいろなものが溶け込んで」いるのだ。
また、“走り”も「書」も、「一回きりの生々」しい身体表現という点でも共通している。
さて、今回は「書のひみつ」。「書」の「いろいろな見方、面白がり方をなるべく広く紹介」し、「魅力を改めて発見するためのガイドブック」だ。
中国で生まれた「書体」の歴史や「書風(個人の書きぶり)」、日本で独自に発展した「かな文字」の「連綿(続け字)」する「文字の美しさそれ自体の追求」の味わい方などが紹介されている。読んでいて面白いのは、「書」は、紙の上に時間が固定されているため数百年前の息遣いが今ここで感じることができる点だ。それに加え、引用されている図版の選出や、説明の言葉選びに対する著者の苦労を想像することもこの手の書物の面白味なのではないかと思う。優れたガイドブックは、その世界を一望できる情報をわかりやすく提示し読者の世界観を変えてくれるものである。本書は読了後、世の中の見え方を明らかに変えてくれる。
抽出される言葉
話題は跳ぶが、膨大な物語から抽出してわかりやすくといえば、スポーツ選手のインタビューも同じものと考えることができそうだ。たとえばゴルフ選手のインタビューなど見ていると、数日間にわたるプレー(たとえば 3 日間54ホール分)の要点を的確に抜き出し、全体の流れに及ぼした影響や意義を、平易な言葉を用いた短いセンテンスで明確に伝える、あるいは全体を一括して感想を述べるといった場面に遭遇することがある。
たとえば全英オープンで優勝を果たした渋野日向子選手のインタビューでは、幾通りもの応え方がある中から瞬時に一つを選び、発した自分の言葉に対して責任を取っていく姿は、プレーそのものにも似た「一回きりの生々しさ」にあふれた潔い言葉の数々で、見ていて心が躍るので動画サイトで何度となく再生したものである。
また、彼女は書道が得意とのことで、腕前を披露しているTV番組があった。とても堅実な書き手で、線を一本引いては墨、点を打っては墨と、一文字書くうちに何度も墨継ぎをするので出来上がりはどうなるのかとハラハラしたが、不思議なことにバランスの取れた書きあがりになっているのである。
ゴルフが一打々々の積み重ねの上に成り立っているスポーツであるということに関係しているのだろうか。とすると、もし渋野選手が「連綿」の書法を身につけたとしたらどんなプレーが展開されるようになるのか。勝手に妄想は広がるのである。
(板井 美浩)
出版元:朝日出版社
(掲載日:2021-02-10)
タグ:書道
カテゴリ 身体
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ゆで論 パスタの新しいゆで方
奥田 政行 小暮 満寿雄 長谷川 潤
小さなチャレンジ
さて今回は「ゆで論」。イタリアンのシェフがパスタのゆで方について徹底的なこだわりを投影させたものである。
じつは小欄の書籍選びでは、できるだけトレーニングとは異なるジャンルで行ってみようという小さなチャレンジを課している。理由はたとえばこんな記述に出会うことがあるからだ。「パスタ料理は、感覚で作る料理です。しかし私の場合、あるときからそれが変わりました。感覚から見えてきたことの背景に何か理屈が隠れているような気がして、実験と検証を重ねていくうちに、方程式が現れてきました。その過程では必ず壁にぶつかります。いったん矛盾だらけになるのですが、その壁にあるとき小さな穴が開いて、そこを壊していくと、矛盾が矛盾でなくなり、最後にすべてつながりました」。
この文章は、教えられることや自ら気づくことについて等々、そのまま体育やスポーツ、トレーニングの場面に当てはめられるように思うのである。そして、こういう達人の言葉がジャンルの垣根を越えて読者の琴線に触れることがあれば良いなと思う。
小欄の考える達人とはジャンルを問わず“自在である人”のことを指したい。状況改善の必要に駆られ、環境に不平を言うことなく徹底的に考え抜き、膨大な理論的裏付けのもとに身につけた技術を、明快な説明でもって素人にわからせることができる人。“何でもできる人”のことでは決してない、柔軟性のある思考力を持った人を達人と呼びたい。
画期的なゆで方
パスタ(スパゲッティ)は一般的に塩分濃度1.0〜1.5%の湯でゆでる。汁物でおいしいと感じるのは0.9%ぐらいらしいので、飲むとしたら結構しょっぱいと感じる濃度だ。ところがこの「ゆで論」では2.3〜2.7%という相当なしょっぱさの湯でゆで、そして、あろうことか「ただのお湯」で「ゆすぐ」のだ。ゆすぎ時間は0.5〜30秒。ソースの種類によって使い分け、仕上がった一皿の塩分濃度が同じくなるよう調整するのである。
想像したこともないやり方だ。スパゲッティは大好きで、初めは伊丹十三の「スパゲッティの正しい調理法」(『ヨーロッパ退屈日記』文春文庫、1976年)に感化され書かれているとおりに作っては食べ、そのやり方が一番旨いと永いこと信じてきた。ところがソースにとろみをつける「乳化」という方法(『落合務の美味パスタ』講談社+α文庫2006年)を知り、格段に美味しく作れるようになったと悦に入っていたところ、最近になって動画サイトで知った日髙良実というシェフのやり方(「Chef Ropia料理人の世界」YouTube 2020年)を真似てみたらこれまでで一番美味しいスパゲッティを作ることができた。
ところが、ところがである。この、『ゆで論』にある「パスタの新しいゆで方」は、落合、日髙をはじめ日本の名だたるシェフですら思いつかなかった方法で彼らを驚かせるどころか、「イタリアのパスタメーカー本社で披露する」ことになってパスタ文化の本場イタリアの人々をも仰天させる画期的な方法であったらしい。
ならば、ということで早速レシピに倣ってやってみた。ダメだった。もう一度やってみたら少しはましになった。3度目は、うーむ、2度目とそんなに変わらなかった。
ひとつ考えられるのは、著者の奥田政行が作りたいのは「ひと口目ではなく、3口目でおいしいと感じる」パスタ料理であるからのようだ。なるほど、レシピの写真にはどこか和食を思わせる、バランスよく「具材の味を主張させた」ものが多い。これまで小欄が目指してきた「ひと口目でおいしいと感じる料理は飽きが来る」のだった。
日頃学生に、話を聞いて分かったような気になるだけでなく言われたことをやってみないといけないよ、などと言っている手前、ちゃんとやってみたつもりだったが詰めが甘かった。これはいつか本物を食べてみないことには正解がわからないかもしれない。
つながる瞬間
余談になるが、小欄の勤める大学の学生は超絶な偏差値の学力を持つ者が多い(ほぼ全員)。ところが、もっと分析的に頭脳を使ったらいいんじゃないかと思うのだが、運動やスポーツ、体育会系の部活動となると、どういうわけか“気合と根性”みたいな固定観念に拘泥してしまう者が多い(ほぼ全員)。
しかしまれに、ウェイトトレーニングをしているラグビー部員などを捕まえて、運動器の連携を、習ったはずの筋・骨格・関節など解剖用語とともに挙げ方のアドバイスなどしているとき、これまでの知識と経験がバチバチと(煙まで見えるように)音を立ててつながる瞬間に立ち会えることがある。5年生にもなって“なんだ!?このバーベルこんなに軽かったのか?”などと呆然としている姿が見られたときなどは全身に鳥肌が立つような嬉しさを覚えつつ、したり顔をしたい衝動を抑えるのに苦労したりする。知識が柔軟性をもって知恵となり、本物の身のこなし方をこの学生が体得した瞬間だ。
ともあれ、コロナ禍で様々な行動を控えなければならない状況にあって自由に飲食に出かけることは叶わないが、置かれた環境を恨むことなく試行錯誤の末に「ゆで論」を確立した奥田のような柔軟な発想を見習っていきたいものだ。
本書は多少、値は張るが、コロナの終息を願って5670(コロナゼロ)円と設定されている。晴れてレストランで食事ができるようになった暁には、本物の「ゆで論」パスタを食べ、3口目に“なんだ!?このパスタこんなに美味しかったのか?”と呆然としてみたい。
(板井 美浩)
出版元:ラクア書店
(掲載日:2021-06-10)
タグ:パスタ
カテゴリ 食
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言葉はいかに人を欺くか 嘘、ミスリード、犬笛を読み解く
Jennifer Mather Saul 小野 純一
Jennifer Mather Saul、小野 純一『言葉はいかに人を欺くか 嘘、ミスリード、犬笛を読み解く』(慶應義塾大学出版会)
井筒 俊彦、安藤 礼二、小野 純一『言語と呪術 井筒俊彦英文著作翻訳コレクション』(慶應義塾大学出版会)
人を欺く言葉
今回は2冊紹介したい。
まず、『言葉はいかに人を欺くか』。「噓」「ミスリード」「犬笛」をキーワードとして「言われていること」に対して人はどのような過程を踏んで理解するのか、過去の「政治家」の発言をもとにして、そもそも論(哲学)的解明を試みたものである。
人は誰しも「嘘」をつくことはいけないと教育されて育つ。ところが政治家の中には「嘘」ではないが本当のことでもないことを言い、「ミスリード」することで他人を本来の導きとは異なる方向に誘導する人がいるようである。
一方で、政治家に限らず人は日常的な会話の中で意識的and/or 無意識的に「ミスリード」する必要に駆られることもあるらしい。
たとえばこんな場合だ。「ある老婦人が死の間際に自分の息子が元気か知りたがっている」。「あなたは昨日、彼に会ったが(その時点で彼は元気で幸せそうだった)、その直後にトラックにはねられて死んだことを知っている」。さて、あなたはどうする?
①「彼は幸せで元気そうにしています」
②「昨日会った時、彼は幸せで元気そうでしたよ」
①では「嘘」をつくことになってしまう。したがって多くの人は、②と答える方が(「ミスリード」ではあるが)「善い」と考えることだろう。
人が幸せになる「嘘」や「ミスリード」(少なくとも欺いたり不幸にしたりしない)ならいいじゃないかとも思うが、本書では善悪や正義といった「道徳」や「倫理」は置いておいて考察は進められていく。「嘘」と「ミスリード」の区別について人は「直観的」にわかるものらしいが、議論をきちんと進めるためには言葉を定義しておく必要がある。
そのため「嘘をつくこと」の定義を導き出すために、まずは素朴な原案がつくられる。しかし吟味するとそこに矛盾が生じる。何かを加えるとうまく説明できたように見えるもまた新たに矛盾を生み、余計なところを削ったら解決した、と思ったら、という具合で実に8回に及ぶ見直しを経て(第一章すべてを費やして)ひとまず「定義」としての結論に至っている。かわいい装丁に欺かれてはいけない。これは相当ややこしそうな書籍だ。
やはり“スポーツ”であれ「言葉」のことであれ、「直観的」感覚を言い表すことは難しいのだ。無理やりにでもこんなアナロジーを導き出せば、少しはこちらのフィールドに引き込めるのではないかと、自らの読解力の弱さを慰めつつ手ごわい本書を読み進めてみることにした。
「犬笛」とは「アメリカの政治ジャーナリズムで誕生した」用語だ。文字通り、犬が人間には聞こえないような周波数の音を聞き分けることができることから転じ、一般的な言葉の中に、ある特定の人にだけ届く特異なメッセージを載せ、「政治家(または、そのアドバイザー)によって、大衆の大部分に気づかれないように設計された故意の人心操作」を狙う物騒な行為のことを指す。
物騒な話はあまり得意ではないので、これはもしかして、子どもの頃に唄っていた歌(小学校の校歌とか)の意味が大人になったらわかるようになり、数十年の時を経て詩に込められたメッセージが心に届いた、とかいうのと同じことか。と、ここでまた小欄の脳内景色はこちらの平和なフィールドに跳ぶ。
小欄は小学 5 年生のとき遊びでやった棒高跳が面白く、以来ウン十年こよなくそれを愛する者だが、街中でキャリアに長い棒状のものを積んだ自動車を見かけると、いまだに胸がドキドキとときめく。これもある種の「犬笛」か(政治的な意味も意義もないメッセージだが)。あるいは逆に、子どもの頃あれほど感動していた絵本を見てもさっぱり泣けてこない。こんなことがあると、「犬笛」にはそれが届く年齢というものがあって、物事はやはり時期をとらえることが大切ということか。などと脱線ばかりしてなかなか読了できないのである。
言語の力を解き明かす
2冊目は、『言語と呪術』。「言語は、論理(ロジック)であるとともに呪術(マジック)である」とあるとおり、言葉には「意味を伝達する」という機能だけでなく、情動を喚起する何かもともに伝えるという力がある。これを解き明かそうとして編まれた全 7 巻のシリーズの一冊だ。著者は日本人(井筒俊彦)だが、英文著作の翻訳本である。
今回紹介するこの2冊は、実は同じ訳者(小野純一)の手になるものだ。異質に見える2冊であるが、言葉の意味はどうやって成り立っているのかという点で両者に同じルーツを感じたとの由。
翻訳作業の中で生じたという小野の想いが興味深い。「活字に触れるようになって折りあるごとに、また勉学や研究のために、井筒俊彦の著作、そして彼の意味論に色々な形で向かうことはあったが、今回ほど濃密な取り組みはなかった。それはこの類稀な人物との対話に留まらず、その思索を辿る道行きでもあった。手渡された原著という地図を見ながら原著者の見た風景を追走しつつも、同じ旅程を経るというより、実地調査して復元し立体化してゆく行為に似ていた」と訳者あとがきにある。
時空を超越した対話
実際の対面でない出会い(しかも井筒は故人である)の中に「濃密」な「対話」を紡ぎ出す言葉(文字)の力と、それに融合しようとする小野の姿が、ホログラムのようにここに浮かび上がる気がするのである。
この情景は、小欄のテーマでもある体育・スポーツで交わされるノンバーバル(非言語)コミュニケーションの対岸にあるようでいて、その実は不離一体のものと直観され至極心地がよいのである。
(板井 美浩)
出版元:慶應義塾大学出版会
(掲載日:2021-10-10)
タグ:対話 言語
カテゴリ その他
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秘する肉体 大野一雄の世界
大野 慶人
主人公の大野一雄氏は1906年生まれ、なんと 100歳で現役の舞踏家だ。本書は氏の生誕100年を祝し、42名におよぶ写真家の作品が収められたものである。
舞踏とは、1950年代に日本で発祥したとされるダンスの一分野だが、西洋のダイナミックで外向的なダンスに対し、能のように静的で精神的内面の表現を主体とした「BUTOH」はむしろ海外で価値が認められた後、故郷日本に逆輸入されたものだ。
氏の膨大な業績が年譜として巻末に記されている。驚くべきは、海外での初公演が74歳(!)で、その年だけで5 カ国を廻っている。そしてその年を境に公演回数が圧倒的に増え、90歳を超えてもなお旺盛な表現活動が続くのだ。
若い頃兵役に就き、多くの戦友の死を目の当たりにした彼のなかには「生と死がつねにあり、肉体ではなく、魂で踊り続けています。そして魂そのものの踊りとして、目に見える肉体は超えられて、隠されていきます(監修者で氏の次男でもある舞踏家大野慶人氏による巻頭言)」とあるように、超越した「祈りのようなものを感じる人がいる(同)」らしい。さらに、安らぎも感じるのに違いない。なぜなら、作品の中に写っている観客は、皆幸せそうな笑顔を湛えているのだ。
恥ずかしながら氏のダンスはDVDと我が家のオンボロブラウン管でしか観たことがない。動く姿を初めて観たのはNHKの特集番組で、そこに映る90数歳の彼は強烈だった。車椅子に座り、自由になるのは右手だけという身体なのだ。着替えやヒゲを剃るのでさえ介護が必要で、肝心の踊りはどうしているかというと、右手で中空の何かを掴んだり、クネクネピラピラさせているだけ。舞踏というものを多少は知っているつもりだった私(身体を白く塗りケイレンしたように踊る、といったステレオタイプの貧弱極まりないイメージ)だが、これには驚いた。音楽と共鳴しているその姿は、踊りへの情念が全身に溢れ、右手しか動いていないのに全身をフルに活用した踊りに見え、しかも美しいとさえ感じられるのだ。体力だけでいえば、若者が勝るに決まっている。しかし屈強な若者が何人束になってかかったとしても、到底かなわない迫力がこの老人の身体に満ちている。
私自身、棒高跳びを愛好し、マスターズ陸上というベテラン競技会に参加する者だが、まだ半世紀も生きていない若僧の跳躍より、もうすぐ一世紀に届きそうな大先輩の跳躍のほうが断然迫力があるのである。この迫力、美しさは還暦を越えたあたりから俄然増大する印象を持つ。
チャンピオンスポーツと価値観のジャンルが違うと言うなかれ。目に見えないはずの「気迫」とか「気合い」、「気力」あるいは「気配」といったものは、競技スポーツの場面でも、割と簡単に感じることができるのだ。主観の域を出ないと一蹴される恐れのほうが高いけど、ちょっと待ってくれ、意外と普遍性が高いんだよ。
たとえばこんな感覚だ。眠い目をこすりながらアジア大会なんか観てるでしょ? 選手紹介の画像が出た瞬間「お。コイツやるぞ」なんて思っていると、解説の方が「いい顔してますね」なんて褒めていたりして、そうこうするうちに選手は大活躍してメダルを獲得したりするアレだ。あるいは、トレーナーが選手をマッサージしたり、ときには全身を一目見ただけでその日の調子がわかったりする、アノ感覚がそうだ。サイエンス的手法で測るのは困難だが、感じる者同士には確かな根拠があるからこそ共通のイメージが湧くのだ。
こういった五感を超えた(ような気がする)瞬間を共有することも身体文化の醍醐味だと思うのであります。
(板井 美浩)
出版元:クレオ
(掲載日:2007-02-10)
タグ:舞踏 写真集
カテゴリ 身体
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瀬古利彦 マラソンの真髄
瀬古 利彦
「君なら世界一になれる」
「瀬古、マラソンをやれ。君なら世界一になれる」「ハイ」
この会話は、後に瀬古の師となる中村清との初対面の場で交わされたものだ。漫画のようだが、これを機にマラソン選手としての瀬古利彦が誕生した。漫画といえば、そもそも瀬古が走り始めたのも中学時代に見た「巨人の星」で飛雄馬の父ちゃんが「ピッチャーは走れなければ駄目だ。地道に努力しろ」と言ったのを信じたのが始まりらしい。一見、些細な会話の中に人生を大きく展開させるキッカケが含まれている。
ところで、当時はインターハイチャンピオンでも大学浪人するのが珍しくない時代だった。1974年、福岡インターハイで中距離(800m、1500m)2冠しかも2連覇という瀬古でさえ、その例外ではなかった。浪人中、アメリカに陸上留学をするが「練習を指導してくれる先生がいて、言われた通りに練習をこなしさえすれば、大きな舞台で結果を残すことができた」順風満帆な高校時代と違い、「信頼できる指導者」のいない留学先での生活は「思い出したくもないほどつらい毎日」へと一変する。そして「何を信じたらいいのかわからず、(中略)走ることがつらくて、つらくて、たまらなく」なってしまったという。
失意の中で帰国し、二度目の受験で早稲田大学に入学を決めた瀬古が、大学でも中距離で頑張ろうと思いつつ、競走部の合宿に参加した初日に冒頭のような会話がなされた。人生にリセットは利かないが、リスタートなら何度もあり得るのだ。
マラソン選手としての瀬古の活躍は多くの人が知るところだろう。本書には、それを支えた練習や、幻に終わったモスクワオリンピック代表から立ち直る過程、ケガからの再起、などなどについて詳細に語られている。「瀬古利彦の百カ条」と、当時の練習メニューまでついた豪華版だ。
どう読むか
この「走りの哲学」書をどういう気持ちで読んだらよいのか? これが問題だ。まず、書評するつもりで読んでみる。すぐに挫折した。本が付箋紙だらけマーカーだらけになってしまった。
次に現役のマラソン選手になったつもりで読んだ。瞬時に挫折した。競技に対する真剣さが違いすぎる。
今度はミーハー親父(死語かも?)となって読んだ。これなら読了できるかもしれない。40歳代以降の人にはたまらなく懐かしい面々が現役選手として登場してくるのだ。また、現在では当たり前になっているが当時はまだ導入されていないか珍しかった事柄もたくさん出てくる。マラソンレースにおけるペースメーカーの存在などはよい例だろう。他にも、アスレティックトレーナーやストレッチングという概念も草創期であり、皆手探りで実施していたし、スポーツドリンクに至っては運動中に水を飲むなど根性がないからだ、という極端な反感の態度を表す者も当時はいた。ストップウォッチも、ラップ計測機能がついたものはほとんどなく、腕時計タイプのものなど夢のまた夢のような時代だった。
しかし、その分「時計に頼らず、体内時計を研ぎ澄まし、ペース感覚を磨く」ことができる時代でもあった。科学的知識の浸透や便利な機能の開発はよいことだが、利用する主体である選手の知恵のほうが重要であることに、今も昔も変わりがない。
人生読本として
マラソンを人生にたとえることがあるが、マラソン選手の人生が書かれた本書は、人生読本としてそのまま十分に使える。たとえば「報われないケガはない。人間は駄目だと思ったときが始まりであり、乗り越えられない壁は与えられない」という一節の「ケガ」を“挫折”や“試練”に置き換えてみるとすぐわかる。
本書は人によっていかようにも読める内容だが、現代のマラソン選手や長距離選手に、早くオレたちを乗り越えろ、という厳しくも温かい愛情が最も大きなメッセージとして込められている。そして瀬古自身が新しい何かにリスタートをする決心が込められている一冊なのではないかと思う。
(板井 美浩)
出版元:ベースボール・マガジン社
(掲載日:2007-04-10)
タグ:マラソン
カテゴリ 指導
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アイロンと朝の詩人 回送電車 III
堀江 敏幸
走り方に出てくるもの
走り方には人が出る。
人それぞれの個性を特徴づけるものはいくつもあるが、私にとって極端に違いのわかるのが全速力で走ったときのフォームだ。言葉をどれだけ重ねるより、その人が走っている姿を見ればいっぺんにどんな人かがわかるような気がする。頭で理解するとか言うのでなく(科学的でない表現を承知のうえで言えば)肌で感じるのである。
走るフォームには人それぞれの身長や体重、手足の長さあるいは筋の出力特性といった解剖学的・生理学的特性も関係しているのはもちろんだが、しかしそれ以上に性格とか気質あるいはもっともっとプリミティブなものが深く関わって「ホントウノワタシ」が表出するように思う。
豪放磊落で通っている人が几帳面で神経質な走り方をしていたり、逆に普段は穏やかな紳士と認識されている人格者が、走ってみたら気性の荒さが丸出しになったりするのが判って面白い。顔や名前は忘れてしまっても走るのを見たら誰だったかどんな人だったかが思い出せた、などということもよくある。
なぜわかるのか
この感覚はしかし私に限ったものではないと思う。とくに多くのスポーツ関係者、とりわけコーチやトレーナーなど選手の動きをよく観察する立場にいる人たちならより鋭い解読能力を持っているだろう。走り方に限らず、跳ぶ・投げる・打つ・舞う、などの運動動作から応用することも可能であるに違いない。さらには書画や陶芸、音楽などの芸術作品の中にも、見る人が見ればわかる作家の個性が潜んでいることに異を唱える人は少ないと思われる。
なぜ、そんなことが見たり聞いたりするだけでわかるのか?
それは“全力で走る”あるいは“全力で表現する”ということは小手先の技術や理論では武装できないところであり、その人に染み付いた“身体のクセ”のようなもの、すなわち、つくり手の生の姿が身のこなし方や作品に投影されてくるからではないかと思う。
文章も例外ではなく、言葉として書かれている内容とか意味とかとは別次元のところ、つまりリズムやテンポ、字面からただよう空気感などから、作者の趣味嗜好品格人柄が浮かび上がってくるような気がする。
組み合わせが創造に
さて今回紹介する書籍だが、体育の本でもトレーニングの本でもない。散文集だ。
ただし、いたるところに身体や動作についての詳細な観察場面が出てきて、独特の清潔感と静けさの中で語られて行く。
1つひとつの題名からは、トレーニングとの関連どころか、それらが何を意味しているのか連想することさえ難しいエッセイが並んでいる。しかし一見無関係で妙な組み合わせに思える話が、読み進むに連れてそれぞれの関係性が解き明かされ、ジグソーパズルをはめるように最後にはちゃんとつじつまが合って決まる。そして何となくだが、だんだんとなぜこの本が「アイロンと朝の詩人」という題名なのか、副題にどうして「回送電車」とあるのかが伝わってくる。
“創造とは組み合わせの問題である”と誰が言ったか知らないが、よく言われることである。組み合わせとは基礎の応用であって、何かと何かを組み合わせることでそれぞれにはなかった新しいものを生み出すことができたとしたら、それは何か1つの創造をしていることになる。
こういう人が身体動作について考える文章の中に、新しいトレーニングのヒント(組み合わせ)が隠れていないだろうかと思って読みながら、「文章がすうっと身体に入ってきた」なんていう表現を創りだす人が、いったいどんな走り方をするのか見てみたい衝動に駆られるのだ。
(板井 美浩)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2008-08-10)
タグ:散文
カテゴリ その他
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コマネチ 若きアスリートへの手紙
ナディア・コマネチ Nadia Comaneci 鈴木 淑美
世界が驚いた演技
“アパセロスアパアムロスベロンヘルメルローマ東京”
何のことかと言うと、近代オリンピック夏季大会の順番だ。学生時代、体育史のテスト前にこの妙な語呂合わせを皆で覚えたものだ。第1回がアテネ(ギリシャ)で1896年。次いで、パリ(フランス)、セントルイス(アメリカ)、ロンドン(イギリス)、ストックホルム(スウェーデン)...ローマ(イタリア)ときて、1964年に第18回の東京オリンピックと続く。4年ごとの開催だから、それぞれの大会が行われた年がおのずとわかることになっている(ただし、1916年、1940年と1944年の計3回、戦争のため中止を余儀なくされた)。東京オリンピックまで覚えておけば後は簡単に言えるはずだったのだが、今回の北京大会(第29回)では東京大会からすでに11回を数え、記憶が怪しくなってしまった。歳月を感じる瞬間だ。嗚呼、遠くなりにけり我が学生時代。
さて、今回のオリンピックでも世界中の天才アスリートたちが集い、さまざまなドラマが展開された。毎回オリンピックではスーパースターやシンデレラが生まれる。中でも、東京大会から数えて3回目のモントリオール大会(カナダ、1976年)で彗星のごとく現れたルーマニアの体操選手には、世界中がひっくり返って驚いたものだ。
その名も“白い妖精”ナディア・コマネチの登場だ。他国チームに比べ明らかに幼い選手たちが、白いレオタードに身を包み、髪をポニーテールにまとめて入場してくる姿は異様でさえあった。しかし演技は白眉で、あれよという間にコマネチは器械体操史上初の10点満点を連発(合計7回)し、金メダル3個、銀銅メダルをそれぞれ1個獲得した。
頂点を極めたその後
老婆心ながら頂点を極めた人たちのその後の生活が気になって仕方がない。オリンピックという大舞台での成功の代償があまりに大きい場合があるからだ。一挙手一投足に過剰なまでに関心が注がれ、揚げ足を取られ、笑いの種にされ、その後の人生において理不尽な圧迫を強いられることがしばしばある。メダリストが若年であるほどその運命に翻弄される度合いが強い。コマネチはその極みだったように思う。
しかし、彼女は冷静な判断力と強い意思をもってこの運命に立ち向かっていたことが本書を読むとわかる。たとえば、あまりにも正確に、そしてそれが当然のようにほとんど無表情で淡々と進められる演技には「オートマティックに」「やってのける小さなロボット」と批判する声は少なくなかった。自我のない少女がコーチの言いなりになっているように映ったのだ。彼女はこう反論する。「もしそうしたくなければ、帰ればよかったのです。子ども本人がいやがるのに、体操のような難しいことを無理じいしたり、上達させたりすることはできません」「私はすでに自分の進む道を選んでいました。望みどおりのことをしていたのです」。
ところが17歳にもなると状況が変わってくる。若手選手と一緒の遠征ではコーチ(=国)の管理下に置かれることに疑問を持ち、彼女の中では何の矛盾もなく次のように述べられる。「もう子どもではないから」「他人の意思のままに動くあやつり人形ではいられない。私自身でコントロールしたい」。
亡命を経て
当時のルーマニア政府から国威発揚の道具として使われ、一時は“ルーマニアの至宝”とまで呼ばれるも、競技引退後は悲惨な生活を強いられている。栄光をなきものとされ、未来のない生活から抜け出すため、彼女はついに亡命を決断する。1989年のことだ。
失踪が周囲に気づかれぬよう普段と変わらない様子をアピールするため、直前に「あえて弟夫婦と近くの村のレストランで食事」をする。しかし「二、三時間後には死んでいるかもしれない、と知りながら、いとしい家族との食事を楽しむふりをするのは、耐えられないほどつらく難しかった」。国境越え決行後も幾度か失敗の危機に直面し、「体操では、ある意味で自分の運命を支配することができた。いい演技をすれば、国中の尊敬というご褒美が与えられる。しかし人生はそうはいかない。ルーマニアでは人間性を奪われ、いまここで亡命の危険と不確実性を体験して、私は生きる環境に対して無力であることを痛感した」。
しかし、まさに命をかけて成功させた決断は最終的に正解だった。彼女は現在、アメリカで体操教室のコーチや多くの慈善事業に携わって暮らしている。彼女が慈善事業に携わる理由は「受けたものをお返ししたいと思うからだ。他人のための行為は、自分個人でやりとげた演技に拍手をもらうより、はるかに達成感がある」からだ。あれほどの思いをしたにもかかわらず、負の思い出より、人々から受けた正の思いを胸に、祖国ルーマニアに対する愛、体操競技(スポーツ)に対する愛はむしろ高まっているようだ。
彼女のさらなる幸せ、ひいては今回のオリンピックで活躍した選手(思うような結果が残せなかった選手も)全員の、引退後の幸せを願ってやまない。
(板井 美浩)
出版元:青土社
(掲載日:2008-10-10)
タグ:体操
カテゴリ 人生
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14歳の君へ どう考えどう生きるか
池田 晶子
本当に物心がつく年頃
14歳という年齢は、ある意味で“本当に物心がつく年頃”と言えるような気がする。第二次性徴はだいたい済んでいて、自意識過剰で“無心”とは最も遠い距離を置いている。異性にどう思われるかなんていうことが人生最大の悩みごとだったり、それが嵩じて“自分とは何か?”なんてことを考え始め、生意気な割にそれを考える術も知恵も足りないから安易に答えを求めて占いに凝ったりする。生意気盛りで反抗期のくせに、自立できず、保護者のもとでしか生きて行けない自分に腹を立て、日々悶々と暮らしながら大人への第一歩を踏み出そうと模索している。そんな悩める14歳に宛てた“人生を考える”ための手がかりとなる一冊だ。
14歳の頃のことは、大学生あたりよりも、不惑の指導者世代の方がかえって思春期の生々しい記憶をハズカシの彼方から呼び起こすことができるのではないだろうか。その頃に立ち返って競技人生を考え直してみると、競技者(老いも若きも、14歳の君も)その人にとって競技とは何であった(ある)のか意義を深めたり厚みを増したり、現在そして将来に向けてよりよい競技人生を送るため(あるいは、送ってもらうため)に、競技、スポーツとどう対峙していけばよいのか“考えておくべきこと”を本書は教えてくれるように思う。
“解答”は与えてはくれない
知ることより「考える」ことが大切という態度で貫かれているから“考えるヒント”はこれでもかというほど提示してくれる。しかし“解答”は1つも与えてはくれない。まして、これこれこうだと“信じる”ことを強要することなどは絶対にない。むしろ、そうであると信じていることに「これはどうしてなのか、考えたことがあるかな」と問題を投げかけ、さまざまなことを考え直してみなさいということを“考え”させてくれるのだ。
信じなさいと教えを説いたりしない代わり、「そもそも」○○とは「何か」? と考え抜いた末に「それぞれの立場や都合や好き嫌い」に左右されない普遍的に正しい「考え」については断言口調となる。
一例を引いてみれば、「人生の目標」について、「人によってそれぞれ違わない、すべての人に同じ共通している目標だと言っていい。それは何だと思う?」「そうだ『幸福』だ。すべての人が共通して求めているものは幸福だ」といった具合だ。
ちなみに「似ているけれども違うもの」として「将来の夢」をあげている。「将来の夢」は「君の努力や才能によって、実現したりしなかったりするだろう。もし実現したとしたら、それはそれで幸福なことだ。だけど本当の幸福は、実現したその形の方ではなくて、あくまでも自分の心のありようの方なのだ」「もし夢が実現しそうにないのなら」「努力が足りなかったか才能がなかったか、そう思ってあきらめなければならない。だけれども、幸福になることをあきらめる必要なんかない。君はそんなことでは不幸にならない。なぜなら、幸福とは」「形ではなくて、自分の心のありようそのものだからだ」と結んでいる。
“強いこと”“体力のあること”が優れていること、よいことであるとどこか刷り込まれている私たちにとって、競技における成功と失敗、体力の強弱、運動能力の高低、才能のあるなしなど、それらがいったいどういうことなのか考えるうえで重要な示唆を与えてくれる一節だ。
「受験の役には立ちませんが、人生の役には必ず立ちます」とあとがきにもあるように、ハウツー、マニュアル物や安直に答えが書いてある本が多い近年、考えるヒントをくれるだけで何一つ解決策を教えてくれない本書のような書籍を読み解く力が必要であると考える。
(板井 美浩)
出版元:毎日新聞社
(掲載日:2009-02-10)
タグ:考えるヒント
カテゴリ 人生
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それでも、前へ 四肢マヒの医師・流王雄太
高橋 豊
医療の谷間に灯をともす
私の勤める自治医科大学は、医療に恵まれない地域における医療の担い手を育てるため、昭和47年に開設された大学である。現在のような医師の都市部偏在によるものと異なり、当時は医師の絶対数不足から、とくに山間へき地や離島、過疎地と呼ばれる地域の医師不足が深刻な時代であり、“医療の谷間に灯をともす”(校歌より)気概ある総合臨床医を育てることを目的に設立されたのである。毎年、日本全国47都道府県から来る入学者(2~3名ずつ)に修学経費を貸与し、卒業後の所定期間(おおむね9年間)知事の指定する公立病院などに勤務した場合は、返還が免除されることになっている。つまり、卒業後それぞれの出身都道府県に戻って地域医療に従事するという“義務”を背負う代わりに学費は各都道府県に払ってもらうという現在の“地域枠”制度に先駆けたシステムだ。それぞれの地域に赴任中は“総合医”の名のごとく、内科系外科系、急性期慢性期、重度軽度の別なく診療にあたる。場合によっては“地域”そのものの活性化のために働くこともあるようである。
義務年限を終了したその後の身の振り方は原則自由だが、地域の診療所に残ったり新たに開業するなど、多くの卒業生は引き続き地域医療の実践に取り組んでいる。もちろん、大学に戻って教鞭をとっている卒業生や、特定科の専門医になっている者も多い。特筆すべきは専門医を名乗るにあたって、地域でのあらゆる診療に対処したことによる幅広い知識と経験があり、その大きな地盤の上に専門科を掲げることができる点である。
地域での診療義務をこなしながら専門医の資格を取らなければならず、ほかの医学部卒業生より時間がかかるし大変だとの不安を在学中に持つ学生も中にはいる。あるいは、中央の情報が届きにくいイナカに飛ばされて不利になるという負の感覚を持つ人も(これは外部の人に多いが)いる。しかし、ハンディキャップのように思えるこの期間が、実は実践を通してモノスゴい力が蓄えられる場になっていることを、頼もしいお医者さんになっている卒業生たちを見るたびに実感するのである。
開拓者として
さて、本書に描かれている流王雄太は、四肢マヒというハンディキャップを持つ医師(精神科)である。15歳、彼が高校1年生のとき、ラグビーの試合中に起こった事故で頸髄損傷を被り、首から下のほとんどが自由に動かせない状態となったのだ。その彼が高校に復学し、短絡でない道のりを歩みながら医師となって活動している現在までの記録を綴ったものだ。
あらゆる「前例のない」問題と対峙し、開拓していかなければならなかった人生には、本文から読み取れること以上に大変な苦労や葛藤があったに違いないと思う。しかし(だから、というべきか)表紙にみられるような柔和な笑顔を浮かべている現在がある。一時の勢いや感情にいちいち流されていては大きいことは成しえない。肚(はら)に秘めた強い意志がある人ほどこういう表情になるのかも知れない。
新たに見えるもの
流王が「肉体的ハンディのためにできないことはたくさん存在しますが」「ハンディを持って社会の中で生きていくという、この状況でしか理解できないことや、共感できないことが数多く存在する」というように、人には何か自由が利かない状況になってこそ見える世界というものがある。とはいえ「自分がハンディを持っているからという、力みがなく、自然な態度で応じられる」かどうか、このことが非常に難しいことであることは容易に想像がつく。その中で発せられる次のような流王の言葉には重みがある。
「成功し続けることだけが、自分の支えで、何かにつまずいたり、失敗したり、地位を失ったりすると、人間としての人格そのものまで否定してしまう人が、最近、多いように感じます」
“自由”とか“幸せ”ということについて考え直してみたくなる一冊。文章のトーンも全編通して抑えた表現になっていて、感動を強要することは決してない。そこのところがまたよい。ぐいぐい引き込まれること請け合いだ。
(板井 美浩)
出版元:毎日新聞社
(掲載日:2009-04-10)
タグ:リハビリテーション
カテゴリ 人生
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いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか
内藤 朝雄
子ども世界だけでない「いじめ」
“イッキ飲み防止連絡協議会”というのを皆さんご存知だろうか。毎年、年度初めに貼られる一気飲み防止キャンペーンのポスターを大学生なら見たことのある人が多いと思うが、そのポスターを作成・配布しているのがこの団体だ。“イッキ飲ませ”で息子さんを亡くした親御さんが中心となって1992年に設立された団体である。
あろうことか、その7年前、1985年の流行語大賞に“イッキ!イッキ!”が選ばれている。以来24年の間に、119名もの人が一気飲みなどの大量飲酒による急性アルコール中毒などで命を落としているのだ。1991年の13名(!)をピークに漸減してはいるものの、昨年度(2008年3月~2009年3月)1年間で、5名もの大学生が亡くなっており、悲しい事件の犠牲者は後を絶たない(アルコール薬物問題全国市民協会のHPによる)。
複数の人間で囃したて、ある特定の一人を吊るし上げて酒を飲ませるといった馬鹿げた行為は、“アルハラ(アルコール・ハラスメント)”という名を借りた、大人の「いじめ」にほかならない。“アルハラ”に限らない「いじめ」は、子ども世界の専売特許ではなく、大人の世界でも容易にそして頻繁に生じる恐れは常にあるのだ。中でも、部活動や寮生活で閉ざされた人間関係を構築しやすい体育・スポーツの現場では細心の注意を払う必要があるだろう。
逃げることができない世界で
本書は、主に「学校のいじめについて、分析を行い、『なぜいじめが起こるのか』について、いじめの構造とシステムを見出そうとする試みの書」である。
「学校」とは「逃げることができない出口なしの世界」だ。「学校では、これまで何の縁もなかった同年齢の人々をひとまとめにして(学年制度)、朝から夕方までひとつのクラスに集め(学級制度)、強制的に出頭させ、全生活を囲い込んで軟禁する」。そして「狭い生活空間に人々を強制収容したうえで、さまざまな『かかわりあい』を強制する。たとえば、集団学習、集団摂食、班活動、掃除などの不払い労働、雑用割り当て、学校行事、部活動、各種連帯責任などの過酷な強制を通じて、ありとあらゆる生活活動が小集団自治訓練になるように、しむける」のである。皮肉っぽい表現のようだが、確かに「学校」にはこのような側面がある。
そんな「学校という狭い空間に閉じ込められて生きる生徒たちの、独特の心理-社会的な秩序(群生秩序)を、いじめの事例から浮き彫りに」し、「閉鎖的な小社会の秩序のメカニズムを明らかに」していく。それらを踏まえ「生徒たちを閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせる学校制度の効果」による「『生きがたい』心理-社会的な秩序(筆者注:すなわち“いじめ”か?)をなくしていくための」「『新たな教育制度』」を論じている。
他者コントロールという幻想
「いじめは、学校の生徒たちだけの問題」ではなく、「昔から今まで、ありとあらゆる社会で、人類は、このはらわたがねじれるような現象に苦しんできた」問題である。いじめる側の動機は、「他者をコントロールすることで得られる」「曖昧な『無限の』感覚」すなわち「全能感」で説明がつくことがある。
とりわけ、体育教師やコーチ、アスレチックトレーナーといった職業は、学生や選手に対する“教育的”な側面が強調されやすい立場であり、「世話をする。教育をする。しつける。ケアをする。修復する。和解させる。蘇生させる」といった場面に身をおくことが少なくない。ややもすると、「他者コントロール」をしている幻想にとらわれ、勘違いをして「全能感」を求めるようにならないとも限らない。
とくに、やる気や情熱にあふれた“指導者”ほど、この「全能感」を求めている自分に気づかない状況に陥りやすいのではないだろうか。だからこそ、「ケア・教育系の『する』『させる』情熱でもって、思いどおりにならないはずの他者を思いどおりに『する』ことが好きでたまらない人」にならないよう心がけていたいものだ。
“紙一重”の世界に私たちは住んでいるのである。
(板井 美浩)
出版元:講談社
(掲載日:2009-10-10)
タグ:いじめ
カテゴリ その他
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気概と行動の教育者 嘉納治五郎
嘉納治五郎生誕150周年記念出版委員会
小学生向けの講義
私が住む街の主催事業で“子ども科学講座”というのがあって、“人間を科学する”という今年度のテーマのもと“カラダの動く仕組みを知ると駆け足が速くなる!”と題して1コマ持たされ、小学生を相手に講義と実技をセットでやってきた。
その中で、“重いオンブ・軽いオンブ”というのをやったら大いにウケた。“寝た子は重い”の原理で、“重いオンブ”は上になった人が脱力するのである。その際、グターッと落ちそうになったりするとさらに重くなって好ましい。“軽いオンブ”は逆に力を入れてごらんと言うだけ。上の人は適度に緊張し、腋と内股を締め、背負う人を押さえるようにすればよい。
交代交代でやって、ひとしきり盛り上がった後、同じ人でもオンブの仕方でその重さが全然違って感じられること、同じもの(人)でも見方を変えると別の側面が見えて面白いねと説明すると一同目を輝かせて頷いてくれ、日頃相手にしている大学生の授業よりむしろ緊張して臨んだ講師としては大いに溜飲を下げたものだ。もっとも、ウチの次男坊(幼稚園生だが特別に参加させてもらっていた)にも覚えられ、“軽いオンブ”作戦を使っては外出のたびオンブをせがまれるのには閉口したけれど。
大学生に同じ課題をやらせると、お! 何をやるんだとばかりに興味津々で試してくれるのが三分の一、戸惑いながらもやってみる者が三分の一、残りは恥ずかしいのかバカバカしいのか面倒くさいのか、突っ立ったまま何もしないでいる。
しかし中には“軽いオンブ”でうまく息を合わせ、体重差50kgもありそうな体格の相棒を軽々とオンブして歩き回っている者もある。何とかして皆の注目をそこに集め、体重は、ちょっとしたオンブの仕方の違いで重くも軽くも大いに異なって自覚されること、オンブごっこをやった意義は、体重(測定された値=科学的数値)は1つだが、見方によって全く異なった印象で認識されるということを身をもってわかってほしかったからであると、種明かしまでしてやっと納得してくれるのである。というか、それをもっと早く言えよ的態度をとられることもあり、大人になると感性が鈍るなあ、でもちゃんとわかるような授業ができない私が悪いんだよなあ反省しましょうそうしましょうと、ついつい晩酌の量が増えるのである。
数値では把握できない大きさ
さて、本書『嘉納治五郎』だ。その名を知らない体育関係者は少なかろうと思う。講道館“柔道”の創始者であり、日本人(アジア人)初のIOC委員として第12回オリンピック東京大会(1940年開催と決定するも日中戦争の影響で返上)の招致を成功させた、体育・スポーツ・教育界の巨人である。
ところが嘉納は、そもそも学問のほうが得意で運動はむしろ苦手だったらしい。嘉納が柔道(柔術)に興味を抱いたのは12歳の頃で、「幼少の頃に虚弱な身体であったので強くなりたくて柔術を学ぼうと決心した」ようである。
しかも勝ちさえすればよいというのではなく、後に柔術からの学びを「柔道」に発展させたとき「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である」「身体精神を鍛錬修養し」「己を完成し世を補益するが柔道修行の究極の目的である」と説いているところが凄い。
一方で、「柔道は国際化していくなかで、カラー柔道着に象徴されるように、本来の柔道の考えが薄れつつあるといわれてきた」が、「嘉納が創始した講道館柔道の技と精神の原点は何であったかということを求める傾向」が強まってきており、「原点である嘉納治五郎の柔道思想に回帰しようという動きも出てきている」ようである。
嘉納は「成人時でも一五八センチ、五八キロ」だったというから、当時の日本人としても決して大きいほうではない。しかも晩年「彼はわずか一○五ポンド(四七.二五キロ)に過ぎなかったが」「ニューヨークを訪問した折に」「二○○ポンド(九○キロ)のリポーターを床に投げた」のだという。
生誕150周年を迎え、嘉納治五郎という人間が、数値を超えた巨人として蘇ってくるのである。
(板井 美浩)
出版元:筑波大学出版会
(掲載日:2011-12-10)
タグ:教育
カテゴリ その他
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一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート
上原 善広
限界は自分で決める
1970 ~ 80年代に、筋線維組成と競技パフォーマンスとの関係性を論ずる論文が多数発表された。 多くの人が知るとおり、速筋線維の割合が多い人は短距離向き、遅筋線維の多い人は長距離向きとするものである。調べる方法としては初期は筋生検(muscle biopsy)法といって、外科的手法により筋の一部を採取してくるものであった。後年はMRI(核磁気共鳴画像法)により非観血的に推定できるとする画期的な報告が話題を集めた。
さらにまた、この筋線維組成(速・遅筋線維の割合)は遺伝的(先天的)に決まっており後天的に変えることはできないものであるから、あらかじめ組成を調べ、それに見合った種目を選択するのが望ましいというような論調のものまであり、当時、非常に疑問に思ったことを覚えている。人は誰しもそれぞれの好きなスポーツを実践すればよいのであって、“科学者”の高飛車なアドバイスで限界を決められるなどナンセンスではないか。
確かに筋線維組成の平均値(科学的見地)からするとそのような傾向があるとはいえ、選手個々の組成(標準偏差)には大きな散らばりがみられることや、後天的なトレーニングで筋出力は大いに変えられること、加えて競技の成功には筋線維組成の割合のみならず種々の要因が関与していることなどから、時間とともにこのような素質論は聞かれなくなっていった。 やはり限界など他人に決められることなく、未知のことに挑むほうがロマンがあってよいではないかと思うのである。
尋常でない努力
さて今回は『一投に賭ける』。主人公の溝口和洋は、1980年代に活躍した陸上やり投げ選手である。投擲選手なら「誰もが憧れるスター選手」だ。やり投げ選手としては比較的小柄(身長180cm、体重80kg)ながら、常識を覆すトレーニングと独特の投法によって世界の壁に敢然と挑んだ人である。欧米人と比べて如何ともしがたい身長や骨格といった後天的に変えることのできない身体的条件を、ギリシャ彫刻のような身体に鍛え上げることにより、パワーで克服しようとしたのである。
たとえば“天才が死ぬほど努力してやっと行けるのがオリンピックである”というのが私の学生の頃からよく言われたことであるが、溝口の“常識を覆す”トレーニングとはやはり尋常でない。
「人間というのは、肉体の限界を超えたところに、本当の限界がある」と言い、「一二時間ぶっとおしでトレーニングした後、二・三時間休んで、さらに一二時間練習する」(編注:一二時間は12時間)こともあり、ウェイトトレーニングの総重量が「一日一〇〇トンを超えることも少なくない」ことだったという。“死ぬほどの努力”で遺伝的制約を超えることはできないが、限界(と思っている常識)を超えることはどうやらできるらしい。
痛快な語り口
本書 は著者である上原善広の、どこか漱石の“坊ちゃん”を思わせる一人称で綴られており威勢のよい語り口が痛快である。
溝口は「体格・パワーで圧倒的に不利な陸上投擲種目で、欧米人選手に互角の投げ合いをした当時、唯一の人であったが、無頼な伝説にも事欠かない人物」であり、「JAAF(日本陸上競技連盟)に対する批判」も口にしていたという。
18年もの長きにわたる取材の末に本書をものしているが、この取材期間の長さは、溝口の「編み出したやり投げのためのテクニックとトレーニングは、そのまま彼自身の存在意義と哲学にまで昇華されて」いて「そのため、聞き取り自体、大変な時間がかかったが、これを言語化する作業はさらに非常な難問だった」ためだという。
しかし、現役選手ならなかなか口にできないようなエピソードが随所に盛り込まれていることからすると、もしかしたら“時効”を待つためにこの期間を要したのではないかと、深読みしてしまうのである。
(板井 美浩)
出版元:KADOKAWA
(掲載日:2016-10-10)
タグ:人物伝 陸上競技 やり投げ トレーニング
カテゴリ 人生
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哲学な日々 考えさせない時代に抗して
野矢 茂樹
哲学とは
フィールド種目(陸上競技の)体質なので、トラック種目のようにピストルの“ドン”に合わせてスタートさせられるのはどうも苦手だ。どうして他人の都合に合わせて走り出さなければならないのか。その点、フィールド種目は、制限時間の範囲内であればいつ試技を始めてもいいのだ。自由じゃないか。
こんな話を、トラック種目が専門の同級生としていたら、妙な答えが返ってきた。
“あれは、自分で鳴らすんだよ”。さらに、“フィールドの方こそ、いつ自分の番が回ってくるか分からないのにどこが自由なんだ。”と言った。
つまり、トラック種目はスタート時刻が決まっているからタイミングが図りやすい。場合によってはその時刻に、あたかも自分が引き金を引くがごとくピストルを鳴らす、と考えることもできる。それに比べフィールド種目は“パス”することもあったりして、他の選手の都合によって、試技は名簿順に回って来るとは限らないから、どうやって集中を高めたらよいかわからないじゃないか。というのだ。なーるほど。
先日、あるトップスプリンターの話を聞く機会があったので、そのあたりのこと、つまりスタートラインに立ったとき何を考えているのか、どんな集中方法をとっているのか質問してみた。
返ってきた答えは、“ピストルの音に合わせなければならない、という条件は皆一緒だから仕方ありません。気にしないように努めています”、また、“あまり自信が持てるほうではないので、スタートはできるだけ開き直ることにして、「自分」に集中するようにしています”というものだった。
は? どういうこと?
この人なら“自分で鳴らす”以上の、“オレサマ”的すごいことを言うんじゃないかとの期待も込めて尋ねたのに、あくまで謙虚、というよりむしろ新鮮だったのは、ネガティブな表現も厭わず使うその姿だった。
ポジティブな言葉で語ることが是とされる昨今、この、冷静で、ニュートラルな位置に身を置くこの選手の存在に、非常に“テツガクテキ”なものを感じた。哲学とは“気づき”の学問であると(はなはだ単純ではあるけれど)私は思うからだ。
スプリンターと論理の必要性
さて今回は、『哲学な日々』。著者の野矢茂樹は、「哲学は体育に似ている」という(ま、そう書かれた部分を私が引用しただけなんだけどね。しかし、「身をもって哲学を体験する」という表現も出てくるから、私の短絡も決して間違ってはいないと思う)。
たとえば野矢は、「論理の必要性」を説き、「ある主張を解説したり、その理由を述べたり、そこから何かを結論したりする。あるいはまた、主張を付加したり、補足したり、先の主張に反論したりもする」と言い、それを言葉で伝える訓練が重要であるとしている。
スプリンターにも、この力の必要性が当てはまるのではないか。
“スプリンターは生まれるもので、育てるものではない”という素質論的な考え方があって、強く異論を唱えるつもりはない。しかし一方で、10年におよぶ長い期間を日本の(世界の)トップスプリンターとして活躍する選手も近年では増えている。そういう選手は、だからこそ“才能一本”では決して走っていない。緻密なトレーニング計画(推論)のもとに、丁寧に丁寧に、才能に磨きをかけ、スプリンターとして自らを“育てる”作業を根気よく続けているように私にはみえるのである。
「論理的」とは「推論が正確にできること」だ。100メートルを速く走りたいという想い(「妄想」)を脹らませるだけでは、足は速くならない(「哲学にならない」)。100メートル走という古典的な種目ではあるけれども、「それを新しい見方、新しい考え方のもとに説明」し、しかも「その説明は、きちんと理屈の通ったものでなければならない」。また、そういった“論理的知性”の重要性は、100メートル走という、ある意味“単純な”種目だからこそ、より高いものが求められるに違いない。
今回、引き合いに出させてもらったトップスプリンター氏は、別の質問者による問いに対し、自身の身体的特徴を踏まえた上で考え抜かれたオリジナリティの高い(少なくともボルトとは全く異なる)観点から、自らの理想とする“走り方”について述べた。それは、謙虚であるけれども、確信に満ちているものであった。
彼のような選手が、新しい世界を切り拓き、日本の短距離界がさらに発展していくことを切に願う。
(板井 美浩)
出版元:講談社
(掲載日:2017-02-10)
タグ:哲学
カテゴリ その他
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アスピーガールの心と体を守る性のルール
デビ・ブラウン 村山 光子 吉野 智子
通過儀礼
私が身を置く大学は47都道府県すべてから学生を受け入れ、“医療の谷間に灯をともす。”という理念の下、へき地医療を中心とした地域医療を支える医師を育てることを目的としている。
卒業後それぞれの出身地に戻り、地域の中核病院で研修医として 2 ~ 3 年のあいだ働いて力をつけた後、各地の町・村・離島・山間の診療所へと赴くことになっている。
そこで多くの卒業生が大変なカルチャーショックを受ける。これまで学んだ最先端の医療を施してやろうと意気込んでイナカに乗り込んだにもかかわらず、まったく住民から受け入れてもらえないからだ。
そのような通過儀礼を経て初めて、地域のニーズに合った(患者のための)医療とはどんなものかと原点に返って医学を学びなおし、医師としての本当のスタートを切ることになる。
これと似たようなことを、私は赴任したての頃この大学で味わったことを思い出した。
東京で数々の一流選手を見てきた経験から最高のアドバイスをしているつもりが、ウチの学生にはちっとも通じないのだ。なぜ理解できないのだと最初は怒りに震え、これまで会ってきた一流選手たちは一瞬でわかってくれたぞと声を張り上げてはみるものの、学生たちは困惑の表情を浮かべるばかりだった。
これでは駄目だと自分の実力(数々の一流選手に会えたのも決して自分の力ではなかったことも併せて)に気づくのに鈍感な私は数年かかったが、“体育界”の人たちにしか通じなかった感覚を言葉として表す試みを続け、少しずつ分かってもらえるようになった頃やっと“体育教師”としての生活が始まったという実感を得ることができた。
「性のルール」
さて今回は、『アスピーガールの心と体を守る性のルール』。著者のデビ・ブラウンはスコットランド在住で、「アスペルガー当事者」でもある自閉症の研究者だ。
「アスピーガール」とは「アスペルガーの女の子や女性」のことを指している。彼女たちは「こちらが常識やある程度の知識を持っていることを前提として」「曖昧な教え方」をすると理解できず、「誤解して受け取ってしまうことも」ある。だから(世間の考え方に合わせているつもりで)“あたりまえ”の行動をすると、“とんでもない”と世間から批判を受け、「批判されることに敏感なので、深く傷つく」ことが多いという。
とくに「性」に関することは、「体の中で最も敏感で繊細な部分を他人にさらす行為であるため傷つくリスクも高く」なるので、「アスピーガールを守るために」「正しい知識」を身に付けることが重要になる。さらにたとえば「絶対に彼氏にしてはいけない人」の筆頭に「家族や親戚。(父親、義父、叔父、祖父、兄弟など)」が挙げられている。アスペルガーでない者にとっては少々驚く記述だが、アスピーガ ールにとっては「基本的であっても一から確認すること」が重要なのだという。
デリケートな話題だからこそ、丁寧に、可能な限りわかりやすく、しかし直接的な表現は極力用いず淡々と綴られていく。
当たり前の確認
読み進めていくうちに「性」についてこのような、解剖学的・生理学的“以外”の方法による説明に触れる機会は、アスピーガールか否かにかかわらずなかなかないのではないかということに気がついた。また、「性」に関することに限らず様々な“あたりまえ”について、「基本的であっても一から確認」し考え直してみることも人生(職業人としての人生も含め)のなかでは必要なのではないかとも思った。
翻って、今年も全国から末頼もしい学生たちが入学し学園生活にもだいぶ慣れてきたころである。彼ら、彼女らとの年齢・世代的な隔たりがますます大きくなる私にとって、「アスピーガール」に対するのと同じくらい慎重に言葉を選び、学生たちに向か い合っていくことが、これからの課題としてあげられると思うのである。
(板井 美浩)
出版元:東洋館出版社
(掲載日:2017-06-10)
タグ:人生 性教育 アスペルガー
カテゴリ その他
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近代日本を創った身体
寒川 恒夫 中澤 篤史 出町 一郎 澤井 和彦 新 雅史 束原 文郎 竹田 直矢 七木田 文彦
心身を耕す
“耕すからだ”というセミナーを3年ほど前から開講している。“畑”を耕すのではない、耕すという身体的行為を純粋に愉しむことで太古の昔から人に備わっている原初的な身体能力に気づき心身を耕そう、という目的で行っているのである。ちなみに、私の勤める大学にはソツロン(卒業論文)がなく、代わりに、6年の卒業年次のソツシ(卒業試験)に合格した者が、ソウハン(総合判定試験)という国家試験以上ともいわれる難易度の試験に合格したのち、卒業が認定される。
そういう中で、セミナーは卒業認定に必要のない単位取得を目指す、いわば“余計な労力を費やす科目”ということになるのだが、趣旨をしっかり理解し、嬉々として受講してくれる学生も少なからず存在するのである。
セミナーでは私は教えることは何もなく、学内の空地に“教材”として定めた地面を学生とともにただただ耕す。
古い建造物のあったこの空地は、粘土質なうえにおびただしい瓦礫が埋められており、三本歯のクワなどすぐに曲がってしまった。考えが甘かったことを反省しつつ、ツルハシを用いて粘土を瓦礫もろとも掘り起こす作業を続け、約2アールの広さを耕すのに1年を要した。また、ものは試しと埋めた(植えたのではない)ジャガイモは、こんなヤセた土地にもかかわらず、立派な地下茎を生らせて植物のたくましさを教えてくれ、ジャガイモに尊敬の念を抱いたりした(ついでながらジャガイモを埋めたのは、作物がないと他の学生にいぶかしがられるので“畑”をやっているように見せるのが狙いである)。
2年目には、最初は粘土質で生き物感のなかった土地に明らかに生物の多様性が生まれ、土が柔らかく感じられるようになった。夏には耕す端から草が伸びて来、雑草の足の速さに驚愕しながら“人間て非力な存在だよなあ”などと言って哲学をした。
3年目の今年は、根粒菌による土壌改良の様子を観察するため枝豆の種を撒いた(蒔いたのではない)ところ葉は生い茂り実がたわわに生ったので、収穫を目的にするものではないが実った枝豆はありがたく頂戴した。
身体に対する意図
さて今回は『近代日本を創った身体』。編著者の寒川恒夫を含む、8名の手になるものだ。
「外から新しい文化がもたらされるのがきっかけで」「日本人のそれまでの在り方を一変」させられることがある。「からだ」すなわち「心身を孕んだ身体」は、命の母体として個人の枠を超えて、時代々々の文化も載せているのである。
その「からだ」が「明治という時代」に「欧米の近代文化」導入のため、「まるごと意図的に、それも国策として」「ごく短期間に国民を広く深く変えることが目論まれた」。「身体の動かし方から、身体についての考え方まで」「近代社会には、近代社会にふさわしい『からだ』がある」からである。
そしてそれを「どのように創っていった」のかを、「国際比較の中で発見された日本人の『劣った身体』や近代社会が否定する『はだか』から、臣民に求められた身体、国家をリードする官僚の卵である帝国大学生に求められた身体、近代企業が期待する身体、さらには、人を国の人的資源とみて、休むことさえ管理する『リ・クリエイトされる身体』まで及んで」考察されている。
スポーツの動作と生活に密着した動作
近代スポーツは、競技条件の公平性を求めてルールの合理化や施設・用具の整備がなされてきた。競技が細分化し専門化するほどに必要とされる体力・技術は特化したものとなり、練習やトレーニング法さらには用具もそれに伴って、たくさんの人為的意図を盛り込んで変化(すなわち科学的に発展)させられてきた。
それはまた、特化するほどに生活の場にある動作からは逸脱していくが、現代に生きる私たちはこのような“人工的”に整えられた身体活動を特段の違和感を覚えることなく受け入れている。
一方、耕す・掘る・薪を割る・ノコギリを挽くなどの、古くから生活に密着した動作は自ら体得するものであり、受け継がれる中で“自然”に工夫が加えられてきた。しかしこのような身体活動は、今では接する機会が少なく、実施するのにむしろ敷居が高く感じられる動作となってしまった。
しかしながら、このような生活とともにあった“自然”な動作と、競技のような“人工的”動作との間には、隔たりがあるようでいて実は共通する点が多いように思われる。“耕すからだ”では、このあたりのことに考察を広げていきたいと考えているところである。
(板井 美浩)
出版元:大修館書店
(掲載日:2017-10-10)
タグ:近代 身体 日本
カテゴリ 身体
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