基礎から学ぶ!スポーツ救急医学
輿水 健治
強烈な原体験
高校時代に所属していたラグビー部は弱小の割に練習は厳しく、毎日早朝練習も行っていた。その日もあくびをこらえながら最寄り駅から電車に乗り込もうとしていたら、近くに住むチームメイトの母親がそんな時間に電車から降りてきて、私の姿を見るなり泣き崩れた。そしてそのチームメイトが明け方に泡を吹いて全身痙攣を起こし、病院に救急搬送されたと聞かされた。
彼はその1週間ほど前に練習で頭を打ち脳震盪を起こしていたが、その後も頭痛をこらえて練習に参加させられていた。慢性硬膜下血腫、と今ならわかる。この仲間としての罪悪感を伴う強烈な事件が、アスレティックトレーナーを目指した私にとっての原体験と言っていい。
重篤な障害への処置
さて、埼玉医科大学総合医療センター救急科の輿水健治氏による本書は、基礎から学ぶスポーツシリーズの一冊で、RICE処置を中心にした応急手当の本とは一線を画し、選手の命に関わる重篤な傷害に対する救急処置に多くのページが割かれている。「基礎から学ぶ」シリーズとはいえ、CPRの方法やAEDの使用法、突然死や心臓振盪などその内容は、少なくとも日本赤十字社や消防署が主催する救急救命講習会に参加したうえで読むほうが、なるほどとうなずくことは多いはずだ。あるいは本書に出会うことでそのような講習会に参加しようと考える人が増えればなおいい。また、事故防止についての一説も必読である。
確かに、スポーツ現場で起こる傷害のほとんどが、簡単な創傷の手当やRICE処置でまかなえるものである。しかしスポーツ現場に関わるものは、本書に書かれた内容は熟知しておくべきである。冒頭の話は今から30年近く前の話であり、真夏の炎天下でも水分補給がほとんどないまま練習していたあの頃に比べれば、選手の健康や運動に伴うリスクに留意する指導者が圧倒的に多いと言えるだろう。しかし時折報道されるように不幸な事故はいまだに起こり、指導者にもっと知識と自覚があれば、あるいは準備されるべきものがあれば、もしかしたら防ぎ得たのではないかと感じることもあるのだ。
アスレティックトレーナーの役割
アスレティックトレーナーはそのようなアクシデントを未然に防ぐことがその重要な役割であり、何か起こったときには最善の対応ができなければならない。そのためには知識と技術を身につけることは言うまでもないが、さらに重要なことはそのような状況において最善の判断をし、よどみなく動けるかということだ。
1989年、NHLのあるゲーム中にゴールキーパーであるClint Malarchukの喉元を対戦チームの一選手のブレードが襲い、頚動脈が損傷されるという事故が発生した。
噴出した血液が氷上にみるみる血溜まりをつくる中、彼のチームのアスレティックトレーナーは一瞬の迷いもなく、出血部に手を入れ止血を試みた。そして他の幸運も重なり、奇跡的に同選手は命を取り留めた。
この事故について学んだとき、果たしてこの動きが自分にできるかどうか、戦慄を持って覚悟させられた。そして現場にいるときには、先の原体験も併せて、良くも悪くも常にある種の怖さを感じていた。一生このような状況に出会わない指導者やトレーナーのほうが多いだろう。しかし選手の命を預かっているという自覚の元に最善の対策を講じておくことが必要だ。
蛇足ながら、緊急開頭手術をうけた冒頭のチームメイトだが、結婚を2回もし、子どもを3人ももうけているくらい元気に過ごしていることは幸いである。
(山根 太治)
出版元:ベースボール・マガジン社
(掲載日:2010-03-10)
タグ:スポーツ医学 救急処置
カテゴリ スポーツ医科学
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一歩60cmで地球を廻れ 間寛平だけが無謀な夢を実現できる理由
比企 啓之 土屋 敏男
「止まると死ぬんじゃー」
てっぺんに巻き毛の生えたかつらにチョビひげで「止まると死ぬんじゃー」とステッキを振り回すおじいさんは「最強ジジイ」というらしい。私は大阪の人間で、小さい頃から吉本新喜劇のファン。中でも不条理なギャグのオンパレードである間寛平さん、いやいくつになっても「寛平ちゃん」と呼びたいその人の大ファンだ。
そんな彼が1995年、24時間テレビの企画の1つとして、阪神大震災の被災者を元気づけるため彼は神戸から東京まで1週間で走り抜いた。正確な距離はわからないが、ざっと600キロ余りの距離である。途中応援に駆けつけた明石家さんまさんが、「兄さんもうこんなあほな事やめときや」と言っていたが私も同感で、周りの人たちのように下手に励ますなどできないと感じていた。
思いつきを現実に
そのほかにサハラマラソン(総距離245km)やスパルタスロン(同246km)をも完走しているこの鉄人が今、マラソンとヨットで地球を一周するという壮大なプロジェクトを敢行している。その名を「アースマラソン」という。この壮大な企画が立ち上がった経緯を中心に書かれている本書は、(株)吉本デベロップメント社長、そして日本テレビのディレクターによる共著である。このプロジェクトをマネージメントし、そのコンテンツをビジネスに結びつける主要スタッフによる、アースマラソン前史と中間報告という形になっている。とくに比企氏は寛平ちゃんと2人で太平洋ならびに大西洋をヨットで渡りきった同志でもある。
いくら彼が長距離走において鉄人級であるにせよ、地球一周走るなんて常識のある人ならちょっと考えられない。それも「木更津のローソンを過ぎたあたりで急に地球一周走ると降りてきて」と天啓のようにひらめき、「なんぼあったらできるんやろう」と、自前でやろうと考えたのが事の発端らしい。そんな思いつきにとらわれた本人とは別に、時間と資金そして人材をかき集め、コンテンツとしてそれを活用することを考えた周りの人々が、数年がかりで現実にしたわけだ。
トレーナー業務を想像
寛平ちゃん自身、不安要素も山ほど持っているだろうし、どれだけ達成までの計算が立っているのかわからない。世界平和を祈願してだとか、世界中の人々を勇気づけるだとか、何か御大層なお題目を掲げているわけでもない。途中で果たした東京オリンピック・パラリンピック招致活動も後付けのイベントだ。「目立ちたいから」と本人は話しているようだが、要するにやりたいことをやっているだけだ。この旅の途中で還暦を迎えたこの人は、友の訃報に接して人目もはばからず泣き、時には弱音も吐き、どこの国でもおなじみのギャグを披露する。そして毎日50km走る。
こんな人にトレーナーとしてサポートさせてもらえたらと僭越ながら想像してみると、確かに高揚感もあるが、それより大きな恐怖がこみ上げる。確かに、今この一瞬のために寿命が縮んでもいいと考えるアスリートも多いし、小賢しい常識という奴を乗り越えてないと、新しい風景は見られないのも事実だ。やる前に結論を出して立ち止まってしまえば、その先に広がる景色を見る術を放棄することになる。
非合法な方法に頼ることは許されないにしろ、壁を破ろうとのたうち回るアスリートにいわゆるスポーツ医学の専門家としての常識を覆しつつ、とことん付き合うというコミットメントが必要になることは一般のトレーナー業務でも多い。ただ、この文字通りの「最強ジジイ」が「止まって死なない」ようにサポートするなど、巨大な覚悟と巨大な遊び心が必要だろう。
この人はカッコいい
それにしても奥方の光代さんから「次から次へと好きなことをしたらいいんですよ。この人はそういう人やからね。」と言ってもらえるこの人はカッコいいと思う。しかし本当に危険なのはここからだ。何より無事を、いやご本人が納得するところまでやり抜くことをただ祈りながら、遠い異国の地にいる人を思うことにする。
(山根 太治)
出版元:ワニブックス
(掲載日:2010-01-10)
タグ:陸上 マラソン 芸能
カテゴリ 人生
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心を整える。──勝利をたぐり寄せるための56の習慣
長谷部 誠
揺れ動く己の心を
あの筆舌に尽くしがたい災厄の後、「心を整える」ことが難しい日が続いている。被害のなかった安全な地にいることに罪悪感を持つ自分に気づき戸惑う。スポーツや音楽が持つ、人の心を奮い立たせる力も及ばない、深い暗闇の中に震える人々がまだ大勢いると考えずにはいられない。だからといって視線を落としているなど無意味なことだとわかっている。たとえ自己満足に過ぎないとしても、自分にできるごく小さなことをただ黙々と実践し続ける。そして目の前の家族を守ることに精を出し、日常の仕事に打ち込むのだ。それを可能にするためには、「人として正しいこと」をもう一度見つめ直し、揺れ動く己の心をあるべき立ち位置に整えなければならない。
いるべき立ち位置
ブンデスリーガのヴォルフスブルグに所属するプロサッカー選手、長谷部誠氏による本書は、彼がどのような考えで己の心を整え、覚悟を持って生きているのか紹介されている。彼は柔と剛、自信と謙虚さ、繊細さと大胆さ、頑固さと柔軟さといった種々の相対する要素において、極端な方向に振り切れることなく、自分がいるべき立ち位置を決めている。その位置は決して楽な場所ではない。いつも周りの高い期待に応えなければならない、そして何より自らが課した己への期待に全力で応えなければならない厳しい場所だ。いったんその立ち位置を決めたら、納得がいくまで絶対に譲らない。サッカーという強力な柱を中心に、彼は自分がどう生きるべきかを常に自身に問いかけているのだ。
2010年ワールドカップでは日本代表チームのゲームキャプテンとしてベスト16という成績を収め、AFCアジアカップ2011ではキャプテンとして優勝に導いた。自分ではキャプテンとして何もしていない感覚だと本書に記されてはいる。しかし、エゴが強く、ともすればチームの中心から浮遊してしまう個性的な代表選手達を、そこから遠ざけすぎない求心力を彼は持っているのだろう。それは突出したテクニックを持たないことを自覚した、彼の献身的なプレーと相まって、中田英寿のようなスーパースターには却ってできなかった効果を、チームにもたらしている。
小さな自分が取り組めること
彼は2007年から、ユニセフの「マンスリー・サポート・プログラム」を通して、世界の恵まれない子どもたちへの支援活動を続けている。本書の印税もユニセフを通じて全額、東日本大震災の被災地に寄付される。お金の問題ではない。スポーツそのものが困難に立ち向かい自らの限界に挑む象徴であるが、それに加えて彼は「人として正しいこと」を突き詰めて率先垂範しようとしている。
このような生き方は、現代社会に生きる一般人にとって、言葉で言うほど簡単なことではない。しかし、この大難の時にそこに関心を寄せ、人として自分は何ができるのか考え続けることに必ず意味はある。小さな自分が取り組めることを探しながら、今日も「心を整え」、雄々しくあらんと、空を見上げて生きている。
(山根 太治)
出版元:幻冬舎
(掲載日:2011-07-10)
タグ:サッカー メンタル
カテゴリ 人生
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やめないよ
三浦 知良
根本的な解決策は
ごく身近な中学生の女の子が、一部の人間たちの悪意のある言動によって深く傷つけられ学校に行けなくなった。周りを気遣うやさしくおとなしい子である。誰にも迷惑をかけず、ただまともに生きようとしている子たちがターゲットになるこのような例は、悲しいことに珍しくない。本人へのサポートや、そういった行為をする者たちへの働きかけにより、この状況を改善することは、簡単ではないにしろ可能だろう。
しかし、本人が時間をかけてそのような状況にも向き合える自己を確立することが、根本的な解決法になる。自分を否定して変えるのではなく、自分を肯定することからこれをスタートするには、何か大好きで、大切にしたいことがあれば大きな助けになるのだと思う。
スポーツの枠を飛び出す言葉
本書は、プロサッカー選手三浦知良氏による日本経済新聞連載のコラム「サッカー人として」を過去5年分まとめたものである。ザ・プロサッカー選手キング・カズは実に26年目のシーズンを戦っている。サッカーを愛し、サッカーを通じて強烈な自己を創り上げてきた三浦氏の言葉は、スポーツの枠を飛び越えて活き活きと響いてくる。プロとして「楽しむ」ことは簡単なことではない。「24時間全てがサッカーのため」だと考え、精一杯戦い続ける。「基本を押さえ」た上で「いつの瞬間だって挑戦」することが大切。これらはただの言葉ではなく、彼の実際の行動で証明されているだけ、より鮮烈に心に届く。確固たる自己があるからこそ、敵選手をはじめ、他のスポーツ選手へのリスペクトも自然に湧いてくるのだろう。
もちろん、彼のようなスーパースターになれるのはごく限られた人間だ。しかし、まるで物事のいいところしか眼に入らないスーパーポジティブ人間のように見える彼も、人一倍の艱難辛苦を乗り越えてきているのだ。「人生は成功も失敗も五分」で、「あきらめる人とあきらめない人の差が出る」という話からもわかるように、上を目指せば目指すほど、ぶつかる壁は多かったはずだ。それらに真っ向から立ち向かったからこそ強い精神力が、さらに並外れたものにまで鍛え上げられたのだ。そんな生き様の彼を真に理解し、助けてくれる本当の仲間も周りに大勢いるだろう。
自分の中に育てる何か
問題が起こったときに他人のせいにし、言い訳をする前に、自分を省みてどうすれば自分がレベルアップできるのかを考え努力を重ねる。まっとうな批判であれば自分を見つめ、向上させるきっかけにする。愚にもつかない嫌がらせであれば凛として対応する。このようなことは頭ではわかっていても実際になかなかできることではない。そうしようとしたときにかえって弱い自分を痛感するかもしれない。辛い時期ならこんなことすら考えられないかもしれない。
それでも何でもいい。人から見れば小さいことだと思われてもいい。自分にとって大切な何かを育てることができれば、人は少しずつでも強くなれるのではないか。そしてその中で信頼できる本当の仲間ができるのではないか。目の前の小さな目標に向けて、毎日の積み重ねを続ければ、「自分の強い所で勝負する」ことができるようになるのではないか。
自分らしい強さを身につけたとき、社会に出てからもあちこちに存在する、自分の身を守るために嘘をつき、自分を大きく見せるために人をこき下ろそうとする心ない人間のことなど怖くなくなる。そしてみなそれぞれの「ゴラッソ」(素晴らしいゴール)を決めることができる。「考え、悩め。でも前に出ろ。1センチでいいから前へ進むんだ」三浦選手の胸に今も残る言葉だそうだ。
(山根 太治)
出版元:新潮社
(掲載日:2011-05-10)
タグ:サッカー エッセー
カテゴリ 人生
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Fromシアトル アスリート新化論
山本 邦子
身体と心に目覚めを問いかける
ヨガの教本? いえ、著者はアスレティックトレーナー。ポーズを説明するだけの教本ではありません。トレーナーがヨガという手法を中心にアスリートに自分の身体と心に目覚めてもらうよう問いかけているのです。もちろんアスリートといっても競技選手だけを意味するのではありません。身体を動かすことを愛するすべてのヒトにその思いは向けられています。
スポーツ界ではずいぶん浸透してきたアスレティックトレーナーという専門職ですが、基本的な業務は以下のとおり。アスリートの健康管理、傷害予防、傷害の応急処置、アスレティックリハビリテーション、そしてトレーニングにコンディショニング。つまりはケガをしているかどうかにかかわらず、アスリートとタッグを組んで、強くそして高いパフォーマンスを実現できる心と身体をつくっていくことがその役割となるのです。
そのためには強さを求めるトレーニング、巧みさを求めるトレーニング、強い精神力を求めるトレーニングなど、さまざまな形の鍛練が必要になります。ただしトレーニングだけがすべてではありません。何を食べ、どう休み、強い心と身体を得るためにどのような心構えでいるべきかを考え、そして行動する力も必要です。突きつめれば、日常生活、いや生き方そのものを問いかける必要があるのです。そのような「気づき」を得たアスリートは、トレーナーの思惑をはるかに超えて成長することがあります。そんなときは、やられたあ、というなぜだか少し悔しいような気持ちとともに、その何倍もの誇らしい喜びを感じることができるものです。逆にトレーナーがいくら力んで自説を押しつけても、アスリート本人がやるべきことに気づき、理解し、それを実行に移せなければ、トレーナーの自己満足に終わってしまいます。そしてそんなことも往々にして起こるのです。
きっかけをつかんでほしいの気持ち
この本の著者は、そんな落とし穴に、ともすれば落ちてしまうことの危うさに数々の経験を通じて気づいているのでしょう。だからこそ、きっかけをつかんでほしい、気づいてほしい、という気持ちが文中に溢れているのです。ここに気づけばもっと身体をうまく使えるよ。こんな風に考えればもっと楽に身体が動かせるよ。ここを少しうまく動かせば頭の中で描いているイメージと実際の身体の動きが近づくよ。そして身体を動かすことがもっと楽しくなるよ。そんな声が聞こえてきそうです。
すべてのレベルの、すべての競技の、すべてのポジションの、すべてのアスリートに、たったひとつの理論が当てはまるわけではありません。アスレティックトレーナーは自分のスタイルを持っていながら、一人一人のアスリートにどれだけ効果的な方法があるのか悩みに悩んで対応していたりします。この本ではヨガという手法を選んでいて、それは正しい選択のように思います。ヨガを通じて、身体の、そして心のありように気付き、それを高めていくこと、これはとても楽しいことのように思います。
(山根 太治)
出版元:扶桑社
(掲載日:2007-01-10)
タグ:ヨガ トレーニング
カテゴリ ボディーワーク
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スクラム 駆け引きと勝負の謎をとく
松瀬 学
その名の通りラグビーのゲーム中にみられる「スクラム」の本。確かにそれで間違いはないのだが、話の中心には「フロントロー」が据えられている。ただ、「フロントロー」をタイトルにすると、一般の人にはなんのことだか、まずわからない。だから、ラグビーに関係したことだと連想しやすい「スクラム」にしたのかと勘ぐってしまう。それくらいスクラムの主役である「フロントロー」という存在に深い愛情が注がれている、そんなマニアックな臭いがぷんぷんする本である。
その「フロントロー」。ラグビーを知らない周りの人たちに聞いてみると珍解答の数々が。「低い前蹴りのこと?」、あるいは「前から背の低い順に並ぶこと!」。やれやれ。「ロー」は「low(低い)」ではなく「row(列)」、つまり「front row」で「前列」のこと。3列で構成されるスクラムの最前列に位置する、左右のプロップとそれに挟まれるフッカーという3つのポジションを担う男たちのことである。
ラグビーになじみがない人がテレビでスクラムを見ても、ミスなどで途切れたゲームの単なるリスタートの形としてしか映らないかもしれない。しかし、これはラグビーの中でも最もエキサイティングなプレーの1つなのである。ゲームの流れを大きく左右する、非常に高いレベルの力と技のせめぎ合いがそこでは行われているのだ。ラグビートップリーグチームのスクラムを間近で見ていると、ギシギシと骨が軋む、そんな音が聞こえてくる。フロントローの鍛え抜かれた全身の筋肉は、理不尽なストレスに正面から立ち向かうため総動員されている。本文にもあるが、なにしろ片方のチームのフォワード8名の総体重は800kg前後。その塊が2つ勢いよく組みそして押し合うわけで、フロントローにかかる重量の単位は「トン」に跳ね上がるというものだ。寒い季節では、スクラムの周りだけ、湯気がモウモウと立つ光景がみられる。一本、一本が真剣勝負の過酷なプレーは、男の中の男でしか務めることはできない。つぶれた耳と大きな背中、寡黙だが大胆かつ繊細、そして聡明さも併せ持つ、そんな男たちにしか。まあグラウンドを離れれば、剽軽でずいぶんおしゃべりなトップ選手がいるのも事実だが。
本書ではそんな彼らの物語が生々しく語られている。「ビシッ」、「ゴリゴリ」、「ガチッ」。こんな擬音語も随所に登場するが、ラグビーが好きな人には伝わってしまう。というより、身体で覚えているその感覚で、そう表現するしかないと妙に納得してしまうのである。そしてスクラムは、一人ひとりが重ければ強いというわけではなく、フロントローを中心とした絆の深さこそが、本当の強さの秘訣である。そんなことも改めて思い出させてくれる。
この稿が出ている頃には、IRB(国際ラグビー評議会)によりスクラムのルールが安全上の理由から改正されている(日本国内は本年4月1日施行)。ラグビーは今でも頻繁にルールの見直しが行われる異色のスポーツであると言える。事故をなくすための取り組みが行われることは重要なことだ。ラグビーの戦術そのものが機動力をより優先させる傾向にもある。徐々に縛りが強くなるスクラムに、昔からのフロントロー経験者は歯がゆく感じるところがあるかもしれない。スクラムはそんなせせこましいもんじゃないんだ、と。それでもスクラムがラグビーにおいて、単なる「起点」ではなく重要な「基点」であることに変わりはなく、背中で語るその男気というものはこれからも引き継がれるのだろう。
本書でも紹介されている名言がある。「世界のサカタ」曰く「トライは自分ひとりでやったんじゃなく、トライしたボールには15人の手垢がついているんや」。慶応大学のフォワードに受け継がれている言葉に「花となるより根となろう」あり。テレビ中継では華やかなバックスのプレーに目を奪われがちだが、本書を読み、そしてぜひグラウンドに足を運んで、スクラムを直接見てもらいたい。そこでのフロントローの働きに注目してもらいたい。真の男の背中を感じてもらいたい。
(山根 太治)
出版元:光文社
(掲載日:2007-03-10)
タグ:ラグビー
カテゴリ 人生
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ナショナルチ-ムドクタ-・トレ-ナ-が書いた種目別スポ-ツ障害の診療
林 光俊 岩崎 由純
他種目の特性や傷害の理解に
周知のとおり、日本体育協会公認アスレティックトレーナー資格試験は新卒学生にとっては難関資格となっている。受験初年度で全科目合格することは至難の業である。それは医療系国家資格の既得者が受験した場合も例外ではない。筆者の双方の受験経験からの見解だが、アメリカのNATA公認資格試験よりも試験としての難易度は高い、と言えるだろう。その要因はさまざまだが、「専門競技」と「専門外競技」という概念が試験の中に織り込まれていることもそのひとつに数えられる。各競技に共通するベースの部分や専門種目に関することだけではなく、ほかのさまざまな種目の競技特性や、好発する傷害について詳しく理解し、検定員からの質問に明確に答える必要があるのだ。これは試験の客観性維持を困難にする側面もあるが、トレーナー教育として含むべき要素である。その学習に取り組むうえで必携となるのが、今回ご紹介する本書である。
本書は各競技種目別スポーツ外傷・障害について、ナショナルチームドクターとトレーナーの方々が中心になって執筆されたものである。競技ごとにドクター編とトレーナー編に分類され、それぞれの立場からのトップアスリートへの取り組みをみることができる。これは非常に興味深く、貴重な情報である。走る、跳ぶ、投げる、切り返す、当たるなど、スポーツの基本となる動作に関しては各競技共通項となることが多く、機能解剖や傷害発生機序の知識などで応用の利く部分も少なくはない。しかし、各競技特有の傷害や対処法の中には、目から鱗が落ちることも多いのだ。
できるだけ多種の競技に触れる
日本のトレーナー教育の現状では、単一競技での実習がまだまだ多く、多競技に関わるチャンスが少ないように見受けられる。しかし、コンディショニングが中心になる野球のような競技と、外傷への対応が頻繁に求められるラグビーのような競技では、トレーナーの活動内容も大きく変わってくる。特定競技に関わることを、トレーナーとしてのモチベーションや自己実現の根幹にしている学生も多いだろうが、学生トレーナーとしてはさまざまな形のトレーナー活動に触れるべきだろう。自分の専門競技に戻ることがゴールであったとしても、教育課程ではトレーナーとしてのクロストレーニング、クロスエデュケーションが必要だ。他競技に関わることで、知識や経験の幅が広がることはもちろん、自分の専門競技へ応用できることが少なくないのである。
本書に含まれるすべての競技での活動経験を積むのは非常に困難だろうが、できるだけ多種の競技に触れたうえで、疑似体験する意識で本書を読み解けば、トレーナーとして懐がぐっと深くなり、今年度より新カリキュラムになる日本体育協会公認アスレティックトレーナーの資格試験も怖くなくなる! …はずである。
林光俊 編集主幹、岩崎由純 編集
(山根 太治)
出版元:南江堂
(掲載日:2007-05-10)
タグ:アスレティックトレーニング スポーツドクター
カテゴリ スポーツ医科学
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ハラスメントは連鎖する
安冨 歩 本條 晴一郎
読んで「ハラスメント」を受けた
「本書によりハラスメントを受けた」。これが、本書の過激とも言える導入部分を読んでいるときの率直な感想だった。本書は日常に巣くうハラスメントという「悪魔」を振り払うために、それを理解するためのものであるはずなのに。たとえば親子関係の中に存在しうるハラスメントの話があげられているが、親子の愛情という大事な部分を汚されたような気分になった。ひとつふたつの事象を取り上げて、愛されない、愛せないとは言えないだろう。同一人物が同一のメッセージを同一の行動や言動によって伝えようとする場合でも、そのコンテキストは日々の身体的、精神的揺らぎの中で常に変化する。また、受け止める側にも同じことが言える。私はそれが人間というものだろうと考えている。私にとって人間は不完全で不安定な存在であり、過ちを犯す存在だ。常に誰かの魂を傷つけ、誰かに魂を傷つけられる危険性を持っている。矛盾に満ち、虚実が入り乱れている。だからこそその中でよく生きることにこだわりたいとも思う。受け止める強さを持ち、立ち向かう強さを持ちたいと思う。己がどうあるべきかを追求すれば、時に自らの魂に疑問を持ち、改めていくことも必要だ。こんなことを考えていると、身の丈で生きることが精一杯になり、それが自然なことだと私自身は感じる。
深くえぐっていく
しかし、世の中ではそんなささやかな決意など簡単に吹き飛ばすような出来事が確かに頻発している。国が関わる大きなことから、日常目にする小さなことまで枚挙にいとまがない。尊い命が失われる事態になることも少なくない。メディアが視聴者や読者を小馬鹿にした情報を垂れ流し、悪質なハラスメントを行っていることもあれば、自ら進んでレッテルを貼られることで安心し、幸せを感じる人も多い。
本書の筆者は、対人関係でみられるその部分をより深く掘り下げていく。過去から現在に至る数多くの事例、文献を読み解き、そして何より己の心の中から目を背けることなく、さながら痛みにのたうちながらえぐっていくかのように。考える力が旺盛だということは大変なことだ。その理論は難解であるが、確かに興味深い。十分読み解いているかは正直言って私自身疑問だが、賛同できる部分も多い。しかし同時に、ネガティブな側面からの論述や、典型的で一方的な断言が多いことが気になるのだ。私自身は筆者にはお会いしたことはないが、「大変な時代で、向き合うべき問題は山積している。でも人間はそんなに捨てたもんじゃないんだよね。たとえばこんないい話もある」というような一言がもらえれば、それだけで救われる人も多いように思う。お気楽すぎますか。
スポーツで考えると
さて、スポーツというフィールドにおいて考えてみると、本書の内容の典型例として、指導者と選手との関係があげられる。確かに極端な例であれば、自分のことを有能だと思っているが実は無能な指導者のために選手が犠牲になるケースもある。また、自らの理論を他の理論を否定したうえで選手に押しつけることも問題視していい。私はアスレティックトレーナーとして、そのような例を聞くたびに、自分に何ができるかということを非力ながら自問する。また、高野連の特待生問題に対する取り組みなども、教育という名を借りた若者の可能性の芽を摘む組織によるハラスメントだと感じずにおれない。もちろんその制度を私益のために悪用する存在や、その制度により一般の学習を軽視するようなことが起こっていたのであれば、もちろんそこには別の問題がある。
しかしその一方で、試行錯誤を繰り返し、間違いを犯しながらも、懸命に選手のために尽力しようと努力を惜しまない指導者も数多く存在する。指導者の存在を実態以上にとらえず、うまくつきあい、自分たちのために必要な取り組みができるたくましい選手たちも数多く存在する。局面だけ見ればハラスメントに見えることでも、大局的に見れば選手が指導者を乗り越えていく結果を生み出すこともあり、また1つの目標に向かう大きな原動力になることもある。
確かに問題視すべきことも多いが、そこだけを取りざたすほど過敏にはなりきれない。
のび太にとっての「天使」
余談になるが、本書を読んでいて、その内容は「ドラえもん」という教材の中にも発見できるように感じた。ジャイアンというハラッサー(ハラスメントを仕掛ける人)、のび太というハラッシー(ハラスメントを受ける人)、スネ夫というハラッシーハラッサー(ハラスメントを受けた結果、自らをハラッサーと化す人)。ただ、ドラえもんはのび太のそばにいることでは、ハラッシーを救う「天使」にはなれなかった。最終回(数ある中の1つ)に彼は未来に帰ることでその存在を消し、のび太はそこでようやく自分自身で自分を脅かす存在に立ち向かうことになる。彼はその存在を消すことでのび太にとっての「天使」になれたのだ。この自立をいかに体得するかが、問題解決の1つになる。言うは易し行うは難し、だが。
(山根 太治)
出版元:光文社
(掲載日:2007-07-10)
タグ:ハラスメント
カテゴリ その他
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アマチュアスポーツも金次第
生島 淳
お金をめぐって
「人生に必要なものは、勇気と想像力、それとほんの少しのお金だ」とはチャールズ・チャップリンの「ライムライト」の中での言葉。「金は必要だが重要ではない」という人もいれば、「金で買えないものはない」という人もいる。金にはそれを扱う人間を映し出す力がある。
本書のタイトルは「アマチュアスポーツも金次第」である。アマチュアスポーツと金の関係にネガティブな印象を与える言い回しだ。西武の裏金問題そして高校特待生問題で、アマチュア野球界が揺れている時期に合わせてキャッチーなコピーになるような意図があったのだろう。ただ、これは短編集の中から一編の題名をそのまま本のタイトルにしたような格好で疑問が残る。その実、松坂のポスティングシステムやサッカークラブ経営についての話が後半部分を占めている。しかもアマチュアスポーツにおける金の話も、断罪されるべき不透明な金と、強化費としての金、あるいはビジネスとしての金の動きが同列で扱われている印象がある。
西武の裏金問題と野球特待生問題にしても、本来、両者は別問題として議論されるべきものだろう。それが、金儲けのためにあざとく両者をつなげていた連中が存在するおかげで、同列に扱わざるを得ない事態になってしまった。それにしても朝日新聞や毎日新聞のトップの方々を最高顧問に戴く日本高等学校野球連盟が、特待生制度について当初ヒステリックとも言える対応に終始したのは、正直驚きを禁じ得なかった。いや、もちろん憲章に背くルール違反をしていたことは確かではあるのだが。現在は、10月初旬までに提言をまとめるべく、第三者委員による議論が行われている。この態度を軟化させた高野連の譲歩により、他の競技にも好影響を与えるだけのクリーンな基準づくりができれば素晴らしいことだ。
健全な流れを
とにかくアマチュアスポーツといえどもお金はかかるのだ。競技レベルが上がれば上がるだけその金額は跳ね上がる。本書でも再三述べられているとおり、これは事実だ。しかし、すべてをひとまとめにして「金次第」と切って捨てることに今さら意味はない。スポーツビジネスとはスポーツという舞台でどのようにお金が流れているのかを分析し、またどのようにお金を生み出すことができるのかを論じるだけのものではないはずだ。する側よし、観る側よし、支える側よし、スポーツ界ひいては世の中よしという健全なお金の流れをつくる学問でもあるはずなのだ。優秀な指導者にはブローカーのような真似をしなくても正当な報酬が渡り、自らの才能によってお金を生み出すことのできるスポーツ選手には優良で健全なビジネス感覚を身につけさせることも、その分野の果たすべき役割ではないだろうか。
プロとアマチュアのつながりも、プロ選手が将来を夢見る子どもたちに指導するイベントなど、素晴らしい試みも数多く行われている。金の流れの整備が終われば、光が当たるべき側のプロとアマチュアの関係がよりよく発展することを願う。5月末に、「侍ハードラー」為末大選手が丸の内のオフィス街で行った陸上イベントは、素晴らしいお金の使い方ではないか。あの種のイベントにより、興行側が投資以上の儲けを得て、さらに面白いイベントや新しい試みにつなげられるのであれば素晴らしいことだと思う。そのような金は、やはり違って見える気がする。
(山根 太治)
出版元:朝日新聞社
(掲載日:2007-09-10)
タグ:プロ アマチュア お金
カテゴリ その他
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宿澤広朗 運を支配した男
加藤 仁
宿澤広朗 運を支配した男加藤 仁超凡の才の人物像を描き出す
死は何人にも訪れる。有産無産、有名無名にかかわらず。その意味では平等だ。しかし、どう死ぬかということにおいてはこれほど不平等なことはない。だからこそ、己の手の届かぬことを案じるより、生きているうちに己のなすことに心を傾けるほうが自然だと感じる。
2006年6月17日、ある超凡の才を持った人物がこの世を去った。三井住友銀行取締役専務執行役員コーポレート・アドバイザリー(CA)本部長、宿澤広朗氏である。55歳という若さだった。元ラグビー日本代表選手であり、日本代表監督としてはスコットランドという世界の強豪国とのテストマッチに、後にも先にも初めて勝利し、ラグビーワールドカップでも唯一の勝ち星をあげた人物である(これは2007年フランスワールドカップで日本がオーストラリアに大敗、フィジーに惜敗した時点での話。願わくは、出版の時点で勝利数が増えていることを)。
この高次元で文武両道を体現した人物の光とわずかに垣間見える陰を、膨大なインタビューと豊富な資料をもとに丁寧に読み解いたノンフィクションが本書である。
不運を不運にせず、幸運を幸運に
旧住友銀行時代から三井住友銀行取締役専務執行役員になるまでのビジネス界でのエピソードだけで読み応えのある一編の立志伝ができあがる。それに加えてラグビー界での輝かしい経歴が、ほかに例を見ない深い彩りをその人生に加えている。本書を通じてその経歴をたどると、ラグビーを通じて培ったものが銀行員としての成功につながったのではなく、人間として培った人生哲学とプロ意識、そしてそれを実践できるバイタリティが礎になり、ラグビー界でもビジネス界でも強烈なインパクトを与えたと言ったほうが正しいだろう。
宿澤氏の座右の銘に「努力は運を支配する」という言葉がある。たとえばある1つの好ましくない事象を目の前にして、自分自身が不運だと思ってしまったときにそれは不運になる。解決すべき問題だと考えて対策を立てて乗り切れば、単なる一要因にすぎなくなる。もしかしたらそれが転じて幸運につながることすら考えられる。また、好ましい事象を目の前にして、十分に活かすことができればそれは幸運となるが、できなければ幸運であったことにすら気づかない。不運を不運にせず、幸運を幸運として活かす。それには「たゆみない努力と、それによって生まれた実力」が必要だ。己の肉体と精神に多大なプレッシャーをかけていたに違いないが、それが「運を支配する」ことなのかもしれない。
三井住友銀行での最後のプロジェクト、CA本部の業務である課題解決型ビジネスこそ宿澤氏の面目躍如となるものであったろう。しかしこの新部門発足からわずか2カ月半後、無情なるノーサイドの笛は吹かれることになる。
いつも全力疾走
本書でも触れられているが、このような非凡な人に孤独はつきものなのかもしれない。敵も多かっただろう。思いを寄せるラグビー界では最後には活躍の場がなかった。ジャッジするばかりで自分が責任を取らない者を長に戴いた組織の中では、現場の人間が大変な思いをするし、大胆な改革など図れない。宿澤氏のような存在がその中枢に居続けてくれれば、さまざまな軋轢を生みつつも、低迷するラグビー界を豪快に洗濯してくれたのではないかと、ひとりのラグビーファンとして詮無く考えてもみる。
司馬遼太郎氏の名著『竜馬がゆく』の中で、主人公坂本竜馬は人生の終盤で、己を取り巻くさまざまな相関組織の誰から命を狙われてもおかしくない状況だった。その竜馬に司馬氏はこう言わしめている。「生死は天命にある。それだけのことだ」。己がどんな状況であろうとも正面から向かい合い、いつも全力疾走で人生を最高峰まで駆け上ってきた宿澤氏は、そのままの勢いで天まで昇ってしまったと、早すぎる死を悼みつつ、そう思う。
(山根 太治)
出版元:講談社
(掲載日:2007-11-10)
タグ:ラグビー ノンフィクション
カテゴリ 人生
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武道vs.物理学
保江 邦夫
科学的かそうでないか
自然科学の範疇で科学的なこととそうでないことを、どう区別するのかと問われれば、科学的凡人であり俗物である私は残念ながらその明確な答えを持たない。次から次へと出版される「科学的専門書」やテレビを始めとするメディアやネット上に氾濫する「科学的」と主張する情報を見れば見るほど混乱するばかりである。惑星物理学者の松井孝典氏は南伸坊氏との対談集「科学って何だ!」(ちくまプリマー新書)で、「科学は「わかる、わからない」、世間は「信じる、信じない」あるいは「納得する、納得しない」」と表現している。これはわかりやすい。私は、「わかる」ことと「納得する」ことでは後者の割合が明らかに高い。
武術を題材に物理の勉強
さて「武道vs.物理学」。「生まれつきの運動音痴で軟弱な上に中年癌患者になった」と自虐的に自分を繰り返し表現する著者は数理物理学者で大学教授。数々の複数領域にわたる著作を持つ。学術的立場にいるこの著者は理論武術家としての顔も持ち「武道の究極奥義」を「特別な努力もせず」に手にしている。そして軽妙というより、どこまで本気なのかわかりかねる遊び心満載の文章で、三船久蔵十段の「空気投げ」と呼ばれる隅落としやマウントポジションの返し方を生体力学や生物物理学を駆使して解説している。武術の技の断片のみを切り出して解説している印象がぬぐえないが、前半は武術を題材に基本的な物理の勉強ができる。学生時代から物理学を基礎レベルから理解する頭を持たなかった私は、学生時代にこういう勉強をすれば多少は物理学的思考を鍛えられていたかもしれない。
「究極奥義」
終盤に「究極奥義」のさらなる深みが顔を出す。なんと離れたところから、人を無力化してしまうのだ。本文中に説明されているある境地に至ることで、「敵の神経システムの機能を停止させ筋肉組織に力が入らなくさせる」可能性を示唆しているのだ。頭の悪い人間が懐疑的になると時として滑稽であり、見苦しいものであることは承知しているが、私はまさにその部類であることも自覚している。そんな私にとっては青天の霹靂であり、「納得できない」展開である。しかし著者はれっきとした物理学者であり、○○理論を銘打って己が唯一「科学的」であるような物言いをする輩とは違う。
懐疑的である一方で、世の中何でも起こり得るというお気楽主義も併せ持つひねくれ者としては、「そんなことないやろー」と思いつつ、ぜひ一度投げ飛ばされたいという欲求も禁じ得ない。科学的であることと、そうでないこと、さてどこに線を引けるのか。
それにしてもラグビー強豪国相手に日本人が圧倒できるような「究極奥義」があればねぇ。
(山根 太治)
出版元:講談社
(掲載日:2008-03-10)
タグ:物理学 武道
カテゴリ 身体
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日本人はなぜシュートを打たないのか
湯浅 健二
どれだけcommitできるか
以前私がトレーナーとして帯同していた高校ラグビー部には2人のニュージーランド人留学生がいた。その年、彼らは地区新人戦から選抜大会優勝、そして全国高校ラグビー大会準決勝で同点抽選の末、決勝進出権を逃がすまで、公式戦無敗でシーズンを終えた。留学生がいることで批判もあった。確かにゲームプランを考えるうえで彼らは核となることができたが、2人の存在だけで強いチームがつくれるかと言うと、それほど単純な話ではない。逆にスター選手がチームをつぶしてしまうことも往々にしてある。
この2人は自分の力を誇示することなく、チームのために自分の役割を果たすことを理解していた。周りの選手も彼らを中心に、各々の持ち味を活かした攻撃や防御を展開することができた。何より多くの選手が、何故そうするのか、いつ何をすべきだということを、高校生としてはよく理解していた。このような状況をつくり出すことができれば、チームは指導者の思惑を超える力を発揮するようになる。このチームの理念の1つにCommitmentという言葉があった。「覚悟」と訳していたが、己を賭けた物事にどれだけcommitできるのか、これは自分自身の生き方を問われることでもある。
有機的な連鎖
さて、本書「日本人はなぜシュートを打たないのか?」では題名にある問いに狭義で答えるものではない。「さまざまな意味で何が起こるかわからないサッカー。だからこそ選手個々の判断力、決断力、そして勇気と責任感にあふれ、誠実でクレバーな実行力が問われ」、そしてそれらのプレーがオフェンス、ディフェンスにかかわらず「有機的に連鎖」したときに、シュートを放ち得点するという目的に向かってチームがハイレベルで機能する、ということを、自身のドイツ留学体験を中心に説いている。年来のサッカーファン、サッカー関係者にとってはとくに目新しいことはないかもしれない。しかし、当たり前のことを当たり前にできるようになるということは、競技レベルが高くなるほど、そして実力がある個性の強い選手が集まるほど困難になる。そしてこの理念はサッカーだけではなく、ほかのあらゆるチームスポーツに共通する。そのことを再認識するにはいい本かもしれない。
伝統的な精神論を語るつもりは毛頭ないが、体力、スキル、戦術といった試合でのパフォーマンスを左右するどの要素も、突き詰めれば総合的なメンタルマネージメントがその原動力になる。つらいフィットネストレーニングにどれだけの目的意識を持って「誠実に」取り組めるのか、ゲームで最大活用するための創造力をどれだけ持ってスキルアップに努められるのか、どれだけの「責任感」を自覚して「勇気」を持って戦術を「クレバーに」遂行し、またその戦術に囚われることなく臨機応変の「判断力、決断力」を発揮できるのか。優秀な選手、そして優秀な指導者はこの土台が安定しているのだろう。この点、メンタルトレーニングなどでその一部を鍛えることもできるだろうが、結局は個々の生き方、人生哲学が色濃く反映されるように思われる。そしてそれがフィットする仲間に巡り会ったとき、「有機的な連鎖」は生まれるのだろう。
生き方を問い続ける
これは試合に出場する選手だけの問題ではない。ゲームに出場できない大多数の選手たちが、それでもチームの一員としての自覚と責任感、そしてモチベーションを保つことができるのか。指導者にとってもチャレンジすべき難しい問題だろう。試合中や練習中に、そして普段の生活の中でも、チームにおいて果たすべき責任を自覚せずに「汗かきプレー」や身体を張ったプレーなどできるべくもない。よくも悪くも己の行動が周りにどのような影響を及ぼすのかを自覚し、自分のやるべきことにいかにcommitするのか。これは自分の生き方を問い続けることと同義である。
人生の中で、真にcommitできることに出会い、仲間やライバルの存在も含めてお互いを刺激しあい、生き方のレベルで「有機的に連鎖する」巡り合わせは、そう度々お目にかかるものではない。スポーツが人々に感動を与えるのは、実社会では忘れがちなそんな姿をストレートに見ることができるからなのかもしれない。
(山根 太治)
出版元:アスキー
(掲載日:2012-10-12)
タグ:サッカー 日本人
カテゴリ その他
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泳ぐことの科学
吉村 豊 小菅 達男
コーチやトレーナーは科学の目で物事を捉え、科学の頭で考えるべきである。しかし実際に対象となる選手に、この方法は科学的だからという理由だけで納得させ、実際のパフォーマンスに結びつけることは容易ではない。科学的に「わかっている」ことをいかに咀嚼(ルビ:そしゃく)し、個々人にあった方法に消化し、効果的に伝え、落とし込むことができるか、これはコーチ、トレーナーという人間の力に大きく左右される。科学的な基礎の上に経験に裏打ちされたさまざまな工夫を重ねるうち、壁を越えて成長し、それを改めて科学的に解析した結果、今までよりもさらに効果的な方法が一般化されることも少なくない。そこにバランスの妙がある。
本書『泳ぐことの科学』では、「普通の選手でも天才のレベルまで感覚を高めることができる」方法として「ビルド・トレーニング」が紹介されている。科学の目を持ったうえでの体験を通し、試行錯誤のうえで完成したというこのトレーニングは、「考えている動作と実際に行う動作を近づけていく練習方法」である。科学的にみて効率のよい泳ぎに近づけるための秘訣が紹介されているわけである。しかし「ビルド・トレーニング」をただ知っているだけではその100%の効用は期待できないだろう。設定したゴールを分節化し、段階的に達成すべく指導することはコーチングやアスレティックリハビリテーションなどにおける基礎であるが、個々人の問題点を正確に分析し、効率的に改善するには科学的知識として「わかっている」部分と、経験などから「納得できる」部分との適切な融合が必要になる。ここがまさにコーチとして面目躍如たるところであり、この存在が介在することでそのトレーニングの効果は最大限に引き上げられるはずだ。
トレーナー業務でも、たとえば膝の前十字靭帯損傷再建術後のリハビリテーションでは、今までの臨床例の積み重ねから大まかなプロトコルはできあがっている。しかし1分1秒でも早く復帰したいアスリートとの半年以上にわたって続く綱引きは、そんな定められた流れでは抑えきれない。変化に富んだプログラムを、いかにアスリートが納得しながら取り組めるか。アスリートの覚悟が問われるところでもあり、トレーナーの人間性や信頼度、腕の見せどころである。
さて、科学的といっても、昨年からメジャーリーグを震撼させている薬学は、その使用方法を大きく誤った例である。日本のJリーグでも話題になったケースがあったが、ドーピングコントロール規定の認識不足といった議論はされても、試合前に高熱や脱水症状を呈する体調になったという本人やメディカルスタッフの問題、またそのような体調の選手を試合に出場させないという決断ができなかったことに対する議論はあったのだろうか。サッカーではごくまれにではあるが試合中に心不全と思われる死亡事故が報告されている。ドーピングという明らかな違反行為に至らなくとも、高地トレーニング中の事故や、サプリメントの濫用など、科学という名の下にひずみが起こっていないわけでもない。科学とは最大限利用すべきであるが、絶対的な正解ではないことを理解する必要もあるだろう。
いずれにせよスポーツの世界ではヒトが積み重ねた経験と弛(ルビ:たゆ)まざる努力を科学が追い越し、追い越され、少しずつ進化していく。そこがおもしろいところである。
(山根 太治)
出版元:日本放送出版協会
(掲載日:2012-10-12)
タグ:水泳 コーチング
カテゴリ 指導
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戦術眼
梨田 昌孝
私が以前トレーナーとして関わっていたチームが昨シーズン日本一に輝いた。登り詰める階段が目の前にあるのにそこに至る扉を蹴破れず、伸び悩む苦しみにあがいていたあの頃。今では中堅だった選手たちがベテランの域になり、若手だった選手たちが中核選手になっている。代表のチームリーダーともなっているある選手と会う機会があった。再会を喜んでくれた彼は、選手自ら考え、取り組み、覚悟を決めるということが紆余曲折を経てやっとできるようになったと話してくれた。スタッフによる環境づくりがなければできないことだし、数ある要因の1つだが、これが最も重要な部分であることに間違いないだろう。
さて、本書「戦術眼」の著書は言わずと知れた北海道日本ハムファイターズの梨田昌孝監督である。そこにも「究極の育成法は、自分の努力で自身を成長させることなのだ」とある。そして「選手たちに自己成長の大切さを伝え、自ら伸びていこうとする選手にきっかけを与え、成長過程でのサポートをしてやること」が指導者の役割だと明言している。そして同時に選手にも求めている。たとえうまくいっているときでも、「試行錯誤と変化を恐れず」自分を進化させていくことが一流への道であり、それを目指せと。
言葉にすると当たり前のことで、強いチームはこのあたりがよくできている。冒頭にあげたチームもそうだろう。内容では負けていても、勝利をもぎ取るような展開を見せた試合などは、その強みの面目躍如といったところだった。しかし、これを現場で実現させることは生やさしいことではない。本書でも、そのためには指導者と選手との間で「普段からさまざまな方法のコミュニケーションをとり、組織が目指す方向性を理解できる感性が必要」だと述べている。
コミュニケーション。これはただよく話をするということだけがその方法ではない。さまざまなツールを利用し、ありとあらゆる方法を用いて行うべきものである。
シーズン開始時にこのような本が出ることはどういう意図があるのだろう。チームを2年連続リーグ優勝、そして日本一にも導き勇退したトレイ・ヒルマン監督の後を受け、著者はチームをさらに進化させることを約束している。
俺は近鉄バッファローズという他チームで選手として、監督として成長してきたが、このように野球を愛し、取り組み、考え抜いてきた。そして覚悟を決めて北海道にやってきた。さあ一緒に戦おう、とファイターズの選手やスタッフ、ファンに向けたコミュニケーションツールの1つとして、本書は強烈な存在意義を持つように感じる。
(山根 太治)
出版元:ベースボール・マガジン社
(掲載日:2008-07-10)
タグ:野球 戦術
カテゴリ 指導
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「北島康介」プロジェクト2008
長田 渚左
言葉通りの結果と期待以上の感動
北京オリンピックの表彰台に立つ3人のアスリート。中央は一段高いはずだが、頭の位置が皆変わらない。そんな体格的に決して恵まれているわけではない中央のアスリートは、試合前に誰よりも強い眼の光を放つ。自ら世界記録を出して金メダルを獲得することを明言した。周囲の期待を一身に背負っていた。他人には計り知れない重圧の中、その言葉通りの結果を、そして期待以上の感動を見せつける。そんな男にはなかなかお目にかかれない。
本書はその男、北京五輪で2つの金メダルと1つの銅メダルを獲得した競泳平泳ぎの北島康介選手と、彼を支える「チーム北島」についてのドキュメントである。言わずとしれた平井伯昌コーチを軸に、映像分析担当・河合正治氏、戦略分析担当・岩原文彦氏、肉体改造担当・田村尚之氏、コンディショニング担当・小沢邦彦氏という「5人の鬼」が描かれている。2004年に刊行された『「北島康介」プロジェクト』に、新たな取材をもとに加筆され、北京五輪を前に発行されたものである。
勝負の「鬼」
北島選手はまさに勝負の「鬼」と呼ぶにふさわしい眼光を持っている。その彼が「鬼」と呼ぶ平井コーチは、一見すると温和そうな風貌である。しかし、「選手をコーチのロボットにしては駄目だ」「選手はコーチを超えていかないと駄目だ」「選手は勝手に育つんです」「康介の康介による康介だけの泳ぎを考えた」「既存の××理論などに康介をはめたのではない。康介から良いところだけを引っぱり出すために何かをプラスしたのではない。余計なものを削ぎ落としてシンプルにした」といった語録を見ると、確固たる己の人生哲学を基礎にコーチングしていることがわかる。
もちろんこれらの発言そのものではなく、それを北島康介というたぐいまれなるアスリートの中に昇華させたことが凄いところだ。100mと200mがまったく別物だという水泳界のそれまでの定説を「やり方しだい」と考えを巡らせたことや、一般的には欠点とされる身体の硬さを、逆にどう活かすかという工夫につなげたエピソードなどにそれが垣間見える。そのほかにもさまざまな観点から北島選手をサポートし育て上げるチームの奮闘は読み応えがある。それにしても0.1秒の違いを身体で感じ取る感覚が必要になるのだから、常人には理解できない世界である。
チームの相乗効果
いわゆる集団競技でも、強いチームは選手やスタッフの巡り合わせがいい。互いの相乗効果でチーム力が期待以上に上がるからだ。チーム北島は高いプロ意識と実力を持った専門家の集まりだが、このチームの相乗効果というものがどれほど凄まじいものだったかは、その結果を見て推して知るべし、である。もちろんアテネ五輪以後の4年間だけでもその過程で失敗や苦悩がどれだけあったのか想像もつかない。
そんなことを考えると、「よくやった」と気安くほめることさえはばかられる思いがする。ただただ感動するのみ。たとえどんな結果であったとしても、それは国を代表して五輪に参加した多くのアスリートに対しても同様である。
(山根 太治)
出版元:文藝春秋
(掲載日:2008-11-10)
タグ:水泳 スタッフ
カテゴリ 人生
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8人のキーマンが語る ジャパンラグビー革命
上田 昭夫 大元 よしき
キーマンへのインタビュー
2009年6月、20歳以下の世界大会「IRBジュニアワールドチャンピオンシップ 2009」が日本で開催される。この大会は、2015年および2019年度ワールドカップ開催国に立候補している日本にとって重要な試金石となる。両ワールドカップとも日本以外に7カ国が立候補しており、その発表が2009年7月28日、同時に行われるのである。次世代を担う若いチームが世界中から集い、熱戦を繰り広げるこのジュニア大会をどう運営するか、その手腕がワールドカップ開催地決定に及ぼす影響は大きい。
本書はそんなラグビー界を改革せんとする8人のキーマンへのインタビューをまとめたものである。インタビューを行った著者の1人、上田昭夫氏は元日本代表選手であり、かつて慶應義塾體育會蹴球部を日本一に導いた名将でもある。上記の「ジュニアワールドチャンピオンシップ 2009」ではトーナメントアンバサダーに就任している。
8人のキーマンとなるのは日本代表ヘッドコーチであるジョンカーワン氏はじめ、日本代表GM、トップリーグ最高執行責任者、大学指導者、高校指導者など、さまざまな立場の方々である。タイトルの「革命」という言葉は誇張があるにしても、ラグビー界は今どこに進もうとしているのか、その現状についてそれぞれの立場で語られる内容は、時折相反する考えも見え隠れし興味深い。
ラグビー界活性化に期待
日本代表の強化、日本ラグビーを牽引するトップリーグの運営、この競技に注目を集め、しかも大規模な収益を見込める国際的イベントの招致、学生ラグビー界の取り組み。これらが競技人口増加や集客率向上、ひいてはラグビーという競技の隆盛につながればと、今は草ラグビーに興じるだけの我が身でもそう思う。ラグビーが盛んなはずの大阪府下の高校生大会でも、合同チームの数が増えているし、トップリーグのメディアへの露出がまだまだ少ないことにも寂しさを感じているのだ。
さて、ラグビー界でそれぞれ重要なポストに就いている8人のキーパーソンの中で、個人的に最も注目したいのは、ATQコーチングディレクターという立場の薫田真広氏だ。ATQ(Advance to the Quarterfinal)とは、ワールドカップ2011年大会でベスト8に入ることを目標に、ユース世代を中心とした選手、コーチ、レフリー、競技スケジュールおよびスタッフを強化・育成するプロジェクトのことである。薫田氏は東芝ブレイブルーパスを常勝軍団につくり上げた後勇退し、現職に就いている。その手腕が若手育成に一石を投じ、高校ラグビー界や大学ラグビー界にもよい波を広げることを期待する。
そして将来の代表の軸となる選手の育成は、トップリーグの新陳代謝活性にもつながるはずだ。ベテランと若手が混在するチーム編成も見応えがあるし、長年トップに君臨し続けるビッグネームプレイヤーも畏敬の念を持って応援したい。しかしそれ以上に、ベテランプレイヤーに引導を渡す若い力が次から次へと顔を出す、そんな活性化されたラグビー界も見てみたい。
(山根 太治)
出版元:アスペクト
(掲載日:2009-01-10)
タグ:ラグビー スタッフ
カテゴリ その他
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骨盤力 アスリートボディの取扱い説明書
手塚 一志
臍下丹田という言葉はトレーニング専門家の中でも馴染みがあるだろう。私も「肥田式強健術」についての書物の中で出会った。もう20年ほど前の話だ。創始者である肥田春充氏の、にわかには信じがたい超人伝説に鼻白み、深く追求する気にはなれなかったことを覚えている。しかし氏の唱える「腰腹同量正中心の鍛錬」には、身体の中心を意識し、全身をつなげるトレーニングのヒントが隠されていた。科学的な方法かといわれれば答えに窮するが、それ以降トレーニングの際には腹のあり方を意識するようになった。これは自分のトレーニングのみならず、トレーナーとして指導を行うときにも根幹にあり、工夫を重ねた要素である。
そもそも腹を練るということは武術の世界のみならず、日本人の所作の中に古くから存在していたのだろう。体幹トレーニング、コアトレーニング、スタビライゼーションなどアプローチ法は変わっても、同じところを求めているようにも思える。
さて、本書は野球界で有名な手塚一志氏の著書である。アスリート技能調整技師(パフォーマンスコーディネーター)という肩書きを持つそうだ。著者はアスリートの身体を操作するレバーは骨盤の弓状線だということを説いている。それにしても、「W-スピン」「フローティング・アクシス・スピニング」「クオ・メソッド」など独創的な言葉が飛び交い、面食らってしまった。著者は創造力とユーモアのセンスにあふれているようだ。
ただ気をつけなければならないのは、本書で述べられる解剖学や運動生理学的表現をそのまま理解しないこと。専門的な基礎をつくるためには、他書が必要だ。本書は、あくまでも身体を動かすイメージを、アスリートが理解しやすくするために解剖学的、生理学的表現で伝えていると考えたほうがいい。
うまくいっているアスリートは著者の理論に当てはまり、そうでない者はそこから外れていると捉えられる用例が多い。動作解析やボールの流体解析など共同研究者との科学的研究も行われているようだが、これが万人に共通するとの強引な断定はその結果から飛躍している。読者としては賛否両論がはっきり分かれるだろう。ただ、プロ野球選手から少年野球選手、そして他競技と、数多くのアスリートを指導する中で培われた指導法をアスリートがイメージしやすいように体系化し、指導実績を挙げていることは素晴らしいことである。アスリートが高いコンディションをケガのない状態で獲得し、自らの持てる力を最大限発揮することがコーチやトレーナーの役割なのだから、多くのアスリートがその恩恵を受けているのであれば言うことはないのだ。
それにしても、少し前はうねらない、ためない、ひねらない動きの古武術身体操法がもてはやされ、またこちらではためてうねる動きを説いている。幼いアスリートたちは氾濫する情報に混乱するかもしれない。
あえてアドバイスを送るなら、1つの理論を盲信せず、さまざまな理論から「いいとこ取り」をするくらいのつもりで学ぶこと。多様な考え方を仕入れた後に最も大切なことは、自分自身と向き合い、自分で感じ、考え、追求する姿勢だ。たとえば巷で騒がれているジャイロボールを投げることが名投手の条件ではないように、骨盤の使い方は重要な要素ではあるけれど、全てではない。ほかにもやるべきことはたくさんあるのだ。本書で著者も述べている。「選ぶのは君である」。
(山根 太治)
出版元:ベースボール・マガジン社
(掲載日:2009-03-10)
タグ:骨盤
カテゴリ 身体
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子どもにスポーツをさせるな
小林 信也
スポーツの醍醐味
みんな黙ったままうつむいていた。薄暗いロッカールームのこもった空気に、戦い終わった男たちの汗の匂いが溶け込んでいた。少しの涙も混ざっているようで、それが空気をやや重たくしていた。通路を挟んで反対側にあるロッカールームで歓声が上がった。幾人かの男たちの目からみるみる涙がこぼれ出し、嗚咽が洩れた。男たちのキャプテンが、男泣きに泣きながら、ロッカールームに戻ってきた。監督に支えられながら、やっとのことで立っていた。
少し経って落ち着きを取り戻した彼は「俺たち無敗ですよね」と笑顔を見せた。その笑顔は素晴らしい男の顔だった。私がトレーナーとして帯同していた高校ラグビー部が、全国大会の準決勝で同点抽選の上決勝進出を逃したときの出来事である。この成長こそがスポーツの醍醐味だ。その顔を見て心の底から実感させてもらった。
嘆きではなく
さて「子どもにスポーツをさせるな」と銘打った本書はスポーツライターである小林信也氏の著作である。もちろんこのタイトルを額面通りに受け取るわけにはいかない。知れば知るほど突きつけられるスポーツの闇の部分に、懐疑的になりそして悲観的になり、そこに飛び込んでいく無垢な子どもたちに不安を感じることは確かにある。
しかし本書は、今さらその嘆きを世に叫ぶものではない。小林氏は42歳のときに男の子を授かった。上の娘さんとは14歳違い。そのお子さんの成長過程で、「悲観的なスポーツライターは、確かな指針を得て前向きなスポーツライターに生まれ変わった」という。そう考えるに至った過程が、本書のテーマになっている。
勝利へのこだわりは悪いものではない
WBC 決勝の国歌斉唱の際にガムをかむ選手。勝つためには手段を選ばない指導者。言動と行動にギャップのあるお偉い様。麻薬に手を出す選手。スポーツの本来持つ恩恵から見放された例は数多い。その一方でスポーツを通じて己の心身と向き合うことに気づくものがいる。生と死を実感し命の尊さを知るものがいる。困難を克服してできなかったことができることの喜びを知るものがいる。礼儀や感謝の気持ちを知るものがいる。「スポーツ」というひとくくりでは到底考えられない。この社会に起こるすべての事象にはプラスとマイナスの顔が混在しているのだ。
たとえば、勝利にこだわる姿勢を勝利至上主義という言葉にしてしまうと、それが悪いことであるかのような印象を受ける。しかし勝つためにありとあらゆることに努力することは決して悪いことではない。勝つために何をしてもいいということではなく、勝つという目標に向かって、己を磨き、仲間と力を合わせ、スポーツを離れた日常生活におけるすべての取り組みを見直す。そうして磨き上げたもの同士が戦えば、自分のことも、相手のことも自然に尊重できるようになるだろう。理想論ではあるが、それこそがスポーツを通じて可能な、大人への成長ではないだろうか。本書でも好例としてプロゴルファーの石川遼選手のことが取り上げられている。確固たる自分自身の核を持ち、マスコミの無責任な馬鹿騒ぎっぷりを実力で何と言うこともなく制してしまったあの若者は瞠目に値する。
男の顔を
実は私も42歳のときに初めての子どもとして男の子を授かった。彼はこれから混沌とした世界の中でさまざまな人々に出会い、喜びや悲しみを知り、誰かを傷つけては誰かに傷つけられ、馬鹿な夢を持っては希望に溢れ、時にどうしようもない絶望という壁にぶち当たるだろう。そんな現実に立ち向かっていく若い力を、その可能性を信じたいと思う。先回りして段取りしすぎることは控えたい。いざというときにはガツンと軸を正してやらなければならないし、また時には強く抱きしめてやらなくてはならない。そして自身で自分をつくり上げるべく努力し、男の顔を手に入れてくれればいい。
スポーツはその成長のために、唯一とは言わないが非常にいい手段だ。いつか自分の息子が男の顔になったと実感できるまで、親父にできることは、男の目で見つめられても恥ずかしくないよう己を鍛え続けることくらいだ。
(山根 太治)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2009-09-10)
タグ:スポーツセーフティ
カテゴリ エッセイ
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現役力
工藤 公康
引退に至るまで何を考えたか
引き際をどう飾るか。生きていく上で誰もが直面することだ。幸運にも自分の意志で進退を決められることもあれば、否応なくたたきつけられる残酷な現実を受け止めなくてはならないこともある。スポーツの世界でも、まわりの誰もが惜しむタイミングで華やかな引退劇を演出する選手もいれば、最盛期から見れば隠せない衰えに正面から向き合い、現役にこだわり、燃え尽きてひっそりと引退する選手もいる。最も多いのは、無残に切り捨てられていく選手だろう。何がいいとか、悪いとか、誰がどう思うのかということは関係がない。自分がその結果をどう考え、受け止めるのか、いや、これも最も重要な問題とはいえない。やはりそこに至るまでに自分が何を考え、どう取り組んできたのか、それが問題だ。
何をまだ求めての現役か
本書は、2009年で実働28年目というプロ野球記録を更新している横浜ベイスターズ投手、工藤公康氏によるものである。考えてみれば、現時点で人生の6割以上の年月にわたってプロ野球選手を続けている。身体は決して大きくはないが、プロ野球界の怪物のひとりだ。これほど長い期間にわたってプロとしてのモチベーションを維持していることは驚きだ。現在まで在籍した4球団中、3球団でリーグ優勝と日本一を経験しているのだから、球界頂点の極みも十分に味わっているはずだ。何をまだ求めているのだろう。
金でも名声でもなく、己の矜持を持ち得る世界で勝負を続けることが、ただ楽しいのかとテレビのインタビューなどを見ていると、そう思える。偉大な選手に失礼ながら、その童顔と遊び心に、野球少年というか野球大好きな悪ガキがそのまま大きくなったような印象を受ける。ただうまくなりたいという純真な子どもの心が、クリクリした瞳にまだ光っている。もちろんそれだけではここまで一線級でできるはずもない。それを現実のものにするための努力と才能という裏づけがあってのことだ。本当に信頼できる人々(だけ?)の話に耳を傾け、何を学び、いかに考え、どう取り組んできたのか、周りへの感謝の気持ちとともに本書に表さ記されている。
強烈なメッセージ
なかでも若手選手への強烈なメッセージが印象に残る。若いウチには想像もできないことが、年齢を重ねて気づいたときには取り返しがつかなくなって後悔することになる、その怖さをよく知っているのだろう。成功体験を潔く過去のものとして次のステップに進む勇気を持ち続けてきたベテランならではの叱咤激励だ。
「自分を変えるために気づくこと」、そして「自分で考え」「答えを自分で見つけ出すこと」の重要性を説き、そんなことすらわからずに志半ばで去っていく後輩たちに沈痛な思いを持っている。同時にそれを誰かのせいにして自分に同情するようであれば「自分でつぶれただけ」だとプロらしく切り捨てている。
己の哲学を持ち、またそれに必要以上にとらわれず、自らを変化させていく。それが厳しくも楽しく取り組める状況に身を置いている人は幸せなのだろう。そして「自惚れず、でも、へこたれず」本当に充実して生きていれば、その先にある結末だけにとらわれる必要はない、とそう思う。
(山根 太治)
出版元:PHP研究所
(掲載日:2009-07-10)
タグ:野球 プロ野球
カテゴリ 身体
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本番で負けない脳 脳トレーニングの最前線に迫る
善家 賢
土壇場での心理状態は
バンクーバー2010オリンピック冬季大会で、選手の頑張る姿に手に汗を握り、時には涙があふれるくらい感動したという人は多いだろう。見ているだけで押さえきれずに感情があふれるのに、あんな土壇場でのアスリートの心理状態はどんなものかと想像し、それだけで胸が熱くなった人もいただろう。
脳トレーニングという側面から、本番で実力を発揮するためにどうすべきなのかを解明しようとする本書は、NHKの報道番組ディレクターによるものである。構えて読んでしまうと言うと、意地が悪いだろうか。いずれにせよ、テレビ番組として絵になるニューロフィードバックという1つの手法に偏重しすぎていることや、メンタルトレーニングと脳トレーニングが別モノであるかのようなスタンスが垣間見えることは残念である。しかし、日本のスポーツ界が今後解決すべき科学的心理学的サポートに関する問題提起としてはおもしろい。確かに目に見えるわかりやすい指標を用いるほうが、メンタルトレーニングもより効果的に行えるだろうし、より広く普及するのではないか。いずれにせよ、心理トレーニングはアスリートの基礎トレーニングの1つとしてより広く定着すべきだろう。
カナダの強化プログラム
本書でも紹介されているように、地元バンクーバーでのオリンピックに向けて、カナダは国家戦略としてアスリートの強化を続けてきた。過去2回の地元開催オリンピックで、金メダルを1つも獲得できなかったことが発端である。心理学的なアプローチも強化され、14人のスポーツ心理学者が強化プログラムに取り組んできたことが地元紙でも紹介されている。サイコロジーという言葉を使うと、心理的障害に対処するという印象がぬぐえないため、メンタル・パフォーマンス・コンサルタントという名称で活動したとのことだ。ビジュアライゼーション、メディテーションや深呼吸エクササイズ、ポジティブ・リフレイミング、セルフトーキング、そしてそれらの効果を客観的に確認できるニューロフィードバックを含めたバイオフィードバック。これらを用いて本番でZONEとも呼ばれる境地に至るようトレーニングしてきたのだ。結果、金メダルの獲得数が14個と大会1位に輝いた。実に前回のトリノオリンピックで獲得した数の2倍である。
今大会、カナダの金メダル第1号になった男子モーグルのAlexandre Bilodeau選手もその恩恵を受けた1人である。ただ彼を担当した心理学者は金メダル獲得への貢献度に関して、「一部を担っていることは確かだが、コーチ、ストレングス・コンディショニングトレーナー、理学療法士やその他治療家、そして実業家や経済のエキスパート集団がトップアスリートを支援するスポンサープログラムであるB2Tenなど、すべてのサポートメンバーと貢献度において何ら変わるところはない」と謙虚に語っている。目新しいひとつの手法に対して盲目的に飛びつき、流行モノをつくるような大衆心理で取り入れるのではなく、資金調達とその有効利用も含めて、地に足をつけたトータルサポートシステムをさまざまな専門家が協力し合って構築し、実践することが重要だと言うことだ。加えるならそれを広く裾野へも還元して標準化することで次世代へのサポートにもなるだろう。
大切なこと
顔にはまだ幼さすら残るBilodeau選手の金メダル獲得後のインタビューを聞くと、もう1つ大切なことが見えてくる。彼の言葉は自分の周りにいてくれるすべての人々によるサポートへの感謝で満ちていた。家族の話が出たときに思わず涙ぐんでいた彼は、脳性麻痺の兄からたくさんのインスピレーションをもらったという。障害を持ちながらそれでも不平を言わず前向きな兄に驚かされてばかりで、人間の限界とは何だと考えるようになったと、別のインタビューでも答えていた。与えられた環境に不満を抱き自分で限界を決めてしまうのではなく、己に与えられた力を最大限に伸ばし、活かすことだけ考えることを学んだ、と。すべてのトレーニングは彼の生き方に影響を与え、彼の生き方はトレーニングの効果、ひいてはパフォーマンスに影響を与えたのだろう。
普段の何気ない日常の中でも、よりよく生きようと覚悟を持ち行動すれば、それが自然に人を強くする。オリンピックレベルのアスリートでなくても同じことだ。生き方そのものが、土壇場を迎えたときの身の処し方、メンタルプリパレーションのトレーニングになるはずだ。
(山根 太治)
出版元:新潮社
(掲載日:2010-05-10)
タグ:トレーニング メンタル カナダ
カテゴリ メンタル
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不屈の「心体」 なぜ闘い続けるのか
大畑 大介
過酷な競技、ラグビー
トップアスリートはいつしかその華やかな舞台から降りるときがやってくる。まだ続ける力を十分に残しながら新たな人生を始める人あり、衰える身体に折り合いをつけながら続ける人あり、あるいは満身創痍になっても続ける人あり。続ける機会を奪われる多くの人を除けば、自分で進退を決めるその判断に是非はない。当人の価値観なのだから周囲があれこれ口を挟むことではないだろう。このトップレベルに名を連ねる期間は、競技によって大きく異なる。もちろん、同じ競技でもポジションによっても大きく異なる。そして多くの競技の中でもラグビー選手としてトップであり続けることは、他競技に比べて肉体的にずっと過酷だといっていいだろう。
本書は自他ともに認める現在「日本で最も有名なラグビー選手」大畑大介氏の半生記である。2007フランスワールドカップの8カ月前に右アキレス腱を断裂し、懸命のリハビリにより復帰。本戦を2週間後に控えた調整試合でまさかの左アキレス腱断裂という悲劇に見舞われた選手である。スピードスターとしては致命的とも言える両アキレス腱断裂。しかし物語は終わらない。彼はトップリーグに復帰してきたのである。
フィールドに立ち続ける
本書でも描写されている彼の復帰戦を、私は長居スタジアムで観戦していた。インターセプトからトライを奪った復活を印象づけるシーンでは、持ち前の加速感は本来の姿を失っていた。しかし、「やっぱり何か持っとるな」と多くの人が思ったはずだ。ただそれよりもディフェンスを中心とした、どろくさいチーム貢献プレーが印象に残った人も多かったのではないか。そのあたりは、本書の内容からも間違いなさそうである。スピードスターがその持ち味を失ったとき、舞台に背を向ける人は多いだろう。しかし自分の持ち味が失われていくことに抗い、それと同時に足りないスキルを向上し、総合力でチームからの信頼を失わずフィールドに立ち続ける。個人的にはそのようなアスリートに強く惹かれる。 決して恵まれた体格ではなく、学生時代も決して王道を進んできたわけではない。その彼が度重なる逆境を乗り越えてきたのは、「超」ポジティブな性格ならではだろう。本書全編を通じてそれがビリビリ伝わり、感動的ですらある。もちろん先述のアキレス腱断裂や、あるいは一章を割いている「ノックオン事件」なるモノに関しては本人が描写している以上にたたきのめされたはずだ。ノックオンとはラグビーのプレー中にボールを前方に落とすことで、この「ノックオン事件」は、重要な局面での信じられないノックオンにまつわる話である。
その失敗そのものより、それが起こるに至る自分の取り組み方をひどく責めている。超ポジティブ男をして「消えたい」と言わしめる落ち込みはそんな内省から起こるのだ。詳細は本書を見ていただくとして、そこからの立ち直りは文章で表せるほど生やさしいモノではなかったはずだ。いずれにせよ、スーパースターの名を借りてあれこれ指南するノウハウ本より、俺はこう生きてきたんだとただ語るもののほうが格好よく、胸に響く説得力がある。
アキレス腱断裂によりワールドカップ出場を逃した翌年の2008年度シーズンにトップリーグに復帰した彼は、シーズン中に肩甲骨を骨折し手術を受けている。しかし2009年度には公式戦13試合中8試合に出場し、今年も現役を続行している。満身創痍の彼が活躍する姿も見たい反面、若手選手がすっぱり引導を渡してもらいたいとも思う。今シーズンはそこにも注目してトップリーグを楽しみたい。
(山根 太治)
出版元:文藝春秋
(掲載日:2010-07-10)
タグ:ラグビー
カテゴリ 人生
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スポーツ医学常識のうそ
横江 清司
人体に関する普遍性
常識とは、一般の人々が共通に持つ、それが普通だと考える知識や考え方のことである。しかし、それが普遍的な真理だとは呼べない。社会的常識というものは国や地域、また時代によって大きく異なる。さらに突き詰めれば、個人の捉え方でその様相は別物になってしまう。法とは個人の捉え方に左右されない、いわば強制力を伴う常識であるが、これですら地域や時代で変化する。ただ、人間という身体の機能に関する常識は、人種により多少の違いはあれど、本来普遍的なものであるべきだろう。うれしいときに喜び、悲しいときに嘆くといった根本的な精神活動もしかりだ。しかし、いまだその真理の多くが解明されていないということも現時点での真実であるし、個々の人間性という複雑な精神活動を加味した場合、絶対的真理というものは存在し得ないのかもしれない。
「常識」への警鐘
本書ではスポーツ界に「常識」として普及している情報の中で、問題のあるものを取り上げてわかりやすく解説している。これら人間の身体に関する「うその常識」は、スポーツ医学を専門に学んだ者にとってはすでに「常識」たり得ないことばかりで、陳腐な感は否めない。しかし、世間一般の読者が持つ「常識」への警鐘が今なお必要だということであろう。次々に生み出される目新しいダイエット本がベストセラーになり、減量用サウナスーツが今なお売れているくらいだから、この問題が解決されることは、あるいはないのかもしれない。商売上手な業者に誤った「常識」をすり込まれて顧客化する、あるいは誤った「常識」の流行に如才なく棹さす商売上手が儲ける仕組みは、この先もなくならないのだろう。
仮に真理というものがあるとしても、気づいてしまえばつまらないことが多く、当たり前のことを当たり前にすることなど、面白みがないという側面も理解はできる。人は刺激的なこと、目新しいこと、楽に目的達成できる方法や自分が納得するのに都合がよいことに理由なく心奪われやすい。このことは責められないし、個々人が健康を害しない程度で取り上げるのであれば、日々の生活に何か変化をもたらすという意味で、罪のないことなのかもしれない。
常識を更新し、人間と向かい合う
ただ、それが人体に害をなすことであれば話は別である。医学界でエビデンス(科学的根拠)に基づく医療(EBM)という概念が唱えられて久しい。現時点での医学界での良識を打ち立てていくこの考え方は、スポーツ界や健康業界でももっと広がるべきだ。現場で働くアスレティックトレーナーも常に研究者や臨床家が苦労の末得たエビデンスに敏感でいる必要がある。もちろん、その質にもさまざまな議論があり、時に覆されることもあるこの言葉に単純に踊らされることはないが、現時点での「常識」を常に更新しなくてはならないのだ。それには実体験に基づく有用な経験則と思い込みとを区別し、本来持つべき新しい「常識」の会得を阻害することがないような心構えも必要だ。
そしてEBMも、盲目的に患者や選手に押しつける材料にしてしまっては、その本来の意味を見失うことになる。複雑な精神活動が加味された人間である選手や患者と向かい合ったときには、やはりそれを話す側の人間的な力が必要になるのだ。勇気を持って選手の考えにノーを突きつける姿勢や、リスクの質、大きさを可能な限り正確に理解し、伝え、選手が望むチャレンジに覚悟を持って付き合い、ギリギリで戦い続ける姿勢も必要なのだ。そこに真理はないかもしれないが、何らかの真実があるはずだ。
(山根 太治)
出版元:全日本病院出版会
(掲載日:2010-09-10)
タグ:学び
カテゴリ スポーツ医科学
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スポーツ障害から生き方を学ぶ
杉野 昭博
「自分のやるべきこと」
もう10年近く前になる。全国高校ラグビー大会3回戦、ある高校のキャプテンが膝の靭帯を完全断裂した。徒手テストだけでも以降の試合への出場は絶望的だった。病院での検査後、そのチームのトレーナーは涙を流す彼を真っ直ぐ見つめこう言ったという。「自分のやるべきこと、わかってるやろな」。彼は言われるまでもないと力強く頷いた。2回戦ですでにエースプレイヤーを骨折で欠いていたそのチームは、次の準々決勝で昇華したといってよい状態に高まった。そして、その大会でのスーパースターを擁する優勝候補校を制したのだ。この試合では、チームに何かが起こっていた。それはこのキャプテンを中心に1年を通じて育まれてきたことだった。
本書では、スポーツ障害を医学的に見るのではなく、心理的側面や社会環境的側面から捉え、とくにケガが治らない選手に役立つべく行われた研究をまとめてある。全体として焦点が絞れておらず、研究の方向性も曖昧で、まとまりの悪い感じは否めない。しかし、ここに集められた断片を目にするだけでも、指導者やトレーナーなどスポーツに関わる人にはさまざまな気づきをもたらすだろう。スポーツ障害(傷害)の定義1つとっても、「努力して獲得してきたものが、できなくなる感覚」や「今まで当たり前にできていたことができなくなるという経験」とすれば、スポーツ障害により選手は身体のみならず心理的にも社会的にも傷つけられていることを簡潔に表すことが確かにできる。
生々しい言葉
冒頭から、選手や指導者がケガという経験をどう捉えているかを聞き取り調査した内容が続く。インタビュー内容をそのまま文章にしているので、その拙い言葉が生々しさを増している。「ピッチングマシンのボールが頭を直撃し、血を流して倒れているところに顧問の先生がきて、最初に発した第一声が『ええかげんにせえよ!』で、普段あまり怒らない先生にかなり怒鳴りつけられました」といった自分のために選手を怒る指導者の話や、「全員がよい指導者になれるような指導をしようと」「ケガをした人間にも誰にでも役割があるというチームマネジメント」を目指す指導者の話。ドクターも含む一般的な「スポーツ障害の専門家はしばしば「このまま競技を続けると日常生活でも取り返しのつかないことになるぞ」と言って、試合に出たがる選手を叱責することがある」「こうした考え方には、ケガ人は競技に参加すべきでないという『排除の理論』へと転化する危険がともなっている」との指摘もされている。
また、北海道浦河町にあるという精神障害者の社会復帰事業所「べてるの家」の取り組みからスポーツ障害を考え、「ケガによって、どんなに思い通りに競技ができなかったとしても、競技を続ける工夫をしなさい、あるいは、競技を通じた人間関係を持ち続けなさいというのが、スポーツ障害における『右下がりの生き方』であり、『降りていく人生』だ」との表現もみられる。
トレーナーというピース
全編を通じて、ある存在がそばにいれば、選手本人も、指導者も、チームも多少なりとも変わったのではないかとずっと感じていた。アスレティックトレーナーという存在だ。そのトレーナーによるコメントもいくつかみられるが、さまざまな問題が山積する環境で心あるトレーナーというスポーツ傷害の専門家がどのように取り組んでいるのかということについて本編のどこにも触れられていない。非常に残念である。トレーナーの普及度や認知度の低さあるいはレベルのばらつきも問題なのだろう。「ケガによって孤立してしまった選手がいて、その選手がチームを去らなければならないとしたら、それはケガのせいではなくて、おそらく、レギュラーも含めて、そのチームに居場所がある選手は、最初からほとんどいないのではないか」との考えも紹介されているが、チームの中で障害について普段から選手の自覚を促すべく教育し、その発生を最大努力で予防せんとし、発生してしまった後も選手が心身ともによりよい状態に向かうべく、ともに歩むトレーナーは、チームの中での負傷者の立ち位置を明確にする上でも重要な役回りを担っているはずだ。スポーツ傷害による挫折からトレーナーを目指す人も多く、「ケガした人にしかわからんことも体験できた」トレーナーも多い。トレーナーというピースを組み込むことで、選手の傷害に対する考え方や取り組みは大きく変わるはずなのである。
冒頭の高校ラグビーチームは準々決勝で勝利したとはいえ、大小取り混ぜてほとんどの選手が負傷しており、満身創痍という表現は大げさではなかった。中心選手の一人は足関節に中等度の捻挫を負ったが、準決勝の出場を強く希望していた。「選手の悪あがきやじたばたすること」につきあうのもトレーナーの仕事である。そのトレーナーはできる限りのことを施し、彼は準決勝の舞台に立った。どの選手もボロボロの身体で懸命にプレーするが、少しずつ点差を引き離される展開だった。彼は試合終了間際に相手選手を引きずるように強引にボールを持ち込み意地のトライを挙げた。
ラグビーのような競技で選手は常に傷害と隣り合わせでプレーしている。社会人ともなれば手術跡も生々しい選手が少なくない。例に挙げた2人も大学から社会人ラグビーまでキャリアを積んで引退した。そのキャプテンは今、社会人チームの指導者にまでなっている。彼らは右下がりでも右上がりでもなく、ただ前を向いて進んでいたのだと思う。あのときのトレーナーの言葉も、選手たちが常日頃から自らの心身に対する心構えをつくっていたからこそ出たものだ。そして厳しい教育をする一方では、折れた骨を、切れた靱帯を、どうにかつないでやれないものかとの想いで選手たちに向き合っていたからこそ伝わるものもあったのだろう。スポーツにコミットするすべての人々にそのような存在がそばにいることを願うばかりである。
(山根 太治)
出版元:生活書院
(掲載日:2010-11-10)
タグ:ケガ 教育
カテゴリ 人生
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あの一瞬 アスリートはなぜ「奇跡」を起こすのか
門田 隆将
アスリートの本紀と列伝
ある人物の一代の事績を記録した書物を「紀伝」という。皇帝や王といった天下人を中心とした「本紀」と、人臣について書き連ねた「列伝」の下の文字を合わせた言葉であるという。簡単に言えば、人物の成したことを書き連ねたものだが、魅力溢れる人の生き様というものは、読む人の心を震わせる。綿密な取材資料に作家の創造力による脚色が施され、あくまでもフィクション作品としてではあるが、歴史小説が広く読まれるのはそのためだろう。
アスリートは現代における紀伝の素材としてふさわしいもののひとつだ。紀伝を曲解して、本紀をスポーツ界の頂点に立った者の物語、列伝をそうではない者の物語としたとしても、それぞれが相補ってこそドラマが成り立つことに間違いはない。本書には、さまざまな競技のアスリートにまつわる10の本紀および列伝が綴られている。著者は週刊新潮の副部長まで務めたジャーナリストであり、「なぜ君は絶望と闘えたのか」をはじめとした幅広いジャンルでの著作を持つノンフィクション作家の門田隆将氏である。
アスリートに対する尊敬と愛情
古くは、戦前から始まる怪物スタルヒンの数奇な人生から、北京オリンピック女子ソフトボール金メダルにまつわる世代を超えたドラマまで、さまざまな時代、さまざまな競技における「奇跡」が読み応えのある物語となっている。その緻密な構成や読者を引きつける演出には、アスリートに対する著者の尊敬と愛情の念が散りばめられている。本書のあとがきにもあるように、アイルランドの詩人オリバー・ゴールドスミスの言葉である「われわれにとって最も尊いことは、一度も失敗しないということではなく、倒れるたびに必ず起き上がることである」という人生の格言を、どの物語の登場人物も思い起こさせてくれるのだ。
彼らは決してすべてにおいて超人的な力を持つわけではない。それでも「奇跡」を起こす彼らの軌跡は、アスリートとしてだけではなく、1人の人間として尊いものなのだ。本紀となるのか列伝になるのか、そんな結果は問題でなく、ただただその生き様に魅了される、そんな想いが伝わってくる。とくに最終章、松井秀喜を5敬遠した明徳義塾野球部の物語は、ステレオタイプの批評家では書き得ないものだろう。
「奇跡」は日々起きている
雑踏の中で行き交う人々を見ながら、ふと思うことがある。すれ違う以外に交わることのない多くの人々。自分自身も含め、1人ひとりに自らを主人公にしたドラマが日々繰り広げられている。そのほとんどが誰にも綴られることがない平凡なものである。しかし、日々ただひたむきに生きている人たちには、ささやかなものでも、素晴らしい「奇跡」があちらこちらで起こっているはずなのだ、と。
(山根 太治)
出版元:新潮社
(掲載日:2011-01-10)
タグ:勝負 アスリート
カテゴリ スポーツライティング
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子どもの能力をとことん伸ばす筋力トレーニング
石井 直方
子どもにとって筋トレ
先の全国高校ラグビー大会決勝では桐蔭学園、東福岡高校双方がそれぞれの持ち味を活かした見応えのある名勝負を展開、同点で両校優勝となった。身体の線がはっきり出る最近のラグビージャージやショルダーガードの影響もあるだろうが、一昔前に比べて筋骨隆々の選手が多く見られるように感じる。トレーニング科学が広く普及したことも大きいし、その専門スタッフが帯同するケースが増えていることも考えられるが、やはり基礎となる体格が大きくなっているのだ。ラグビーに限らずトップアスリートたちは、その体格やパフォーマンスレベルを年々進化させている。しかしその一方で、一般の子どもたちの体力は右肩下がりに低下していると言われている。
トレーニング関連で数多くの著作を持つ石井直方氏による本書では、「体格は大きくなっているけれども、相対的な筋力は落ちてきている」子どもたち、あるいはその親への警鐘と対策がわかりやすく解説されている。決して、本書のタイトル通りに「筋力トレーニングで子どもの能力を伸ばす」ことを説いているのではない。「どんな遊びをさせても子どもにとってはすべて筋トレ」という表現からもわかるように、子どもは伸び伸び遊ばせるべきだということが随所に語られている。子どもに筋力トレーニングをさせてその能力を伸ばそうと考える人ではなく、今子どもが置かれている環境を見直し、何かを変えるきっかけにしたい人に手にとってほしい本である。
遊びがチャンス
スポーツ教室のみならず、体育の家庭教師という職業が注目されることもある一方で、最近はイクメンなる言葉が広がっている。子育てに積極的に関わる男性が増えているのなら、子どもの身体能力が高くなるチャンスも増えるはずだ。子どもが最初に出会うアクティブな遊び相手は父親であることが多いのだから、運動にもなる遊びにとことん付き合い、またそんな活動に導くことは子育ての重要なポイントである。危険だからとさまざまなリミッターをかけてしまうと、子どもが新しいことに気づくチャンスや、思わぬ成長を見せるチャンスを奪ってしまう。「子どものからだは小さな大人ではない」し、リスクを認識して対応すべき点はもちろんあるが、大人の思い込みで子どもだからと侮って先回りしてしまうと、子どものチャンスだけでなく、子育ての驚きを味わう自らのチャンスをも奪ってしまうことになる。
私事ながら、我が家ではまだ幼い2人の男児が毎日暴れ回っている。年を取ってからの子のためか、バカ親父と周りに笑われながら子育てに注力している。躾と称して親の都合を押しつけることは極力避け、とにかく付き合うということを軸にこちらも楽しませてもらっている。自分がラグビーをしてきたことも、トレーナーの勉強を重ね、活動してきたことも、実はこいつらのためだったのだと本気で考えている。重症である。
(山根 太治)
出版元:毎日コミュニケーションズ
(掲載日:2011-03-10)
タグ:トレーニング
カテゴリ トレーニング
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リスク化される身体 現代医学と統治のテクノロジー
美馬達哉
リスクに対して持つべき思想
たとえばある高校生女子バスケットボール部の、非接触型ACL損傷の予防プログラムを作成すると仮定する。まずすべきことは、そのリスクの把握である。リスクとは「未だに発生していない危害の予期という意味を持つ」ため、すでに同傷害を負った選手に該当する因子はもちろん「未来に予測される危害としてのリスク」も対象に考えなければならない。
ここでカッティング動作やジャンプの着地動作などにおける、いわゆるKnee in & Toe outというダイナミックアライメントがACLに大きなストレスをかけることが原因だと唱えてもあまり意味がない。膝関節伸筋や股関節外旋外転筋などを中心とした筋力の問題、主働筋、協働筋と拮抗筋、また体幹をはじめ全身の筋との協調性の問題、内反足や外反膝などの静的アライメントの問題など身体的因子を洗い出す、それでもまだ不十分である。トレーニングの内容、強度、頻度はどうなのか、練習場所のサーフェスは、シューズの選択は、果たして指導者の指導方法は適切なのか、練習中の集中力など心理的な問題は、そもそも予防プログラムをつくっても真摯に取り組むのか、日常生活を含めたコンディショニングはできているのか、このような動きが要求されるバスケットボールの競技特性に問題があるのではないか、それ以前に女性であることがそもそも問題ではないか。
さて、リスクマネジメントとはどうあるべきなのだろう。
捉えるセンス
本書はその題名から察せられるような、よくある医療リスクを論じたものではない。メタボリックシンドロームを巡る「健康増進」に関する取り組みや、新型インフルエンザを巡る「リスクパニック」などを題材に挙げてはいるが、リスク概念を医学や神経科学、経済学、人類学、社会学といった多方位の視点から考察し、現代社会に氾濫するリスクに対して持つべき思想をつくり上げる手助けとなるよう構成されている。
「医療社会学の皮を被った批判的社会理論」とは著者の言葉である。単純に事象を断じず、別座標に存在するかに見えるさまざまな要因のつながりを探り当て、やや難解な文章を持って論じるその姿は強引なようだが、読後は物事を捉えるセンスが広げられたように感じる。
ACL損傷のリスク低減のために練習量を減らすようなことがあれば、チームが機能するために必要なトレーニング効果が修得できないという新たなリスクを生み出すことにもなる。バスケットボールではその特性上、膝の靱帯を損傷しやすいという一片の事象が、もし「専門家」と呼ばれる人びとによってもっともらしい尾ひれをつけられて巷間伝われば、これからバスケットボールに参加したいという気持ちに足枷を付けるという風評となるかもしれない。予防運動プログラムを作成したのはいいが、どこかの雑誌を真似た形だけのもので、それなら他にその時間や予算を使ったほうがいいといった、ただの儀式になってしまうかもしれない。それならまだしも、誤った認識によるプログラムであったために傷害が増えるという可能性も否定できない。優れた予防プログラムであったとしても、生活習慣を改め自己コントロールすることを抜きにして、処方されたものだけをこなせばいいという考え方では、その期待される効果を発現することはできないだろう。そのような考え方をする選手は、もし自分が負傷したときにはリスクを避けられなかった責任を指導した側に全て押しつけることが当然と考えるかもしれない。このような例であればまだしも、現代を生きる我々はリスクという概念に翻弄されてはいないだろうか。
バランス感覚が必要
「リスクは計算可能である」と言われる一方で「リスクに関する人間の意志決定や選択は、客観的な数学的確率で合理的に決められているわけではなく、リスクの主観的経験やその情動的側面によっても影響されやすい」ことも事実だろう。将来に「もっとも望ましい見通し」が立てられるよう、我々には踊らされることのないバランス感覚が必要となる。自らの身体に関しても、「生きている人間それ自体の生命に注意を払う権力」が掲げる、医療・福祉サービスに相当する社会的実践」という名の「身体の多様性をコントロールするさまざまなテクノロジー」により守られることは決していいことばかりではない。我々はもっとシンプルに生きられるはずだ。
(山根 太治)
出版元:青土社
(掲載日:2013-03-10)
タグ:リスク
カテゴリ その他
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やらなあかんことはやらなあかんのや! 日本人の魂ここにあり
上田 亮三郎
確固たる信念の存在
以前仕事でご一緒させていただいた社会人ラグビーの名物監督。 この人は魅力的だと無条件で思わせる雰囲気をまとっていた。それだけでなく、この古き良き時代の親分の眼差しは、選手をアスリートとしてよりも人間として深くとらえているように感じさせられた。現代スポーツの指導者はさまざまな側面からスマートであることが要求されるが、その根底に必要なものは、人を引きつける魅力であり、もうひとつ人を深く知ることができるということではないだろうか。そしてこのことに今も昔もない。
さて、本書は大学サッカーの指導、大学サッカー界の発展に40年あまり情熱を燃やし続け、今なおその発展のために尽力されている上田亮三郎氏のサッカー人としての一代記である。そこに出てくるエピソードの数々は、トレーナーの視点からは突っ込みたくなるところも確かにある。しかし私の生まれる前から一筋に指導されてきた存在を、今さらどう論評できるだろう。莫大な経験や学習の積み重ね、膨大な数の選手との関係、さまざまな栄光とそして犠牲によって築き上げられたその指導理論は、誰がなんと言おうが完成されているのだ。どれだけ「半殺し」という言葉が出てきても、そこには確固たる信念が存在するのである。
アスリートは赤信号を常に越えようと進んでいく、指導者はそれが渡るべき赤信号かどうかを見極め、そうであれば、渡ろうとする者を激励し、躊躇する者を鼓舞するものだ。トレーナーのような存在も、赤信号を渡るなと簡単に止めるのではなく、どうすればより安全に渡れるかということに挑戦しなければならない。科学的・非科学的、新しい・古いで割り切るだけでなく、最新の情報をアップデートしながら、故きを温ねて新しきを知る感覚も常に心がけるべきで、本書などは本物になるための参考書として興味深い存在になるだろう。
言うべきタイミングで言うべきことを
そんな上田氏の、選手たちを見つめ指導する眼差しはこの上なく厳しく、熱い。そして何よりのポイントは個々別々であることだろう。どれだけ魅力がある指導者であっても、それだけでは人は引きつけきれない。自分はこの人に確かに理解されているという実感を与えられなければ、本当の信頼関係は築けないのだ。人を指導するときに出すアドバイスも、その人が今聞きたい甘言を用いても安心が得られるだけで、根本的な成長につながらない。今その人が聞いておくべきことを聞かなければいけないタイミングで出せるかどうかが大切なのである。そしてそれは本当にその人を理解していなければできないことなのだ。
言われた側もそのときには耳に痛く感じても、振り返ったときに、それが自分に必要なことだったと気づく。そして士は己を知る者の為に死すという覚悟が生まれるのである。
書評しにくい本書を取り上げた理由の大部分は、実は巻末に節子夫人のインタビューが載っていることである。こんなサッカーに取りつかれた人を伴侶にした女性の苦労は想像に難くないが、今となってはおおらかな興味深い話になっている。これをあえて載せたことが、憎いところなのである。
(山根 太治)
出版元:アートヴィレッジ
(掲載日:2012-05-10)
タグ:サッカー
カテゴリ 人生
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〈知的〉スポーツのすすめ スキルアップのサイエンス
深代 千之
運動が苦手な姪っ子に指導
高校に入学したばかりの姪っ子が球技大会でバレーボールをすることになった。ところが彼女は子どもの頃からスキップが正しくできないくらい運動が苦手。うちに遊びにきたときにちょっと見てやろうと広場に行ったが、ボールの中心をたたけない、下半身の動きと上肢の動きのタイミングが合わない、自分の立ち位置から一歩分でもボールがずれると落下地点に身体を移動できない、となかなかの強者だった。子どもの頃からダンスのほうのバレエを習っていたので、それを糸口にアンダーハンドサーブとアンダーハンドレシーブを何とか形にしようと、おじさんは奮闘することになった。スポーツ科学を学ぶ人にこそ
さて本書は、『運動会で1番になる方法』などの著者であるバイオメカニクスの第一人者、深代千之氏によるもので、「東大教授が教える(運動の)上達法!」と銘打たれている。前半は走・跳・投打というスポーツにおける基本動作を巧みに実行するための理論が展開されている。後半ではやや専門的な内容で、脳による運動のコントロール、筋生理、バイオメカニクスの基礎について解説されている。
一般人への啓蒙書という位置づけとのことだが、本書は運動上達を目指す一般の人々というより、スポーツ科学を勉強している指導者や学生にこそ手にとってもらいたい仕上がりになっている。バイオメカニクスといえば物理学の基礎知識を必要とした難解な学問だと敬遠しがちな学生でも、本書を通読することでその知識を現場に活かすためのつながりを発見できるに違いない。パフォーマンス向上はもちろん、傷害予防のためのドリルや負傷選手を競技復帰まで回復させるアスレティックリハビリテーションにもその考えを応用しやすくなるはずだ。
つながりのヒント
つながりと言えば、本書ではバイオメカニクスと運動生理学やスポーツ心理学とのつながりを理解しやすくなるヒントも含まれている。解剖学や生理学など別々の教科で勉強する基礎医学も、当然のことながら人の身体として統合して理解されるべき内容である。構造によって機能は決められるが、機能的な必要に迫られて改変されてきた構造があり、構造をより効率的に使おうとすることで新しく生まれた機能がある。さまざまな側面から人間の構造と機能のつながりを解き明かし、より効率的な機能に結びつけていくというこの学問は、ばらばらの「点」になりがちな学問をつなげるという側面もあるように思う。
誰かがやっていた、あるいは誰かが言ったというトレーニング原理のようなものが独り歩きして一種流行をつくった現象にも触れられている。ご本人にはそのつもりはないかもしれないが、本質を見極める前に流行に流される傾向にある態度を科学者の立場からそれとなくたしなめている感覚があることにも好感が持てる。
よりよい動きへ
さて、姪っ子の指導。限られた時間の中で、しかも1度きりの指導で何が変わるのかへのチャレンジは、バレエのジャンプ動作を少しづつ変化させてスクワットジャンプの形にし、そこに手を振り上げる動作を加え、タイミングを同期させ、ジャンプの程度を減らしてアンダーハンドサーブの身体の使い方に近づけるというシンプルなもの。ボールを使ったのは最後のほうだけだったが、なんとか相手コートに入るかなというくらいにはボールが飛ぶようになった。身体の移動に関しては、ボールを投げる方向を決めておいて一歩移動してボールをキャッチする練習を各方向行い、ボールをキャッチする高さを徐々に下げて、アンダーレシーブの形に近づけた。結果、誰かが拾ってくれるだろうというボールの上がり方をするようにはなった。
もっといい方法もあるだろうし、本番までの練習でどれだけ上達するかわからないが、ボールを打つという運動の結果だけにとらわれず、ボールを打つためにどのように身体を動かすのか姪っ子自身に考えさせ、そうすることで動きが改善される実感を持ってくれたとしたら、トレーナー活動をしてきたおじさん冥利に尽きるというものである。
(山根 太治)
出版元:東京大学出版会
(掲載日:2012-07-10)
タグ:スキル
カテゴリ 指導
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女子の〈底力〉の引き出し方
吉井 妙子
「女性部下を持つ方々に」
2011年7月。多くの日本人がそうだったように、当時4歳になったばかりの我が家の長男坊はなでしこジャパンに魅了されていた。ゴールシーンやPKシーンを飽きることなく繰り返し見ては「サワせんしゅ」「カイホリせんしゅ」と名前を覚え、「あきらめない心」とは何だろうと考えるきっかけにしていた。性別を超えて「おっきくなったらなでしこジャパンになる!」とまで言わせる存在だった。『天才は親が作る』などの著作で知られるジャーナリスト吉井妙子氏による本書は、「女性部下を持つ方々にいかに感じてもらえるかを主眼と」して書かれている。なでしこジャパンの佐々木則夫監督、全日本女子バレーボールの眞鍋政義監督、古くは東洋の魔女を率いた大松博文監督などを例にあげ、優秀な指導者たちがいかに「女性の能力を磨き、チーム力を強固なものに」したのかが紹介されている。
あとがきで著者自身が述べているように、本書は「ハウツー本の形式を避け」ている。ハウツー本にはなり得ないと言った方がいいのかもしれない。成功者の成功事例のみを取り上げれば感心することばかりである。しかしこれをそのまま他の事例に活用すること、いや他のスポーツチーム指導に単純に転用することすら不可能だろう。これらの成功例に満足し囚われ過ぎれば、当の成功者たちでさえ次の成功が危うくなる世界なのだから。
男女の枠を超えるべき
読み進めるうちにいくつかの疑問が頭をよぎる。女性ばかりのチームメイトで、競争相手も女性である女性スポーツでの事例を、男性社会での女性部下の扱いに無理につなげなくてもよいのではないか。そして本書の内容を見る限り、ここに取り上げられている指導者諸氏は女性スポーツにおいてのみ優秀な指導者というわけではなく、男女という枠を超えて優秀なスポーツ指導者として紹介されるべきだと感じるのである。
選手という基質が指導者という触媒によってより高度な存在となるための化学反応は、単に基質が優秀なだけでも、触媒が優秀なだけでも起こらない。双方が反応の種類にマッチしていなければならないし、その他温度や濃度、さまざまな条件がうまく巡りあわなければならない。もちろん物質と違って人間は基質が触媒の性質に歩み寄ることもできるし、触媒がそうなるように導くこともできる。そうした環境づくりへの仕掛けは、各指導者がそれぞれの選手たちの特性に合うように無数になされたはずだ。対象が女性である以上、女性を意識したものも多かったのだろうが、本書に紹介されている内容は「女子の底力を引き出す」というより、アスリートの能力の引き出し方であり、性別にこだわる必要はなかったように思う。タイトルにとらわれず、指導者と選手たちが素晴らしい結果を導き出した取り組みとしてとらえたほうが素直に「気づき」が得られるはずだ。それでもそれぞれのエピソードがあまりに美化され短絡的な示唆につなげられているため、本当に知るべきことは他にあるのではという印象は拭えない。
プレーに魅了される
明るい陽が当たるナショナルチームレベルにはもう見られないのだろうが、一般の女子スポーツには暗い負の部分も未だに根強く残っている。こちらのほうが女性ならでは、あるいは女性選手と男性指導者ならではという特色が色濃く表れているかもしれない。それらの問題点を掘り起こし、改善の動きを起こすことも今後の女性スポーツのために必要なことだと思う。
前述の長男坊は、FIFA女子ワールドカップのすぐ後に行われた2011ラグビーワールドカップにも熱狂した。フランスのはじけるようなラグビーに興奮し、ニュージーランドの強さに魅了されていた。「負けたけど頑張ってたやんな!」と子ども心ながらジャパンを擁護していた。彼にとって男性も女性も関係はない。その目には、ただひたむきに闘うアスリートたちが映っている。
(山根 太治)
出版元: フォレスト出版
(掲載日:2012-09-10)
タグ:女性 指導
カテゴリ 指導
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エディー・ジョーンズの監督学 日本ラグビー再建を託される理由
大友信彦
新しい日本ラグビーの入門書として
2019年にラグビーワールドカップが日本で開催される。過去7回行われた同大会において予選プール1勝21敗2分けという成績の日本で。2011年フランス大会でも、外国人選手で主力を固め、捨て試合をつくるなど手を尽くしたにもかかわらず、3敗1分けで予選プール最下位に終わっている。
長く続く暗い闇を抜けられないラグビー日本代表。本書は、2012年4月から「日本ラグビー再建を託された」エディー・ジョーンズ新ヘッドコーチの来歴およびそのコンセプトを紹介する本になっている。すでに出された結果をもとに訳知り顔で書かれたものではない。未だ霧がかかったこれからの日本ラグビーの歩みに悲願とも言える期待を寄せながら、それを分かち合うための入門書としての役割を担おうとしたものである。
壁を乗り越えるためのJapan Way
ラグビーのグローバル化のため、アジア代表としてこの地域のラグビー競技の普及を目指すことがワールドカップ日本招致目的の1つとされる。ワールドカップでは勝てない日本代表も、アジア五カ国対抗では2008年のスタート以来5連覇を成し遂げているのである。ただアジアを一歩踏み出すと、たとえば環太平洋の強豪国によるIRBパシフィック・ネイションズ・カップでも2011年を除き苦汁をなめ続けているのが実情である。
その壁を乗り越えるべく、外国人選手を安易に多用した前任者とは異なる方向性を持つ新ヘッドコーチ、エディ・ジョーンズ氏がその重責に就いた。彼が掲げたスローガンは「Japan Way」である。日本人の血統を持つ彼は「失われた日本の良さ」を取り戻すこと、「日本ラグビーが本来持っている可能性」を引き出すことを目指している。古くからのラグビーファンには膝を打った人も多いだろう。それは日本代表の菅平合宿の復活にも象徴されている。
実は彼の日本でのコーチング歴は1995年の初来日時に東海大学や日本代表のコーチに就いたところまで遡る。ACTブランビーズを率いて2001年にオーストラリアのチームとして始めてスーパー12(当時)を制したのはその後のことなのである。同チームの黄金時代にそのシークエンス戦法は世界を席巻した。そのアタッキングラグビーに、ラグビーが変わったと実感した関係者も少なくなかったはずだ。しかしその源流は実は日本ラグビーにあったとも言われる。日本のチームに所属していたある世界屈指のプレイヤーはこう評したそうである。「ブランビーズのプレーはエディーが日本から持ち込んだ」と。もちろん「ルールやレフェリングの変更された現在」そこに回帰することに意味はない。
ただそんな実績を背景にし、サッカーを初めとする他競技からも貪欲に「自分のクラブで応用できる要素を探す」ことを常とする彼が標榜する「Japan Way」ラグビーには、やはり期待を抱かずにはいられない。少なくとも代表を目指すプレイヤーがその原理を理解し実践することができれば、日本ラグビーは変われるのではないかという気持ちにさせられる。アタックシェイプと呼ばれるような実戦的戦術以外の要素に触れた彼の言葉も本書では多く紹介されている。
悲願達成を願う
彼は言う。「子供たちにこういうプレーをしたいと思わせるようなプレー」を見せたいと。フィールドに立つメンバー中で、決まりごととしてではなく、しかし共通認識のような「ディシジョンメーク」ができる必要があると。「ミスをすること、失敗することは決してネガティブなファクターではなく、ミスは起きるものという認識があれば、ミスへのリカバリー、反応の速さ、ミスで発生した新たな状況のクリエイティブな活用」につながり、それはまさに日本伝統の「武術における『無心』の境地」であると。
代表予備軍である「ジュニアジャパン」を立ち上げ、「試合に向けて若手のチームを強化するのではなく、日本代表に入ってこられる選手個人を育成する」ことも始まった。ユースレベルの強化・育成、また、高校日本代表セレクションを兼ねた「トライリージョンズ(三地区対抗)」と呼ばれる合宿も行われている。ラグビーのフィールドでは「ストラクチャーを作るのではなくオーガナイズされたラグビー」を目指すにしても、代表選手育成というストラクチャーは確立される必要がある。
彼は問う。「目標として世界を見据えて、そのために毎日努力しているのかどうか」を。「セレクトされるべき人間は「信用できる人間」なのだから。これらは当たり前のことに思えるかもしれないが近年日本代表チームから抜け落ちていたように思える事柄が多いのは錯覚ではないだろう。2012年9月に世界ランキング16位の日本代表が、「サイズを言い訳にしないでスキルを磨き」、「ストレングス&コンディショニングをインターナショナルレベルに引き上げ」、「ハイスピード、ハイフィジカル、ハイフィットネス」を「ロングジャーニー」の到達点で手に入れたとしたなら、日本開催大会のひとつ前、2015年の第8回ラグビーワールドカップで我々は何を目にすることができるだろう。ラグビーファンとしては楽しみだ。
余談ながらイングランドをホスト国として行われるラグビーワールドカップは1991年に続いて2回目である。この第2回RWCで、今は亡き宿澤広朗監督率いる日本代表が唯一の白星を挙げている。その勝利を知る男、薫田真広氏が今の日本代表アシスタントコーチである。気が早すぎる、本当に早すぎるが、すでに知将として知られる氏がエディー・ジョーンズジャパンでさらなる昇華を遂げ、2019年度の日本代表を率いて開催国として悲願のベスト8達成のようなことになれば熱いと、日本ラグビー界にとって本当に熱いと、そう思う。
(山根 太治)
出版元:東邦出版
(掲載日:2012-11-10)
タグ:ラグビー 監督
カテゴリ 指導
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トップ・アスリートだけが知っている「正しい」体のつくり方 パフォーマンスを向上させる呼吸・感覚・気づきの力
山本 邦子
身体のことを学ぶことは不可欠
アスレティックトレーナーを志して進学してくる学生たちでも、高校までの教育課程で人体解剖学や人体生理学を本格的かつ具体的に学んできたものは少ない。以前からこのことは不思議に感じていた。小学校、中学校、高校の授業でヒトの身体の成り立ち、つまりは自分の身体の成り立ちを段階的に学ぶことは、生きる上で不可欠ではないかと考えるからだ。骨格系や筋系など運動器についても、その構造を知りその機能を理解することは、自分の身体を意識し運動感覚を研ぎ澄ます上で重要な意味を持つように思う。確かに己の構造を知らなくても鳥は大空を羽ばたき、獣は疾走して獲物を仕留める。本能というものは知識を凌駕するので、余計な情報は却って本来の動きを見失わせるという見方もあるだろう。それでもヒトにおいて主観的感覚と客観的感覚とを併せて自らを内観し得られることは多いはずだ。
さて本書では、プロゴルファー宮里藍選手をはじめ様々なアスリートをサポートするアスレティックトレーナー(NATA-ATC)であり、A-Yogaの主催者でもある山本邦子氏によって自らの心身との対話法について語られている。スポーツの現場やアスリートをよく知る著者が、ヨガを軸に呼吸や身体を動かす感覚について解説し、またそれらのあり方をどのように気付き、どう正すのか、観念論だけでなく、解剖学や生理学的情報も織り込みながら解説している。アスリートを対象とした高度なスポーツ動作ではなく、普段自然に行われている呼吸や日常的な当たり前の動作を見直すことに重点を置き、それらを通じて身体を正しく使うためのヒントを散りばめてある。
呼吸のコントロールから
ヒトが呼吸を止めて生きていられる時間はごくわずかだが、その呼吸のあり方を日常でどれだけ意識しているのだろう。質の高い呼吸と言われても、実感が湧かないヒトの方が多いように思う。しかし、自律的な統制を受けている生命活動も、身体に現れる変化をフィードバックして安定した状態を保とうとする以上、間接的にある程度のコントロールは可能なはずであり、呼吸はそのきっかけになるわかりやすい活動なのだ。心臓を随意的に止めたり動かしたりすることはできないにしても、呼吸の仕方次第で心臓の拍動を落ち着かせたり興奮させることができる。様々なストレッサーにさらされている中で、たとえば深い腹式呼吸で交感神経の興奮が抑えられ、副交感神経を優位にし、ストレスホルモンの分泌をも低下させるとすれば、まさに呼吸が変われば身体の状態が変わり、ひいては感情が変わるということにもなる。
さらに解剖生理学の知識をも盛り込めば、より具体的なイメージを意識できる。呼吸も空気を肺に取り込むだけではなく、取り込んだ酸素を赤血球中のヘモグロビンに結合させて血流に乗せ、全身の酸素を必要とする細胞のひとつひとつに到達させ、さらにその中のミトコンドリアにまで届けてATP合成に利用するというビジュアルイメージを持つと、より効果的な呼吸になり、血流が促進され、酸素摂取量にまで影響を与えるのではないかとさえ思える。
意識を行き渡らせる
自分の姿勢や当たり前の動きのあり方についても、忙しない日々に追われて余裕がないのか、そんなことを考える方がおかしな奴だと考えるのか、細かく意識するヒトは少ないように思う。ただ、ほんの少しの意識を向けるだけで、立つ、座る、寝る、歩く、階段を登り降りる、走るなど日常生活の様々な動きに好ましい影響を及ぼすはずだ。意識すれば身体の使い方は必ず変わる。そこに解剖生理学的知識があればなおさらだ。通学中や通勤中にただ移動手段として歩いている場合と、腸腰筋をはじめとする股関節屈筋群、殿筋群や内転筋群をより意識し、足を出すというより骨盤の回転を意識しながら大きく踏み出し蹴り切るだけで動きは全く異なるのだ。加えて体幹を安定させながら呼吸を意識することも、できるなら肩甲骨の動きを意識して腕を振ることも忘れない。もちろんごく自然に正しい動きができるようになる方がいいだろうが、自分の動きのありように気付きそれを改善するためには、まずは指の先まで意識を行き渡らせることが必要だと思う。
自分の身体と対話を始めるきっかけに、本書で紹介されているようなヨガというアクティビティは有効だと思う。ただ方法はひとつではない。たとえば私の場合は空手であり、ウェイトトレーニングを含むさまざまなトレーニングだ。ウェイトトレーニングを好ましく思わない向きも一部で見られ、本書でも問題点は指摘されている。しかし、正しく行われなければ有害であるのは、何事にも共通していることだ。健康に有用な栄養素も摂り過ぎれば毒になる。要はいいさじ減で行うことだ。
空手の形についても実践に向かないと否定する人々もいるようだが、私は形を相手を想定しながら自分の身体と対話することだと捉えている。さらに心のあり方も形のできばえに影響を及ぼすので、心身の鍛錬のために空手に取り組んでいるのならなおさら重要となる。バイオメカニクスの基礎知識も活用しながら時にゆったりと、時に全力で形をなぞると、呼吸の重要性を意識し、自分の心の状態を捉え、自分の身体の動かし方を磨くことができるのだ。こうした鍛錬を通じて日常生活の中でも自分の心身のありようを整えることができる。どのような方法を取るにせよ、普段の生活の中で外見を飾り立てることだけに傾注するのではなく、内面に目を向け己があるべき状態に整えようとする意識は、アスリートだけに必要なことではなく、万人にとって意義のあることだと感じる。
(山根 太治)
出版元:扶桑社
(掲載日:2016-01-10)
タグ:呼吸 感覚
カテゴリ 身体
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人種とスポーツ 黒人は本当に「速く」「強い」のか
川島 浩平
19世紀にさかのぼって探る
「人種が違う...。」オリンピックの陸上短距離走での勇姿やNBAバスケットボールでのスーパープレイを見ていてそうつぶやいた人は少なくないだろう。大腰筋の太さや下腿三頭筋からアキレス腱の形状などを説明されて、さもありなんと納得した人も多いだろう。黒人は生まれつき身体能力の優れた「天性のアスリート」だと考えることに確かに抵抗は少ない。
しかし、本書はそのステレオタイプや生得説でことを断じる姿勢に疑問を投げかけている。そして解剖生理学的な側面で全てを捉えるのではなく、黒人を取り巻いてきた歴史や文化などの環境的要因について再検討している。著者の川島氏はアメリカの歴史、社会、文化の専門家である。
かつて「人種間の生存競争で、黒人種に勝ち目がないことは明らかである」と「滅び行く人種」とされていた黒人が、いかに「生まれながらのアスリートと」表現されるようになったのか、本書では19世紀まで時をさかのぼりそのルーツを探る。19世紀後半にはすでに野球選手や騎手、またボクサーとして、黒人の中にもわずかながら優秀なアスリートが存在していたようだ。しかし人種関係が悪化していた黒人「不可視」の時代では、彼らは「不当な仕打ちによって黙殺される運命を共有」するしかなかった。
その後も「黒人劣等」を確固たるものとされていた時代は続く。白人至上主義世界で行われていた20世紀初頭の近代オリンピック黎明期にも、黒人はほとんど目立たない存在でしかなかった。アメリカ国内でも、優秀な黒人アスリートは、黒人が身体能力が優れている象徴にはならず、黒人という劣等人種の中の例外的に優秀な存在として「白人化された黒人」と表現されていたという。しかしオリンピックが「国家間、人種間の優劣を決定する競争」としての存在感を増やす中、「多種多様な人々からなる」アメリカが「多種多様な競技種目で最高の成績を収める」必要に迫られたことで、1930年代により多くの優秀な黒人アスリートが頭角を現すことになった。それでもまだ「黒人は劣る」という認識が「白人と同等に」運動能力があると改められただけである。では、この100年ほどで黒人はスーパーアスリートにミューテーションでも起こしたのだろうか。
活躍の舞台
「アフリカ大陸からアメリカ大陸への厳しい航路を生き延び、過酷な奴隷環境を耐え抜いた黒人達はこれまで人類が味わったことのない淘汰を受けて遺伝子を残した」という説も生まれた。その真偽はともかく、これ以降、黒人は生まれながらに運動能力に長けているというステレオタイプが萌芽し拡大する。劣った人種である黒人に後塵を拝した白人の慰めにもされたこの認識は、黒人が自分たちが飛翔する大きな舞台の1つを手に入れたことを意味した。アメリカンフットボール、ベースボール、バスケットボール、というアメリカ三大スポーツを初め、ボクシングや陸上でも、ようやく黒人アスリートの台頭が始まる。
では黒人が全員生来の優れたアスリートか。もちろんNOだ。華やかな場所で輝かしい活躍ができるのはごく限られた人間だけだ。その陰で埋もれ消えゆく数え切れない人間がいるのだ。スポーツのみが出世する唯一の方法と信じ、本当にやるべきことを見失い、自分自身を袋小路に追い込む多くの黒人の若者たちがいることも忘れてはならない。
川島氏は言う。「スポーツでの有利、不有利とは、競技が誕生してから今日までの歴史的な過程の中にある。それは第一に競技の特徴や規則、第二に競技者個人の素質、才能、精神力および運。第三に指導者と競技者、そしてプレイを観戦し、視聴する一般の人びとによって培われた競技に対する見方、期待、価値観、こうしたものが相互的に作用するなかで決定されるものである」と。そして黒い肌という共通点を持つ黒人は本当は簡単に「黒人」と括れないことも意識すべきである。実は「遺伝的な多様性」を持ち、「厳密には定義不可能」とさえ言えるのである。その中で自分の強みを適合した競技特性や規則の中で最大限の努力を払って磨き上げた人間が、適切な時代に適切な場所において、他の様々な要因を味方に付けて初めて輝きを放つのだ。
足枷に気づくために
物事を理解するときに自分が得心しやすいところだけに目を奪われ、それでわかったつもりになることはよくある。先入観が邪魔をして核心に近づけないこと、いや隠れた核心が存在することにすら気づかないことが多い。こんな考え方が己を前に進めることの足あしかせ枷になる。
本書はステレオタイプに振り回されず、物事の本質を追求する姿勢を正すきっかけにもなるはずだ。水泳、陸上競技という黒人の対照的なステレオタイプの象徴となる競技についても1つの章を割いて興味深い考察がなされていることも付け加えておく。読了後は「黒人だから」という一言で済ませようとする発言がいかに浅薄で軽率なものかが理解できるだろう。
日本人も、平泳ぎでの潜水、背泳でのバサロスタートを封じるルール改正やノルディック複合でのルール改正など、スポーツが純粋に身体能力だけで決しないものであることは痛みを持って知っているはずだ。そして様々な形で存在するステレオタイプや既成概念に苦しむとともに、それらを雄々しくブレイクスルーすることで新しい価値を見い出すことに挑戦してきたはずだ。自分自身を縛るような思い込みは捨ててしまったほうがいい。そこに気づくだけでも価値がある。
( 山根 太治)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2013-01-10)
タグ:人種
カテゴリ スポーツ医科学
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なんのために勝つのか。 ラグビー日本代表を結束させたリーダーシップ論
廣瀬 俊朗
驚かされたキャンテンシー
2016年1月11日に行われた第95回全国高校ラグビー大会決勝、東海大学付属仰星高等学校対桐蔭学園高等学校の一戦は、頂点を争うにふさわしい見ごたえのあるものだった。桐蔭学園のアタッキングシステムは完成度が極めて高く、準決勝まで対戦相手を圧倒してきた。一方の東海大仰星は準々決勝、準決勝と僅差の試合を競り勝ってきていた。
決勝の試合で私が気になったのは、まず東海大仰星のディフェンスラインだった。準決勝の東福岡戦とは味付けを変えていたからだ。そしてチームシステムの動きの中に垣間見える選手の自由な判断力。これは東海大仰星のほうがうまく機能していたように思う。私は東海大仰星キャプテン、真野の野生的な顔を思い浮かべていた。状況を見極めて反応する仰星ラグビーのキーパーソンの顔を。
彼をはじめとする東海大仰星の中心選手は2015年の和歌山国体のオール大阪少年ラグビーチームに召集され、真野はそこでもキャプテンを務めた。私がトレーナーとしてお手伝いさせてもらった関係で、ほんの短期間だが彼らを間近で見ることができた。そこで驚かされたのは真野のキャンテンシーだ。彼はさほど大きくはない身体を、よほどストイックでなければ辿り着けない鋼に仕上げていた。彼が発する言葉は、ミーティングや試合の度に選手だけではなくスタッフをも奮い立たせた。そして言葉の強さだけでなく、自分たちのすべきことやできることを理解した上で相手を分析し、最善の戦い方を対戦相手ごとに具体的に示していた。そしてグラウンドでは身体を張って自らの使命を遂行していた。そこには確固たる決意と覚悟が感じられた。他の東海大仰星の選手をはじめ、他校の選手でも自律している選手は多かったが、年若い彼を私はほとんど尊敬の念で見ていた。
試合に出なくても
さて、本書『なんのために勝つのか』は、昨年日本を湧かせたラグビー日本代表、エディージャパンの初代キャプテンである廣瀬俊朗氏によるリーダーシップ論である。彼はエディージャパン発足のときにキャプテンに選ばれたが途中交代となり、W杯ではとうとうピッチに立つことはなかった。そんな立場での彼のチームへの献身的なサポートは美談として取り上げられたりもしたが、軽々しく称えられるような単純なものではないだろう。身を切るような懊おうのう悩を経てのその献身の一端を、本書から垣間見ることができる。
彼が試合に出なくてもチームに不可欠な存在であり続けたのは、類稀なるリーダーシップによるものだろう。「ラグビー日本代表を結束させたリーダーシップ論」とサブタイトルにある本書では、実はリーダーシップとは何かということについてはあまり語られていない。廣瀬氏がラグビーを通じて、物事をどのように捉え、考え、そして仲間と共にどのように行動してきたのかについて多く語られている。わかったようにリーダーシップとはこうあるべきだと理屈で書かれるよりも、個人的には好ましい。なぜなら自らを練り上げることが根幹になければ、本質的なリーダーシップについて語れないからだ。花園に出られなかったチームに所属していたにもかかわらず高校日本代表のキャプテンを務めたことからも想像できるように、早くから彼のその素質は磨かれていたのだろう。
社会人チーム12年目、34歳である彼のトッププレイヤーとしてのキャリアに残された時間は多くない。しかしこのような人材は、今後ラグビー界で、いやその領域を超えた世界でも活躍を続けていくはずだ。
仲間とともに
話は戻るが、今年度の東海大仰星の3年生はサイズも小さく、早くから谷間の世代だと言われていたらしい。しかしそのような状態だからこそ彼らは勝ちたいと思っただろう。そして考えただろう、どうすれば勝てるのかを。掲げただろう、自分たちの「大義」を。考えて、考えて、いつもどうすべきなのかを考え抜いて、「覚悟」を決めてやるべきことをやり、やるべきでないことを排除してきたのだろう。
キャプテン真野は優れた人材だ。決勝戦でも2本のトライを自らあげた。文字通りもぎ取るようなトライだった。しかし、どれだけ流れを生み出せる優れたリーダーがいても、ひとりでできることなど限られる。素晴らしい仲間と巡り合って初めてリーダーは活かされる。仲間に恵まれることもリーダーの条件なのだ。彼らはともに「ハードワーク」してきたのだろう。国体というごく限られた時間の中でも「One Team」をつくり上げた彼らの若い力は、3年近く苦楽を共にした自分たちのチームではもっと濃密に熟成され昇華してきたのだろう。彼らの人生にとって計り知れない価値があったことは間違いない。尊敬に値する。
「なんのために勝つのか」
この二人のリーダーは、素晴らしいリーダーシップを発揮し、素晴らしい仲間に恵まれ、ジャパンはW杯で歴史的勝利をあげ、東海大仰星は全国大会を制した。しかし多くの人にとって「勝つ」とは対戦相手に勝利することだけではない。掲げた目標を達成すること、昨日の自分より少しでも成長すること、困難な状況に負けないこと、間違ったことをしないこと、人を思いやる力を持つこと、仲間を大切にすること、たとえ望むような結果が得られないとしても、これらを体現しようとする覚悟と姿勢を持ち続けるだけでも、小さな勝利は日々積み上げられていくはずだ。そしてその取り組みは人生を豊かにしてくれるだろう。「なんのために勝つのか」とは、つまり「なんのために生きるのか」という問いでもあるのだから。
(山根 太治)
出版元:東洋館出版社
(掲載日:2016-03-10)
タグ:リーダーシップ ラグビー
カテゴリ 指導
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頭で走る盗塁論 駆け引きという名の心理戦
赤星 憲広
いつもの風景から何を得るか
毎日通る通勤路でふと立ち止まって、そのいつもの風景を少し注意深く眺めてみる。いつものように木が2本そびえ立ち、田んぼが広がり、変わらぬ家々の佇まいがある。ところが、もう少し目を凝らすとただのあぜ道に草が生い茂り、小さな花が芽吹いていることに気づく。見過ごしがちなそんな些細な光景が、今の季節そのものを、そしてあんなに肌寒かった季節からの移ろいを感じるきっかけになり、心にほのかな彩りを加えてくれる。
そう思えば、日々の雲の様子にも心が動くようになるだろう。ただのいつもの景色ではなくなるだろう。インフォメーションとインテリジェンスの違いといった使い古された表現を借りなくとも、同じ風景から得られることは人によってさまざまであり、その得られた内容をどのように活かすかも人それぞれである。
定点カメラで撮った映像を早送りで見るなどすれば気づくことも多くなるかもしれない。しかしたとえそのような道具があったとしても、そこに価値を見い出す、あるいはそこから価値を生み出すには、基礎となるさまざまな知識や豊かな感性が必要であり、そのための自然な心構えといったものが身についていなくてはならない。
価値を見出す選手
野球選手がヒットやフォアボールで一塁ベース上に立った場合、その視界には相手チームのピッチャーを初めとする守備陣が写る。また味方の次打者をバッターボックスに認めるだろう。ベンチや一塁コーチとのコミュニケーションがあるにせよ、その光景をただ平板なインフォメーションとして捉えているだけでは、誰がそこを埋めていようが大して変化がないものとなる。しかし見る人によっては、その中に多大な価値を見出すことができる。そしてそこから手に入れたインテリジェンスには、野球のプレー全体に大いなる利益をもたらすものとなる。27.43m先にある次のベースを自らの足で陥れるために、得るべきものをすべて得ようとし、それを基軸にプロ野球選手としての自分の存在価値を高めようとした貪欲な選手、赤星憲広氏が本書の著者である。
盗塁をするには、ヒットを打つにせよ四死球になるにせよ塁に出なくてはならない。そこから打率が上がらなければ盗塁数も増えないだろうと単純に考えてしまいがちだ。しかし赤星氏によると二塁を陥れるためのインテリジェンスは打撃へも好影響を与え、「盗塁が多いから、ヒットも多くなる」という一見逆説的な結果が導かれる。
すべてのプレーが変わる
これは守備に関しても同様で、「野球全ての視野を広げてくれる」インテリジェンスになるのだと言う。「60個盗塁できれば三割打てる理由」があるのだ。各投手の自分でも気づいていないようなクセを研究し、把握することはもとより、配球の特徴、捕手の考え方や動きの特徴、2塁ベースカバーの状態、サーフェスの条件、二番打者との呼吸など、果ては目の錯覚までも利用して、できうる限りの準備を整える。そうすれば「走る勇気を持つこと」ができる。そうすれば野球のすべてのプレーが変わる。
スライディングなどテクニカルな考え方も述べられてはいる。しかし「『足が速い』=『盗塁ができる』ではない」という言葉からもわかるように、「きちんと準備することで8割決まる」という考え方が重要だ。考える力がなければ気づくこともできない。気づくことができなければ準備は整わない。準備が整わなければ行動を起こす勇気は持てない。その思考こそが肝要なのだ。1塁からの風景は、彼には他の多くの選手とは違って見えていた。野球選手としての存在価値を、その風景の解析から突き詰めようとしていた。日々の暮らしの中で目にしている光景には気づいていないだけでさまざまな価値が潜んでいる。何かとことんこだわれるものを持っていることは幸せである。
ところで私の世代では、かの福本豊氏がスピードスタートという印象が強い。年間106個という驚異的な盗塁数の記録を持つこの人の足を封じるためにクイックモーションは生み出されたという。福本氏も投手のクセを見抜くことには当然ながら秀でていたとのことだが、赤星氏の守備におけるダイビングキャッチに関しては「ケガの危険性も高くなる」また「うまい外野手は飛び込まずに落下地点できっちり捕る」と公言していたそうである。
果たして、赤星氏はダイビングキャッチにからんだ頸部のケガの影響で引退に追い込まれた。また、赤星氏は愛煙家だったという。これだけの理論家が自らのコンディショニングに関してこれらをどう考えていたのか興味がある。持論もあるのだろうか。以上蛇足ではある。
(山根 太治)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2013-05-10)
タグ:盗塁 野球
カテゴリ 指導
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新・野球を学問する
桑田 真澄 平田 竹男
正論の重みは変わる
「正論」とは道理にかなった正しい議論・主張と定義される。誰でもわかるような正論とおぼしき言葉が吐かれたとしても、誰がそれを放ったかでその重みは変わる。物事を大多数の人々と異なる視点からも眺められ、異なる立場に立った主張も慮り、客観的な現実をより理解する人が話す言葉なら、結局は元の道理と何ら変わらぬことであっても、真理を伴った正論と響くだろう。またそのような人であれば、多くが正論と錯覚しているものとは別の場所にある本質にたどり着くのだろう。ただ、それでも「正論」などこの世の中では取るに足りないとその存在力を失うことも多い。
師弟対談
さて、本書は元プロ野球選手である桑田真澄氏と早稲田大学大学院スポーツ科学研究科教授平田竹男氏の師弟対談記録として2010年に刊行された「野球を学問する」を単行本化したものだ。対談記録であるので、全文会話形式である。ただ文庫化に伴って両氏による新たな対談が実現し、スポーツ界の体罰問題をはじめ、松井選手の引退や松坂選手に関する話題など、新たな語りおろしが後半に収録されている。
読売ジャイアンツからピッツバーグパイレーツでの現役生活を終えた後、桑田氏は早稲田大学大学院平田ゼミの門を叩いた。社会人修士課程1年制第4期生として完成させた論文「野球道の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」が最優秀論文賞に選ばれたのは周知の通りである。同課程には現役アスリートや元アスリート、スポーツ指導者といったスポーツ現場出身の人材だけではなく、スポーツビジネスや報道関係、医療界の人々が卒業生として名を連ねている。
正論が照らし出す
桑田氏の話にはごもっともといった言葉が並ぶ。輝かしい実績がある上に、未だに貪欲に学び野球界に貢献したいと考えている人だけに、それらは心地よく「正論」として響く。「練習量の重視」から「練習の質の重視」へ、「絶対服従」から「尊重」へ、「精神の鍛錬」から「心の調和」へ、それぞれ野球道を再定義した上で、その中心となる言葉に彼は「スポーツマンシップ」を挙げている。この言葉をあえて戴くことに野球界には根深い問題が存在する印象を受ける。「アマチュア野球をよくしていけばプロ野球は自然によくなる」と述べている部分もあるが、実際はプロ野球界を根本的に改革しなければならないことは、おそらく持論を持った上で考えているのだと思う。アマチュア野球界はともかく、プロ野球界こそ、この「スポーツマンシップ」という言葉を再認識しなければならないと考えているように感じる。
だが人格と実績を兼ね備えた人がどれだけ説得力のある「正論」を吐いても、世の成り立ちはおいそれとは変わらない。「正論」より「旨味」や「実入り」のほうが、多くの人々にとってより魅力的であるということは世の常だろう。プロ野球界のように、他のスポーツ界とは一線を画す巨大な怪物たちの巣窟を根底から改革しようと思えば、平田氏の言うように、桑田氏が仮に将来プロ野球のコミッショナーに担がれたとしても、魑魅魍魎が跋扈するオーナー会議を掌握できるほどの力がなければ、何もできないままお飾りに終わるのだろう。そもそも年間144試合も行うプロ野球選手に、スポーツマンシップを要求することが現実的なのかもわからない。割り切って野球勝負師とでも呼称したほうがいいのかもしれない。
待たれる中心人物
それでも、2011年にスポーツ振興法を50年ぶりに全面改定したスポーツ基本法が施行され、2012年には同法規定に基づき「スポーツ基本計画」が策定され、スポーツ省の設置も提言されている。プロ野球界を例外としない行政側からの尽力、スポーツマンシップの名に恥じない健全なるスポーツビジネスを展開する実業界からの尽力、それを支える存在としてのファンの尽力など、さまざまな領域の大きなうねりなしにはその巨躯を動かすことはできないだろうが、今は点在するそれらを、「正論」のみならず「旨味」や「実入り」をうまくスパイスとしてまとめ上げる中心人物、ないしは精鋭チームが存在すれば面白いだろうと、他人事として無責任に考えた次第である。
(山根 太治)
出版元:新潮社
(掲載日:2013-07-10)
タグ:野球
カテゴリ その他
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武術と医術 人を活かすメソッド
甲野 善紀 小池 弘人
とらわれない発想
私事だが、亡父の故郷に祖父が建てたという一家の墓がある。近くを流れる斐伊(ひい)川の上流だかで手に入れたという大きな楕円の墓石は、およそ一般的なそれに見えない。しかも「山根家之墓」ではなく「総霊」と刻まれているのだからなおさらである。手前味噌ながら、まだ父が小さなときに亡くなったその祖父のセンスが私は大好きである。「つまらない常識とかしきたりなんかどうでもいい。固いこと言わんと、入ってきたいモンはみんな入ってきたらいいのさ」というおおらかさが感じられるからだ。おおらかさの中にも俺はこうだよという自分の立ち位置を持っているところがなおいい。
いろいろと仕組みができ上がりすぎて、こうでなきゃならんという根拠に基づく常識とやらが跋扈し、どうにも型破りには生きにくいこのご時世である。そんな社会の恩恵をも感じる一方で、平々凡々たる我が身ながら人と違った自分の価値観を大切にしたいと感じるのはそんな血が関係しているのかもしれない。
新境地を切り拓く2人
さて、武術と医療と銘打たれた本書は、武術研究家である甲野善紀氏と、統合医療を推進する医師である小池弘人氏の対談録である。武術と医療の関係性を語っているのではなく、固定観念に囚われない柔軟な発想で新境地を切り拓く物事の捉え方、考え方を語り合った内容である。
冒頭で、甲野氏が自身で辿り着き磨いた技がスポーツ界になじまないことに疑問を呈す場面がある。その理由を、固定観念からの脱却を恐れ、伝統の縛りから抜け出せない指導者の不明と断じているが、このあたりには違和感を禁じ得ない。もちろんそんな側面があることも否定はしない。しかし、たとえば流れの中で多数対多数で戦うスポーツでは個々の技は活かしにくい上に、うまく工夫して取り入れようとしても単に他によりよい方法があるのかもしれない。スポーツの現場も常によりよくなろうとしているのだ。教条主義を否定しながらも、それゆえに教条主義の香りが漂う部分でもある。
己が信じる確固たる考えを持っている場合、その思いが強ければ強いほどそうなるのかもしれない。それが、わかりやすく整理された論理によって統合医療を説明しようとする小池氏によってごく自然に軌道修正される。
中盤から後半にかけては甲野氏の独創的な身体理論を基にした武術論や、その他の社会情勢に対する押し出しの強い持論と、懐の深い小池氏の「現代医療と相補代替医療の統合された医療体系」である統合医療の考え方が、相乗効果でうまくまとめられていく。対談の妙である。
覚悟が必要
「教条」から「折衷」へ、またこの先理想とする「多元」に流れをつなごうとする現代の統合医療は「患者さん中心の立場から、包括的・全体性を重視しつつ、個々の人にあった治療法ならびにセルフケアを自らが選択する医療」という側面も持つという。自分が鍼灸師であることも無関係ではないだろうが、この統合医療の考え方には共感する部分が多い。なによりこの医療は患者に甘えを許さない厳格なシステムだという見方もできる。自分の生き方、そして死に方に対して己自身の意志で覚悟を持って向き合うことにつながるのだ。これは周りの人たちとの横並びで納得できるものではないだろう。そして誇りを持って生き抜くためには、このことはそもそも避けては通れないことなのだ。
本書に哲学者西田幾多郎の「最も有力たる実在は種々の矛盾を最も能く調和統一したものである」という言葉が引用されている。調和統一できる位置は人によってさまざまだろうが、それぞれの立ち位置を尊重しつつ己のあり方を自在に定める。まさに生き方の問題である。それにしても、さまざまな社会問題に翻弄されてはいるが、このようなことを考えられる余地のある社会に生まれたことはなんと幸運なことか。
己を定める鍛錬
再び私事ながら、干支が4周りするこの年に先駆け、昨春から長男坊を出汁に空手を始めた。幼稚園児や小学生が中心の道場で白帯を締め、汗を流して1年余りが経った。形を覚えながらも形に囚われず、力みすぎる傾向にある我が身をいかにうまく使えるようになれるか探求の日々である。目標はあれこれ技を駆使できるようになることでなく、拳の一撃を、蹴りの一撃を、どれだけ強く速く打ち込めるようになるかである。それでいい。それがいい。こんな些事が、己の立ち位置を定め、日々の暮らしを覚悟あるものにする手助けとなる。
(山根 太治)
出版元:集英社
(掲載日:2013-09-10)
タグ:武術 統合医療
カテゴリ その他
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先生!
池上 彰
「先生」になった
そもそもの動機は思い出せないが、中学生の頃に「先生」になろうと心に決めた。おそらく他の職業を知らないごく狭い視野の中での思い込みだったのだろう。担任の「先生」にその話をしたら「そんなこと無理に決まってるでしょう」と頭から否定された。その言葉は、感情の修飾が消え去った今も記憶の吹きだまりに残っている。「先生」が何を意図してそう発言したのかはわからない。私がその頃教師を連想させるような存在ではなかったのかもしれない。ただ帰宅してそのことを話す様子は激しい怒りに充ちていたと、いつか母が話してくれた。
その数年後、教育大学に進学した私は、卒業時に今度はこのまま教師になることなど考えられなくなった。いくつか理由はあるが、学校世界しか知らない狭い了見の人間がどうして子どもたちの教育などできるのかと考えていた。自分自身もそうだったし、周りを見渡してもそれに見合うヤツはいないような気がした。それでも同期の多くは「先生」になり、今では教頭や校長といった肩書きを背負うものも出てきた。そして私自身も巡り巡って今はひとりの「先生」という立場にいる。
先生を励ます本
さて、しりあがり寿氏のシニカルで理不尽な漫画で幕を開ける本書は、タレント、学校長、ジャーナリスト、映画監督、柔道家、そして町工場の社長など、教育に関わる人、関わらない人、様々な立場の方々から寄せられた「先生」に関するエッセイ集である。
発起人はニュース解説でおなじみの池上彰氏だ。必ず「先生!」という呼びかけの言葉を本文中に含めることを条件に起草を依頼したそうだ。確かに厳しい問題、悲しい問題が教育現場に山積している。しかし一部の問題が全体を否定する材料として扱われ、教育そして「先生」の再生が必要だと叫ばれる中、周囲からの高い期待に応えるべく現場で頑張る「先生」も少なくない。「そんな先生達を励ます本を世に出したい」ということが本書の狙いである。「先生」とはどんな存在であるべきなのだろう。優れた教育者を自負する人から、「学生の質は『先生』次第なんだ。学生は『先生』以上の人間にはならないのだから」と言われたことがある。個人的にはそれに大変な違和感を覚えた。「先生」の責任を果たすために自己研鑽を積むことは言わずもがな、「先生」など伸び伸び飛び越えていける人材を育成することが「先生」の喜びであると考えていたからだ。
もちろんそう易々とは越えられないチャレンジしがいのある壁として存在感がなければ面白くはない。イメージは複雑に枝を伸ばした大樹だ。懸命に登る子をみつめ、滑り落ちそうな子にはそれとなく枝で支え、要領よく登る子には、時に障壁となる枝を伸ばし、ところどころに息をつけられる空間を用意して木陰をつくる。時には枝の先でお尻をつつく。子どもたちにそして自分にも種を蒔き、さらなる枝葉を延ばすことも忘れない。上に行けば行くほど手強くなる懐深さも持っていたい。それでもこちらの意図を乗り越えてぐんぐん成長する子どもたちを育てたいし、それに感動する心を持ち続けたい。どんどん先に進む子どもたちにはいつしか自分の存在など忘れられていい。時間が経って、もしふと振り返ることがあれば、あの頃見ていた樹よりも小さく感じてもらえればいい。そしてあの出会いは悪くなかったと懐かしさを憶えてもらえれば言うことはない。これは「親」としての想いそのものだ。
誰もが「先生」に
本書の内容は、基本的に初等~中等教育における「先生」が対象になっている。しかし、「親」が一番身近で重要な「先生」であることはいつの時代でも真実だろう。そのことを抜きにして教育は語れないはずだ。そして我が子のみならず、子どもに関わる大人はみな子どもたちに何かを伝える「先生」たり得るという自覚を持っているべきだ。立派なことばかりでもないだろう、汚れたり、臍を噛んで苦しみ抜くこともあるだろう。そんなことも全部ひっくるめて、子どもたちを見守り、導き、あるいは言葉はなくとも背中を見せられる、そんな存在であるべきなのだ。それはただ大人でいるということだけで満たされるものではない。誇りを持てない大人には荷が重い。どれだけ表面を取り繕っていても、それは言動に表れるのだから。
スポーツの現場などは典型的だ。実際に「先生」がスポーツ指導者を兼任していることが多いが、そうでなくても全てのスポーツ指導者は「先生」だ。スポーツには絶対に正しい教育的側面が必要なのだ。上に立つということを誤解して自らの立場に甘んずることなく、スポーツの指導者として、若きアスリートたちを導く「先生」として、誇りを持てる存在とはいかなるものだろうか。
折しも2020年の東京オリンピック開催が決まった。夢を描く若者は増えるだろう。アスリート養成にもより大きな力が注がれることだろう。スポーツ指導者の責も重くなる。忘れてはならないのは、スポーツによる教育は何もアスリートを育てるだけではない。その環境をつくり上げ、導き、支える人間を育てることも含まれる。観てさまざまなことを感じ取る心を育てることもそうだ。ともに切磋琢磨し、激励し合い、喜び、悔しさにむせび、一歩一歩前進する人としての強さを身につけるスポーツの現場。より多くのより優秀な「先生」たちが求められる。今後の日本スポーツ界のオリンピックに向けた歩みは、誇りある指導を見つめ直すいいきっかけになるだろう。
(山根 太治)
出版元:岩波書店
(掲載日:2013-11-10)
タグ:教育
カテゴリ 指導
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少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす
永井 洋一
(編集部注:この書評原稿では、上記『少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす』とともに、『ベストパフォーマンスを引き出す方法』室伏広治、咲花正弥、ベースボール・マガジン社が取り上げられている)
「体罰」に対する認識
スポーツ指導者と体罰についてどう考えるか、理想的な指導者とはどのような存在か、アスレティックトレーナーを目指す学生に問いかける。小さなクラス内でのグループディスカッションにもかかわらず、実際に体罰を受けたことがあるという数々のエピソードが語られる。そして、その多くが体罰を受けた側の受け取り方次第でそれが意味のあることだと考えている。自分が悪いことをしたから、失敗したから、そして強くなるためには、それは仕方のないことだと容認しているのだ。そう考える学生には「体罰」が悪質な「暴力」だという認識はない。
『少年スポーツダメな大人が子供をつぶす!』で著者の永井洋一氏は、本書が我が子にスポーツを体験してほしい親御さん、スポーツ指導者、スポーツファンに向けた提言書であるとしている。「スポーツとともに人生を歩み、現在もスポーツ指導者として現場に立ち、スポーツなしの人生は考えられない、スポーツを愛して止まない」からこそ、膿みきった病巣、とくにスポーツ現場に存在する暴力の問題を、指導者側の問題としてのみならず、親の問題、選手自身の問題、メディアの問題、スポーツ系部活動の仕組みの問題などさまざまな視点から論理的に掘り下げている。最終章では、学校スポーツ系活動の現場では、教育という理念を損なわず、競技の普及と競技力向上を同時に推進することは不可能だと断じている。
答えはわかっているはず
一方『ベストパフォーマンスを引き出す方法』では、日本を代表するアスリートである室伏広治氏と彼をサポートするチームコウジのコンディショニングコーチである咲花正弥氏が、それぞれの立場からさまざまな提言を行っている。内容は基本的なことで、日本体育協会スポーツ指導者共通テキストに含まれているようなことである。これは決して批判ではない。世界レベルのトップアスリートであっても、基本的なことから真摯に取り組むことが重要だと再確認できるからだ。「選手たちが自発的に、意欲的に取りくむようになるのを促すことは指導者の仕事のひとつであり、腕の見せ所」「言われたからやるのではなく、楽しい、面白いと感じて意欲的に取り組まない限り、長続きはしない」「成長期の真っただ中にある選手の場合、何をすべきかは難しいところ。その点は指導者の知識が重要であり、腕の見せ所となる」「与えられたことをただこなすだけでは、究極を目指すことはできない」「必要な時に必要な栄養を与えることが大切」「日本の子どもたちを見ていると、指導者に対してどこか萎縮している印象を受ける」「叱られまいと指導者の目を気にしながら、失敗しないように無難なプレーをするようになる」「いいことは褒め、悪いことは指摘する」「大事なのは、成功し続けることではなく、失敗に終わったときにどうするか」「やるべき時期にやるべきことをやらないのは本当の失敗」「チャレンジせず失敗することは、本当の失敗」「自主性を持たせたトレーニングで、自ら壁を乗り越えようとさせる」「成長していくことが楽しい、競技が面白いと感じる気持ちを植えつける」以上本書から抜粋した両氏の言葉の数々は、スポーツに関わる人間にとって金科玉条とも言えることばかりである。スポーツ界がどうあるべきか、皆答えはわかっているはずなのだ。
こんな当たり前のことを当たり前に行うことがどれだけ難しいのか、みんな普通に考えればわかるはずのことが、どれだけないがしろにされているのかは、『少年スポーツダメな大人が子供をつぶす!』で永井氏が論じる内容が非常に説得力を持つことでもわかる。その通りと膝を打つことがほとんどである。ただ、この本だけを読んでいたらどうしても違和感が拭いきれない。
取り組みに光を
冒頭で取り上げたグループディスカッションに参加したある学生は、中学校で体罰を受けて苦しんだが、高校の部活では人間性を磨くことを顧問の先生から学び、救われたと言う。学校生活の中で部活動の場を、絶好の教育環境として真摯に取り組んでいる例は、そしてそれが競技力向上をも伴っている例は本当にないのだろうか。
スポーツという題材を、教育者としての自らの役割をより効果的に遂行し、自らをも高める機会にしている指導者は少なからず存在するのではないか。スポーツジャーナリストとしての著作であるならば、自身の取り組みも含めたそのような人の活動も同書で対比して取り上げ、もっと光を当てるべきではないだろうか。部活を排除し、クラブスポーツが主体になったとしても、愚かな指導者はそう簡単に消えてなくならないように思う。だからこそ、真っ当に取り組む人たちをもっと取り上げるべきではないのか。それが私にとっての違和感の正体だ。
少年スポーツの問題は暴力や指導法の話だけではない。たとえば高校ラグビーを見ても、トッププレイヤーは忙しすぎる。公式戦、練習試合、代表招集、遠征、合宿などが、休みのほとんどない日々の練習の合間に繰り返される。どれだけ考えられた練習内容でもケガのリスクは上がり、選手は疲弊する。
実際に高校生で膝ACL再建術や肩関節脱臼手術を受けている選手が少なからず存在する。また部活以外で自分を成長させる経験も著しく制限され、ラグビー選手としてのみならず、人として将来を見据えた育成になっているかはなはだ疑問だ。こんなシステムはつぶしてクラブスポーツ化し、シーズン制を導入する方がいいと考える。ただ、そんな現状の問題点をあげつらってそれをダメだと断ずるだけでなく、よりよい方法で取り組んでいるチームにスポットをあて、成功例をつくるべく悪戦苦闘している指導者を紹介してもいいではないか。そういった意味では『ベストパフォーマンスを引き出す方法』では、それでいいんだと希望と勇気を与えられるのである。
我がクラスのグループディスカッションでは最後に、体罰や無茶苦茶な指導をしている指導者の下でアスレティックトレーナーとして働くとしたらどうする、ということを考えてもらう。体罰を暴力だと認識した上で、選手にとって最善となる自らの具体的なアクションをひねり出してもらうのだ。唯一無比の模範解答などあるべくもないが、「長くスポーツを好きでいてくれるよう指導してほしい」というスポーツ関係者ならば当たり前に持つはずの気持ちを大切に、当たり前のことを当たり前にできるように、我々は取り組まなければならない。
(山根 太治)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2014-01-10)
タグ:育成 指導
カテゴリ 指導
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宇宙飛行士に学ぶ心の鍛え方
古川 聡
地球人がひとつに
もう20年近く前になるだろうか。国際宇宙ステーション建設に伴う宇宙飛行士募集記事に強烈なインパクトを受けた。宇宙といえば、どこかに正義の巨人たちの星を含むM78星雲があるんだという夢の存在として出会い、空飛ぶ戦艦や汽車が旅し、機動歩兵を用いた地球人同士の戦争の舞台であったり、様々な異形の種族が入り乱れてこれまた戦争を繰り返しているような存在、つまりファンタジーの世界としての認識しかない場所である。
もちろん一昔前にアポロ計画により人類はすでに月に到達していたし、スペースシャトルやソユーズは何度となく大気圏を離脱していた。宇宙ステーションや人工衛星などは当たり前のように地球の軌道を周っていた。しかしそれでも宇宙というよりまだ地球の周辺だという印象だった。そこへ「国際」という言葉が加わっただけで、その響きに、無限に広がる大宇宙に向かってとうとう地球人がひとつになり始めたのだと、SFテイストではあるがそんな印象を感じ取ったのだ。
宇宙空間という環境で
さて本書は、医師でもある宇宙飛行士、そして国際宇宙ステーションにおいて連続宇宙滞在期間日本人最長記録(2014年1月現在)を持つ古川聡氏の著作である。「宇宙飛行士がリスクやストレスに打ち勝つため、そして『想定外の事態』に対応するためにどう『受け止め』、『考え』、『対処して』いるのか」を紹介、「宇宙飛行士の心の鍛え方」が学べる内容になっている。「人間関係からくるストレス」「組織に対するストレス」「リスク」「先が見えない不安」「理不尽な出来事」「想定外の危機」。これら心を揺さぶる様々な要因に対して、宇宙飛行士がどのように考え対応しているのだろう。
各章の最後にはまとめがあって、それだけを読めば、どこにでも載っていそうなことが書いてあると感じる。しかし、第1章ではいきなり宇宙ステーションへ秒速数キロメートルで飛ぶデブリ(宇宙ゴミ)が接近するという深刻な警報から話が始まる。外へ投げ出されれば、そこはヒトにとっては死の世界。その環境で「平常心で向き合える『くせ』をつけることを心がける」なんてできるのだろうか。「宇宙飛行士はミッションを遂行する技術の習得と同時に、こうしたリスクやストレスへの対応を訓練によって学び、身につけていく」その準備を周到に重ねていたとしても。
最高のチームが支えるパフォーマンス
古川氏は「身体を鍛えることで体つきががっしりして見た目も変わってくるのと同じように、『心を鍛える』事で得られるオーラとは、何事にも対応できるという『自信』」だと言う。おそらく訓練中のみならず、普段の生活の中で起こる様々な出来事などあらゆる場面で彼らはそれを磨いてきただろう。また、「選抜された宇宙飛行士候補生が」「宇宙飛行士を支えてくれる人々の存在を本当に理解する事で」「宇宙飛行士のオーラを出し始め化ける」との解説も紹介されている。考えてみれば宇宙飛行士は宇宙を実体験したことのない数多くのスタッフに支えられている。訓練中も、宇宙での任務遂行中も。彼らのその自信は、スタッフとの確固たる信頼関係にも支えられているのだ。
オリンピックなどトップスポーツの大舞台に立つアスリートにも似たようなことが言えるのではないか。そこに立ったものにしかわからないうねりの中で、自分をいつもの自分に保つ心の力は、周りの人間にはちょっと想像がつかない。だからこそ、彼らのプレーはそのパフォーマンス以上に観ているヒトの心を揺さぶるのだろう。彼らは身体も心も鍛え抜いて、そこに立っているのだから。ただ、そこに至るまでに関わった様々なスタッフとの信頼関係も少なからず力を与えているのも事実だろう。最高のチームが最高のパフォーマンスを支えているのだ。
新たな適応の先は
それにしても、惑星探査船が想像を絶する距離を旅して帰還する昨今、宇宙はヒトにとってどのような存在になるのだろう。
重力に馴染み、毒性の強い酸素を利用することで地球という環境の中で命を育んできたヒトは、貪欲にもその環境を振りほどいて、自分たちが普通では生きていけない場所に挑んでいる。宇宙に出ることが叶えば、ヒトは遠い未来には今のヒトではなくなっているのだろう。地球環境に対しては退化する変化だったとしても、新しい環境への適応が起こるのだろう。そのとき、ヒトの身体と心は一体どうなっているのだろう。
(山根 太治)
出版元:マイナビ
(掲載日:2014-03-10)
タグ:メンタル 宇宙飛行士
カテゴリ その他
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私たちは未来から「スポーツ」を託されている 新しい時代にふさわしいコーチング
文部科学省
「新しい時代にふさわしい」指導
私は鍼灸師や柔道整復師という医療系国家資格と日本体育協会公認アスレティックトレーナー(JASA-AT)とを3年間の課程で養成する専門学校で教職に就いている。タイトなカリキュラムでそれを完遂するには相応の覚悟と努力が必要だが、この組み合わせを持つ専門学校や大学でJASA-ATを取得するということは、一定の医療類似行為を行えるトレーナーになれるということである。スポーツ現場で活動するトレーナーの中で、その存在は基軸のひとつになり得ると考えている。一方で一般的な大学のJASA-AT養成課程は体育教員の養成コースに包含されているケースが多い。JASA-ATを取得した体育教員や体育指導者も学校体育や部活動を通じたスポーツシーンにおいて非常に重要な基軸になり得るはずだ。しかし教職課程における必修分野の増設やキャリア教育科目の追加などでそのカリキュラムが過密になり、資格修得が困難になるという問題も起こっている。大学のJASA-AT教育は重大な岐路に立っていると言えるのではないか。
さて、本書は文部科学省「スポーツ指導者の資質能力向上のための有識者会議」の報告書かつ提言書である。この会議はスポーツ指導者の暴力行為が問題化したことで設置されたものだが、暴力根絶にとどまらず「新しい時代にふさわしいスポーツの指導法」のあり方を明らかにし、「今後取り組むべき具体的な方策提言する」ことを目的としている。今後のスポーツに関する国の方針を確認するためにも全てのスポーツ指導者は一読すべきだろう。当然ながら各スポーツ団体における質の高いコーチ育成に言及しており、大学での指導者育成についても「大学等の教育課程においては、それを経た者が学校の教員としてコーチングを行うこととなることを踏まえ、特に高い倫理観と高度な知識・技能を持ったコーチの育成を図ることが求められ」るとしている。
ただ、本書が対象にしているスポーツ指導者はコーチのみである。日本体育協会がスポーツ指導者資格のひとつとして設定しているアスレティックトレーナーについての直接的な記述はない。「国及びスポーツ団体においては、独立行政法人及び地方公共団体と連携しつつ、競技者・チームを取り巻く関係者(アスリート・アントラージュ)であるコーチ、家族、マネジャー、トレーナー、医師、教員等が互いに連携し、コーチング環境をオープン化して改善するための取り組みを推進することが必要である」という表現の中でその関係性に触れられているだけである。「コーチが安心してコーチングに専念するためには、万が一の事故等に対応できる体制を構築しておくことが大切」で、「我が国ではリスクマネジメントの教育や現場で役に立つ資料、体制が十分ではなく」、「コーチング現場におけるリスクマネジメント体制を確立することが大切である」ことも問題提起されているし、「トレーニング科学に関する知識・技能を学ぶことは、競技者やチームのパフォーマンス向上のための科学的手法の活用につながり」、「スポーツ医学に関する知識・技能を学ぶことは、競技者のスポーツ障害等をふせぐこと」だということも理解されている。まさにアスレティックトレーナーが担うべき分野だ。
最大のチャンス
コーチ養成機関として大学教育が見直されるのであれば、アスレティックトレーナー教育も同様にその重要性を再認識されていいのではないか。教員かJASA-ATか二者択一を迫られたり、数ある選択科目の1つに甘んじる存在ではなく、教員としてのキャリア教育になり得る上にスポーツ指導者としても大きな付加価値になるはずだ。コーチと並んでスポーツ振興に欠かせない存在としての認識を広げ、現場でのその価値を高める契機になるはずである。それどころかここがこの専門職を定着させるための最大最後のチャンスと言ってもいいかもしれない。なぜなら本書にある提言は構造を変革することなしに成し遂げられないからだ。2011年にスポーツ基本法が施行され、2020年の東京オリンピックへの流れを大きな土台として、その先へと続くこの国のスポーツ振興のための構造変化の中に、アスレティックトレーナーという存在を是が非でも組み込まなければならない。
人体では構造が機能を表し、また求められる機能が構造を変革している。同じように理念を現実化させるためにはそのための構造が必要である。学校での部活動を例に挙げてみても、本書では先述の通り体育大学でその教員養成課程においてコーチング教育を推奨している。しかし実際の学校の部活動のその指導者は明確な職務としてその任が成立しているわけではない。その時間的、経済的、そして精神的な負担は大きく、構造的な問題が長く指摘され続けている。地域スポーツクラブへの学生スポーツの移行も取りざたされてはいるが、学生たちにとって毎日通う学校でスポーツ参加への機会の場となる部活動を廃らせてしまうのはあまりにも惜しい。実際にスポーツをするだけでなく観たり支えたりすることを含めての機会と考えると、部活動の機能は今後のスポーツ振興のためにも見直されてしかるべきだ。そのためには指導教員養成機関としての大学の教育課程見直しだけでなく、現場としての学校における職務改定や外部指導者制度をさらに推し進めて、競技によっては学校の部活動をその世代にとっての地域スポーツクラブの中心と捉えてその機能を充実すべく構造を整えるということは飛躍した理屈だろうか。そしてこの例1つとっても、アスレティックトレーナーを組み込む余地は十分にある。
専門職の未来をつくる
我が国のスポーツに関わる無数の組織を俯瞰すると、この構造を機能的に改革するなど野に棲む俗人の私にとってはただ気が遠くなるだけではある。この先スポーツ庁ができたところで、どれだけ機能するのかも想像がつかない。しかし、部活動の例にとどまらず本書に見られる文部科学省の数々の提言を、理念だけでなく現実のものとするにはやはり大規模な構造の改革が必須である。そして本当にそれが起こるのであれば、アスレティックトレーナーもその新しい構造の中でその立場を確立し、スポーツ振興に寄与し、この専門職の未来をつくる必要があるのだ。
(山根 太治)
出版元:学研パブリッシング
(掲載日:2014-05-10)
タグ:コーチング
カテゴリ 指導
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日本サッカーの未来地図
宮本 恒靖
外の世界を
もう20年余り前に通っていた鍼灸専門学校で使用していた解剖学の本。骨や筋を初めとする解剖学用語の横には手書きで英語の名前が記されている。ご丁寧に発音記号付きだ。医学書専門書店に何度も足を運び、学費を自分で稼いでいる身としてはその高額さにためらいながら手に入れた分厚いステッドマン医学大辞典を相棒に、アメリカ留学を目標に重ねていた準備活動の1つだ。アメリカでトレーナー分野のバイブルとされていたArnheim's Principles of Athletic Trainingを注文し、2カ月ほど待ってやっと手に入れたときには小躍りした。毎日ほんの少しずつしか進まなかったが、コツコツと読み込んだ。
インターネットの普及により、今ではそんな当時からは考えられないくらいに地球が小さくなった。皮肉にも留学生は減少していると聞くが、ネットにあふれる情報を前になんだかわかった気になってしまうのだろうか。人と少しでも違う存在になるために、外の世界を実体験するのは悪くないし、それを通じて母国に還元できることは少なくないようにも思う。
宮本氏の学びの軌跡
さて本書は、かつてサッカー日本代表を率いた宮本恒靖氏による「FIFAマスター記」である。FIFAマスターとは、「FIFA(国際サッカー連盟)やIOC(国際オリンピック委員会)を初めとするスポーツ機関を支えていく人材の育成を目的に2000年から開設されたスポーツ学の大学院」である。日本人元プロサッカー選手として初めてこのコースを修了した宮本氏が「イギリス、イタリア、スイスを回って、10カ月間の課程でサッカーを中心としてスポーツの歴史、経営、法律を学」んだ過程が紹介されている。「イギリスにおいてサッカーがサッカー以上の存在感を持つ」ことを実感し、それはプレミアリーグの選手たちが「自分が社会的に影響力のある立場にいることを自覚し、サッカー選手の地位と責任を大事にしている」ことにつながると気づく。彼らが現役の間に関わる「社会貢献はセカンドキャリアにもつながる」ことを、もっと日本でも取り入れられないかと考える。やはり、身をもって気づき、感じたことで己が活性化される意義は大きい。
度重なるテストに苦労した様子や、初めてパワーポイントを使った話、グループでのファイナルプロジェクトのテーマが「ボスニア・ヘルツェゴビナの民族融和に向けてユーススポーツアカデミー立ち上げの是非」だったことなど、充実した日々のエピソードはどれも興味深い。「広い視点でサッカーを観ることができるようになった」上で語る日本サッカー界への提言も最後に語られる。「日本のサッカーを、サッカー以上のものに」し、「サッカーを文化にする」という今後の取り組みに期待が寄せられる。実は宮本氏引退後からこのFIFAマスター入学までの間に、私は彼の公演を間近で聴く機会に恵まれた。お馴染みのルックスのよさに加えて、うまく構成されてわかりやすく語られる話術から感じるスマートさ、参加していた少年たちへの優しい眼差し、惚れ惚れするとはこのことだろう。語られるエピソードも、自立心や考察力、決断力に溢れており、カリスマ性を持った存在感だった。
増えてほしい人材
こんな人材がスポーツ界にもっと増えて欲しい。スポーツをスポーツ以上の存在にするためには、よりよい文化とするためには、相応の人材が必要だ。宮本氏自身、FIFAマスターの入学審査の1つである6種の英語レポートの中で「スポーツを通して『人を育てる』という部分にもっとフォーカス」したいという内容を取り上げている。事実、彼がプロデュースするミヤモトフットボールアカデミーは「サッカーを通じて、子供達の人間的成長を目指し」すことをミッションにしている。「サッカーの『技』や『体』はもちろん、サッカーを楽しみながら相手を思いやる『心』も磨いていく」ことを重視しているのだ。「子供達が能動的にサッカーに取り組めるような環境を作る。その整備が『文化』を生み出す一つの手段になる」と信じて。
このようなスポーツ既存の枠を越える存在を生み出すためには、幼い頃からひとつの競技ばかりに打ち込む子どもを増やすことはマイナス要因もあるように感じる。一流選手にするために早々に競技を絞るより、複数の競技に触れる機会を持ち、勉学も決しておろそかにしない、スポーツを通じて一流人間を育てる試みがもっとあっていいだろう。宮本氏は今後サッカーという競技の世界で重要な役割を担っていくだろうが、できうるならその枠を越え、より大きくスポーツ界全体に影響を及ぼせる存在となってもらいたい。若い世代のスポーツ留学などがもっと盛んになれば、よりおもしろい人材が輩出できるのではないだろうか。
次の世代へ
私などは留学経験を活かしながらも目の前で直接関わる学生たちを育てることで精一杯だ。しかしトップアスリートたちの若い世代への影響力は計り知れない。
私の知るラグビートップリーグの選手には「ラグビー伝道活動」と銘打って、忙しい中学生や児童相手の普及活動に精を出しているものもいる。彼らはラグビーの普及のみならず、ラグビーを通じて子どもたちが健やかに育ってくれることを願いながら活動しているのだ。競技記録だけでなく、大きな報酬だけでなく、十分な教養とグローバルな視点を持ち、スポーツという文化を担える人の育成に一役買う力を持った選手が今後ますます増えることを期待している。
(山根 太治)
出版元:KADOKAWA
(掲載日:2014-07-10)
タグ:サッカー セカンドライフ
カテゴリ その他
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大人はどうして働くの?
宮本 恵理子
選手に問いかけたこと
その昔、社会人ラグビーチームのトレーナーだった頃、ただ一度だけトレーナーではない立場で部員全員の前で話をする時間をもらった。その頃のチームは閉塞感が強く、やらされているムードの中なかなか結果を出せずに、選手の間で不満が蓄積していた。私が問いかけたかったことは、改めて言うまでもないと一笑に付されるようなシンプルなものだった。「なぜラグビーをしているのか」。学生の頃からラグビー漬けで、ラグビーをすることでトップチームにたどり着いた選手たちはラグビーを仕事にできた限られた人間だ。ラグビーでは誰にも負けたくないという自尊心があるはずだ。それなのになぜやらされて文句ばかり言っているのか。なぜ自分の意思でやるべきことに立ち向かおうとしないのか。
わかっていて当たり前のことで、しかもコーチのやり方に疑義ありとも受け取れる話をあえてすることは、役割分担が明確なチームでは控えるべきだったとは思うし、だから何が変わったというわけではない。しかし、その頃のチームが認識を改めるべき一点だったし、心から不思議で問わずにはいられなかった純粋な疑問だった。
言葉の放つ輝き
さて「大人はどうして働くの?」と子どもの純真な眼差しで問われたなら、どう答えられるだろう。本書では「7人の識者」にこの質問をして得られた回答を、編著者である宮本恵理子氏が文章に起こしている。日経キッズプラスの単行本ということで、インタビュー内容を本書の後半で大人編としてまとめ、前半部分では子どもたちに語りかけるような文章に改めて載せている。いや、もしかしたら逆なのかもしれない。
いずれにせよ、子どもたちに語りかけるその口調のほうが心に響く。「夢中になれるから」「勉強したいと思えるから」「次の世代に受け継ぐため」「最高に面白い謎解きの連続だから」「恩返しのために」「仲間と喜びや悲しみを分かち合えるから」など、そこだけ抜き出すと当たり前のことのように思える言葉たちも、自らの経験談の中で語られるときには輝きを放つ。
それぞれの答えはそれぞれの識者がそれぞれの人生の中でたどり着いたもので、そこに普遍的で唯一の解など存在しようもない。いい年をして脆弱な部分がまだ目につく我が身を鑑み、問いかける。自らがたどり着いた働く理由というものを、子どもたちの目をまっすぐに見つめながら話すことができるだろうか。そして希望を抱かせることができるだろうか。そんな人生を歩めているのだろうか。やんちゃな自分が年をとって丸くなってしまったのかもしれないが、50歳を目前にしてようやく隙のない良識を確立する覚悟ができたように思う。
高校生に求めるプロ意識
たとえば子ども向けの商品でも子ども向けビジネスと呼ばれるものでも、本当に子どもたちのためという良心を失わずに展開しているのか疑問に思うケースは枚挙にいとまがない。自分の子には絶対にしないという指導法を、他人の子どもたちに平気でできてしまうスポーツ指導者もその1つだ。
儲けが良心を簡単に凌駕する現代社会で、我ながらナイーブなことだとはわかっているし、良心など食い物にされても食い扶持にはならず、綺麗事だけで世の中渡れないことも一面事実だろう。思わぬ苦難に自棄することもあれば、羽目を外して良心に反した過ちを犯すこともある。しかし、働く上で良識を持ち続ける強靭さをやはり鍛え続けなければならないと思う。
考えてみれば高校のラグビー部で働いていた頃のほうが、選手たちにそんな話をする機会が多かった。ラグビーみたいな過酷な競技は人に言われてやらされるもんじゃない。だから高校生にもプロ意識を求めていた。「夢中になれるから」「向上したいと思えるから」戦うヤツらがいた。「後輩たちに受け継ぐため」汗を流すヤツらがいた。「最高に面白い謎解きの連続」として日々研鑽するヤツらがいた。母親への「恩返しのために」歯を食いしばるヤツらもいた。「仲間と喜びや悲しみを分かち合えるから」身体を張るヤツらがいた。
自分だけ得することなんか考えていなかった彼らは、訳知り顔の大人より「なぜそんなにしんどいことをしているのか」という理由を意識下で理解していたのではないか。そんな現場で働くスポーツ指導者やトレーナー、また教員などはその良識を失わずにいられる、いやそれ抜きには務められない仕事のはずだ。
甘い自分を叱咤して「どうしてその仕事をしているのか」胸を張って語れるような生き方をまだまだ追求しなければならない。「大人はどうして働くの?」なんて幸せな問いかけができる国に生きる幸運の下、根っこにそんな真っすぐな想いを持ち続けることができるなら、そのほうが気持ちいいではないか。
(山根 太治)
出版元:日経BP社
(掲載日:2014-09-10)
タグ:働く
カテゴリ 人生
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ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」
荒木 香織
変化に不可欠なもの
触媒とは、それ自身は変化をしないが、他の物質の化学反応のなかだちとなって、反応の速度を速めたり遅らせたりする物質と定義される。つまり必要な変化を必要なタイミングで起こすための引き金になる存在だ。今のトップチームを組織するスタッフは多種多様になり、その組閣はチーム運営に多大な影響をもたらす。選手とスタッフの正しい巡り合わせは、強いチームづくりに不可欠な条件だ。
2015ラグビーワールドカップで強烈なインパクトを残した日本代表チームはまぎれもなくエディ・ジョーンズHCのチームだった。そして猛将の描く「ジグゾーパズル」を完成するための「ピース」となり得る人々が集まり、身を削りながら働いて、主人公である選手たちを支えたのだ。本書の著者である荒木香織氏も、メンタルコーチという立場で極めて有益な触媒作用をチームにもたらし、選手たちの中に望ましい変化をもたらした。五郎丸選手のプレ・パフォーマンス・ルーティーンとの絡みが注目されがちだが、その作用は実に多岐にわたることが伺われる。
本書で荒木氏はまずこう宣言している。「私は、スポーツ心理学をきちんと学問的に学び、研究し、そこから導き出され、確立された理論を体系立てて理解して」おり、世に蔓延する科学的理論に基づかない自己啓発やハウツーとは一線を画しているのだと。根拠のない経験や感覚でメンタルコーチングは行えないと言い切っているのだ。そもそも「心理学」という言葉が独り歩きして、人を安易にカテゴライズしてわかったような気にさせたり、簡単に人を変えられるといったハウツー本が目に余るのも事実だ。人の心、脳の働きはまだまだ未知の部分が多く、現状わかっていることだけが全てではないが、「人々のスポーツや運動の場面における行動を心理学的側面から研究」し、「様々な実験を行い、統計をとり、ときにはコーチやアスリートにインタビューをして、パフォーマンスと心理的傾向の関係などについて検証する」ことを今なお続け、常に世界の最新の情報を得ることにより、新しい手法を創造していく作業も怠っていない」と声を大にして言い切れる人がどれだけ存在するかは疑問である。
実は10年ほど前、社会人ラグビーのトレーナーを務めていた私はチームへの心理学の専門家導入に失敗した経験がある。セミナーや心理テストをし、カウンセリングを行うなど、心理学の専門家に定期的に介入してもらったが、選手自身の関心も低く、私自身も無理だと早々に諦めてしまった。トレーナーの立場からアプローチすればいいとタカをくくっていたのかもしれない。選手が自分のことを見つめるための個人日誌も、結局はうまくいかなかった。そのときのチームにおいて選手の自立や自律を高める必要があるとわかっていたにもかかわらずだ。その難しさに毅然と立ち向かえなかった愚かな自分を棚上げして言えることは、もっと若い世代の育成中に様々なベースを作っていく重要性を痛感したことだ。
大きなチャンス
今回のラグビーW杯で彼女の存在が注目されたことは大きなチャンスだ。ラグビーの世界では、トップチームを中心ではあるがS&Cの存在が当たり前となり、アスレティックトレーナーが普及し、栄養士が関わり、分析担当が配備されるようになるなど、スポーツ科学のそれぞれのスペシャリストがチームをサポートする形が整備されてきた。今回のインパクトにより、スポーツ心理学の専門家が関わる場面も増えてほしいものだ。同時にこれらのサポートが、どのような形であれユース世代に普及することを強く願う。
たとえば高校世代で各種トレーニングの意義や望ましい身体の使い方を意識する。戦術についての理解を深め、創造することができる。日々食べるものを自己管理する。傷害について理解して予防対策を取り、受傷した場合もそれを克服した上で復帰する。物事の捉え方や考え方のスキルを身につける。そしてこれらを言われたことを鵜呑みにして行うのではなく、自らの考えと判断のもとに望ましい行動に移すことができれば、ラグビー選手としてのみならず、人としての成長に非常に効果的な触媒になることが期待できるのではないだろうか。これは結果的にトップの代表チームの底上げにつながるはずだ。
それぞれのスペシャリストを各チームに配備するのはまだまだ現実的でないが、高校レベルでも優秀な指導者の方々はこういったことを意識して選手の自主性を高めることに成功しているのではないかと思う。そうして成長してきた選手が、若いときの成功に驕ることなく、レベルが上がるに伴いその知見にさらに磨きをかけるべく自らを鍛錬することができれば、素晴らしい人材育成になるように思う。そのためには「心を鍛える」ことが不可欠だ。世界と戦える競技として発展することと同時に、どんなレベルであれ人を心身ともに逞しく成長させる素晴らしいスポーツとして、ラグビーが日本文化にさらに広く普及することを願う。
(山根 太治)
出版元:講談社
(掲載日:2016-05-10)
タグ:ラグビー メンタル
カテゴリ メンタル
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希望のトレーニング
小山 裕史
そもそもトレーニングとは
トレーニングとはそもそも何だろう。鍛錬という言葉をあてるなら、それは「体力、精神力、能力などを鍛えて強くなること」ということになる。野生動物はトレーニングなどしないのに優れた能力を持つとよく引き合いに出されるが、彼らは常に生き死にを賭けた大勝負の中で生きている。全力で獲物を仕留めた後や、やっとのことで逃げ切った後は疲労困憊でひどい筋肉痛にしばらく悩まされているのかもしれない。
それに彼らだって誰もが皆初めから狩猟や逃走がうまいということではないだろう。それでも栄養源を確保しなければ、あるいは逃げ切る力がなければ生き残る確率は急降下する。だからと言って無茶をして肉離れや腱の断裂でも起こそうものならそのまま死に直結するのだから、本番の中で最も効率的な動きを自然と探ることになる。本能の上に経験を積むうちに、無駄なく、より楽に、より安全に生き残る術を獲得するようになるのだろう。
つまり、自らが存在するその環境に適応し、種を残すために生き残ることそのものが「体力、精神力、能力などを鍛えて強くなること」を余儀なくしているのだ。紛争もなく豊かな国に暮らすヒトは、野生動物に比べればはるかに安全な上、便利な道具たちに囲まれて大して身体を使う必要もない。そんな環境に適応(?)したヒトたちはブクブクと肥えていく。病気などではなく不摂生で重たくなった我が身を嘆いて痩せたいなどという悩みなど、どれほど贅沢なことか。そんな風に考えると、アスリートであれ一般の愛好家であれ、現代人がトレーニングを積む目的には、人間の限界を高めるということと裏表でヒトの本来あるべき姿への原点回帰という側面があるように感じる。
環境への適応
ともあれ、世にトレーニング理論というものは無数に存在する。ある理論を唱える人がそれ以外の他者を否定するというのはよくある光景だが、未だに唯一無二のゴールデンスタンダードが確立されないのはなぜだろう。どれも決定的でないから、というより、それだけ多様なニーズがあるからだろう。
環境に適応するということは、与えられたストレスによりよく対応できるようになるということだ。つまりストレスの種類によって進むべき方向が変わるのだ。それが人間本来の姿への歩みであれ、今までにない新たな姿への歩みであれ、自分がありたい姿になるための方法である以上、ヒトの数だけあってもおかしくはない。 本書は、鳥取から世界に独自のトレーニング理論を発信する小山裕史氏の「初動負荷トレーニング」という方法に出会い、その恩恵を受け、魅せられ、今も取り組み続ける人たちのインタビュー集である。ニューヨークヤンキースのイチロー選手を初めとする錚々たるトップアスリートの面々に加え、リハビリテーションとして取り組む方や、アンチエイジングの方法として取り組む高齢者の方々など、一般の人たちも紹介されている。
理想を求めて
身体が発揮する力を変える要素としては、筋横断面積、筋の種類や構造、筋線維動員数や発火頻度、また伸張反射やそれに伴う相反性抑制など神経と筋のコンディション、大脳興奮水準、関節を支点とした負荷のかかる作用点と筋の停止である力点との位置関係、主働筋と共働筋や拮抗筋の協調性、身体部位同士の協調性、栄養状態、呼吸状態など、枚挙にいとまがない。しかしそれら全ての条件を整えたとしても、各部位が統合された身体全体の使い方を抜きには結局は語れない。筋肉は収縮することがその生理的機能だが、収縮することで関節を動作させることもできれば固定することもできる。50歳手前になって今一度その身体の使い方を磨きたいと空手を始め、ようやく2年半ほどになる私も、自分の身体と奮闘する日々の中、なりたい自分へのトレーニングを続けている。あくまで自分の感覚的な話になるが、正拳突きひとつとっても、末端である手から動作を開始すると、より近位である肩周りの筋はそれを支持しようとし、関節を固定する力が優位になるように感じる。代わりに下半身から腰、そして肩甲骨へと力を伝えることで結果的に拳が前に進むという感覚で動かせば、肩周りの筋肉は動作力が優位になるように感じる。動きの結果だけ見れば同じような形になるが、そのプロセスは拳が走るという感覚で大きく異なる。
もちろんより大きな筋や関節で発揮した力をより小さな末端に伝えることでその速度が上がるのだが、介在する動くべき関節で筋の固定力が強く、固定すべき関節で動作力が強いとロスが大きくなり、その逆であれば効率的に全身が動作できるという感覚である。
下半身で言えば、足から歩くのではなく股関節の動作の結果、足が前に進んでいく感覚だ。当たり前と思われるかもしれないが、私にとっては意外に難しい。自分の不器用さを棚に上げるならラグビーという強い外力がかかる競技でのトレーニングを長く行ってきたことも原因のひとつのように思える。外向きに発揮するための内力を効率的に高めるということであれば、先に挙げた中心から末端への感覚は非常に大切だと実感する。しかしラグビーのスクラムやタックルのように大きな外力を流すことなく受け止める場合には、関節の固定力を上げなければ対応できない。
どちらがいいとか悪いとかではなく、必要なときに必要な使い方が自由自在にできることが理想だと思う。空手の形でも、動作力を高める使い方が多いが、しっかりと、しかも瞬間的に固定することも求められる。肩甲骨や骨盤の使い方を中心にした動きを掘り下げるほど、身体の使い方を習得するための形の価値が深まる。これは楽しい。
ありたい自分に近づくためにトレーニングがあるなら、ありたい自分になり得る環境づくりや負荷の加え方が必要であり、それは基本的に自分で探り当て、またつくり上げていくものなのだろう。そしてイチロー選手が本書の中で自身が取り組む「初動負荷トレーニング」を指して言うように、「本来人間が持っている能力をさらに大きくできる」ものであるべきなのだ。己がどうあるかという生き方そのものに通じることでもあるのだから。
(山根 太治)
出版元:講談社
(掲載日:2014-11-10)
タグ:トレーニング
カテゴリ その他
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素潜り世界一 人体の限界に挑む
篠宮 龍三
スポーツにおける人間臭さ
スポーツの世界では科学の力、医学の力が日々深みを増し、アスリートの可能性を今まで以上に引き出す手助けをしている。サポートスタッフは充実し、新しいデバイスや栄養食品などが次々に生み出され、アスリートを取り巻く環境は発展の一途だ。最先端にいる新しい領域への挑戦者たちは、あらゆる手立てを用いてその高みを目指す。そう、メジャースポーツは、だ。対極にあるマイナースポーツと呼ばれる数多くの競技は、メジャースポーツで産み落とされる様々な知見を活用することはできても、環境を整えるのには限界がある。だが、メジャースポーツにおいて鼻につくほど人工的な匂いが強くなる一方で、マイナースポーツに色濃く残る人間臭さは、スポーツ本来の姿がわかりやすく見えて好ましく感じることも多い。
競技の魅力
日本国内の競技人口が「男女合わせて100人くらい」の「体系化されていない部分がまだまだ多く、逆に言えば自由度が高い」超マイナースポーツであるフリーダイビング。本書は、その複数種目の日本記録保持者である篠宮龍三氏の「素潜り世界一への挑戦の軌跡」である。
その競技にのめり込んだ理由を、冒頭では「生まれながらに不器用な自分が日本一、世界一を狙える競技」として取り組み始めた、と山っ気たっぷりに表現されてはいるが、ごく限られた人間にしか体感できない深い海に触れられるこの競技に魅了されていることがよくわかる。プロであり、日本の第一人者である以上、このスポーツを職業として成立させなければならないし、世界記録達成や競技普及が確固たる目標になるだろうが、超自然界と一体化するような、言葉では表現しつくせない感覚を存分に味わいたいという純粋な欲求に突き動かされていることが伝わってくる。
水深30mで「水圧で圧縮された肺からは浮力が抜け落ち、ウェットスーツの浮力も及ばなくなる。両手で水をかいたりフィンで水を蹴ったりする必要はない。全身を1本の線のようにするだけで、1秒ごとにおよそ1メートルずつ潜行していく」というフリーフォールと呼ばれる状態。さらに深くなると「脳、心臓、肺といった生命維持に不可欠な中枢器官へ、血液が集まっていく。血液がどんどん送り込まれていくので、脳が熱くなる。逆に指先は、血の気が引くように冷たくなっていく」というブラッドシフトという現象。進化のために人間に至る系譜の中で捨て去った海という環境は人間を拒絶する。水の中で人間は生きられない。海深く潜るということは、死に誘われていくのと同じだ。しかし、じっと水に浮かんでいる状態であれば8分近くも息をこらえることができる人たちはその限界点を、ほぼ我が身ひとつで超えに行く。
しなやかな強さ
神秘の世界では、その魔力に完全に虜になれば生の世界に戻ってくることはできなくなるから、どこかに冷静に自分自身を見つめる目が必要だ。篠宮氏が「親のような自分を同居させる」と表現する感覚だ。そんな自分をつくり上げるためにはトレーニングのみならず、普段の生活の中で深く自分を見つめ続けることが必要だろう。生活のほぼ全てがそのためにあると言っていいかもしれない。その心構えは自分をあるべき自分に押し上げるだろう。人に賞賛されるためでも、報酬を得るためでも、社会的地位の高い存在になるためでもなく、ただ自分がありたいと願う自分にだ。
以前テレビ番組で特集されていた女性フリーダイバーを見たとき、この人は海に引きずり込まれてしまうのではないかという危うさを感じた。海に取り憑かれているのではないかというくらい、ある種の悲壮感を醸し出している気がしたのだ。しかし本書を読む限り、篠宮氏にはそのような印象は感じない。自身が渦中にあった不幸な出来事や、自身の思惑が大きく外れてしまった経験などを通じて激しく懊悩しながらも、過酷な環境で自然に溶け込むために磨き上げたしなやかな強さを感じさせるのだ。氏の目指すコンスタント・ウィズ・フィンでの世界記録達成を心から期待しているし、それが現実となれば驚異的なことだと思う。しかし万が一その数字に到達しなくとも、その歩みは何ら陰ることはない。
我々人間は様々なことを通じて自分を磨き上げていく。スポーツはその手段のひとつで、非常にわかりやすいものだ。そのスポーツを通じて己が変わっていくことを感じる中で、競技というところから純粋な鍛錬とも修行とも言うべき次元にシフトする人がいてもいいように思う。ルールや道具に縛られず、自分自身の身体も含めた自然という存在だけを話し相手に、内に外に意識を巡らせ関わりを探る。そうして自身を磨くことこそが、本来あるべき鍛え抜くという姿のようにも思える。
本書でも紹介されている禅のことばである「修証一等」は、修行は悟りのための手段ではなく、修行と悟りは不可分で一体のものだという意味である。篠宮氏は「頑張ったからといって、素晴らしいご褒美をいただけるとは限らない。一生懸命やったことが証でありご褒美だという気持ちを表す言葉だ」と考えている。心を込めて精一杯生き抜くことが、すでに何らかの証になっている。メジャースポーツであれマイナースポーツであれ、どんな環境にいてもそれは間違いのないことだと思う。
(山根 太治)
出版元:光文社
(掲載日:2015-01-10)
タグ:素潜り フリーダイビング
カテゴリ 身体
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ラスト・ワン
金子 達仁
「常識」と寛容
アスリートの姿を見て我々は感動する。彼らが己の翼を最大限鍛え抜き、我々の持つ「常識」から外れた空を飛翔しているからだ。しかし一方で我々は彼らに狭量な「常識」を強く求め、そこから外れていると激しく糾弾することがある。
世間の「常識」からみても非の打ちどころのない存在で、しかもその「常識」を飛び越えた部分も潤沢に持つ。これが理想的なトップアスリートであることに間違いはない。だが、少し贅沢ではないかとも思う。誰もが身につけた様々な形の翼は、スポーツの領域のみならず多種多様な世界を羽ばたく力を持つはずだが、多くの人々は自分の翼に「常識」という拘束具を付けて飛ぶことから目をそらす。そして未知の空を飛ぼうとしている存在に石を投げ、翼を傷つけようとすることがある。
スポーツ界でも「従順であれ」と指導者や関係者は言い、「応援してやってるのに」とファンは言う。煽るだけ煽って空気をつくり、勝手に失望してマスコミは叩く。もちろん健全なサポーターたちが数多存在し、彼らは健全なる声援と健全なる批判でアスリートを支える。だが時に聞くに耐えない様々な雑音がそこに混ざり、アスリートの心を毒することが意外と頻繁に起こっているのだ。
そんな中でアスリートはスポーツ以外の部分でも強靱な精神を鍛えていくのだろう。しかし、我々は「常識」を越えようとする挑戦に、その一種異質なありように、もっと寛容でいいのではないか。
さて本書は、事故で右足の膝下を失った陸上競技アスリート、中西麻耶選手のドキュメンタリーである。虚構によらず事実の記録に基づく作品ということになるが、そこにはどうしても書き手の心情が脚色の色を持って滲んでしまう。あまりに劇的に表現しすぎることも健全さを逸脱する要因になるように個人的には感じるが、そこを差し引いても中西選手の「ラスト・ワン」の脚と義足による挑戦は興味深い。ご本人を直接存じ上げないので、本書の著者である金子達仁氏の目を通じての印象であるが、およそおとなしく枠にはまっているタイプではなさそうである。
彼女はロンドンオリンピックに出たかった。出るだけでなく勝ちたかった。「誰もやったことのないこと」に挑戦したかった。そのための最善と思われる方法をなりふり構わず取ろうとした。周囲に迷惑をかけ顰蹙を買うことを気にするよりも、その目標に到達することのほうが重要だったのだ。
周囲への配慮に囚われれば「常識」の枠内に収まらざるを得なかったかもしれない。しかし彼女はそこには止まらなかった。そして活動資金やスポンサーを獲得するために、彼女にとって「ラスト・ワン」の方法と思われたセミヌードカレンダー制作を行った。彼女の理解者のひとり、義肢装具のスペシャリストである臼井二美男氏による競技用義足を鍛えた身体に装着した彼女のそのままの姿を公開したのだ。それは確かに美しいものだった。
その手段には当然賛否両論がわき起こる。世間というものは「常識」を振りかざし、わざわざ声を上げて攻撃する。同じコンディションを持つ人たちの中でも評価は分かれたのではないかと思う。賞賛する声もあっただろう。しかし否定する言動や処遇だけが毒物のように彼女の心の奥深くを浸食し蝕むことになる。タフだったから走り続けてこられた、というより、そうすることでしか自分を支えきれなかったからなりふり構わず走り続けてきた彼女は、支えを失う。
自分の枠の、内と外
自分の考えの枠をはみ出してしまった人間を目の当たりにすると、「常識」のある人たちは自分の枠が壊れて大切なものが流れ落ちてしまうように感じるのだろうか。その存在を否定することで自分の存在を守りたいという防御システムが作動するかのように湧き出す感情があるのだろうか。その感情には自分では認めたくない羨望や嫉妬が混じり、それを否定するためにさらに怒りを混じらせる。そして自分を、自分のいる場所を穢されたような思いでそれを正当化する。
しかし「常識」を盾に自分の枠外のものを糾弾する姿勢それこそが、我々がよくよりどころにするスポーツマンシップに反するものではないか。「真に認めてはいけないこと」と「認めたくないこと」の違いは自覚しなければならないのに。
だがそれにしても、あえてエピローグに追いやった「ラストワン」の真実。その扱いはないだろう。再び物議を醸して彼女の周囲をざわめかせるかもしれないその内容の是非ではない。彼女が懸命に前を向き続けなければならなかった根源に、また彼女の心が壊れていくそもそもの根源になり得たこの事実を抜きに仕上げたこのドキュメンタリーは、最後の最後でその土台を大きく揺るがしてしまったからだ。読み物としてはそう扱わざるを得なかったのかもしれないが、残念である。
(山根 太治)
出版元:日本実業出版社
(掲載日:2015-03-10)
タグ:陸上競技
カテゴリ スポーツライティング
CiNii Booksで検索:ラスト・ワン
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スポーツ選手なら知っておきたい「眼」のこと 眼を鍛えればうまくなる
石垣 尚男
眼とパフォーマンス
五十の齢を迎えようが身体は鍛えればまだ相応に反応してくれる。しかし「眼」というものは、なかなかやっかいである。数年前から始まった小さな文字を人相悪い目付きでにらみつけてもぼやけてしまう現象。暗い灯りの下ではもうお手上げだ。世間がぼやけて見えるくらいが生きやすいと強がってみても、人間の感覚器の中で眼からの情報量が最も大きいことに変わりはなく、不便になったことは否めない。認めたくないものだ、老いゆえの衰えというものを。
そんな老眼の話はともかく、アスリートにとって視力の問題はパフォーマンスにネガティブな影響を与える大きな要因である。これは昨今判明したことではなく、かの宮本武蔵も五輪書で「兵法の目付といふ事」として「観る」ということを説いている。40年ほど前だろうか、愛読していた野球漫画「ドカベン」で、主人公である山田太郎が電車に乗っているときに通過する駅の名前を読み取る訓練を常にしているというシーンがあったようにも思う。武道のみならずスポーツで眼を鍛えるという概念は相当昔からあったはずだ。だがそれを定常的なトレーニングとして行っている人は、どれほどいるのだろうか。
わかりやすい解説書
本書は「スポーツに必要な見るチカラ」=「スポーツビジョン」についてのわかりやすい解説書であり、トレーニング法の指南書でもある。「スポーツビジョンは小学生の時期に臨界期」を迎え、「この頃に高いレベルに上げておけば、加齢とともに落ちるにしても生涯高いレベルを保つことに」なるとのことだ。年齢が高くなるとトレーニング効果はあっても、子どもの頃についた能力差は埋まらないようだ。子どもの頃からボールを用いるようなオープンスキル系スポーツをプレーしていれば自然に発達するだろうが、これに特化したトレーニングも合わせて導入するべきだと思う。
ただ、このスポーツビジョンは身体とのコーディネーション抜きには語れない要素だ。眼からの大量な情報を瞬時に処理して身体の動きにつなげることができなければ、いくら眼がよくてもスポーツのパフォーマンス向上には活かされない。実際本書でも、基本的な眼のトレーニングに加えて種目別のコーディネーショントレーニングが紹介されている。眼から得られる情報の重要性を理解した上で、固有受容器や前庭からの情報、小脳による様々な情報の処理や制御など、身体の動きをコーディネートする他の様々な要因も組み合わせる必要があるということだ。
一方で、最大の情報を封印することで、その他の能力を引き上げることも考えていいだろう。片脚立ちで眼を閉じるだけでバランス保持に苦労することは皆知っているはずだ。
対等に戦う全盲の選手
それにしてもパラリンピックなどで視覚障害者競技を見ていると、どのような感覚がどのように磨きこまれているのだろう。アルペンスキーなど、まさに手に汗握り、ただ驚くばかりだ。明らかに健常者より発達した能力が備わっている。
アメリカ留学中に学生トレーナーとして実習を積んでいた高校で、他校の学生ではあるが生来の全盲レスリング選手を見る機会があった。彼は世にあるさまざまな形というものを、その眼で認識したことがなかった。人の身体というものを、自らの身体を含めて視覚で認識したことは一度もなかったのだ。それにもかかわらず、彼は健常者との試合に対等の条件で出場していた。そして相手選手と対峙してまだ身体が触れないときから、彼は相手の腕のあるべきところを探り始めていた。間合いが見えているかのように近づいて、一旦コンタクトするとどの部位をどうすれば極めることができるのか、身体のつくりというものを理解しながら動いているように私の目には映った。
ある程度強く速い選手に当たるとやはり敵わなかったが、1回戦や2回戦は勝ち上がっていたのである。彼のような条件で研ぎ澄ましたさまざまな感覚に視力が加わればどうなるのだろうか。身体を操る能力は向上するのだろうか、それとも調整が狂ってしまうのだろうか。
身体と対話
老眼になってから始めた空手の稽古で、私は初めは鏡と向かい合ってよく稽古していた。眼からの情報を頼りに自分の形を確認していた。しかしあるとき、自分を客観的に見る視覚に頼りすぎている自分に気づき、鏡を封印してもう少し身体と対話することに努めるようにした。
主観的な視覚にも制限をかけて、自らの動きを内面からコントロールする力をもう少し身につけようと考えている。同時に、基本的なビジョントレーニングに加え、出勤中の人混みの中で視野を広げるために人数を数えたり、広告の文字や電話番号を読み取るように努めたり、走り去る車のナンバープレートを読んだり、老いた眼に一生懸命喝を入れている。傍目には怪しいオヤジに映っているはずである。
(山根 太治)
出版元:大修館書店
(掲載日:2015-05-10)
タグ:眼
カテゴリ スポーツ医科学
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ラグビーは頭脳が9割
斉藤 健仁
イベント目白押し
今年9月から10月にかけてイングランドで第8回ラグビーW杯が行われる。来年からラグビーユニオン(15人制)世界最高峰リーグであるスーパーリーグに日本チームが参戦する。そして2019年にはいよいよこの日本でラグビーW杯が開催される。それで終わりではない。翌2020年の東京オリンピックは7人制ラグビーが正式種目となって2回目の大会となるのだ。世界的イベント目白押しで、日本ラグビー躍進の大チャンスである!…と手放しで喜びたいところだが、もちろん不安もある。国を代表するチームは当然ながら結果が求められる。果たして期待に見合う成績が伴うのかという根本問題に対する不安である。
いや、2015年5月時点で我らが日本代表チーム(ジャパン)は世界ランキング11位であり、アジアチャンピオンなのだ。不安要素をそれを乗り越える前向きの力に変えよう。無理だと思った時点で人は自身にブレーキをかけ、可能性を自ら潰してしまう。期待しても無駄だと割り切らず、期待を膨らませて応援しようではないか。ジャパンの選手やスタッフは勝利を固く信じ、勝つための戦略を組んでいる。強豪との真っ向勝負を避け、勝てそうな相手を選んで勝利を挙げようというのではない。格上チームを打ち負かすためにどう戦うのか、同格チームに確実に勝利するためにどう戦うのか、具体的戦略を組みそれを体現するためのトレーニングを積んでいるのだ。またユース代表に至るまでその考えを共有し、次の代表選手を育てるためのシステムも構築されてきている。期待は膨らむではないか。
自由度の高い競技
前に投げられないということがずいぶん大きな縛りに感じるかもしれないが、ラグビーは自由度の高い競技である。だからさまざまな攻撃戦術が生まれ、それに対抗する防御戦術が考案される。そして流行りのようにある戦略が広く普及した頃に、それを凌駕すべく新たな戦略が練り出される。単純な肉弾戦はレベルが上がれば上がるほど通用しない。そんなスポーツなのだ。
本書は日本代表から高校に至るまで国内様々なレベルのラグビーチームにスポットを当て、どのような戦略で戦っているのか紹介する取材記事である。安直な題名は果たして著者の望むものだったのか疑問ではある。戦略抜きに現代ラグビーは戦えないとは言え、それを具現化しようと思えば強靭なフィジカル能力の占める割合が大きいからだ。しかし各チームが主流の戦略を取り入れながらも、自分たちの強みをうまく活かし、弱点を補う独自のスパイスを融合させ、さまざまな工夫を凝らすその姿は、ラグビーが以前よりずっと複雑な頭脳戦になっている証だろう。
昔ながらの言葉もあるにせよ、攻撃用語としてシェイプやポッド、リンケージ、守備用語としてピラー、ポスト、ドリフトにTシステム、次々にカタカナ用語が並ぶと、よほどのラグビー通でなければなかなか説明が追いつかない。シェイプという言葉も9シェイプ、10シェイプや12シェイプと活用法があるし、ポッドもバイポッドにトライポッド、はたまたテトラポッドと言われてはすっかり混乱してしまう。
私はコーチではないし理解も浅いので聞いたふうなことを言うのは控えるが、今のラグビーは代表から高校生に至るまで少なからずこれらのシステムを取り入れている。観戦前に予習しておくとラグビーがより楽しめること請け合いである。本書も参考にそれぞれのチームの特色を把握しておいて、それが実際の試合でどのくらい機能しているのか、相手チームはそれにどう対処しているのかがわかれば、立派なラグビーフリークである。
システムの果たす役割
ただ、どれだけ素晴らしい戦術を練りフィジカルを強化しても、それで十分とは言えない。めまぐるしく変わる状況を広い視野で捉え、最適の選択肢を瞬時に選ぶ決断力なしにはそれらの機能は著しく低下するのだ。
限られた戦術に固執し、ただそれだけを繰り返したところで最上の結果は得られない。シェイプやポッドはあくまでも目指すべき方向にチーム全員が向かうための共通認識促進ツールだろう。これはラグビーのゲーム戦術においてのみならずフィジカル強化の方向性を示すものでもあり得る。戦術を効果的に行うためのフィジカル特性が明確になるからだ。
しかしこれらがラグビーの全てではない。抜けそうにないところを抜いてくるプレイヤーもいるし、モールにとことんこだわるなど相手の戦略理論を力づくで粉砕するチームもある。だからこそ、力が均衡した状態で常に予期せぬことが起こり得るゲームを支配するのは、その状況を的確に評価した上で効果的な決断を下し、実行に移せる力となるそこにシェイプやポッドというシステムがあれば、その選択肢に皆の意識を集めやすいということだ。
密集が多くゴリゴリ泥臭いプレーも悪くはないが、そもそもアタック戦術の基本はスペースをつくり出し、そのスペースを活かすことである。スクラムやラインアウトなどのセットプレーで相手を支配し、身体を張るところは惜しげもなく張り、隙があれば見逃さず突き、キックも有効活用して、将棋で相手をじわりと詰めていくように戦略的かつ臨機応変の攻撃フェイズを重ね、相手ディフェンスを崩し、集め、誘導して、空いたスペースにフリーの選手とボールを運ぶことができれば、ため息が出るような素晴らしいトライシーンが生まれる。まさに醍醐味だ。そのようなシーンからはチームの確固たる意志の力が感じとられる。世界の舞台で強豪相手にジャパンがそんなシーンを生み出すことができれば、心が震えてきっと涙がこぼれてしまうことだろう。
( 山根 太治)
出版元:東邦出版
(掲載日:2015-07-10)
タグ:ラグビー
カテゴリ 指導
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子どもの生きる力の伸ばし方
中野 秀男
存在価値が問われる集団
武術とはそもそも戦場で命のやり取りをするための戦闘技術であり、相手の命を奪い得る技能のはずだ。生き残る技術と言い換えたとしても、そもそもそこにはルールやモラルなど存在しなかっただろう。今の常識でいうどんなに不浄な手であっても、考えられる全ての手段を講じて己を生かし続け、その遺伝子を残そうとすることは生物としての本能というものだ。しかし人としてどうあるべきかという概念が加わると話が変わってくる。生きるか死ぬかの瀬戸際でも、いやだからこそ、「命を惜しむな、名こそ惜しめ」といった考えが生まれる。たとえそれが大将による自分の手駒を動かすための方便だったとしても、自分の存在意義を考える力が人にはあるのだ。
天下泰平の世となり戦闘する機会がなくなった武闘集団は、次に支配階級としての存在価値を模索することになったのではないか。武士であるというだけで、身を粉にして働く階級の人々の上に君臨することへの説得力を持たせるために武士道というものを生み出し、こじ付ける必要があったというのは安易すぎるか。しかし、いかに存在するか、どう生きるかという自律なくしてその特殊階級は存在し得ず、戦闘技術の修行は精神鍛錬としての意味が濃厚となり、人格形成の手法へと変換されたのではないだろうか。
時代が移り、廃れるべくして廃れたその階級が遠い昔のことになった今でも、その精神は心ある日本人の常識の中に棲み続けている。濃度がずいぶん低下したとはいえ、だ。
空手を通じた教育
さて本書は、空手道を通じて子どもたちの育成に尽力し続ける日本空手道太史館館長、中野英雄氏の教育提言書である。45年もの間に7000人の子供たちを指導してきたという氏の指導方針は、命を懸けて武術を極めるといった過酷なものではない。もちろん、よりうまくなりたい、より強くなりたい、技を極めたいという想いの下、厳しい稽古を積むことに変わりはない。
だが現代社会における空手の技は、競技以外で披露されることはまずないし、それは強く戒められる行為となる。代わりに、その技を練ることを通じてどう生きるかを問い、その力を伸ばすことはできる。「誠実」「謙虚」「積極」「努力」「忍耐」「不屈」という大志館の教室訓を通じて、子ども達は「心を鍛えて徳を身につけ」「生きる力」を育む。中野氏の数々の指導例を拝見するにつけ、現代社会における武道の持つ人格形成的価値はまだまだ大きいように感じる。
空手道という、ともすれば暴力的行為へとつながる技を現代社会で生きる子ども達に指導する人間は、十分に人格形成されていなければならない。戦闘技術としての空手を教えるだけでなく、人としての力を育てられる存在であるべきなのだ。
成果は成長
自分の思い通りになる子どもだけを自分の思う通りに指導するだけなら易しい。だが、「一人ひとりの子どもと向き合」い、子どもたちに正の変化をもたらすことは簡単ではない。
ちゃんと教えているのにできないのはお前の努力が足りないからだと子どもに言い放つことは易しい。だが、各々の歩幅ででも自分は成長していると実感させられることは簡単ではない。子どもたちが指導者のために在るのではなく、指導者が子どもたちの期待に応え得る存在でなくてはならない。指導者が子どもたちを試すのではなく、指導者が子どもたちに試されているのだ。そしてその成果は、競技成績だけでなく子どもたちの成長という形で表れる。
子どもたちにおもねることなくこれらをやり遂げられる力。これはまさに道としての武道を究めて辿り着けるのはないかと感じる。平和な世にあって生まれる価値そんな存在に至りたいと思う一方で、これもあくまで戦闘がない平和な時代と場所だからこそ言える綺麗事のようにも感じる。今も世界のどこかで現実に存在する子どもたちが銃を手に取らなければならないような場所では、虚しい絵空事に過ぎないからだ。そんな世界では戦闘技術は純然たる戦闘技術でなければならず、人の命を奪い、生き残るための手段となる。となると、平和な世に暮らしていても、その気になれば一線が越えられるように心身に覚悟を持たせておくこともやはり必要なように感じる。よく生きるなどという余裕はなく、ただ生きることに汲々たる人生を送らなければならない場合、生き残りながら徳を失わず、人格形成に力を注ぐようなことが普通の人々にできるのだろうか。
では、今日も明日も無事生きていることがほとんど不自然でなく、10年先どころか20年先の目標までも立てられるような平和な世界で生きている人間が、よく生きることにこだわれているのかというと、これはこれで違う次元の問題が生み出されているようである。
こうなると「死」と隣り合わせでなければ感じ得ないことも無数にあるように思えてくる。果たして我々は全てを包括的に身に棲まわせておくことなどできるのだろうか。
そんな稚拙な思考を巡らせていると、平和な世での武道による精神鍛錬、人格形成がより深い意味を持ち、より大きな価値を持つようにも感じてくる。そして武道が、そんな手段であり続けられることを願わずにはいられない。
(山根 太治)
出版元:文芸社
(掲載日:2015-09-10)
タグ:教育 武道 空手
カテゴリ 指導
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人類のためだ。 ラグビーエッセー選集
藤島 大
歴史的な勝利
日本ラグビー界にとって歴史的な日に、実際は深夜に、この原稿を書いている。
ワールドカップで過去1勝しか挙げていない今大会開始時世界ランキング13位の我らがジャパンが、同3位の南アフリカを真っ向勝負で下したのである。この原稿が出る頃にはさらに大きな伝説が生まれているかもしれないが、今この瞬間も涙なしにはいられない。日本中のラガーマン、ラグビーファンが泣いただろう。
試合を通じて取りつ取られつのシーソーゲームを堂々と競り合うジャパン。ディフェンスシーンもトライシーンも痺れるものばかり。3点ビハインドの試合終了直前、ゴール前に迫っていたジャパンは、ドロップゴールやペナルティゴールでまず同点を狙うこともできた。しかしそれはジャパンにとってフェアではなかった。スクラムを選択してから攻めきってのサヨナラ逆転トライ! ラグビーというフィジカル要素の強い過酷な競技の世界大会で、はるかに格上のトップチームにこの渡り合いを見せられたことは、それだけで日本という国が賞賛されるほどの結果なのだと言ってしまおう。
ラグビーへの思いの結晶
さて書評だ。タイトルからはその内容が想像しにくいが、本書はラグビーに関するエッセイ集だ。大学ラグビーのコーチを務めたこともあるスポーツジャーナリスト藤島大氏があちこちに書き落としたラグビーへの思いの結晶である。
カバー絵はラグビーのセットプレイのひとつラインアウト。空高く飛び上がらんばかりのジャンパーが掴もうとしているのはラグビーボールではない。平和の象徴白い鳩である。帯に書かれている言葉は「この星にはラグビーという希望がある」。ラグビーが人類のための存在? ラグビーが世界の希望? そんな大袈裟な。いや、ラグビーの虜になった人は思うだろう。南アフリカ戦に魅了された人は思うだろう。さもあらん、と。
本書では、古くは1995年に書かれたものから最近のものに至るまで、少々芝居がかった独特の言い回しで、歴史的な話もまるでそこに居たように描写し、先人たちの金言を散りばめながら、そう思わせるようなラグビーの真の価値に触れている。
元日本代表監督でスポーツ社会学者の故・大西鐡之祐氏の「闘争の論理」が所々で紹介される。曰く、「戦争をしないためにラグビーをするんだよ」。曰く、「合法(ジャスト)より上位のきれい(フェア)を優先する。生きるか死ぬかの気持ちで長期にわたって努力し、いざ臨んだ闘争の場にあって、なお、この境地を知るものを育てる。それがラグビーだ」。曰く、「ジャスティスよりもフェアネスを知る若者を社会へ送り出す。『闘争を忘れぬ反戦思想』の中核を育てることが使命なのだ」。闘争することを知らない若者が、自らを取り巻く過酷な現実から目を背けイベントのようにデモに集まる姿を最近目にして、なんだか心が冷えるような思いをした。これらの言葉はそこに火を入れてくれるように感じる。積極的に闘争せよと言っているわけではない。「世の中は平和で自由だが、物事に対して畏れ慎む気持ちを忘れてはならない」。オソロしいから「悲観的に準備し、それを土台に大胆に勝負する」ことが求められるのだ。
まるでこのワールドカップに向けてエディージャパンが体現してきたことのようだが、これは戦後の秋田工業を率いた名指導者佐藤忠男氏の言葉である。ラグビーの世界に止まらない響きがある。
なぜ希望となり得るか
ラグビーは闘争である。だからこそ可能な限りの準備を整える。しかし闘争だからといってフェアネスを欠いたプレーを重ねると、結果自らを、そして自らの仲間を貶めることになる。仮にルールをギリギリのところでラフな側に解釈し、フェアネスよりもジャスティスを都合よく利用するようなチームがあったとしても、腰を引くことなくかつ自らのフェアネスを曲げることなく正面から戦い抜くこと、それがラグビーにおける真の正義なのだ。
歯車という言葉はネガティブに使われることが多いが、ラグビーは実にさまざまな形や大きさの歯車がそれぞれ自分の役割を果たしてひとつの大きな力を発揮するスポーツである。そこでは互いに噛み合う多様な人たちを認め合うことを知り、ひとりでは何もできないことを身をもって知ることになる。同時に誰かのために心身を賭すことを覚えるのだ。
そして「競技規則とは別に『してはならないこと』と『しなくてはならないこと』は存在する」ことを確信する。想像してほしい。たとえば自分より20cm背が高く、体重では30kg重い巨体が勢いをつけて自分に向かって突進してくる姿を。勇敢なラガーマンであればそこから逃げ出したり、小細工をしようとすることはありえない。怖くないわけではない。その原動力は戦うための過酷な準備を通じて築き上げたプレーヤーとしての誇り、だけではない。共に汗を流し同じ目標を掲げ互いに認め合った仲間との絆、だけでもない。相手選手への敬意や、支えてくれた人たちへの感謝などさまざまな事柄をも受け止めて、やるべきことを正々堂々実行するのである。結果的に仰向けにひっくり返されたとしても決して退きはしないのだ。
このような状況に置かれることは人生の中でそう多くない。だからこそ、それが当たり前のラグビーをとことん経験することは、人のあるべき姿を追求することになり、人類のためのかけがえのない希望になり得る、ような気がするではないか。
酷な準備を経て南アフリカ戦を戦い抜いたジャパンのメンバーは、まさにそれを見せつけてくれたではないか。だから、強豪に勝ったという事実以上にあの試合はラグビーを知る者たちの心を揺さぶったのである。「人類のため」という言葉が大きすぎるとしても、「少年をいち早く男に育て、男にいつまでも少年の魂を抱かせる」この競技に正しくのめり込んだ人は人生にとってかけがえのないものを得られる、ということに異論はないだろう。
(山根 太治)
出版元:鉄筆
(掲載日:2015-11-10)
タグ:エッセー ラグビー
カテゴリ スポーツライティング
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アスリートたちの英語トレーニング術
岡田 圭子 野村 隆宏
勇気ある人間の姿勢
「日本人やねんから英語なんか必要ないわい」と考えていた若かりし頃。何と狭量で、言い訳に満ちていたことか。何かの可能性を失うとき、弱い人間は自分に都合のいい理屈を探し、見つけたときにはそれにすがり自分を言い聞かせて安心する。この辺りは歳を取った今もあまり変わりがないようにも感じないこともない。勇気ある人間は、現時点でできないことを認め、自分の可能性を広げるためそこに敢然と立ち向かう。
さて、本書は『アスリートたちの英語トレーニング術』と銘打たれているが、その内容には英語が上達する術がこと細かに書かれているわけではない。それよりも、トップアスリートになる人の物事の捉え方、取り組み方が紹介されている、と言ったほうがいい。スポーツにしても、言語にしても、自分の可能性に挑戦するという意味においては同種のものである。
動機づけはどこから
本書に登場するアスリートの皆さんは、それぞれ違う方法で英語力向上に取り組んでいるが、言語そのものを目的としているわけでなく、それを自分の世界を広げるツールとして捉えている。当たり前のことのようだが、試験でいい点数を取りたいとか資格を取りたいと思って勉強するのと、可愛いあの子に話しかけられるようになりたいとか、この領域のことはとにかくとことん詳しくなりたいと思って取り組むのとでは動機づけが違う。本来勉強というのは後者の類の動機づけで行うもののはずだ。本書は岩波ジュニア新書から出版されていることもあり、「試験に出る」という言葉に過敏な子どもたちにはぜひ読んでもらいたい。
生き方が反映される
本書に登場するのは、水泳の鈴木大地さん、ラグビーの箕内拓郎さん、マラソンの瀬古利彦さん、レスリングの太田章さん、そして私的に最も気になった人、増田明美さんである。言わずとしれた女子マラソンの第一人者であり、歯切れのいい解説者としても有名な彼女は、某大新聞の人生相談にも相談役として時折登場する。人様の人生相談にあまり興味はわかないが、回答者の方々のご意見は十人十色の学生を相手に奮闘する際の参考になるだろうと、目を通すようにしている。栄光のみならず大きな挫折をも味わったはずの彼女の回答は、暖かい人間味に満ちていて、唸らされることが多い。坂道を転がり落ちそうな出来事にぶつかっても、物事の捉え方次第で、踏ん張って転落を止め、前を向いてまた進み続けることができる。そんな人は普段から自分を鍛え続けることに余念がないのだと、苦しみを知るからこそ他者への眼差しは暖かくなるのだと、そう思う。スポーツであろうが言語であろうが、その他のことであろうが、そこには生き方が反映されるのだ。滞在時期は前後するがオレゴン大学の英語学校の同窓と知り、ささやかな縁を感じてこちらが勝手にうれしくなった人である。
枠をぶち壊せ
これを書いている「英語なんかいらん」と思っていたこの平々凡々たるおやじも、英語もろくにできないくせに、しかも30歳になる直前というタイミングで海を渡った。トレーナーの勉強したさに無謀にもアメリカの大学院に入って、のたうちまわって何とかなった。ついでに大学のラグビーサークルでは、10歳ほど年下のでかいアメリカ人たちに混じって、身長170cmのCTBとしてレギュラーになったりした。そんなことを思い返すと、若い連中は考え方1つで、何でもできるとは言わないが、自分が勝手に決めつけている己の限界を大きく伸ばすことはできる。
やるべきことをしっかりと積み上げ、後は思い切りでも思い込みでも、勢いをつけて閾値を超えてしまえば、脱分極して上方向に勢いがつくものだ。海外留学者が減少しているという昨今ではあるが、語学という壁を壊し、どんどん知らない世界に飛び出して自分の枠をもぶち壊し、人生を楽しめばいいのだ。
(山根 太治)
出版元:岩波書店
(掲載日:2012-01-10)
タグ:英語 海外
カテゴリ トレーニング
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争うは本意ならねど ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール
木村 元彦
大きな相手に真っ向から
かの坂本竜馬は、紀州藩船と衝突して自船を沈没させられた際、たかが脱藩浪人とたかをくくった天下の御三家を相手に、泣き寝入りをしなかった。万国公法を掲げ、大藩といえども法を超えて横車押すこと罷りならんと戦った、とされている。ここで立ち上がらねば日本の海は無法の海と化す、と考えたかどうかはわからない。金になる、と踏んだのかもしれない。流行歌を利用し、世論を味方につけたとも言われている。どことなく山師の匂いが漂うのがご愛嬌だが、大きな相手に真っ向から挑む姿は魅力的である。
さて、本書はサブタイトルに「ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール」と掲げる通り、現在はFC琉球でプレーを続ける我那覇選手をめぐる一連の騒動を描いたノンフィクションである。金のためでもなく、名誉のためでもなく、当事者のためだけでもなく、サッカー界ひいてはスポーツ界のために真実を明らかにせんと動いた人々の物語である。
我那覇選手に罪を着せたのは、CAS(国際スポーツ仲裁機関)の裁定が出された後でさえ自らの誤りを完全には認めなかったJリーグである。いや、その一部の幹部、あるいはそのシステムと言っていい。
ドクターたちの行動
ことの発端は、真っ当な治療行為を受けた我那覇選手の発言に関するスポーツ紙の報道である。冒頭でその状況が描写された後、当事者である我那覇選手の登場は物語中盤まで待つことになる。再登場以降の彼自身の勇気ある思考、そして行動は既知の方も多いだろうし、本書を読んで震えてもらうことにする。ここで取り上げたいのは前半に描かれるドクターたちの物語である。 自分の進退を握る大きな組織を目の前にしたとき、多くの人は「間違いかもしれないが従っておくのが身のため」というあきらめの論理で済まそうとする。しかし、そのまま捨て置けば重大な禍根を遺すと義憤にかられた当事者の1人である後藤秀隆ドクター、そしてその真意を知るJリーグのドクター諸氏は行動を起こした。ここで立ち上がらねば世のためにならぬと、サッカー界の巨大組織に敢然と立ち向かったのだ。とくにサンフレッチェ広島の寛田司ドクター、浦和レッズの仁賀定雄ドクター、この両氏の行動は昨今の社会においては奇跡だとすら感じる。
トップチームではチームドクターが存在することが今や当たり前になっているが、これがどれだけありがたいことか。現場で仕事をしていれば、多くのドクターが、その競技そしてそれに全身全霊で取り組む選手に対する愛情を原動力にしていることがよくわかる。だから「選手はチームの宝」「プレイヤーズファースト」という当たり前の概念を決して忘れないし、スポーツ競技の中央団体が主人公である個々の選手を守るために機能していないと感じれば、それを見過ごすわけにはいかなかったのだ。このサッカー界そしてスポーツ界に対する確固たる責任感が我那覇選手の背中を押すことにもなった。
ルールは何のために
また本書では我那覇選手がJリーグドーピングコントロール(DC)委員会によって意図的にクロにされた疑念がぬぐえない旨が書かれている。本書だけで判断するわけにもいかないが、私的には「いやあ、マスコミが騒いじゃったからさ~」というDC委員長の言葉に集約されているように、ことの本質や真実ではなく、世間で独り歩きを始めた情報に過敏になるあまり、権威ある存在としての自らの虚栄を守るために全てをこじつけたように思えて仕方がない。
権力を得れば人は変わりやすいのか、あるいはそのような人が権力を握りやすい構造になっているのか。いずれにせよ、権力を持つことを目的とした人が権力を持ったときに起こる悲喜劇は枚挙にいとまがない。周りの人が信頼するに足るかどうかには敏感なくせに、自分が信頼されるということに鈍感で、自らが振るう鉈の大きさを誇示して恐れ入らせることに長けている人が多いと感じるのは、立身出世に縁がない平民の妬みだろうか。そういった人は媚びへつらう連中ばかり周りに従えることになり、鉈が大きくなればなるほど重くなるのは、そこに加わる責任が大きくなるからだということを忘れてしまう。フェアプレーを矜持とする選手たちを裁く立場の人間が、どれほどの重責を持たなければならないのか。この点、サッカー界は自浄作用が働いた。残念ながら協会内部から起こったものではないが、選手会やサポーターを中心に感動的な動きが起こった。Jリーグのルールも、アンチドーピング協会のルールも、スポーツそのものを、フェアプレーに心身を捧げる選手を、裁くためでなく守るためにあるはずなのだ。
厳しい生存競争の中で生き抜こうとする選手たちは無理を承知で踏ん張らなければならないことが多い。単純には語れないが、選手本人、ドクター、トレーナー、そして監督やコーチがうまくコミュニケーションを取り、治療をしながら出場するようなリスクをどう減らすのか、これに関しても議論を続けなくてはならない。冤罪以上に悲しい結果を避けるためにも。
(山根 太治)
出版元:集英社インターナショナル
(掲載日:2012-03-10)
タグ:サッカー
カテゴリ スポーツライティング
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コンカッション
Jeanne Marie Laskas 田口 俊樹
言葉すら知らなかった
頭を強くぶつければ危険だということなど誰もが知っていることではないか。しかし弱小高校ラグビー部員だった頃の私は、頭をぶつけるなどラグビーでは当たり前のことだと考えていた。脳振盪という言葉すら知らなかった。脳を激しく揺さぶるのに、頭をぶつけることが絶対的な条件ではないことも認識がなかった。友人が死にかけるまでは。
試合で頭をぶつけた彼は、頭痛に悩みながらも練習を続けていた。1週間以上経った早朝に彼は意識不明に陥り痙攣を起こし、緊急開頭手術を受け生死の境をさまよった。幸い後遺症もなく回復したが、そのことは私がトレーナーを目指す原体験となった。だがその危険性を知った後も私はラグビーをやめようとは考えなかった。そして今までに自身も数回意識を失うような重度の脳振盪を経験した。大学卒業後の専門学校時代、国家試験を3カ月ほど先に控えた時期、クラブチームの試合で重度の脳振盪を起こした。試合会場で自分のカバンや車が認識できなかった。そしてその後しばらく本が読めなくなった。書かれているものが何かの記号としか思えず、意味が全く読み取れなくなった。危険を身をもって学んだ。ラグビーはやめなかった。頭を強くぶつければ、いや脳に強い衝撃が加われば危険だということなど誰もが知っていることではないか。そのリスクを負うか負わないかは自分の判断だ。
長いエピローグ
本書は、年間80億ドル規模を動かす組織でありながら、アメリカンフットボールというコリジョンスポーツで脳に強い衝撃が加われば危険だということを認めず、選手たちに対して負うべき責任を真摯に受け止めてこなかったNFL(NationalFootballLeague)にまつわるノンフィクション小説である。
日本未公開とはいえ映画化された作品である。だからといって、ここに描かれている全てのことが全ての側面から真実だなどとは思わない。ただ、NFL側が推定10億ドル(約1090億円)を支払うという和解にまで至った集団訴訟の引き金になったストーリーはドラマチックである。主人公は、禁断の箱を開けてしまったナイジェリア移民の黒人監察医、ベネット・オマル氏である。
冒頭部分では、オマル氏の家族やナイジェリアの内戦など、彼がアメリカにたどり着くまでの生い立ちが描かれている。メインテーマに至るまでのこの長いプロローグは、その必要性に疑問を持ちながら読み進めることになるだろう。
しかし、アメリカの価値観の中で育ってこなかった異文化の黒人でなければ、アメリカンフットボールという競技はもちろん、それがアメリカの人々にとってどんな意味を持つのか全く知らないナイジェリア移民でなければ、彼が発見したタブーを確固たる決意を持って白日のもとにさらすことはなかったのかもしれない。そしてこのことで、後に彼が物語の中心から「隅っこ」に追いやられることを考えると、父の死にまつわる後日譚であるエピローグとともに理解しておかなければならないように感じる。
知っていたはず
物語の核心は、元NFLピッツバーグ・スティーラーズのスーパースター、「アイアン・マイク」ことマイク・ウェブスターが2002年の9月に心臓発作で亡くなり、オマル氏が検死することになったところから始まる。
彼が死ぬ前にとっていた異常行動を聞いて、オマル氏は脳を検査しようと思いつく。かくして50歳という若さで亡くなったウェブスターの脳には、アルツハイマー患者に見られるような神経原線維変化、タウ蛋白の蓄積が見つかった。
脳に強い衝撃が加われば危険だということなど誰もが知っていることではないか。脳振盪は、テキストに書かれているような一過性の脳機能障害ではないのだ。NFLを引退した選手の中に「正気を失っていく男たち。妻をぶん殴り、自らの命を絶つ男たち」がいることと頭を何度も何度も強くぶつけてきたことと、結びついていなかったわけがない。
私がアメリカに留学していたのは1995年から99年にかけてだが、自らの経験から脳振盪についてはかなり調べ込んだ。事実、段階的復帰のガイドラインやセカンドインパクトシンドロームのことなど、その頃すでにたくさんの文献を見つけることができた。そう、「米国神経学会(AAN)は脳震盪を起こしたスポーツ選手が競技に戻る際のガイドラインまで作成していた」のだ。
しかし、脳外科や神経病理学の門外漢であり、しかも後に判明する経歴詐称をしていた医師をトップにしたNFL軽度外傷性脳損傷(MTBI)調査委員会は不都合な論文の撤回を図るなど、「ほんとに選手たちはこれで大丈夫なのか?」という疑問を「調査結果に不備がある」と打ち消す役割を果たしていたのだ。「複数回脳震盪を起こした選手は臨床的鬱病にかかるリスクが三倍になる」「繰り返し脳震盪を起こしたNFL選手は、軽度認知症(アルツハイマー病の前段階)になるリスクが五倍になる」「引退したNFL選手がアルツハイマー病を患う確率は、通常の男性に比べて三七パーセントも高い」といった調査報告を否定し続けていたのだ。
科学をカネで買おうとする「茶番」だとは誰も思わなかったのか。「アメリカンフットボールのプロ選手は、日常的かつ頻繁に繰り返し脳を強打されているわけではない」などという発表に、えらいセンセイ方がそうおっしゃるなら間違いないと皆思っていたのか。特別番組でフットボールが消耗性脳障害を引き起こす可能性について、ただ「ノー」「ノー」「ノー」と答え続けたMTBIのドクターに、一体いくらもらってるんだと思わなかったのか。いや、脳に強い衝撃が加われば危険だということなど誰もが知っていたはずだ。ただ、それこそがアメリカンフットボールという競技の醍醐味だったというだけだ。
オマル氏は、若くして不幸な死を遂げたNFLの元選手たちに見られた脳の異常を慢性外傷性脳損傷(CTE、chronictraumaticencephalopathy)と命名し、「マイク・ウェブスターは疾患の脳組織分布を通して、私たちに語りかけていた」ことを信じ、この障害に苦しんでいる人を助けたいと活動を続ける。しかし、オマル氏の意図をよそに、別のさまざまな奔流がさまざまな場所から巻き起こっては流れ込み、大きなうねりとなって6000人の集団訴訟となる。「80億ドル規模の組織でありながら、選手たちに対して負うべき責任を真摯に受け止めてこなかった」NFLは、「上限のない和解案」として、今後65年の間に約10億ドルの賠償金を支払うことで合意した。ただし、これに合意しない家族の訴訟はまだ続いている。見えなくさせるものCTEを患った引退選手、そして彼らの家族をも巻き込んだ数々の悲劇には本当に心が痛む。いくら激しいぶつかり合いが競技の本質だと言っても、選手の安全は出来うる限り守られなければならない。当然だ。しかし、頭をぶつけ、脳を揺らし続けて、選手たち自身は本当に問題ないと思っていたのだろうか。「アンフェタミンもステロイドも多種多様なサプリメントも、効き目があるといわれるものは何でも試した」というアイアン・マイクを始め、引退後に異常行動に至った選手たちは、それら全てが起こしうるリスクを、本当に疑っていなかったのだろうか。
営利心や功名心が、それを見ようとさせなかったのではないのか。巨万の富を得ようとする欲が、誰もがうらやむ存在になりたいという欲が、自分の地位を守りたいという欲が、この競技に生きたいと願う欲が、脳に強い衝撃が加われば危険だと誰もが知っていることにも自ら蓋をしていたのではないのか。NFLという組織がそうしていたように。「心が知らないことは目にも見えない」のだ。危険なスポーツを続ける自分自身にも責任はあるはずなのに。
ボクサー認知症のような脳挫傷の痕跡も萎縮も見られなかったウェブスターの脳を薄い切片に切り出し、染色してプレパラート処理し、さらなる調査を決意したオマル氏の判断やその後の行動は、欲と相談したものではなかったように感じる。父の教えに従い、彼は「人々の生活をよりよくするために」「自分の才能と公正さを使わなきゃいけない」という信念をもとに行動したのだ。「知っているなら、進み出て述べよ」と。
彼に功名心や豊かになりたいという願いがなかったわけではないだろう。しかしそれは、化け物のように欲深い世界に生きる輩に比べればごくささやかなものだったろう。彼は自分の信念に基づき、自分が自分であり続けるために、やるべきことをしようとしただけだ。生きるために持つべき信念があるなら、私はオマル氏のようでありたい。
(山根 太治)
出版元:小学館
(掲載日:2016-07-10)
タグ:脳震盪 アメリカンフットボール
カテゴリ スポーツ医学
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スポーツ遺伝子は勝者を決めるか? アスリートの科学
David Epstein 福 典之 川又 政治
もうひとつの「ウサギとカメ」
ウサギとカメという童話がある。どうも納得しかねるこのお話を改変して子どもたちに聞かせたことがある。ウサギに足が遅いことをからかわれたカメは「なら潜水で勝負しようじゃないか」という言葉をぐっと飲み込み、かけっこ勝負を承諾する。このカメは自分が苦手とする領域にあえて挑戦することで、己を変えたいと考えていたのだ。水辺から離れられずに生きていくより、未知の陸地で生き残る存在になるために、エサを確保し、危険から身を守る速さを身につけなければならない。いい機会だとカメは自分なりにトレーニングを積みウサギに挑んだが、スタート直後に自分なりの努力ではどうにもならないことを思い知らされる。「もし君が勝ったら僕は君の言うことをなんだって聞いてあげよう!」そう言い残してウサギはあっという間もなく見えなくなってしまっていた。そもそも命の成り立ちが違う相手に勝負を挑むことは意味がないのか。そんな思いに捉われ、カメは今更ながら愕然とする。
命の成り立ちの設計図である遺伝子の中に、運動能力を決定づけるものは存在するのか。また生まれ持った生理学的資質にトレーニングがどのような影響を与えるのだろうか。本書はそれらの疑問に答えるべく、様々な国や地域、競技、年代を巡って探求した情報を満載している。著者はアメリカのジャーナリストであるDavidEpstein氏。邦題では「スポーツ遺伝子は勝者を決めるか? アスリートの科学」とあるが、原題は「THE SPORTS GENE Inside the Science of Extraordinary Athletic Performance」であり、「勝者」という表現は含まれていない。内容も勝つためというより人間の持つ多様性や可能性を探っているような印象を受ける。大切なのは持って生まれたハードウェアなのか、インストールされたものを学習によってモディファイしたソフトウェアなのか。
カメはしかし思い直す。本当に競うべき相手は、なりたいと思う自分だ。自分を高めたいという欲求は自然に湧きあがってきた感情だ。この勝負を受けたいと思ったことも自分の意志だ。そしてこんな気持ちになることも自分の命の成り立ちの一部だ。絶望的な状況でも逃げ出せばそこで終わりだ。背を向けてたまるもんか。そう考えて全力で走る。一方ウサギはふと立ち止まり、後ろを振り返る。カメは遥か後ろをよたよたと歩いている。やれやれ、こんな勝負に意味はあるのか。ため息をついて、今来た道を戻り始める。「もうやめちまえよ! みっともない! そもそも、お前さんは速く走れるように生まれちゃいないんだ!」カメは息を切らしながら走っているので、言葉を返せない。ちらりとウサギを見た後はまっすぐ前を見据え、ただひたすら走り続ける。
言い切れるほどの単純さか
努力は嘘をつかないという「一万時間の法則」は本当にありえるのか。「大切なのはハードウェアではなくソフトウェアだ」と言い切れるのか。そもそもハードウェアである人体の形質はそんな単純なものなのか。運動能力に関わる遺伝子は一体どれほどの数になるのか。「ウエイトトレーニングにより遅筋線維のおよそ2倍成長する」という速筋線維の割合が高ければハイパワー系の競技で有利になるだろう。しかしその代謝効率をさらに高める遺伝子も存在するようだ。また「筋肉の成長を止める作用に関係するミオスタチンがないと筋肉は急成長する」という。
ローパワー系競技でも、「生まれつき高い最大酸素摂取量に恵まれて」いれば有利になるだろう。しかし、スタートが同じであっても「トレーニングに対する反応速度が高いケース」もあれば「低いケースもある」。標高が高いところでの生活への適応はなにもヘモグロビン量が増えるという形だけではない。「ヘモグロビン量が海抜ゼロ地域に住む人間とほぼ同等の値で酸素飽和度が低いが、血中の一酸化窒素濃度が高いため肺の血管が弛緩」し、「定常的な過呼吸ともいえる状態」で生き残ってきた人々もいる。赤血球数が血液ドーピングと判断されるほど高いにもかかわらず、EPOの分泌量は一般より低いアスリートもいたという。EPO受容体遺伝子の変異が関わっていたのだ。
カメの揺るがない態度に少し胸が痛んだウサギだが、次はあてこすりに少し先で寝たふりをしてみた。カメは走り続けている。甲羅を脱ぐことができれば、もっと長い脚だったら、もっと強い心臓だったら、カメはそんなことも考えてしまう。それでも、カメはなぜだか楽しくなってきていた。周りができないだろうと思っていることに挑戦している自分が滑稽だが誇らしくも思えてきた。こんなことを続けているうちに、もしかしたら何百年か先に脚が異常に速いカメの種族が生まれているかもしれないとまで考えて可笑しくなった。そうなればボクが創始者ということになるのかな。ふと見るとウサギが寝ている。ダメだ、ウサギくん、ボクにとってはこのかけっこは命を育む神聖なものになっているんだ。それを汚すような真似はやめてくれたまえ。追い越しそうになったカメはドンとぶつかってウサギを起こしキッと睨みつけた。ウサギはまた少し胸が痛んだ。
遺伝子の違いで生まれるもの
「腰幅が狭いと走行効率がよい」し、「身体のボリュームに比べて表面積が大きいほど放熱機能がより効果的に働く」。「身長が高いだけでなく、アームスパン対身長比が大きければ、バスケットボールのゴールにより届きやすくなる」。また「下腿の容積と平均的な太さが小さければランニングエコノミーが向上する」し、「へその位置が高い選手(黒人)は走る速さが1.5%向上し、へその位置が低い選手(白人)は泳ぐ速さが1.5%向上する」という報告もある。遺伝的な形態も多様であり、その影響は小さくない。
Y染色体とSRY遺伝子の両方を持っているが、テストステロンの分泌量や感受性によって女子競技への参加が認められる選手もいる。遺伝子の多様性は時に男女の区別をも困難にするのだ。
結局ずいぶん先にゴールしたウサギは、カメが息を切らし、身体を引きずるようにしてやって来るのを待っていた。「キミには負けたよ、カメくん。ボクがキミにしてあげられることはないかい?」疲労困憊だが満たされた表情でカメは答えた、「それならボクの脚が速くなるように一緒にトレーニングしてくれないかい。ボクだって自分を変えたいんだ。お返しにボクはキミに潜水を教えてあげるから。」こうしてふたりの特訓は始まった。おかげでカメはずいぶん速く走れるようになった。ウサギは潜水も少しは覚えたが、カメとの特訓のおかげでその脚の速さはチーターにも負けないほどになった。それでもウサギは二度と自分より脚の遅いものをバカにしたりしなかった。誰かのいいところっていうのは、ひとつの物差しでは測れないことに気づいたからだ。なにより彼らはお互いに尊敬し合える素晴らしい仲間を手に入れたのだ。「運動能力のような複雑な形質は、往々にして数十から数百、場合によっては数千もの遺伝子の相互作用の結果として生まれるものであり、さらに環境要因も考慮に入れなければならない」。「多くの遺伝子は身体の形質に影響を与えるだけで、人に致命的な影響を及ぼすものではない」し、「すべての人間が異なる遺伝子型を保有している。よって、それぞれが最適の成長を遂げるためには、それぞれが異なる環境に身を置かねばならない」のだ。
遺伝子検査をすることでHCM(肥大型心筋症)のリスクを把握し、フィールド上で起こり得る不幸な事故を防ぐことができるかもしれない。頭部を強打した際に脳損傷がより大きくなり、回復にもより多くの時間がかかり、中年期以降に認知症の発症リスクが高くなる原因遺伝子の型が判別できれば、安全面からのスポーツ種目の選択や脳振盪を起こした際の復帰ガイドラインの改正につながるかもしれない。遺伝子情報をこのような形で活かすことは推進されるべきだろう。だが総じて言えば「誰にできるとはいえ、他の誰とも異なる、生物学的かつ心理学的な自己探求」が大多数の人にとってのスポーツであり、人生の味わい深いスパイスとなりえるものだ。全てがわかりすぎるというのも味気を抜いてしまうように思う。
(山根 太治)
出版元:早川書房
(掲載日:2016-09-10)
タグ:遺伝子
カテゴリ スポーツ医科学
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勝つためのドリルマニュアル② ラグビー
高校選手のフィジカル
今年度のラグビーシーズンも数々の名勝負が放った輝きを残し、終わりを告げた。個人的には学生ラグビーのレベルの高さをありがたく楽しませてもらった。大学選手権決勝も「痺れた」が、花園ラグビー場で熱戦が繰り広げられた高校ラグビーの準決勝、決勝には、いつも以上に感動させてもらった。
それにしても最近の高校ラグビー選手はフィジカル能力が高い。サイズがあるということだけでなく、活動量の多い今のラグビーで全ポジションの選手がよく動く。押し、走り、あたり、また押し合い、走ってあたる、全国大会ではそれを一日おきに60分間やり続ける。このスケジュールの是非に関しては脇に置くが、彼らは単純にはとても言い表せないラグビーフィットネスを練り上げてきている。パスやキックなどの基本スキルもフォワード、バックスにかかわらず高いレベルだ。
いや、待て。最近はと書いてはみたものの、こういったことは10年以上前からずっと感心しているところだ。では、改めて何に心打たれたのか。アタックにおいてもディフェンスにおいても徹底された戦術だ。そしてそれを実行するための細かなスキルを身につけていることだ。しかもその戦術を高校生ラガーマンたちが自らの判断で、いつ、どこで、どのように使うかを理解していて、しかもそういった型にハマるだけでなく、アンストラクチャーの状態からも意思を持って自在に攻撃できるという、そういったレベルの高さに感動してしまう のだ。3年間という限られた時間の中でメンバーが代謝し続ける高校ラグビーで、名門校であり続ける条件とは何だろう。
ノウハウの公開
本書では、その高校ラグビー名門校を中心に、いくつかの練習方法やそのコンセプトが紹介されている。最近出版された本書以外でも、一昨年には東海大仰星高校の土井崇司氏(元監督)による『もっとも新しいラグビーの教科書』、東福岡高校の藤田雄一郎監督による『ラグビーヒガシ式決断力が身につくドリル』が出版されている。高校ラグビーの世界から全てのレベルに通ずる現代ラグビーの原理・原則や思考基準、それを身につけるための方法論が発信されているのである。
ラグビー先進国からの情報が入りやすくなっている環境もあるだろうが、名門校はそれに自分たちのオリジナルもふんだんに加えてチーム力を上げるさまざまな工夫を凝らしている。その仕組みを持っていることが、まずは名門校の条件となる。では、門外不出としておきたいようなこれらのノウハウを惜しげもなく公開してしまう理由は何だろう。より強い相手の出現を求める王者の風格か、はたまた日本ラグビー全体の底上げを願う賢者の篤志か。
30年ほど前の話になるが、専属の監督もいない素人集団大学ラグビー部のキャプテンとなった私は情報に飢えていた。ラグビーって一体どうすればいいのか本気で悩んでいた。自ら築き上げる創造力も乏しかったし、選べるほど選手もいなかった。ラグビーの練習内容やトレーニング方法について、目についた本を取り寄せ読み解き、ない知恵を搾り出しては練習方法や戦術(と言えるほどのものではなかったが)を考えていた。しかし当時はラグビーの体系的な戦術書と言えるものはほとんどなかった。
では、あの頃これらの良書が入手できればどうだったか。それはありがたかったと思うし、これらのドリルを模倣するだけでもチーム力は上がったはずだ。しかし、間違いなく次の壁にぶつかっていただろう。実際の試合中に、何をどう使うのか、状況を理解し、自ら思考して判断し、瞬時に行動に移すということを選手全員が主体的にできるようになるにはどうすればいいのかという壁に。名門校はそこをブレイクスルーできる何かをも持っているはずだ。
主体的な判断をもたらすもの
ボールに直接絡む「on the ball」プレーと、その他の「off the ball」のプレー、圧倒的に多くなる後者の中にも、常に的確に状況を把握し、果断に決断し、勇敢に実行する意思が必要となる。高校全国大会の上位チームは、戦術に振り回されるのではなく意思をもってそれらを活用していた。スクラムやラインアウトなどのセットプレーしかり、スタンドオフの前方にシェイプをつくって的を絞らせないなど工夫を凝らしたアタックシステムと整ったディフェンスシステムとのブレイクダウンの攻防しかり。ボールを持ってトライゾーンに飛び込む華やかな瞬間に至るまでには、チームのために身体を張って自らの役割をまっとうする「off the ball」のプレーが積み重ねられている。ラグビーという激しいスポーツにおけるこれら全ての「on the field」の行動は、ただノウハウを知っているだけではやはり体現不可能なのだ。
もちろんこれらは「on the field」の練習で磨き上げられるのであるが、加えて「off the field」の立ち居振る舞いによって培われる部分も大きいはずだ。練習準備や後片づけなどのみならず、授業中の態度や通学中の電車の中でのバッグの置き方から周囲への配慮、親をはじめ周りの人たちへ感謝する気持ちなど、人としての生き方が「on the field」に現れるのだ。
優秀な指導者の導きの中、自らの生き方を問い、考え、それを主体的な行動に移すという人間としての成長を促す環境、それがなくてはたとえば決勝の東福岡高校のゴール前のディフェンスのようなプレーはできないし、名門校としての存在など維持できないはずだ。だから観ていて奮えるのだ。
(山根 太治)
出版元:ベースボールマガジン社
(掲載日:2017-03-10)
タグ:ラグビー 練習 ドリル
カテゴリ 運動実践
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自由。 世界一過酷な競争の果てにたどり着いた哲学
末續 慎吾
「自由」に必要なもの
「自由」というのは単に気ままという意味ではない。そのように使っても間違いではないし、そう使われることの方が多いように感じるが、なんだか薄っぺらい。そこに自律性や自発性を持つ主体があり、責任の所在も確かに棲まわせている必要があるはずだ。それでこその「自由」だ。そもそもそれは与えられるものではなく、人類の歴史の中で有志の人々の命がけの闘いにより勝ち取ってきたものだ。
一方で、精神の「自由」に限ればどの時代でもどんな環境でも持ち得たはずだ。他者、己を取り巻く環境や常識などからのみならず、自身の欲や邪からの「自由」。こちらもなかなか難しそうだ。相反する言葉のように感じるが、「自由」でいるには相応の「覚悟」が必要なのかと感じる。さて、世界の頂点を見た人たちは果たして「自由」なのだろうか。輝かしいサクセスストーリーは「自由」につながるのだろうか。
「自由」と銘打たれた本書は、陸上界世界最高峰の舞台で闘った末續慎吾氏によるものだ。40代になった今も現役陸上選手なので、末續慎吾選手と呼ばせてもらったほうがいいのかもしれない。2003年にパリで行われた世界選手権200mで短距離走日本人初となるメダル獲得。2008年の北京オリンピックでは4 ×100mリレーで銅メダルを獲得している。そのとき金メダルを獲ったジャマイカチームにドーピング陽性者が出たため、これは後に銀メダルに繰り上げになった。いずれにせよ、押しも押されもせぬ日本陸上界の英雄である。当時のテレビ画面を通じて観たその人懐こそうな笑顔、筋肉で埋まった土踏まず、そして足を低く運ぶ独特の走り方が脳裏に焼き付いている。
しかしその栄光の後、彼は突然消えた。本書で自ら表現しているが、本当に消えてしまった印象だった。そのうち燃え尽き症候群とかオーバートレーニング症候群などの言葉がどこからともなく聞こえてきた。ただごとではなかったのだろうと、ひとりのファンまたひとりのトレーナーとして胸が痛んだ。
だからこそ、2017年の日本選手権で走る姿を目にして素直に感動した。スタート前、サニブラウン・ハキーム選手の隣で観客に手を合わせている姿、後半失速してしまったが懸命な走り、レース後に笑顔で「若い奴ら速ぇ!」といったコメントを発した姿。ただ、よかったなぁと勝手に安心したことを覚えている。ちなみに本原稿執筆の2020 年11月現在で200m 走の日本記録は末續選手の20 秒03 で、サニブラウン選手でもいまだに突破できていない。
今たどり着いた境地
本書では、栄光を掴むまでの激闘後に生死の境目に足を踏み入れるまでボロボロになったところから、あの頃よりずっと「自由」な心で走り続ける現在に至るまでに、末續選手がたどり着いた心の持ちようが記されている。サブタイトルは「世界一過酷な競争の果てに宿りついた哲学」。産経新聞に掲載されているエッセイ「末續慎吾の哲学」も拝読しているが、どちらも過酷な経験を通じて得た独自の視点で描かれていて読み応えがある。
だが、物事を繊細に捉え深淵に思考する力があるということは、ともすれば心への負担も大きいのだろうと感じる。まるで周りの人の心の声が聞こえてくるほどに、物事を鋭敏に感じ取れてしまうことがあるのだろうと穿ってしまう。自分の心の声にもいつも真摯に向き合い、あるべき姿を突き詰めないではいられないように思う。これは心が相当タフでないと耐えきれない。巷で流行の漫画の世界で描かれている、常に全力で集中しているという「全集中常中」の状態など、本当ならゾッとする。年齢を重ねると共に嫌でもタフ、というより適度にいい加減にならないと保たなくなるのだろうが。本書でも後半には「だいたいで」とか、「ラクに」とか、「流されよう」などの緩い言葉が登場するが、本人にとってその言葉通りに生きるのはそう簡単ではないのだろうとも感じる。
どこに「自由」を見出すか
そもそもルールに縛られるスポーツ競技で、常に周りを満足させるパフォーマンスを要求され、毎日の居場所をも常に登録し、ドーピングコントロールを遵守し、国の威信を背負って闘う世界レベルのトップアスリート達が、「自由」な精神を持ち続けることは生半可なことではない。自らに厳しい鎖を課すアスリートならなおさらだ。だからこそ彼らは特別な存在なのだ。
確かに勝利や敗北からも、名声や羞恥からも、ルールからも、キャリアからも、「自由」という言葉の定義からすらも完全に「自由」に、自分の追い求めたいものを全力で好きなように追い求めることができたなら本当に楽しいように感じる。それでも、様々な縛りの中で苦しみ抜いてでも己を高め、それを周知に圧倒的に認めさせることにこそ「自由」があると考える人もいるのだ。
いずれにせよ人間社会に生きている限り完全な「自由」もなければ完全な「不自由」もない。様々な関係の網の中で自分のバランスが取れる立ち位置を見つけ、ありたい自分、あるべき自分でいられることが結局「自由」なのかと考える。そしてどうせなら薄っぺらい側の「自由」ではなく、ぶっとい芯の通った「自由」寄りで生きていけたほうがいいなと思う。
(山根 太治)
出版元:ダイヤモンド社
(掲載日:2021-01-10)
タグ:陸上競技
カテゴリ 人生
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コツとカンの運動学 わざを身につける実践
日本スポーツ運動学会
個人に合わせた指導
アスレティックリハビリテーションとは、アスレティックトレーナー業務のひとつだ。アスリハと略して呼ばれることが多い。日本スポーツ協会の公認テキストによれば、日常生活レベル復帰を基準とするメディカルリハビリテーションを引き継ぐ形で、競技復帰までを目標とする過程として表現されている。しかし実際は、リハビリ初期から患部外のトレーニングや全身持久力トレーニングなどを組み合わせたアスリート向けのプログラムとなる。
競技復帰には体力因子や全身を協調させて体現する「わざ」の再獲得が必要だ。傷害の発生機序や発生要因を克服しながら、「わざ」の 「コツ」や「カン」を取り戻し発展させる必要がある。リハビリ開始時からこれを加味したプログラムであるべきで、個々のメニューはそれぞれの要素に分断されたものではなく互いに協調すべく全身の動きをイメージしてデザインされるべきである。そして、たとえ蓄積された知見に基づくプロトコルでも、対象となるアスリートによって指導の方法は全て異なるものになるはずだ。その道のりは、指導というよりむしろトレーナーとアスリートが協調し共感しながら進めるべき協働という方が正しいように思う。
実践のヒント
さて、日本スポーツ運動学会による『コツとカンの運動学』のサブタイトルは「わざを身につける実践」とある。子ども達の発達過程において「動きのわざ」をいかに育てていくのかを主軸として様々な知見が語られている。「わざ」は単に「動き」ということではなく、移り変わる状況に応じて「コツ」と「カン」を働かせて、最善の「動き」をするということだ。それを自分が「身体で覚える」だけでなく、それを学習者にいかに指導するかという実践のヒントが集約されている。だから、ここでいう「運動学」はキネマティクスとは一線を画している。キネマティクスを芯に、心理、言語、感覚、人間関係や環境整備といった様々な因子で包み込んで作られた領域と言うほうがいい。
日本スポーツ協会が推進するアクティブチャイルドプログラム(ACP)でも「動きの質」に注目するよう働きかけている。ACP とは「子どもが発達段階に応じて身につけておくことが望ましい動きを習得する運動プログラム」だ。ただ、どれだけいいプログラムでも、その「動きの質」向上のためには指導者の力量が問われる。個人差の大きい子ども達の指導では、画一的な指導は効果のばらつきを大きくするだろう。
学生に悩んでもらう
本書で説かれる「学習者の動き方を自らの体で感じ取りながら、わざの動感世界を共有する運動共感能力」や「指導者が自分の動きを詳細に分析してその動きが実際にできるようになるために、指導者が学習者に対して学習者自身の動きの感じに問いかけていくという借問」などの重要性は、アスリハの過程に通じると感じる。現場のトレーナーとして経験を積んだ人達はこの辺りのスキルは自然に練り込まれているだろう。負傷したアスリートの状態を的確に把握し、様々な視点から観える問題点を、当人とのコミュニケーションの中で修正しながら、段階的に進めていくことができるはずだ。
ところがアスレティックトレーナーを目指す学生達には、まだこの感覚をイメージしにくい者が散見される。そういった学生は、正解を欲しがる傾向にあるようにも思う。この場合はどうすればいいのか、マニュアルとしての答えが欲しいのだ。
模範解答としてのプロトコルを示してやればいいのかもしれないが、私の場合はヒントを小出しにしながら悩んでもらう方法を取っている。解剖学や傷害、評価法、そしてアスリハの基礎理論をもとに、対象となるアスリートのことを多角的に想像し、互いに協力して問題を解決すべく創造力を最大限に働かせることに取り組んでもらうのだ。そのためにはアスリハの勉強をしているだけでは足りない。JSPO-ATの実技試験対策でも、過去問題を紐解いてこの設問が出ればこのプログラムを覚えておいて指導せよといった方法では問題だと個人的には考えている。たとえ試験であっても、目の前にいるアスリート(モデル)に最大限の効果が出るようにカスタマイズされたものを即座に提案し、指導というより双方向の協働にできることを目指して欲しい。本書もきっといい参考書籍になるはずだ。
(山根 太治)
出版元:大修館書店
(掲載日:2021-03-10)
タグ:カン コツ
カテゴリ スポーツ医科学
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マッスルインバランス改善の為の機能的運動療法ガイドブック
荒木 茂
動作の修正は難しい
空手にはさまざまな立ち方がある。この立つという動作は思いのほか難しい。安定しすぎても次の動作に移りにくい。外力を受け流したり身体に力を通したりするにもコツがいる。空手のその場突きでは、腰幅に立った姿勢のまま股関節を中心に生み出した力を地面反力も加えながら拳に伝える動きとなるが、この立位で力を一点に集める動作ですら数多くの要因に分解することができる。これが足を前後に開いた前屈立ちや後屈立ち、横に開いた騎馬立ちなどになるとその要素はさらに増えることになる。
立つ、また立った姿勢で技を出すという基本中の基本動作においてすら、非効率で望ましくない動作になったり、最悪の場合は傷害の原因になるような動きのエラーも起こり得る。ここからさまざまな方向に移動しながら技を出すということになれば身体操作の要素はさらに増える。これは武道のみならず各スポーツの特性を表す動作でも同様だ。その中で起こり得るエラーは、口頭で伝えるだけでは解決できないことや頭ではわかっていても思い通りにならないことが多い。
このような場合、問題の原因となる動きを見極め、動作や意識を修正する具体的な手法が必要になる。アスレティックトレーナー的な視点で空手に取り組んでいる自分自身の動作修正においても、稽古中の子ども達への指導においてもこれが結構悩ましい。身体のナカミをわかってくれていれば伝えやすいのに、と感じることも多い。いずれにせよ、このように動作を望ましいものにする必要性は、武道やスポーツ動作のみならず、日常生活における何気ない動作にも共通する。
評価と修正のわかりやすい紹介
本書では、そのような動作パターンの問題要素を評価し修正するアイディアがふんだんに紹介されている。正しい動きだけでなく起こりやすいエラー動作も含めた写真を数多く使って解説されているので大変わかりやすくなっている。「標準化され再現性がある」基本的な運動療法の本質理解や再確認、そして新たな気づきを得るためにありがたい存在となるだろう。本書で紹介されている機能的運動療法の到達点は、「筋力の強化というより正しい動作パターンの強化(筋トレよりも脳トレ)」をした上で対象者が自己管理法を身につけることであり、それには「運動療法を適切に行う意欲と理解力がある」ことが求められると指摘されている。ここでも患者側が身体のナカミを理解していれば効果が得やすくなるだろうと感じる部分だ。
種々の体幹の安定化トレーニングも紹介されている。トレーニング関連セミナーでわざわざ体幹トレーニングだけを抜き出して行う必要はないといった発言を聞いたことがある。普通のトレーニングの中で十分使うので、それだけを引き出す必要はないといった立場の発言だったが、私はこれには賛同しかねる。確かに儀式的に行うものでもないし、全ての動きの中で無意識に安定化できていることが望ましいということに異論はない。それができている人にはそれでいい。しかし実際に腰痛を引き起こすような場合には、筋力バランスや動きの中で動員される順序のエラー、それに伴う関節可動性の偏りなどがあるわけで、それを評価し問題を抽出し修正する必要があると考えるからだ。
もちろん要素別に解決できたからといって目的とする動作に反映されなければ意味がないことではある。「標準化され再現性がある」と言っても、本書に掲載されている運動を片っぱしから実施すれば全ての動作がよくなるわけではない。適切に抽出した問題点を修正できるものを的確に選び、時に改変しながら指導する柔軟性も必要なのだ。これには指導する側の身体のナカミの理解度も試される。空手の動作における動力源としての体幹や股関節周りを見直すにつれ、今更ながら気づいた新たな発見に赤面することもなお多い私ではあるが。
これからの可能性
空手の基本稽古や形稽古によって得られる身体感覚は数多い。同時にそこにさまざまな動作修正トレーニングや、日常生活動作や他のスポーツ動作とコネクトするようなトレーニングが加われば、子ども達のカラダの成長への寄与がさらに大きくなると考えている。また子どもの頃から自分たちの身体のナカミ(解剖生理)を知る機会を増やせれば、より健康的な生活の基礎を早い段階でつくることもできるだろう。武道とアスレティックトレーナー領域の融合だ。もちろんどの少年期スポーツにもアスレティックトレーナーの介在がよりよい身体教育につながるはずであるが、私の場合は密かな老後の取り組みとして空手を軸に実践したいと考えている。
(山根 太治)
出版元:運動と医学の出版社
(掲載日:2021-05-10)
タグ:運動療法
カテゴリ スポーツ医科学
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選手の潜在能力を引き出す クリエイティブ・コーチング
ジェリー・リンチ Jerry Lynch 水谷 豊 笈田 欣治 野老 稔
正統な「コーチング本」
書店を訪れ、本の購入のためでなく端から端までゆっくり見渡すことが私の習慣になっている。さまざまな「○○力」を持った有識者の方々により、迷える人々を目的地に導かんと書かれた「コーチング本」がよく目につく。「こうすればああなれる」とか、「こんな人はこうしなさい」とか、ありがたい話である。ハンガリー北西部の小さな町Kocsで15世紀につくられていた馬車は、金属バネのサスペンションを持っていたらしい。おそらく当時では乗り心地が抜きん出てよかったのだろう。目的地まで人や荷物を安全快適に送り届けるその馬車は、やがて町の名前で呼ばれるようになった。ご存じの方も多いだろうが、これが現在の「コーチング」の語源だと言われている。
私は若い頃からひねくれ者で、人に目的地を決められたり導かれたりすることが嫌いだった。そのため「こうすれば、ああなる」といったたぐいの本を敬遠することが常だった。いや、謙虚に人の話も聞かなければいけないこともわかっているし、食わず嫌いはよくないので話題書には目を通してみる。果たして、反感ばかりで受け付けないことが多い。損をしているのか、得をしているのか。
さて本書はそのようなビジネス系や自己啓発系の「コーチング本」ではない。スポーツコーチングの正統という内容である。原書は2001年出版であるが、スポーツにおける「教えること、導くこと、動機づけること、そして勝つこと」についての黄金律に埃は積もっていない。偏らず、肝心なことを見失なうことなく、あるべきことがあるべきように書かれた、まさにコーチのための「コーチング本」として好適である。アスレティックトレーナーにとってもいい参考書になるだろう。
血肉としてこそ
ただ、どれだけ素晴らしい「コーチング本」でも、読むだけでは読者に何が起こる訳でもない。当たり前のことだ。読んだことをそのまま鵜呑みにしたり、受け売りしたり、あるいはそのまま実行したりするような影響の受け方では、薄皮一枚飾り立てることと同じである。また、本書に書かれた全てのことを完璧にできる人間など存在しないだろうし、いたらいたで気味が悪い。結局はさまざまな形で得た知識や経験を選別してかみ砕き、己の本来持つ主義や性格と混ぜ合わせて消化し、血肉としてこそ本物になれる。大仰に言ってしまえば、コーチやトレーナーにかかわらず、自分をつくり上げなければ物にはならないのだ。とまあ常々そんなことを思ってはいるのだが...。
真の勝者とは
閑話休題。先の「勝つこと」とは、もちろん試合に勝つというだけの狭義のものではない。本書の序文に往年のフットボール界の名将の言葉が引用されている。「自分のコーチングが成功したかどうかは20年たってみないとわからない。選手たちがやがて年齢を重ね、人間的に豊かに成長を遂げたことが明らかになったときにこそ、初めてこのコーチは競技場の内でも外でも、『真の勝者』としての評価を得るのだから」。これはまさにおっしゃる通り。多くの心あるコーチやトレーナーも賛同するだろう。
もちろん限られた期間に一定の結果を出す責任を両肩に背負うプロコーチも多い。彼等はそんな綺麗事は隅に追いやり、なりふり構っていられないと言う人もいるだろう。しかし、結果を出してくる指導者は、みな強烈な人間的魅力があり、選手の人間的魅力も引き出し高める存在なのだと思う。
近所に、某競技で未曾有の全国大会四連覇を果たした高校がある。最近は全国大会出場を逃している。それとわかるカバンを持った部員と帰宅中の電車で遭遇することがある。乗降するほかの乗客にお構いなしに、と言うよりもあえてドアの前に居座る部員たちがごく一部ではあるが存在する。黙っていられない性分なので注意する。それがその競技を愛するものとしてどれだけ残念なことか。彼等の指導者もそれを知れば同様に感じるだろう。スポーツコーチングとはいえ、その根本は一筋縄ではいかない人間教育であることを忘れてはなるまい。そのためにはまず自分自身から、である。
(山根 太治)
出版元:大修館書店
(掲載日:2008-09-10)
タグ:コーチング
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:選手の潜在能力を引き出す クリエイティブ・コーチング
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肉体マネジメント
朝原 宣治
通勤途中の人混みの駅で、傘を横にして振りながら、また大きなカバンを張り出して歩いている人を時折見かける。彼らは自分の持ち物に感覚受容器をはりめぐらしておらず、移り変わる周りの状況を情報として処理していないのだろう。こうした人々は自分の身体の動きにも鈍感なのだろうか。反対に自分のことしか感じられないのだろうか。このような些事からも、アスリートの立ち居振る舞いとは普段の生活の中でどうあるべきなのかなどと、ふと考えてしまう。一般的な運動理論や技術論で説明がつくことも多いだろうが、他人が感じ得ない己の身体感覚を研ぎ澄まし、より高い境地を目指すためにはどのような考え方が必要なのだろうか。
本書は北京オリンピック400mリレーの最終走者としてオリンピック男子陸上で日本人初となる銅メダルを獲得した朝原宣治氏によるものである。短距離選手として驚異的と言うべき長期に渡り日本の陸上界を牽引してきた一流のアスリートが、体験談を通じてその考え方を披露している。タイトルは「肉体マネジメント」とあるが、その具体的な各論が万人向けに詳しく紹介されているわけではない。100mを誰よりも速く走るという、極めてシンプルな競技の道を究めんとした自身の心構えがわかりやすく書かれていると捉えたほうがよいだろう。
「自分がわからないことについては、人にアドバイスを求め」、しかし「それを鵜呑みにするのではなく、自分なりに理解し、咀嚼することで初めて自分の身につく」という原則に従い、「自分の肉体マネジメントは自分で」しながら「自分を実験台にして楽しんでいた」という。プロアスリートにとっての、いや何かの道を究めんとするすべての人々にとっての黄金律だろう。それでも、己を磨く過程は、競技場の内外にかかわらず生活の大部分をそのために捧げる「修行」である。命を削る「苦行」と感じることも少なくなかったはずだ。過酷な世界でこれほど長期にわたってそれを「楽しめ」たのは、「自分」の強靱さもさることながら、家族や仲間というかけがえのない存在を抜きには考えられなかっただろう。
朝原氏が北京オリンピックで個人種目では予選落ちしながら、リレーでメダルを獲得したということに私の勝手な思い込みをこじつけてみる。陸上は自分との戦いと言われるが、人はやはり誰かのために戦うときに力が出せるのだろう、と。またそんなときにこそ、勝利の女神は微笑むのだろう、と。
北京オリンピック400mリレー決勝を前にして、サポートする人々の思い、陸上界の先人たちの思い、家族の思い、さまざまな思いは、確かに「もう一度背負うのはしんどい」と感じさせるプレッシャーとなって4人のランナーに襲いかかったのだろう。それが第1から第3走者を務める塚原選手、末續選手、高平選手の、自分たちが憧れ追い続けてきたアンカー走者である朝原選手への強烈な思いに昇華されていったのだろう。そしてバトンとともにそのすべてを受け止めたからこそ、朝原選手は、あの最後の100mに自らが長い間望んで得られなかった境地に達したのだろう、と。
いや、あれこれ想像するのもおこがましい。それはただ現実に起こり、それを目にした人々に言いようのない感動を与えた、というだけで十分だ。それに、メダルが取れるか取れないか、また何色をとるかで雲泥の差だということも理解するが、己の選んだ道をただひたすら誠実に極めんとする人間は、それがどんな道であれ、その結果がどうであれ、格好いいのだと憧憬の念を持ってそう思う。
(山根 太治)
出版元:幻冬舎
(掲載日:2009-05-10)
タグ:陸上競技 感覚
カテゴリ 人生
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一流の思考 WBCトレーナーが教える「自分力」の磨き方
森本 貴義
ファンにならない理由を考えるほうが難しい
2009ワールドベースボールクラシック(WBC)決勝戦。3 - 2 の日本リードで迎えた 9回裏2アウト。あと1つのアウトで2連覇が決まるそのとき、ネットで速報をチェックしながら逐一報告してくれる同僚に、「ここは同点になっとかなアカン!」と言い放った私は、彼のみならず周りから一斉にお叱りを受けた。「打順見てみ。結局イチローやったってなるから」という言葉は聞いてもらえなかったが、あの時同じことを願った人は日本中にたくさんいたはずだ。有名なプロ野球選手が一流のアスリートとは限らないと考え、しかもとくにひいきのチームもない私は、昔からファンになるプロ野球選手が少なかった。しかしイチロー選手はファンにならない理由を考えるほうが難しい。隙がないのだ。
型を持つことの重要性
本書は、そのイチロー選手を長年サポートし、WBC日本代表チームのトレーナーも務めた、シアトルマリナーズの森本貴義トレーナーによるものである。ご自身の体験やイチロー選手の生活ぶりから「一流の思考法」が説かれている。しかし「一流になるための思考法」を教授するものではなく、著者が自身の体験を通じて築きあげたプロセス主義や型を持つことの重要性をわかりやすく紹介し、何かのヒントになればというスタンスで書かれており、森本氏の真摯で謙虚な人柄がうかがえる。型が決まりそうになったらどう崩すかを考え、ふらふらいい加減な自分を振り返り、恥じ入るばかりである。
蝶を追って登り詰めた
ところで、そもそも「一流になるための思考法」などは存在するのだろうか。天才をたとえるため引用される言葉に「天才とは蝶を追っているうちに山頂に登り詰めた少年である」というものがある。アメリカの作家、ジョン・スタインベックのこの一文は、「天才」を「一流」という言葉に置き換えてもいい。しかし、これを少年の心のまま好きなことを追いかけていただけ、という単純な意味には受け取れない。
その蝶はそう簡単には捕まえられないもので、もしかしたら自分以外の誰にも見えないものかもしれない。それを捕まえるためには、網に工夫を凝らし、網の振り方に磨きをかけなければならない。網が破れたら、自分の手でそれを修理しなければならないだろう。また、網以外の方法にも考えを巡らせるだろうし、自分で特別な道具をつくり上げるかもしれない。山を登り続けるための体力もつけなければならないし、山の攻略法も人によって千差万別だろう。そしてこの辺でよしと下手に折り合いをつけることもなく、挑戦し続ける覚悟が必要である。
たとえばそうして一流と呼ばれる人ができあがったとしても、そこには一流になるための思考法など存在しない。一流になったその人の考え方があるだけだ。仮に、いよいよその蝶を捕らえられる瞬間を迎えたとしても、もしかしたらその人は蝶をじっと眺めて、その美しさに 1 つため息をつくだけかもしれない。ひらひら跳び去るその姿をそっと見送り、次に追い求める蝶を欲するだけなのかもしれない。多くの一流と言われる人々は、一流になるために一流になったわけではないように思う。それはたどりついたひとつの結果にすぎないのだし、一流でいることが必ずしも幸せな人生と限らないのだから。
話は変わるが。何もわかっとらんとお叱りを受けるのを覚悟のうえで、イチロー選手には引退までにひとシーズンだけでいいので、自分の型を修正しホームラン王争いに絡んでもらえないかと常々考えている。いちファンの勝手な妄想である。
(山根 太治)
出版元:ソフトバンククリエイティブ
(掲載日:2009-11-10)
タグ:思考法
カテゴリ 人生
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働かないアリに意義がある 社会性昆虫の最新知見に学ぶ、集団と個の快適な関係
長谷川 英祐
働かないアリの存在意義
「働かないでお金儲けできるってよくないですか」。少し前に卒業した教え子が突然こんなことを言い出した。ビジネスで成功し、将来的に左うちわで過ごしたいというのではあれば、まあ面白いかと話を聞いた。どんな壮大なビジネスプランが飛び出してくるのかと思いきや、何のことはない。マルチ商法にはまってしまっただけだった。久方ぶりに文字通りの落胆というものを味わった。
さて本書の著者長谷川英祐氏は、アリやハチなど「真社会性生物」専門の進化生物学者である。読者はまずタイトルである「働かないアリに意義がある」を一見して、どう感じるだろう。よく働くものだけを取り出してコロニーをつくった場合と、働かないものだけでそうした場合とを比べると、双方とも「同じような労働頻度の分布を示す」という、いわゆる「2:8の法則」や「パレートの法則」と呼ばれるものを思い出すかもしれない。確かにある種のアリでは、それが真実として認められるそうだ。
では、なぜそうなるのだろう。働かないアリは本当に働きたくないから、楽をして生きていたいから働かないのか。巣に引きこもって外に出ようともしない彼らに一体どのような存在意義があるのか。本書で非常に興味深い説明がなされている。トレーニングに詳しい人には、運動生理学で学んだ「サイズの原理」がヒントになる。筋肉を筋線維のコロニーだと考えるとわかりやすいはずだ。
本書の読後は人間の個体もいわば60兆からなる細胞のコロニーだという感覚を新鮮に持つこともできる。個体の中に、生殖細胞を維持するための完全な社会を持つのだと。
アリとヒト、それぞれの社会
同じアリやハチでもその種類によって生態は異なり、全ての種にその法則が当てはまるわけではない。全てのコロニーメンバーが完全な遺伝的クローンとなる「クローン生殖」や、社会システムにただ乗りし、働かずに自分の子を生み続ける「フリーライダー」など、興味深いさまざまな「真社会性生物」の生態を、本書では生物学者のハードワークに舌を巻きながら楽しむことができる。著者が「人間から見ると信じられないような、他者を出し抜いて自らの利益を高めるような生態」と呼ぶ行動も、自分の遺伝子を残すための工夫だと思えば、まだ許されるようにも思えてくる。それより、お金のためにそのような行動に出ることのある人間のほうがアリには信じられないだろう。
ヒトは本来、過酷な環境を生き残り、自分の遺伝子を次世代に伝えるために働いたのだろう。より効率的かつ安全に生活するために群れをつくり、社会が生まれた。生物としては奇跡的な進化を遂げてきたヒトは、そこで膨大な付加価値を創造してきた。それらの価値の重要な尺度となる貨幣は、社会で生活するための必需品で、自分が分担している労働価値を他の価値に変換することができるツールでもある。しかし貨幣そのものが働く目的となり、貨幣が貨幣を生むような構図は、その是非はともかく、よほどの良心が存在しない限り、さまざまな問題をも生み出してしまう。
その卑小な例であるマルチ商法に没頭している元教え子は、フットサルやバスケットボールのスポーツイベントと称した集まりを企画し、自分に縁のある同窓生をかき集めている。彼らが信じる「素晴らしい考え」を多くの人に伝えたいと称してはいるが、将来自分が楽をするためのカモを身近なところで探しているわけだ。遺伝子を伝えるためにではなく、自分の金づるとなる子や孫をせっせと増やそうとしているその行動は、アリには到底理解できないだろう。「利他者」の顔をした「利己者」は、自分が本当に「利他者」と思い込んでいる分、性質が悪い。自分の考えに賛同してくれない人間は付き合う価値がないとたたき込まれているようなので、在校生や他の卒業生を守るための手を打ちながら、その本人とは一線を置き、指導者としての苦みをかみしめながら放置せざるを得ない。ただ、この本は読んでみてもらいたいとは思う。
(山根 太治)
出版元:メディアファクトリー
(掲載日:2011-09-10)
タグ:進化生物学
カテゴリ その他
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オールブラックスが強い理由 ラグビー世界最強組織の常勝スピリット
大友 信彦
ニュージーランドラグビー
2011年9月16日、ラグビーワールドカップ2011ニュージーランド大会1次予選、日本対ニュージーランドの試合は、両国が被った震災への黙祷で幕を開けた。国歌斉唱で横一列に並ぶ日本代表チームの中に外国人選手の姿が目立つ。本大会に戦いを挑んだ日本代表選手30名中、国外出身選手が10名を占めた。その多くがニュージーランド出身者である。中には高校生の頃から日本で生活をしている選手や日本国籍を取得している選手もいる。IRB(国際ラグビーボード)のルールに則って選ばれた彼らは、まぎれもない日本代表選手である。君が代を高らかに歌い上げる姿や日本代表としての誇りを胸に懸命にプレーする姿は見ていて胸が熱くなる。しかし、である。心のどこかにわき出す違和感は否定できない。これについてはさまざまな意見があるだろうし、賛否の分かれるところだ。
さて、ラグビーを追い続けるスポーツライター大友信彦氏による本書は、オールブラックスを頂点とするニュージーランドラグビーに縁のある人へのインタビューで構成されている。そこからうかがい知れる彼の地のラグビー文化を考察する内容は、ラグビーファンには興味深いものだ。現役オールブラックスの声は残念ながら聞けないが、登場する元オールブラックス、またその好敵手だった選手や監督も日本に居住する人ばかりで、だからこそ聞かれる日本ラグビーへの提言も面白い。
遠い憧れ
第1章を飾るのは、1987年に行われた第1回W杯でニュージーランド優勝に大きく貢献したジョン・カーワン氏である。彼のライン際80m独走トライは、24年を経た今でも鮮明に思い起こされる。オールブラックスに選ばれる選手の強さを象徴するシーンだった。当時ラグビーを見る目が肥えていたなら、フォワードの動きを中心に、気づくことはもっと多かっただろうが、あの頃はただその鮮烈なフィニッシャーに心を奪われた。同時に、日本のラグビーと世界トップクラスとの格差に愕然としたものだった。彼がオールブラックスに選ばれたとき、こう聞かれたそうである。「ただのオールブラックスで終わるのか、グッドオールブラックスになるのか、グレートオールブラックスを目指すのか」。上のレベルを目指すには謙虚さを持ち続け、他の人にない努力をすることだと教わったとある。その彼がヘッドコーチとして今回のW杯に向けてジャパン(ラグビー日本代表)を鍛え上げてきた。
映画「インビクタス」の舞台となったW杯1995南アフリカ大会で、ジャパンはオールブラックスを相手に17-145という歴史的惨敗を喫した。まるでディフェンスのいないキャプテンズランのように次々にトライを重ねられるその惨状に、ラグビーファンとして胸がきりきり痛んだことを覚えている。それ以降、代表チームのみならず国内の多くのチームが主にニュージーランドからプレイヤーや指導者を招聘し、日本ラグビーの向上を図ってきた。16年ぶりの対戦で、多くのラグビーファンは、ジャパンが成長してきた部分、ジャパンが世界トップを相手に戦える要素を何か見つけたいと思っていたはずだ。確かにボールをキープして攻撃のフェイズを重ねるシーンもあった。しかし、漆黒の壁にスローダウンされてほとんどの局面でコントロールされていた。ディフェンスにおいても、懸命な姿勢は足が止まってきた終盤も貫かれたが、失点は83を数えた。
主力を温存したとのことだったが、ジャパンのメンバーは精一杯プレーしていたし、以前より外国人慣れしている印象は確かにあった。しかし、ジャパンの持ち味とされるスピードある展開を含め、全ての要素で格が違った。ニュージーランドラグビーは未だに畏怖すべき遠い憧れの存在のままだったのだ。
もっとこだわりを
外国人選手がジャパンに多く選ばれている理由として、まだ彼らから学ぶ時期だというものがある。ただこれは随分前から繰り返されている決まり文句である。代表選手が時とともに入れ替わる中で、外国人代表選手の数は帰化選手を含めて確実に増えているのだ。国内頂点のリーグであるトップリーグに力のある外国人選手がたくさん加わることで見どころは増えるし、日本ラグビーのレベルは確実に上がってきている。しかし、ジャパンには、日本代表としての特別なこだわりがもっと必要ではないか。今回のW杯でも、負傷者によるポジション調整以外に、この世界レベルを経験する日本人スタンドオフがいなかったことも、大きな問題ではないのだろうか。
出発前の東京都知事による叱咤激励にも象徴されるように、代表チームの戦場は結果が求められる厳しい世界である。しかし、彼らは子どもたちの夢でもある。もちろん勝つことが彼らに夢を与える最善の策だろうが、力足らずとも懸命に工夫し身体を張り、誇りを見せる日本人の姿は、いつか自分が強くしてみせるという若者も生み出すのではないか。その子どもたちに、外国人が中核となる今のジャパンはどう映っているのだろうか。
本書にはニュージーランドラグビーを肌で感じてきた日本人も登場している。最終章の坂田好弘氏の話は痛快である。ジョン・カーワンHCは、今回のニュージーランド戦後、強国との試合経験を積ませるため、日本人選手やチームを、協会が尽力して海外の試合に派遣する構想を発表した。現状の日本代表を憂慮するラグビーファンを少し前向きな気持ちにしてくれたのではないだろうか。2019年のW杯は日本で開催される。
(山根 太治)
出版元:東邦出版
(掲載日:2011-11-10)
タグ:組織 指導 ラグビー
カテゴリ 指導
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目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか
伊藤 亜紗
ルールに縛られる
日本が史上最多のメダル数を獲得したリオ・オリンピックはずいぶん堪能させてもらった。水泳はもとよりレスリングやバドミントンでの勝ち方を見て、日本人の気質がずいぶん進化しているとまで思ってしまうほどだった。一緒に観戦を楽しんだ小学校3年生の息子は、さまざまな疑問や質問を投げかけてきた。どうして卓球台はあんなに狭いの? 試合時間がもうちょっと長かったら絶対勝ってたのに!
そんな素朴な問いかけに答えるうちに、今さらながら競技スポーツがルールにがんじがらめに縛られてることに強い違和感を感じてしまった。いや、もちろんルールの存在意義や重要性は重々承知している。規制が厳しいからこその競技であり、その制限の中でありとあらゆる方法を駆使して磨き上げられた技が心を震わせること も身をもって知っている。しかし、スポーツのルールなんてそもそも不公平なものだし、最近のスポーツは科学的という言葉を背景に、やるべきことやしてはいけないことが多過ぎるのではないか。もっと、おおらかでいいかげんな部分が残っていてもいいのに、とそんな風に感じてしまったのだ。
もちろん自分がトレーナーとして現場に出たなら、万全の準備のために当たり前にやるべきことのレベルをできる限り引き上げることに腐心するわけで、自分でも矛盾を自覚している。この感情が溢れてきたのは、自分がその場で折り合いのつくルールを決めながらそれでも結構ゆるい感じで工夫する子どもたちの「遊び」に、身近で浸りすぎたせいかもしれない。
スポーツの空間
さて本書では、視覚障害を持つアスリートの「世界の認識の仕方や身体の使い方」を選手へのインタビューを通じて解きほぐそうとする試みが描かれている。著者は美学と現代アートの専門家である伊藤亜紗さん。
冒頭部分でいきなり私の違和感をピタリと表現してくれた。「スポーツの空間はエントロピーが小さい空間である」と。そう「自由度が低い」のだ、スポーツというものは。本書にあるようにこれは決してネガティブなことではなく、「運動の自由度を下げることで、競争の活性化を高める」重要な特性である。そして視覚障害を持つアスリートにとっては、このエントロピーの小さいスポーツの空間というのは、日常生活よりもずっと「見えやすい」場所なのだと言う。その空間で自分たちの持つ能力をいかに高め活かすのか、障害者スポーツを観る目を開かせてくれる驚きが彼らの話から次々に飛び出してくる。
確かにオリンピックの熱が冷めやらないうちに始まったパラリンピックを観ていると、この人たちはどんな工夫を重ね、どんな想像力を持って何を創造しながらここにたどり着いたのだろうという興味はオリンピックより格段にたくさん湧いてくる。選手の競技に対する取り組みの濃度については比較できるものでなく双方極限の濃密さだろうが、 パラリンピック選手のほうがひとりひとりの特異性がより高く、エントロピーは相対的に大きいと言えるだろう。
オリンピックが「ドラゴンボール」的であるのに対して、パラリンピックは「ジョジョの奇妙な冒険」的とでも言えば伝わる人には伝わるのだろうか。多様なルールによって公平に近づけようとはしているが、それでもあからさまな不公平さが垣間見えるパラリンピックの中で、自分の持つ能力を創意工夫によって引き上げ、懸命に闘った選手の笑顔や涙を観ていると、本来のスポーツが持つ価値というものがより濃く感じられるのだ。
パラリンピックならではの価値を
本書で取り上げられている視覚障害者スポーツを捉える著者の聡明さは此処彼処で強く感銘を受けるのだが、インタビュアーとしては少し押しが強いとも感じた。そこはあなたの言葉でそんなに綺麗にまとめないで欲しかったと感じる箇所が散見されたからだ。同じ競技のアスリートを数名集めた座談会 の形で司会進行に回ったほうが、もっと生の感覚を生の言葉で引き出せたようにも思う。
障害者スポーツを支える多くのサポートスタッフもどれだけの試行錯誤を繰り返し、自分の関わり方を推し量るのだろうか。そんな中、リオ・パラリンピック日本選手団の成績について日本パラリンピック委員会(JPC)会長が「金がゼロなのは予想外。周囲の期待に応えられず残念」と語った。東京オリンピックを睨んでさまざまな思惑があるのだろうし、選手たちはトップアスリートとして金メダルを獲るために日々戦っているのだろうが、できるならメダル数よりそんな選手やサポートスタッフを讃えて、パラリンピックならではの価値を発信してもらいたいと思う。わざとらしい美談につくり上げるまでもなく、多くの驚きがそこにあるだろうから。
オリンピックスポーツであろうがパラリンピックスポーツであろうが、どの選手も同じアスリートとして同様に尊重すべき対象であることに違いはないが、それでもオリンピックとパラリンピックの立ち位置は違っていいように思う。より多くの人の「ポジティブ・スイッチ」を押せるのは、メダルの数では測りきれないのだから。
(山根 太治)
出版元:潮出版社
(掲載日:2016-11-10)
タグ:視覚
カテゴリ 身体
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強くなりたいきみへ! ラグビー元日本代表ヘッドコーチ エディー・ジョーンズのメッセージ
Eddie Jones エディー・ジョーンズ
覚悟と背中
我が子に強くなってもらいたいと、親は願う。強さにも様々な形があるので、それぞれの種類の強さでいい。自分色で強くなってもらいたいと、そう願う。しかし、ただ願うだけでは足りない。「強くあれ」と言葉にするだけでも足りない。我が子とどんな関係を築いていくのか、親としてどう行動するのか、実働を伴わなければならないと個人的には考えている。スポーツの指導者も同じだろう。己の立場をいいことに自らの立ち居振る舞いを棚に上げ、アスリートを支配するようではとても指導者とは呼べない。親や指導者は、子どもやアスリートに対する言動に責任を持つのが当然であり、そこに自らを律する覚悟がなければ、誰かを教育したり指導すべきではない。人は不完全なものだから、「できるか、できないか」ということであれば、この極めてシンプルな真実を隙間なく遂行することは、相当に困難である。しかし「やるか、やらないか」であれば、そうありたいと自らの行動の端々に結びつけることは誰にでもできるはずだ。まさしくその覚悟が「強くある」ことの基盤になり、若い世代に「強くなりたい」と考えさせるために見せたい背中であるのだから。
さて本書は、昨年のラグビー W杯で旋風を巻き起こした日本代表チームの指揮官、エディ・ジョーンズ氏による強くなりたい子どもたちへのメッセージである。氏は代表選手にどんな取り組みを行い、その結果彼らに何が起こったのだろうか。最も重要なポイントは、メンバーの心身のバリアを取り去り、その基準値を大胆にリセットすることにあったと思う。我々は無意識に自分の言動にバリアを張り巡らせている。「どうせ...」「めんどくさい...」「仕方がない...」「誰に何言われるかわからない...」と、言い訳を探せばいくらでも出てくるものだから、結局楽なほうに流れがちだ。「身の程を知る」といった言葉に代表される強固なバリアで自分を守っているのだ。氏は、日本代表が掲げる目標を、単なるお題目ではなく実現可能なものにするために、世界一厳しいトレーニングを選手に課した。そして、それが単なるしごきではなく、目標を達成するために必要な行動だと考えさせることに成功したのだ。自分が今まで考えていたバリアを超えたところにある「あるべき自分」が「ありたい自分」となったとき、以前の自分が決めてしまっていた限界を自らの意思で書き換えることができる。
説得力はどこからくるか
そのためには、エディ・ジョーンズ氏をはじめとしたスタッフの覚悟がまず問われただろう。生き様と言っていいのかもしれない。ラグビー選手たちと同じ種類のハードワークはできなくとも、自身のプロフェッショナル領域における揺るぎないハードワークがなければ、世界一のハードトレーニングは成立しない。氏の妥協なき態度は相当に熱く、周りへの要求は半端なく高いと伝え聞くが、それに応えきったスタッフの方々の力たるや凄まじいものだったろう。
そんなスタッフも選手もその気にさせ続けた氏の魅力がどのように築き上げられたのかについても、本書から伺い知ることができる。圧倒的な力を持たない者が、挫折を知り苦しみを知った者が、強くなりたいと様々な工夫を重ね己を磨き続けてきたその生き様が根底にあるのだ。自分に言い訳をせず、妥協せず、ただ強くありたいと考え、考えうる行動を実践してきた者が、自分を好きになり自信を持つことができるのだろう。そしてそんな風に生きてきた者が説得力を持つのだろう。
子どもたちに、「きみの未来は、希望と無限の可能性に満ちあふれています」と言える大人でありたいと思う。エディ・ジャパンは、金星を挙げた南アフリカ戦の最終局面で、同点にすることを指示したこの指揮官を乗り越え、逆転勝利を挙げた。親父に鍛え上げられた子どもたちが、その親父を爽やかに超えていったのだ。親としては最高の結末ではないか。
ところで、常に「もっと強くなりたい」と考えている主人公が活躍するアニメ主題歌で、「身ノ程知ラズには、後悔とか限界とか無ーいもん!」とあるが、これはいい歌詞だと思う。小学校 3 年生の長男坊が、先日初めて黒帯への昇段審査に挑戦し、残念ながら失敗に終わった。こんなときはチャンスである。存分に悔しがればいいが、恥ずかしいと思う必要はない。黒帯を締めるに足る存在になるように心身を鍛え続け、強くなればいい話だ。まだそんな風になかなか思えない幼なさが残る我が子に、「強くなりたい」と思う気持ちを膨らませ、それを様々な形で行動に移すための気づきを促すところに、親父たる者の果たす役割がある。それができる親父であるために、己もまだまだ「強くありたい」と思い続け、行動し続けたい。
(山根 太治)
出版元:講談社
(掲載日:2017-01-10)
タグ:ラグビー
カテゴリ 指導
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自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
近田 直人
教壇に立つまで
なぜ教える人になりたくなったのか、その原体験は思い出せない。ただ中学時代に「教育大学にいって教師になりたい」と口にしたとき、「そんなんできるわけないやろ」と担任教員に頭ごなしに否定されたことは、今も記憶の片隅に残っている。
中学生で早くも不適格の烙印を押された私は、果たして教育大学に入学した。ただ当時の共通一次試験受験時、とくに国語の問題を「なんで決められた答えから選ばなアカンねん! なんで押し付けられなアカンねん!」となぜだか怒りながら解いていたことも覚えている。 卒業時には、「(ラグビーばっかりしていた)こんなオレが人に範を垂れるなど、まだ早すぎる!」と考えたと同時に、どうしても取り組みたいフィールドと出会い、そちらに熱中した。
どうしても取り組みたかったのはアスレティックトレーナーという領域だった。その専門家として現場に立っているときも、私の中では人を育てるという感覚が強かった。長い紆余曲折を経て、不惑の年にようやく教鞭を取るようになり、それからさらに十年余りが過ぎた。
教師であること
さて本書の著者である元高校教員の近田直人氏は、現在は若手教員の人材育成を中心に活動されている。30年間の熱い教員生活の後、教育現場を政治家の立場から変えるべく大阪府議会議員選挙に打って出て、健闘虚しく落選した。目次に並ぶ見出しを見ているだけでも、「いじめ件数ゼロなんてありえない」「それでも拳で救える生徒はいる」「『自殺は絶対あかん』となぜ言えないのか」「信頼をもって成り立つ服従と愛情を持って強制すること」など、本人を直接存じ上げるわけではないので実際の人となりはわからないが、ある意味「大人の事情」に言いくるめられることなく、一種無邪気に本質にこだわり続けている印象が随所に見られる。
そんな本書を読んでいるとき、記憶の狭間から這い出てきたものがある。教師を目指し始めた中学時代、社会科の授業でディベートをした。世間知らずの私は教師は聖職者であるのが当然だと本心から力説した。そのときの社会科の先生の何か含んだ苦笑い、それを思い出したのだ。いやらしいとそのときの私は感じた。「せめて学校くらいは究極的にピュアな場所であってほしい」と語る著者と、私の性質は近い。ただ、学校という社会で理想に燃える熱血教師だけが存在してもきっとうまくはいかないとも思う。様々な学生たちがいるのだから、様々なタイプの教師がいるべきだ。そのほうが学びが多様化する。それでもなお、聖職者たるもののボトムラインは確立されていてしかるべしだとも信じる。
人間としての性質は単純に善悪が付けられるものではないが、ごくわかりやすい例で言えば、タバコを吸ったり、自らの不摂生で太っているような教師(トレーナーもしかり)は本質的なところで私は信用できない。プラトン、ソクラテス、アリストテレスなどの哲学者は筋骨隆々だったと何かの本で読んだ。真偽のほどは定かでないが、仮に後世で付け加えられた要素にしろ、自らの哲学を語るものにはその存在に説得力がなければならないということだろう。
そこにこだわった上で、その独善的な考えを今度は戒める必要がある。自らがそうあるべきだという考えを押し付けるのではなく、様々な考えを受け止め、受け入れることができなければ教師は務まらない。そのバランス感覚が難しい。教師であることはまさしく修行だ。
人としてどうあるか、どうあるべきか
私が教鞭をとるのは専門学校だ。3年間ではり師・きゅう師の国家資格および日本体育協会公認アスレティックトレーナーを養成する課程である。本書の著者が務めた公立の高等学校とは趣が違う。資格を取得し専門家となるべく目標をもった学生たちが入学してくるのだから、資格取得が教育の第一義になる。しかし過去問題に徹底して取り組むなど、テクニカルに試験合格を目指すことだけに注力するのは正しくない。現場に立ったときに、アスリートや患者の役に立つ存在になれるかどうかが問題なのだ。その準備が整っていないのであれば、まだ資格を取得する必要はない。
鍼灸師にしてもアスレティックトレーナーにしても、人の役に立つ存在になろうと思えば、人としてどうあるかを追求すること抜きには考えられない。そのためにはそこに携わる教師もまた、人としてどうあるべきかを学生たちとともに追求する存在でなければならない。ではそういう私は完璧な人間か。未だ程遠い。ではこれらのことはただの綺麗事か。いや、そうは言いたくない。確かに世の中には悪意も多く存在し、真っ当に生きようとする人間が評価されるとも限らない。だからこそ正論を正々堂々と語れる存在でありたいと取り組むのだ。医療やスポーツに携わる人間はそれを追求しやすい存在のはずだ。
私の場合は「自慢の先生になってやろう」というわけではない。好いてもらう必要もない。ただ、この人に出会ったことは悪くなかったとどこかで感じてもらえる存在でありたいと、日々鍛錬している。本書はそんな私の背骨をより正してくれたような気がする。
(山根 太治)
出版元:ザメディアジョン
(掲載日:2017-05-10)
タグ:教育
カテゴリ 人生
CiNii Booksで検索:自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
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東大式筋トレ術 筋肉はなぜ東大に宿るのか?
東京大学運動会ボディビル&ウェイトリフティング部
何が正解なのか
アプリのスーパー大辞林で検索してみると、「正解」とは、正しい解答または解釈、とある。また「常識」とは、ある社会で人々の間に広く承認され当然持っているはずの知識や判断力、と解説されている。両者は一致しないことも多いし、この世に絶対的な「正解」というものも多くないと感じる。エビデンスレベルの高い情報も、ほとんどのヒトに対して合理的判断を下す基準にはなっても、例外なく全てのヒトにとっての絶対的真実となるわけではない。「トレーニング理論」にも幾多の領域や主義主張があり、何が「正解」で何を「常識」にすればいいのか判断することは未だに難しい。
本書は日本の最高学府のボディビル&ウェイトリフティング部によるトレーニング指南書である。ここは「関東学生ボディビ ル選手権大会で最多優勝を誇る伝統と実績のある運動部」であり、それは「東大全運動部の中でも別格の成績」とのことだ。そんな彼らは「東京大学は、特別な才能がなくても適切な勉強さえすれば、だれでも入れる大学です」と言い切っている。そして「勉強力は筋力である」という部の教えのもと、「特別な運動神経を必要としない筋トレは、才能がなくても適切な努力さえすれば、着実に実力を伸ばすことができる」と日々鍛錬に取り組んでいる。
「筋トレ法には数多くの実証と高度な理論に裏付けられた、効率的な方法論が存在する」のだから、それを考慮した「適切な努力」をすれば結果はついてくるというわけだ。そのためには現在の自分を客観的に評価分析し、何をすべきかを明確にした上で、正しい対策を考え出すことが前提になる。「頭を使って正しい方策を考えることさえできれば、地道な努力が必ず実を結ぶ」のだから。本書で紹介されるトレーニング方法や栄養補給に関する情報に目新しさはない。おそらく筋力トレーニングに関してスタンダードといっていい内容だ。しかしこの「正解」だと思われる事柄を、極めて高いレベルで「常識」にすれば成果は得られる。彼らは受験でもそれを実行し、東京大学入学という結果を得たのだ。彼らのすばらしい生き方だ。
実行、ましてや習慣化は
しかし、世の中にどれだけ「正解」だと思われることがあふれていても、それを「常識」にできる人は決して多くないように思う。「正解」を求めずに済む言い訳など無数に転がっているし、平和な日本であればそれでも生き延びてはいける。たとえば現状より健康になれる方法は玉石混淆ながらいくらでもあるが、実行できる人は少なく、それを習慣化できる人はさらに少ないように思う。とにかく楽をして結果を得たいんだと思っている人間のほうが多いとしたら、それが本来ヒトとしての「正解」であり「常識」であるべき姿なのかもしれない。だとすれば「適切な勉強さえすれば、だれでも入れる大学です」と 言い切れることは、それだけですでに常識を超えているということになる。
そこまで徹底できないにせよ、よりよく生きるために自分なりに努力を重ねるべきだと考える人はたくさんいる。本書で述べられている「理想の身体なくして理想の人生は実現しない」とも「筋トレができない人間は、人生でも落ちこぼれる」とも思わない。むしろ、これらが言葉の綾だったとしても、多種多様な人間をより広く理解してから、国を背負うような場所に行っていただきたいと感じさせる表現ではある。
ただ、よりよく生きようとする行為が、どんな形であれ己を鍛えることと同義だというのであれば、その努力の積み重ねが「人生を豊かにする」ということは「正解」だと思う。野生動物は己を鍛えないというたとえも聞くが、彼らは生き残るための最低限度のところにいるだけだ。彼らがもし鍛える方法を学び、それで現状より生き抜く可能性が上がり、よりよく生きられるということを実 感できるのなら、彼らの「常識」の中にも鍛えるということが「正解」として定着するかもしれない。
別の意味での「正解」
実は「正解」には、結果的によかったと思われること、という意味もあるのだ。こちらならわかりやすい。自分なりの方法で頑張って取り組んで、その道程を振り返ったとき「ああよかった」と思えることが「正解」なのだ。これなら誰にでも「正解」が得られる。人生を振り返って、大した実績はなくても人様にそれほど深刻な迷惑をかけなかっただけで上出来な人生だったと「正解」にしてもいいし、とにかく他の全てを犠牲にして仕事に打ち込んできたことで「正解」としてもいい。のんべんだらりと好きなことだけをして、それでもやってこれたということで「正解」にしてもまあいい。
だがやはり、個人的には妥協を重ねてばかりでは、そこにはたどり着けないと信じる。誰かの役に立ちたいという意識も持ち続けたいし、大切なことを大切だと言える自分でいたい。だから筋トレや他の方法で身体も鍛えれば、自身のやり方で自己向上に取り組んでいる。最期にああよかったと思えるように、自分の「正解」を「常識」にできるように生きていきたいものだ。
(山根 太治)
出版元:星海社
(掲載日:2017-07-10)
タグ:トレーニング
カテゴリ トレーニング
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アスリートのこころの悩みと支援 スポーツカウンセリングの実際
中込 四郎 鈴木 壯
関わり方の基礎
20数年前、鍼灸の勉強をしている頃に心理学の本を読もうと思い立った。いくつか乱読するうちに、河合隼雄という人の本に出会った。直ちにのめり込み、手に入るものは全て読み尽くさねばと思った。専門書として書かれた本は私にとって読み解くにはハードルが高かった。一方で遊び心満載の楽しい文章が並んだ一般書は、楽しめるとともに示唆に富んだものばかりだった。心理学の専門家を目指したわけでもないし、氏の説くユングの考えに深く傾倒することもなかったが、私の選手との関わり方などアスレティックトレーナーとしての立ち位置はその影響を強く受けた。人の心をわかるといったことではなく、「そこにいて」「役に立つ」ことをするという感覚を得たことは、選手との距離感やアスレティックトレーナーとしての仕事のあり方に教えをい ただいたのと同義だった。アスリートの役に立つ存在として、アスレティックトレーナーもカウンセリングマインドというものが必要なのだ。
極限状態の中で
さて、本書ではスポーツ選手に対するメンタルマネージメントとして、スポーツカウンセリングを題材にそのサポートの歴史やサポート内容の変遷、事例などが述べられている。文中でも引用されているが、およそ50年も前のスポーツ科学研究委員会心理学部会報告書で「スポーツ現場というのは、極端ないい方をすれば、生と死が隣りあっている極限状態における“自己実現の創造性”の闘いであり、“特殊な才能の創造性”の争いなのである。したがって、自分を絶えず極限状態に追い込み、極限状況を日常生活的なものとしなければならない。すなわち、この非常な闘いのなかで、なおかつ人間性の深化への努力を、つねに持続せねばならない。たえず、極限状態に追いつめられる選手が、袋小路に入り込まないように人格的な成長を促進させる援助として、スポーツ・カウンセリングのサービ スが必要なのである。」と述べられている。当時から考えれば驚くほどスポーツ科学が普及した昨今のスポーツにおいても、トップアスリートが「非常な闘いのなか」にあることは想像に難くないし、学生スポーツにおいてもそれぞれのレベルで「極限状態」にあることは間違いないだろう。
そのようなアスリートが、そのあるべき姿ともされる「明るく、元気、爽やか」に常にいることは自然なことなのだろうか。考えてみると昔のアスリートとも言える武芸者たちは、「明るく、元気、爽やか」というイメージを求められたのだろうか。召しかかえてもらうには愛想のひとつも必要だったかもしれないが、豪快という言葉は似合っても、自分の主義を曲げてまで阿る必要はなかったようなイメージがある。いやこれはあくまで想像だが。現代のプロアスリートなどはファンやスポンサーがいてこそ成り立つ経済構造があるだろうし、子ども達の憧れの対象でもあるわけだから、完璧な 人間であることを求められることは理解できる。それをやり遂げているトップアスリートは立派だと心底思う。しかしそれをやり続けるのは想像し難いストレスになり得るだろうとも感じる。
共通するもの
「競技遂行困難」「ケガ、痛み」「身体の病気」「身体症状」「精神障害」など自身のメンタルに問題がいつ起こるかわからない状況で、彼らはそれほど精神的にタフでいられるだろうか。いや、「壁を突き破り成長していく選手がいる一方で、身体の故障、そして自分自身が抱える問題が表面化し、それによって競技遂行が難しくなる」アスリートが少なからず存在するわけで、彼らをサポートする人間は必要だろう。アスリートのためのメンタルトレーニングが事前に用意されたプログラムを手順に従って指導する、いわば「教える」ことが中心のサポートであるのに対して、本書で主に述べられているスポーツカウンセリングは「自己理解が増し、内的な成長、そして競技姿勢 の変化」を期待して行うものであり、アスリート自身が「自己発見的な歩み」を通じて「育つ」ことに主眼を置いている。
これはアスリートのすぐそばでサポートするアスレティックトレーナーの心得にも共通する。スポーツカウンセリングマインドともいうべきものが必要なのである。負傷したアスリートが競技復帰を目的に行うアスレティックリハビリテーションにおいても、心理サポートによってリハビリ期間を短縮できるという。それはカウンセリングの形でなくてもできる。傷害に応じたプロトコールを選手にただ指導するのではなく、選手の状態を的確に評価して問題を把握し、その人の「役に立つ」ことを「そこにいて」アスリートと共につくり上げていくのだ。このほうがアスリートの状態をよりよくできるだろうし、リハビリ期間中に自身の身体を再認識し「自己発見的な歩み」を通して「育つ」ことが期待できるように思う。
本書に河合氏の著書からの引用文がある。「心理療法とは、……可能な限り来談者の全存在に対する配慮をもちつつ、来談者が人生の過程を発見的に歩むのを援助すること」だと。アスレティックトレーナーと置き換えてもいい。
(山根 太治)
出版元:誠信書房
(掲載日:2017-09-10)
タグ:スポーツカウンセリング
カテゴリ メンタル
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