アレクサンダー・テクニーク やりたいことを実現できる〈自分〉になる10のレッスン
小野 ひとみ
心身を整える方法、アレクサンダー・テクニークの入門書である。
フレデリック・マサイアス・アレクサンダーは、オーストラリアの舞台役者で、舞台上で自分の声がかすれたり、出なくなったりしたことをきっかけに、自己観察をはじめた。すると、舞台上ではいつも不自然な姿勢で声を出している(頭を後ろに引いて、首に力が入り、ノドを押し下げている)ことに気づいた。よかれと思ってしていた姿勢によって、苦しんでいたのだ。そのことから、からだの誤用(ミスユース)に至るまでの過程(プロセス)に着目し、いくつかの概念(キーワード)によって「自分自身の使い方」を整理していく。
・プライマリー・コントロール
動き出しにはまず頭が動く。これは意識(マインド)・からだ(ボディ)、双方の意味において。これをヘッド・リードという。動きで言えば、幼児の対称性・非対称性緊張性頸反射を思い浮かべるとわかりやすい。はじめに頭が動く・働くことが、からだ全体の動きの「スイッチ」のような役割を果たして、より自然な動きにつながる。
個人的な経験だが、友達とスキーに行ったときに、「行きたい方向に目を向ける」というアドバイスをもらって、より自分の思い通りに滑れるようになったことを、思い出した。
・インヒビジョン
日本語では「抑制」という意味になるが、ネガティブなイメージもあるため、筆者はあえてカタカナで表現している。すぐ反応してパッとからだを動かすのではなくて、グッとこらえて内省・観察する。こういった手順(ミーンズ・ウェアバイ)を意識せずに、結果・目的にすぐ飛びつく(動く)さまをエンド・ゲイニングと表現し、戒めている。
まるで、太極拳のように動作を噛みしめながら、体重をゆっくり移していくようなイメージだろうか。先を予測するのではなく「いま、ここ」に意識を向けるという意味で、マインドフルネスに通じるかと思う。
・ダイレクション
意識・マインドにおける用語である「インヒビジョン」に対して、からだ・ボディにおける用語である。4つの方向性の原則を示す。
①首は楽に
②頭は前に、上に(脊椎との関係において)
③脊椎は長く、背中を広く
④膝は前に、お互いに離れている
ケンダルの分類でいう「軍人姿勢」の場合の、頭は後ろで、胸は前、腰は前弯が強く、骨盤前傾により背中が短くなり、膝は後ろで、かつニーイン、というイメージに対する警告のようにも見えたので、全員に当てはまる原則かなぁ、と正直言ってよくわからない。筆者は、あくまで方向性を意識するということであって、姿勢そのものを指すわけではない、と釘を刺す(この4つの原則を意識しすぎて変な姿勢になるヒトのことを、「アレクサンドロイド」と揶揄するらしい)。
また、アレクサンダーは「正しい動き」にとらわれると余分な力が入り、不自然な動きになってしまうともいう。あくまで、過程の感覚を、心身の気づきを、大切にするのだ。なんだか、わかるような、わからないような。
筆者は、「知っている:I know」と「理解している:I understand 」と「できる:I can do it」との間に、それぞれ大きな隔たりがあるという。知っていることで、わかった気になってしまうことが、よくある。わかっているのにできないことは、やってみて初めてわかる。
さっそくやってみよう。
(塩﨑 由規)
出版元:春秋社
(掲載日:2022-03-07)
タグ:アレクサンダー・テクニーク
カテゴリ ボディーワーク
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自分で治せる! 腰痛改善マニュアル
ロビン・マッケンジー 銅冶 英雄 岩貞 吉寛
1956年、ニュージーランドの理学療法士、ロビン・マッケンジーは、ある出来事をきっかけに、これまでの治療法とは一線を画すメソッドを生み出した。さらにそれは世界中に広がり、リハビリテーションの世界で実践・研究の蓄積によってブラッシュアップされ続けている。マッケンジー法(Mechanical Diagnosis and Therapy: MDT)である。
スミスさんは右の腰〜殿部、大腿部にかけての痛みを訴えていた。その当時、患部を温め、超音波をあてるという治療法が一般的だったが、スミスさんの症状は、この治療で変化がないまま3週間経過していた。
その日、クリニックは忙しく、来院したスミスさんに「うつ伏せになって寝て待っていて」と指示したロビン。少し経って治療室に入ると、びっくり仰天。前の患者さんが使ったまま、ベッドの頭側が上がった状態、スミスさんは、えび反りの形でうつ伏せになって寝ていたのだ。当時その姿勢は腰痛にもっともよくないとされている姿勢だった。焦るロビン。しかし、次にスミスさんが言った言葉にさらに驚くことになる。「この3週間で今が一番いい」なんと殿部〜太ももの痛みが消え、腰の真ん中に痛みが移っていた。これはのちに「中枢化現象 centralization」と名づけられ、予後良好のサインとして整理される。
この出来事を見逃さず、省察したところに、ロビン・マッケンジーの臨床家としての炯眼があると思う。伸展の印象が強いマッケンジー法だが、実際には屈曲、側方のエクササイズもあれば、脊柱だけでなく、四肢の関節の適応もある。マッケンジー法の特筆すべき点は、「自分の健康は自分でつくる」という患者ないしクライアントが、主体性を獲得することを目標にしていることだと思う。その人のゴールに向かって、セラピストは伴走するという協力関係を築くことを理想としたい。
(塩﨑 由規)
出版元:実業之日本社
(掲載日:2022-03-29)
タグ:マッケンジー法
カテゴリ スポーツ医科学
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症状から治療点をさぐる トリガーポイント
齋藤 昭彦
全身の筋別に見開き2ページで完結していて、オールカラーのため、たいへん見やすい。使い方としては、冒頭の「痛みから探すトリガーポイント」で、痛みが出ている部位と、その部位に痛みを起こす可能性のある筋を確認する。その後、個別の筋のページを開くと、まず、見開き左手ページの小見出しに、その筋のポイントが3点書かれている。たとえば腸腰筋だとこんな具合。
・大腰筋と腸骨筋で構成される筋肉の総称
・腰椎と大腿骨を結び、深部で体幹の屈曲や伸展に作用
・股関節の屈曲を過度に行うとTP(トリガーポイント)が発生しやすい
次に、解剖・生理・運動学的な説明が続き、その筋肉にTPを作ってしまうような原因、傾向、さらには注意点が記載されている。腸腰筋の注意点は「腰仙部の機能障害や虫垂炎などほかの疾患と誤診しないよう注意を要します。腰方形筋、梨状筋、中殿筋、大殿筋、縫工筋など、ほかの部位のTPの関連痛パターンとの区別も必要です。」とある。
左手のページ右側にはメモ、キーワード、などがあり、用語の確認などの役に立ち、その筋にまつわる豆知識が得られる。右手のページにはカラーのわかりやすい図と、丁寧に手技の方法まで書いてある筋もある。とくに周りの筋との関係がわかるように他の筋が透かしになっている点が個人的にはありがたい。ただ個別のページにその筋の関連痛の図示などがあればもっとありがたかった。
通読するというより、気になったときに辞典のように参照するのがいいと思う。P25には「症状から予測されるトリガーポイントの部位」と題し、息切れ・咳・下痢・顎関節症・歯痛、etc. さまざまな症状が列挙されていて参考になる。もちろんTPだけで全て説明できるものではないが(この本でも注意点として、他疾患と鑑別することを促している)、軟部組織のトラブルをみる上で、優れたパターニング方法であることは間違いない。
(塩﨑 由規)
出版元:マイナビ出版
(掲載日:2022-04-04)
タグ:トリガーポイント
カテゴリ 身体
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オステオパシー医学入門
S・パリッシュ
オステオパシーの入門書として、歴史・原理・方法などを、わかりやすく解説している。ときおり誤植と思われる点や、現代医学にはそぐわない点があるものの、オステオパシーの概説に興味がある方におすすめしたい。
この本で「オステオパシー療法の四大原則」といわれているものを以下に示す。
第一の原則:構造が機能を支配する
第二の原則:身体における動脈法則は至上のものである
第三の原則:原因を発見し、治し、放置せよ
第四の原則:細胞に正しい栄養素を与えよう
これら以外に「身体は自らの薬をつくりだす」という治療原則も存在する。
オステオパシーを創始したアンドリュー・テイラー・スティルは、3人の息子を亡くした。自身が医者であり、当時最先端の医学を持ってしても救えなかった命だった(英雄医学と呼ばれる、瀉血をしたり、水銀を飲ませたりしていた時代だった)。その経験からスティルは「薬品は毒だ」と言い放ち、比較的安全な徒手による刺激によって、身体を治癒に導く方途を探るようになったと思われる。
この150年ほど前から現在に至るまで、さまざまなテクニックが生まれ進化しているオステオパシーだが、きっかけは息子を想う気持ちだったのかと憶測を立てると、胸が熱くなる。
(塩﨑 由規)
出版元:たにぐち書店
(掲載日:2022-04-11)
タグ:オステオパシー
カテゴリ ボディーワーク
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まんが医学の歴史
茨木 保
医師であり、漫画家でもある著者が、医学史的エポックメーキングな事件とともに、個性的な人物を取り上げる。
取り憑かれたような解剖学者ヴェサリウス。
患者を想う気持ちから、愛護的な治療法を確立したパレ。
好奇心の塊のような「実験医学の父」ジョン・ハンター。
産褥熱撲滅のため、手洗いを励行したゼンメルワイスの孤軍奮闘。
オランダ語辞典もない中、手探りで「ターヘル・アナトミア」を訳しきった杉田玄白と前野良沢。
麻酔薬「通仙散」開発にまつわる華岡青洲の母と妻の献身。
秀才ではあるものの、放蕩ぶりを存分に発揮していた野口英世などなど。
キーワードでしか知らない過去の偉人たちの、人間らしい部分がいきいきと活写されている。現代医学の恩恵に浴している身としては、ゾッとするエピソードも多いが、きっと何十、何百年後の人々には、現代の最新医学もそう思われるのだろう。
同著者の、疾病がイラストつきで解説されている『ビジュアルノート』、解剖生理学を楽しく学べる『まんが人体の不思議』も合わせておすすめしたい。
(塩﨑 由規)
出版元:医学書院
(掲載日:2022-04-18)
タグ:医学史
カテゴリ 医学
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そろそろ部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義
中澤 篤史
「部活」は、日本固有の文化なんだ。知らなかった。
部活には「自主性」の名の下に、教員、学生、保護者が動員されている。自主的な活動なのだから、お金も保障も充分でない。
中学運動部顧問の時間外労働平均時間は過労死ライン80時間を超えている(平成18年度の文科省報告書による)。
平均が過労死ラインを超えてるって、異常事態だ(令和2年4月から時間外勤務が月45時間以内に改善が図られていなければ、校長が職務責任を問われるという「働き方改革」が行われているが)。
さらに体罰の問題がある。桜宮高校バスケットボール部の事件は、大いに世間を賑わせた。キャプテンの子が顧問の先生に宛てた手紙には、批判や不満とともに、自分が顧問の先生の要求に、必死に応えようとしている想いが吐露されている。しかし、彼はこの手紙を先生に渡すことなく、部活に行き続け、最後は死を選んだ。このような事件も「部活」の暗黒面としてある。
だが、多くの人にとって「部活」は、キラキラした青春の代名詞ではないだろうか。少なくとも自分自身にとってはそうだし、たびたび漫画やドラマの舞台になるのを考えれば、一般的なイメージはそんな感じだろう。
だが(だからこそ?)、その裏側には献身を、あるいは参加を、強制されるような実態があり、スポーツの語源(デポルターレ=遊び)からは程遠い現実がある。
「部活」が、さまざまな犠牲を払わなければ成り立たない慣習上の制度であるとするならば、今後も制度疲労としての軋みが、生じ続けることになるだろう。
(塩﨑 由規)
出版元:大月書店
(掲載日:2022-05-02)
タグ:部活動
カテゴリ スポーツ社会学
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天気痛を治せば頭痛、めまい、ストレスがなくなる
佐藤 純
天気の変化で痛みや気分障害が起こる病気を「天気痛」として、さまざまな対処法を紹介している。
古来より天気と人のからだの関連は指摘されてきた。東洋医学の古典にも記述があるし、この本によれば、ギリシャ時代にもあったとのことなので、洋の東西を問わず、昔から知られていた現象なのだろう。
天気が悪くなるとき、低気圧への変動がストレッサーとなって、交感神経が過剰反応するために起きてくる頭痛、めまい、古傷の痛みなどが天気痛の典型例だが、人によって症状は異なる。また、高気圧に変動する場合に症状が出る人もいるということなので、気圧の変動による自律神経の乱れというのが、本書でいう「天気痛」の病態だ。面白いのは、低気圧に変動するときに「躁状態」にスイッチが入る人もいるというところ。台風や時化などを見に行きたがる人はそちらのタイプらしいが、どうだろう。
天気は変えようがないが、できることはたくさんある。まず、自分の症状がどんなときに出るのかを把握するだけで、大きくストレスが軽減する。本書では「痛み日記」をつけたり、「頭痛〜る」というアプリを使った方法が紹介されている。他に、症状が出やすいタイミングで、漢方や酔い止め薬を服用したり、ツボ(手首にある内関、耳周りの完骨、頭竅陰、翳風、足の人差し指にある厲兌)を刺激する。刺激する方法は、爪楊枝の頭を使ったり、ホットのペットボトルに熱湯を入れ、熱さを感じるまで当てるなど。
あとは、頚部の筋緊張を軽減させるためにストレッチや、テニスボールを使った筋膜リリース、抵抗運動を使ったマッスルエナジーテクニックなど、普段、頸肩部への施術で行うようなことが紹介されている。痛みを記録し、自覚を促す点なども含め、切り口が違うだけで、痛みに対する手当てとしてやっていることは同じなのかもしれないと感じた。
(塩﨑 由規)
出版元:扶桑社
(掲載日:2022-05-12)
タグ:痛み 天気
カテゴリ その他
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スポーツする人の栄養・食事学
樋口 満
あまり勉強してこなかった疎い分野だったので、新しく知ることが多かった。普段のご飯の食べ方、スポーツドリンクの取り方や、1日のエネルギー摂取量の求め方など、網羅的な情報が一冊にまとまっていて助かる。
・必須アミノ酸のうち、牛肉やサケ、牛乳に多く含まれるロイシンに、バリン、イソロイシンを加えた3つは「分岐鎖アミノ酸(BCAA:Branched Chain Amino Acids)」と呼ばれ、筋肉づくりにとても重要な役割をしている。
・牛乳に含まれる約3.3%のたんぱく質の80%がカゼイン、残りの20%がホエイ(乳清)で、いずれも筋たんぱく質の原材料になる。このホエイには分岐鎖アミノ酸が多く含まれていて吸収もスムーズなことから、練習や試合の後にできるだけ早く牛乳を飲むと筋肉の回復を促してくれる。
・大豆イソフラボンは、大豆胚芽に多く含まれているフラボノイド(色素成分)の一種で、閉経によって激減する女性ホルモンのエストロゲンに似た作用をもち、骨量の減少を抑える働きがある。大豆イソフラボンがもっとも多く含まれる食品はきな粉、ついで豆腐、納豆、煮大豆、味噌、油揚げ、豆乳などがある。
・必須脂肪酸であるオメガ3脂肪酸やオメガ6脂肪酸は共通して心疾患のリスクを低下させるだけでなく、オメガ3は脳の発育にも重要な役割をはたし、認知症の症状改善の期待が高まっている。オメガ3脂肪酸は植物性油、クルミ(α-リノレン酸)、青魚のDHA(ドコサヘキサエン酸)、EPA(エイコサペンタエン酸)などが含まれ、中性脂肪値を低下させる作用がある。オメガ6脂肪酸(116系脂肪酸)には、植物油やマヨネーズに多く含まれるリノール酸、肉、魚、卵、肝油などに含まれるアラキドン酸、月見草油など特殊な植物油に含まれるγ-リノレン酸などがある。
・国際オリンピック委員会のサプリメントに関する合意声明で、効果が認められているのは「カフェイン」「クレアチン」「硝酸塩」の3つ、カフェインをもっとも含む飲料は、玉露(日本茶)のほか、コーヒー、紅茶、煎茶、ウーロン茶など。クレアチンは、クレアチンリン酸として骨格筋に存在し、瞬発力を高める働きをする。硝酸塩はNO(一酸化窒素)の生成を促し、骨格筋への血流量増大などが見込める。
やせ・月経異常・貧血・骨粗鬆症など、女性特有の問題や、ジュニア、ミドル、シニア世代特有の問題と対処法についても触れられ、競技種目別にもページが割かれている。ほかに、過度な運動のデメリット、たとえば免疫機能が低下し、風邪をひきやすくなる(オリンピックの大会中のアスリートでもっとも多い訴えらしい)、酸化ストレス(活性酸素)によって細胞の働きが低下することで、疲労感につながることなどは興味深かった。スポーツも栄養も「過ぎたるは及ばざるが如し」ということだろうか。
以下の内容がとくに面白いと思った。
・ヨーロッパのサッカー選手を対象に、糖質の摂取量の違いが試合での動きにどのような影響を及ぼしたかを調査した報告(Kirkendall DT, 1993)。試合前に糖質をしっかりとって筋グリコーゲンレベルが高い選手と、糖質をあまりとらずに筋グリコーゲンレベルが低い選手の1試合での移動距離を比較したところ、前者が12km、後者が9.6kmと2.4kmの差が出た。試合中の動き方も、前者の場合、走っている(ジョギング&スプリント)割合が8割、歩いている制合が2割に対して、後者の場合は、双方の割合がほぼ同じという結果が得られた。
栄養素がパフォーマンスに大きく関わっていることが見てとれる。
(塩﨑 由規)
出版元:集英社
(掲載日:2022-05-16)
タグ:スポーツ栄養 食事
カテゴリ スポーツ栄養
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心理療法入門
河合 隼雄
心理療法は、医学モデルによる「治療」とは異なるものである。医学の場合は、病気の原因を明確にし、それに対して薬や手術によって、原因を除去するという方法がとられる。これに対して、心理療法の場合は、根本的にはクライアントの潜在的可能性に頼るというところがあり、「病気を治す」というイメージよりも、その人の本来的な生きる道筋に沿ってゆく、というイメージの方が強いという。
著者は、西洋近代の医学は、こころと身体、医者と患者の区別を明確にすることによって成立したが、実際の医療の場面においては、それらの区別をむしろ明確にせず、「関係性」に注目すべきで、そこに、ホリスティック医学や東洋医学などの有効性が考えられるようになったとし、医療の実際においては、心理療法的な接近法が、身体医学と共に重要である、と語る。
人間存在は「意識」「言語」によって、自然に反する本性を持っている。
こんな例を挙げている。人間が一本の糸杉を見る、という体験。他の動物、たとえば、その木にとまっている鳥や、登ろうとしている猫には、その木は、生きるという体験に組み込まれた、多様で多彩なものになるのではないか。他方、人間にとっては「糸杉」として認識され、自分の体験が一義的に限定されてしまう。
池上嘉彦は「言語は人間の表現、伝達の手段どころか、むしろ知らないうちに人間を支配している君主であるかもしれないのです。この認識は深層心理学における『無意識』の発見にも比することができるでしょう」と述べる。
言語化し、記憶して、ものごとを判断する主体としての自我が強固につくられてくる。このことこそが反自然の元凶だという。人間は、科学技術を使って、自然を制御、または利用し便利な生活を実現させてきた。自然を対象としコントロールすることで、現実は成り立っている。他方で、人間自身も自然の一部である。自然と人間の自我が著しく乖離したとき、補償作用として、神経症、心身症が生じるともいうことができると、著者はいう。
本書で説明される心理療法は、無意識、夢、イメージ、物語などを解釈して、気づきを促し、意識の変容を目指すというのが、おおまかな方針だ。物事を「きり」わけて、発展してきた科学とは、逆方向に思われる「つなぐ」ことによって可能性を探る心理療法。
現代において、医学の大枠は科学によって設計されるべきだが、個別具体的な臨床の現場においては、本書のような内容が、患者さんに資するところが多いように思う。
(塩﨑 由規)
出版元:岩波書店
(掲載日:2022-05-24)
タグ:臨床心理学
カテゴリ メンタル
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ざんねんないきもの事典
今泉 忠明 下間 文恵 徳永 明子 かわむら ふゆみ
動物界・昆虫界の生き物の特徴を面白おかしく解説する本書。まず、キャッチーなフレーズが魅力だ。たとえば、
・サイの角はただのイボ
・アライグマは食べ物をあらわない
・ワニが口を開く力はおじいちゃんの握力に負ける
・コアリクイの威嚇はまったくこわくない
などなど。
副題にあるように、どうしてそうなった!?と思わずにはいられない。専門的には様々な議論があるのだろうけれど、ユーモアあふれる切り口で生物の進化をざっくり説明してくれるのが、この本の魅力だろう。
個人的には、ユカタンビワハゴロモの頭はからっぽ、というのがなぜか一番印象に残った。
(塩﨑 由規)
出版元:高橋書店
(掲載日:2022-05-30)
タグ:生物
カテゴリ その他
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ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと
村上 靖彦
著者は冒頭でこう言う。
「本書では、身体医学と精神医学を連続的に扱い、医療や福祉、ピアサポートなども連続的に扱う。さらには、心と身体と社会も連動的に語られることになる。特に身体については、医療行為の対象となる『臓器』としての側面ではなく、私たちが内側から感じるあいまいな〈からだ〉としての側面にクローズアップしていく。
内側から感じる〈からだ〉の感覚や動き、好不調、気分といったものは、日常的に『心』と呼ばれているものと混じり合う。つまり、私たちの内側からの感覚という視点に立ったとき、身体は客観的に扱うことのできる『臓器』ではなくなり、心と〈からだ〉の区別はあいまいになっていくのだ。」
あいまいなものはとかく排除されがちだと思う。とくに、客観的な指標が重視される現代医学では、画像で表れないもの、数字で示せないものは、「無い」に等しい。しかし、その原因がどうしたってわからないものでも、症状があるという状態はある。とすると、指の隙間からこぼれ落ちるもの、それはささいな、取るに足らないことかもしれないが、見逃すべきではない。
人が発するどんな表現であれ、キャッチする人がいて初めてサインとなる。それは「SOS」として聴き取る人にとってのみ、サインとしての機能を果たし、そしてしばしば、聴き取ることそのものが、ケアとなる。
それは存在を認める、という応答なのだろうと思う。
責任:responsibilityは、レスポンス(反応)するアビリティ(能力)を持ったひとが負うものだと、聞いたことがある。
イヴ・ジネストによって提唱されたユマニチュードという認知症ケアの技法では「目を合わせること」を重要な要素としている。なぜかというと、相手を見ない、ということは、「あなたは存在しない」というメッセージを送ることになる。「あなたは、ここにいるのですよ」というメッセージを送ること、これがユマニチュードの原点だという。
ケアするひと、ケアラーには一般には考えられないほど、感覚の鋭敏性が光る。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の母親を看病する川口さん(逝かない身体)の場合を、著者はこう書く。
「母親の身体は動かないが、娘は代わりに身体の発汗や熱を〈からだ〉のサインとして読み取る。〈中略〉発汗や発熱は生理的な現象であって、意図的な意思表示ではない。それでもこれらがサインたりえているのは、身体の生理現象を〈からだ〉からのサインへと翻訳するケアラーの側の感受性ゆえである。生命を感じ取るという仕方で、川口は母親との〈出会いの場〉を開き続けている。」
ある本で、ALSの患者さんを数人で介助しているグループの対談を読んだ。印象に残っているのは、介助している人たちの「発声の仕方」が、静かにお腹から声を出している、というインタビュアー側の感想だった。
受信モードに徹する介助者には、自身の声でサインをかき消してしまわないように、という配慮が板についている。
ケアの視点で見たときに、身体医学と精神医学を区別する必要は必ずしもない。本書で用いてきた〈からだ〉という概念は身体と心の双方にまたがる経験だ。心身の区別は、そもそも西欧医学が学問的に導入した人為的なものにすぎない。
不眠に悩んだり自傷行為に走る女性たちが、ボディワークとグループセッションによって、身体性と過去のプロセスを再確認し、自らの言葉を獲得する例や、ユージン・ジェンドリンの「フォーカシング」によって、悩みを思い浮かべたときの身体感覚に着目し、言語表出することで、イメージが変容し、実際に身体が楽になる、という例などは、心と身体は分けられないということを示している。
著者はケアについてこう語る。
「ケアは人間の本質そのものでもある。そもそも、人間は自力では生存することができない。未熟な状態で生まれてくる。つまり、ある意味で新生児は障害者や病人と同じ条件下に置かれる。さらに付け加えるなら、弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質である。誰の助けも必要とせずに生きることができる人は存在しない。人間社会では、いつも誰かが誰かをサポートしている。ならば、『独りでは生存することができない仲間を助ける生物』として、人間を定義することもできるのではないか。弱さを他の人が支えること。これが人間の条件であり、可能性でもあるといえないだろうか。」
紹介しきれなかったが、ミルトン・メイヤロフのin place、ドナルド・ウィニコットのホールディング、熊谷の、自立は依存先を増やすこと、など、ケアを読み解くヒントとなるキーワードが溢れている。
(塩﨑 由規)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2022-06-06)
タグ:ケア
カテゴリ その他
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語りかける身体 看護ケアの現象学
西村 ユミ
「見る者、関わる者の見方によって、その存在の在り様が異なってしまう植物状態患者との関わりにおいては、彼らをどのような存在として捉えるか、あるいは彼らとどのように関係しようとするかが大きな問題となる。つまり、看護師の態度によって、あるいは看護師の見方によって、患者へのケアが大きく左右されてしまうのである。」
これが筆者の問題意識だ。生理学的研究やグラウンデッド・セオリーアプローチという方法で、研究を始める筆者だが、どうにも客観的な抽象に傾き、「いきいき」とした具体を取りこぼしているような感覚に襲われる。そこで筆者は「現象学」的アプローチに活路を見いだす。
「現象学は、科学的な認識以前の『生きられた世界』に立ち返ること、すなわち『世界を見ることを学び直すこと』を大切にする。〈中略〉知覚された経験を、それ自体として存在するものではなく、『それを思ったり感じたりする人間の側の志向との関係の中で現象すること』として捉える。世界とはわれわれの知覚している当のものだとメルロ=ポンティはいう。」
前意識的な層、理論化以前の層、あるいは、原初的地層と表現される、主客未分化で、混沌とした世界に分け入り、答えを探すために著者は、植物状態患者を担当する看護師にインタビューを行う。
「メルロ=ポンティによれば、知覚の主体としての〈身体〉を顧みるには、主体・客体といった二項対立を越え出なければならず、そのために『見つけださなければならないのは、主観の観念と対象の観念のこちら側にある、発生段階での私の主観性の事実と対象とであり(略)原初的地層なのである』としている。ところがこの『原初的地層』は、意識に立ち昇ってくる手前の『思考よりも古い世界との交わり』であるため、このような前意識的な層は『直接われわれの意識に開示されることはないし、他方、いうまでもなく、外的知覚によっても全く届きえない』〈中略〉こうした目でものを見る、つまり視覚が対象をとらえる機能として働き出す手前の未分化な知覚のことを、メルロ=ポンティは原初的地層における『共感覚』と言っている。そして、音を見たり色を聴いたりする感覚の交差というのは日常的に現象していることであり、むしろ『私の眼が見るとか、私の手が触れるとか、私の足が痛むなどと言うが、しかしこれらの素朴な表現は、私のほんとうの経験をあらわしてはいない』とし、『われわれがそれと気づかないのは、科学的知識が【具体的】経験にとってかわっているから』であるという」
言葉、知識というものによって、より抽象的な事柄を思考することができるようになった。他方で、スパッと裁断してしまった枠組みの「あわい」に広がる世界には、目が向きにくいのかもしれない。
名を知ることと、わかることは違うが、感じることはもっとずっと手前にある。奥にあるように思えるのは、やはり言葉と、それにひっついてまわる観念に惑わされているからかもしれない。
「私は触わりつつある私に触わり、私の身体が『一種の反省』を遂行する。私の身体のうちに、また私の身体を介して存在するのは、単に触わるものの、それが触わっているものへの一方的な関係だけではない。そこでは関係が逆転し、触わられている手が触わる手になるわけであり、私は次のように言わなければならなくなる。ここでは触覚が身体のうちに満ち拡がっており、身体は『感ずる物』、『主体的客体』なのだ。」
「ケアを行なう者にとって『この世界で他の人と実際にかかわっている』という感覚、つまり触れ合っていることがいかに大きな意味をもっているかは、メイヤロフによっても述べられている。この感覚は、ケアの実践によって自分が『場の中にいる(in-place)』こと、つまり世界の中に『自分の落ちつき場所』を得ているということであり、またこのような場を与える『対象(他者)』は、『私の不足を補ってくれ、私が完全になることを可能にしてくれる』のである。ゆえに、この他者は『私とその対象をともに肯定するという意味で、自分の一部』なのであり、私と『補充関係にある(appropriate others)』呼ばれることになる。そして『場の中にいるということは、私と補充関係にある対象への私のケアによって中心化され、全人格的に統合された生を生きること』となる。」
触わるものが、触わられる。ケアするものが、ケアされる。という逆転が現場において起こっているのではないか。
このin placeは他書では「しっくりくる」とも訳されている。
インタビューにおいて、ひとつひとつ細かく分析するのではなく、芋づる式に言葉が出てくるように、対話したという。そうすることで、筆者と看護師の主客未分化な状態、一つの間身体性から生成された言葉を、拾い上げた。
写実主義のなか、エスキスだ、未完成だと揶揄され、評価されなかった印象派の画家達、しかし彼らは、光、空気、雰囲気を描き続けた。それが紛れもない「ほんと」だと思ったからだろう。カバーの「星月夜」は、そうともとれるが、果たしてどうか。
(塩﨑 由規)
出版元:講談社
(掲載日:2022-06-15)
タグ:ケア 現象学
カテゴリ 身体
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レベルアップ! スポーツ外傷の診かた
齋田 良知
これは良書だ。何度も見返すことになると、まだ通読していないながら思う。
さまざまなスポーツの外傷30症例が記載される本書。患者と現場ドクターとコンサルト医の対話形式が、まず読みやすい。患者の訴えもリアルで、イメージしやすい。
医師同士の会話では、画像診断で注意すべき点や、保存療法と観血療法それぞれの予後、各種分類やリハビリのプロトコルなどが、参考文献つきで示される。かといって、無味乾燥とした情報の羅列になっていないのがよい。患者、現場医師、指導医の間で、実際にケガをした時点から時系列で、診断プロセスの過程が見える。
どうしても専門書は、かたくて、実感を伴わない、時に机上の空論に思えてしまうこともあるが、この本にはそれがない。対話形式でないと書けないような臨床的なポイント、経験的にはこういえる、という点も含め描かれているのが他書にはない本書の特徴だろう。
知識を現場でどう運用するか、というHow to本として優れている、と感じた。電子版付きなのも嬉しい。
(塩﨑 由規)
出版元:日本医事新報社
(掲載日:2022-06-24)
タグ:外傷
カテゴリ スポーツ医学
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イップス スポーツ選手を悩ます謎の症状に挑む
石原 心 内田 直
イップス、それは自動化された運動に起こる。器質的な問題はないが、機能に障害がある状態。ハードウェアではなく、ソフトウェアの不具合によって、今まで当たり前にできていた動きができなくなる。
運動の習得は、認知、習熟、自動化という段階をたどる。動作を自動化することで、状況判断にリソースを割くことができる。たとえば、一挙手一投足を考えながら行っていては、ほかに何も考えられない。スポーツ以前に、日常生活でも私たちは運動の自動化を行っている。スポーツにおいては、緊張・不安などの刺激により、自動化された運動に過剰な運動調節が介入することで、円滑な運動が阻害されるというのが、イップスの病態のよう。
ボディワークによっては、むしろ動きを分解し、噛みしめるように感覚を味わう、そんな向きのものが多いが、イップスには有効なんじゃないだろうか。
ともあれ、イップスという事象が広く知られ、対策が講じられて、スポーツを嫌いになったり、辞めてしまったりするひとが減ればいいな、と思った。
(塩﨑 由規)
出版元:大修館書店
(掲載日:2022-06-25)
タグ:イップス 投球
カテゴリ スポーツ医科学
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痛み探偵の事件簿 炎症? 非炎症? 古今東西の医学を駆使して筋骨格痛の真犯人を暴け!
須田 万勢 小林 只
西洋医学と東洋医学に通じた写六先生が指導役となって、数々の難事件(症例)を解決していく。メインで治療にあたるのはワトソン役の先生で、最後には患者に薬を出しまくるモリアーティ役の先生が登場するという珍設定。
だが当然ながら、内容はまじめ。主にエコー下でのファシアハイドロリリース(FHR)を用いて、治療にあたる。超音波診断装置で癒着部位を確認しながら、生理食塩水を注射していくと、組織がミルフィーユ状にほどけていき、疼痛が消え、可動域が改善する、という。エコーの動画をQRコードで読み取って見ることができる。
ときおり、『fasciaリリースの基本と臨床』を引用しながら、最新の解剖学的知識、東洋医学的視点からの仮説を、写六先生が教えてくれる。
著者はダニエル・キーオンの『閃く経絡』の翻訳にも関わった医師で、現在はリハビリスタッフや鍼灸師など、コメディカルスタッフと協調しながら、患者の治療にあたっているという。
前回に引き続き、対話形式の本で、改めて気づいたのは、診断プロセスでよくある見落としについて、理解あるいはイメージしやすい、ということだろうか。今回はワトソン役の先生がいろいろ間違ってくれるのがありがたい。治療が難航しているとき、写六先生が現れ、的確なアドバイスをくれる。ホームズの名言の引用も忘れない。
FHRじゃなきゃだめなのかどうか、は自分には判断がつかないが、ファシア、エコー、鍼灸など、トレンドを押さえつつ、東洋医学と西洋医学の視点が入っている本というのはあまりないので、その点貴重だと思う。
共通言語としての解剖学は東西問わず必須だ、という意を強くした。
(塩﨑 由規)
出版元:日本医事新報社
(掲載日:2022-06-27)
タグ:fascia ハイドロリリース
カテゴリ 医学
CiNii Booksで検索:痛み探偵の事件簿 炎症? 非炎症? 古今東西の医学を駆使して筋骨格痛の真犯人を暴け!
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「ユマニチュード」という革命 なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか
イヴ・ジネスト ロゼット・マレスコッティ 本田 美和子
ユマニチュードとは人間らしさを意味する言葉であり、ユマニチュードと名づけられたケア技法は、徹頭徹尾、目の前の人間の存在を認め、尊重するということを大切にする。
慣習として行われてきたケアの方法は、医学の権力によって、患者の主体性をないがしろにしてきた。ひとを救う(あるいは介助、またはケア、キュアなど)という名目のもと、そのひと自身の気持ちを無視してきた、と。その反発として認知症高齢者が暴れたり、叫んだり、言うことを聞いてくれなかったりするのだという。背景として、無意識の宗教的価値観が関わっているという考察が面白い。
おもに西洋の修道院で行われてきた、他者への奉仕は、辛く苦しい、単調で退屈な仕事だった。しかし、だからこそ自分の救済への道がひらける。苦なくば、楽はなし。no pain, no gainということになる。その意味ならば、悲劇のヒロインに付き合わされて、いい迷惑だ、という構図なのかもしれない。
だけれどケアは本来、する側も、される側も心地よく、楽しいものだというのが著者2人の主張。ひとの目を見て、手を触れ、言葉を交わし、できるだけ立位で、動かせる部分は動かしてもらう。決してどちらか一方通行ではない、依存ではない自立は、交換つまりコミュニケーションから始まる。
人間関係抜きの技術論では、容易にひとはモノ化される。そこから悲劇は起きてきたと、革命家たちが獅子吼する。
(塩﨑 由規)
出版元:誠文堂新光社
(掲載日:2022-07-04)
タグ:ユマニチュード ケア
カテゴリ 人生
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これがボディワークだ 進化するロルフィング
小川 隆之 斎藤 瑞穂
アイダ・ロルフはロックフェラー研究所で生化学者として働いていたひとだ。ヨガ、カイロプラクティック、オステオパシー、アレクサンダーテクニーク、ホメオパシーなどを学び実践しながら、一時はカークスヴィルにあるオステオパシーの学校で講師も務めた。
当初ロルフィングは治療手技として始まったが、この本を読むかぎり、だんだんボディワークとしての色が強まってきているよう。ロルフィングを身体教育(ソマティックエデュケーション)とみた場合、同時に治療モデルは成り立たない。クライアントは受け身ではなく、主体的にセッションに取り組むことを求められる。ロルファーはクライアントの身体感覚の拡張、深化をあくまで補助する、という立場らしい。
ロルフィングという言葉をはじめて知ったのはトーマス・W・マイヤースのアナトミートレインだった。そのときバックミンスターフラーのテンセグリティという概念にもはじめて触れた。その後しばらくしてクリニックの勉強会でArchitecture of Human Living Fasciaをやったときに、映像をみながらファシアやテンセグリティというものがおぼろげながらイメージできた。
アイダ・ロルフは、ずいぶん前からファシアに言及している、先見の明のあるひとのよう。個人的な感想として、ボディワークと呼ばれるものは、書籍を読んだだけでは、よくわからない。そのわからなさについて、本書で書かれていることは、だいたい以下のようなもの。
感覚には上位のものと、下位のものがある。視聴覚は上位で、触味嗅覚は下位。その理由は、対象との距離だという。つまり、より客観化できる感覚が上等だとされてきた。ベースにはプラトン・デカルト以降の心身二元論がある。アリストテレスによれば、より対象の差別性を認識できる優れた感覚は視覚だという。言うまでもなく、ひとの感覚情報の認識は、多くを視覚に頼っている。
しかし、ボディワークというのは身体感覚の探求で、身体図式の再構成を行うもの。視覚も当然含まれるが、おもに内的な運動感覚を養うものが多い。
自転車に乗れるようになったときに、乗れなかったときの感覚には戻れないような変化は、多くのひとが味わっているはずであるし、なんらかのスポーツに取り組んでいたひとならなおさら、技能習熟の過程で身体感覚的なブレークスルーを確かなものとして経験してきたと思う。
けれど、やってみたひとにしかわからない、わかったひともそれを説明するのが難しい。可視化できない感覚的な確実さは、なかなかひとには伝わらない。そのあたりが、ボディワークのわかりにくさの理由かと思われる。
長らくロルフの著作は翻訳許可がおりなかったらしく、あまり日本語ではお目にかかれないので、ちょっとずつ原書ものぞいてみたい。
(塩﨑 由規)
出版元:日本評論社
(掲載日:2022-07-11)
タグ:ロルフィング
カテゴリ ボディワーク
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問題解決モデルで見える理学療法臨床思考 臨床実習・レポートにも役立つ統合解釈テクニック
加藤 研太郎 有馬 慶美
熟達したセラピストは、患者のもつ問題を解決するための構造を持っている。それは「型」ともいえる。
古典芸能でいう「守破離」の「守」を示そうというのが、本書の意図するところ。問題解決には専門知識が必要となる。のみならず、その知識を活用し、臨機応変に考え、動くことが、現場では求められる。本書ではICF(国際生活機能分類)をもとに参加、活動、機能・構造ユニットにわけ、介入プランや制約条件を示す。各項目では最初に典型モデルとして、症例の問題解決構造が「見える化」されている。
最大公約数的な構造化は、当たり前に感じやすい。もっといえばつまらなく思ってしまう。けれど、目印がなければ道に迷ってしまうように、「何か」は必要になる。
ただ、万事正しいルールは存在しない。ここにマニュアル化することの難しさがあると思う。
(塩﨑 由規)
出版元:文光堂
(掲載日:2022-07-12)
タグ:理学療法
カテゴリ 医学
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命の格差は止められるか ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業
イチロー・カワチ
世界トップクラスの平均寿命を誇る日本。その理由はソーシャルキャピタル(社会関係資本)にある。つまり、人びとの「絆」や「お互い様」といった日本語表現にもみられるような人間関係が、ひとの健康に大きく影響しているという。
パブリックヘルスは川の上流で何が起きているのか、鳥の目で俯瞰することによって、人びとの健康に与える要因を見定める。なぜ、アメリカでは健康意識が高いひとが多いにもかかわらず、不健康なひとが多いのか? という疑問を追ってきた著者は、まず格差の問題を挙げる。所得が健康に与える影響というのはわかりやすいかもしれないが、実は所得が多いひとにとっても、格差があることによって健康に悪影響がある。
所得格差は健康格差に直結する。そして、その影響は次世代にも引き継がれる。低所得の親の子どもは肥満になりやすく、糖尿病、うつ病などの罹患率も高くなる。筆者は所得の再分配は健康政策でもあるという立場だ。
また、12年以上教育を受けた場合と、そうでない場合には死亡率に2倍もの差がつく。幼少期の教育は100万円投資したとすると、年間17万円もの利益が出るらしい。ほかに、マシュマロテストやペリー就学前プログラムなどを引きつつ、早期教育の重要性を訴える。
なぜ不健康なひとが多いのか? 1つには健康に影響を与える民間企業の努力があるという。ここには、ひとは必ずしも合理的にものを考えるようにはできておらず、その時々の直感や感情によって行動を決定している、ということが関わっている。そこを巧みに利用してきた民間企業の広告・宣伝の力が、人びとの不健康に一役買っている。行動変容には個人の思考、心理によるところが多いと思われてきたが、実は身のまわりの人々や、環境によって意思決定していることが少なくない。そこで、社会全体として人びとの健康リスクを下げる取り組み(ポピュレーションアプローチ)が必要になってくる。
さまざまな興味深いデータを示しながら、ひととひととの関係性が、個人の健康、ひいては人生の幸福につながる、という主張と読んだ。すこし日本を褒めすぎな気もした。
(塩﨑 由規)
出版元:小学館
(掲載日:2022-07-20)
タグ:健康 格差 公衆衛生
カテゴリ その他
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伊能忠敬 日本を測量した男
童門 冬二
言わずと知れた、日本を測量し、地図をつくった人。生い立ちは決して明るくない。
母を亡くしたあと、婿養子だった父は、家を追い出されるように実家へ戻る。そのとき、上2人の兄弟は連れて帰るが、忠敬は置いていかれる。その後、父親に呼び寄せられるが、忠敬に対する態度は冷たいままだ。置いていかれた庄屋では、年貢の取り立てなどのために、役人の出入りが多くあった。そこで忠敬は、そろばんの使い方を教わり、計算を覚える。夜になれば空を見上げ、星を眺めた。悪いことばかりではなかったのかもしれない。
やがて忠敬は伊能家に婿養子として迎えられる。不幸が続き、跡継ぎがいない状態で切羽詰まり、白羽の矢が立ったのが忠敬だった。伊原村では、伊能家は永沢家と並び、ご両家と呼ばれる名家だった。しかし、姓を名乗り帯刀が許される永沢家に遅れをとっていた伊能家は焦っていた。最初こそ白眼視されていた忠敬だったが、次第に頭角を表し、伊能家のみならず、地域のひとびとにも感謝され、信頼されるようになる。この過程を興味深く読んだ。
奉行所との折衝では伊能家3代前の景利が残した膨大な資料に助けられながら、自身の主張の正しさを証明する。天明の大飢饉では、非常時のためにプールしていた財産をすべて吐き出し、佐原村のひとびとだけでなく、放浪者のために炊き出しも行う。伊能忠敬は、世のため人のためにしなければいけないことは、率先して行わなければならない、という考えを生涯持ち続けた。
その公僕精神が災いしてか、日本測量の旅では、まわりのひとびとと、摩擦や軋轢を生むこともあった。それは52歳の伊能忠敬が、31歳の高橋至時に師事してからの話になる。サムエル・ウルマンの青春の詩がぴったり。
(塩﨑 由規)
出版元:河出書房新社
(掲載日:2022-07-25)
タグ:地図
カテゴリ 人生
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アフガニスタンの診療所から
中村 哲
著者は、アフガニスタンとパキスタンのあいだ、ティルチ・ミールというヒンズー・クッシュ山脈の最高峰に登るため、当地を訪れた。道すがら、病人をみた。しかし、必要な医薬品は手に入らず、著者いわく子どもだましの、診療のまねごとをしながら、病人を見捨てざるをえなかったという。それ以降もたびたび、アフガニスタンを訪れることになる。
1984年5月には「らい根絶計画」のため、ペシャワールに着任、86年、アフガニスタン難民問題にまきこまれ、JAMS(日本アフガン医療サービス)を組織、87年活動を国境山岳地帯の難民キャンプに延長、88年アフガニスタン復興の農村医療計画を立案、89年アフガニスタン北東部へ活動を延長し、今日に至るとある(執筆時)。
著者を駆り立てたのは、ヒンズークッシュ山脈を訪れたときの衝撃、あまりの不平等という不条理にたいする復讐だという。しかし、同時に、ただ縁のよりあわさる摂理、人のさからうことができないものによって当地に結びつけられた、とも。識字率や就学率は、都市化の指標にすぎず、決して進歩や、文化のゆたかさを、さし示すものではない。発展途上国を後進国としてみるなら、先進国を発展過剰国と呼ぶべきだ。私たちは貧しい国に協力に出かけたが、私たちはほんとうに、ゆたかで、進んでいて、幸せなのか。国際協力は、自分の足もとを見ることからはじめるべきだ、と著者はいう。
アフガニスタンと聞いてどんなイメージをもつか、人それぞれだと思う。しかし身近に感じるという人は日本では少ないのでは、と想像する。アフガニスタンという国は多民族国家らしい。複雑な民族構成や、歴史的な経緯については、残念ながら頭に入ってこなかった。人々の持つしきたりや習わしにも馴染みのないものが多い。ただ、その土地で文字通り生き死にした著者の目を借りれば、そこにいるのは泣き笑い、病み苦しむ、自分たちとなんら変わりのない人たちだと知れる。それだからこそ著者は、人々が置かれた環境の不公平さに憤然としたのではなかったか。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2022-07-26)
タグ:医療
カテゴリ 人生
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はみだしの人類学 ともに生きる方法
松村 圭一郎
ひとをどんな存在としてとらえるか? それが、世界の成り立ちを理解することであり、現在直面している問題を考えることでもある。この問いを出発点にして、本書は始まる。
ひととひとがいれば、そこには関係が生まれる。これを「つながり」とする。さらに「輪郭が強調されるつながり」と「輪郭が溶けるつながり」のふたつに大別する。
文化人類学は、どちらかといえば後者を大切にしてきた、と著者はいう。自分が揺さぶられ、境界線がわからなくなり、自分自身の変容を迫られる。とくにフィールドワークで異なる文化圏に長期参与する場合は、そうでなければ生活できない、と。
他者に開かれていること。自分を維持しながらも、他者との出会いによって新しい自分が引き出され、つい境界線をはみだしてしまうような関係性、それが正しい、というのではなくて、その方が生きやすいのでは? と著者はいう。
細胞膜を、思い浮かべた。細胞膜は半透膜だ。通すものと通さないものが、条件によって変わる。あるいは、膜の一部とともに物質を出し入れしたりもする。その働きによってホメオスタシス、つまり生体の恒常性は維持される。一定に保たれる、というより、ある範囲でゆらいでいる、というイメージの方が近い。細胞は常に外部と接触し、しなやかな境界面を変化させながら、場合によっては異物を内部に取り入れ、途方もない時間をかけて進化してきた。
もし細胞膜が、硬直した構造と機能しか持たなかったら、いきものは存在しない。そんな、ちょっと飛躍したことを考えた。
(塩﨑 由規)
出版元:NHK出版
(掲載日:2022-08-02)
タグ:文化人類学
カテゴリ その他
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古くてあたらしい仕事
島田 潤一郎
出版社を営む著者が出版社を始めたきっかけは、採用試験に落ち続けたことと、従兄の死だという。たった1人で企画、営業、経理、発送、その他を行い、年に3冊それぞれ2500部程度を刷る。それが1人で、手紙のような本をつくる限界だと考えているからだという。
本を読む時間は、どんな内容の本であれ、現在の自分というフィルターを通して読む。自分と重ねたり、ツッコミを入れながら、行きつ戻りつ読み進める。時々ハッとするような言葉に出会ったり、まるで目の前に著者がいて、説教されているような気分になることもある。
家族のことを想ったり、仕事のことを考えながら、あるいは、過去を思い出し、未来を想像しながら読書する。そのなかで、気づきや慰め、希望、新しい視座を得て、ちょっと身の回りが明るく、見通しがよくなる。著者や自分自身、ひいては、この世界との対話、といっても言い過ぎにならないのが、本を読むこと、なのかもしれない。
一人ひとりに向き合い、寄り添うような本づくりをする著者の仕事に、感銘を受けた。
(塩﨑 由規)
出版元:新潮社
(掲載日:2022-08-22)
タグ:仕事 出版
カテゴリ 人生
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スポーツをしない子どもたち
田中 充 森田 景史
本書を執筆したきっかけ、それはスポーツ庁が小学5年生と中学2年生を対象に、年一回実施している体力テストだったという。令和元(2019)年度全国体力テストでは、握力や反復横とびなど、実技8種目を点数化した体力合計点の平均で、小5男子は2008年度の調査開始以降で最低の数値、中2男女いずれも前年度よりも数値が下がっていた(ちなみに、令和2年度は調査を中止、令和3年度の調査では小5、中2の男女ともに令和元年度の調査より体力合計点が低下していた)。
都市部ではとくに、公園でのボール遊びを禁止したり、子どもの遊ぶ声を騒音だ、などとして、子どもが思いっきり遊べる場所が少なくなっている。ほかにもスマホやゲームの影響、スクリーンタイムの増加は、スポーツ庁も指摘している。それに輪をかけて、令和3年度の調査ではコロナ禍の影響がもろに出ていると思われる。東日本の震災後、福島の子どもたちの体力テストの結果も低下した。その後、さまざまな取り組みのなかで調査の結果は改善しつつあるという。しかし、運動発達には適齢期がある。スキャモンの発育曲線などは有名だが、運動神経の応用力がもっとも発達するのは、9〜12歳までの、ゴールデンエイジと呼ばれる時期だ(3〜8歳までのプレゴールデンエイジも大事だとされている)。その時期に、外遊びの機会を奪われた子どもたちのからだへの影響は、中長期的に出てくるのかもしれない。
ちなみに、今の小学生は「公園派」と「ゲーム派」に、はっきり分かれるらしい。公園に集まってゲームをしている子たちは、どっち派なんだろう。
(塩﨑 由規)
出版元:扶桑社
(掲載日:2022-08-24)
タグ:子ども 発育発達
カテゴリ 身体
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歴史を活かす力 人生に役立つ80のQ&A
出口 治明
テーマごとに問答形式で歴史を紐解く本書。
常に現代の状況との関連で歴史を見ていくので、教科書的な退屈さはなく、ついひとに話したくなるようなトピックが溢れている。
たとえば、なんで世界中に民族衣装はあるのに、洋服がベーシックになっているのか。これは産業革命がイギリスで発生したことに起因するという。それまでの主だった産業である農耕牧畜が天候の影響を受けやすかったのに比べ、工業生産は安定して生産物を供給できることから、自国にも工業生産を取り入れようと世界中からひとが集まり、洋服を着て帰国したため広まったらしい。
ほかにも、中華料理が世界中に広がっている背景には、アヘン戦争以降のイギリスの世界戦略に中国人の人びとが労働力として利用され、各地に離散したこと。また、石炭などを利用した火力革命によって、中華料理の特徴である、高温で食べ物を揚げたり炒めたりする技術が発明されたことで、どの国のどんな食材でも簡単に調理できるようになったことが理由だという。
意外だったのは、フランス料理の起源はイスラーム帝国にあり、一品一品出てくる様式はロシアの寒冷環境で、料理が冷めないように、という配慮から生まれたこと。フランス料理がフランスで大衆化したのは、フランス革命によって失業した宮廷料理人たちが、町で続々と開業したことで広がっていき、一部は当時相当なフランスかぶれだったロシアに流れ、今のフランス料理の形式になったという。
もっと前に遡れば1492年に新大陸を発見したコロン(編注:クリストファー・コロンブスのスペイン語読み)によって新旧大陸間で、動植物や食材の行き来があったことが、今の食卓の光景に影響を与えている(このときより前にはピザやパスタにトマトは使われていなかった!)。
ちなみに、この「コロン交換」によって新大陸に天然痘や麻疹、コレラなどの病原菌がもたらされ、免疫を持っていなかった大勢の原住民が命を落とす。その結果、農地や鉱山で労働力が必要になったヨーロッパ人は、アフリカ大陸から黒人の人たちを奴隷として連れてくることになる。
学校で歴史を習っているときに退屈だったのは、自分とは全然関係のない話だと思っていたからだと思う。ある程度、馬齢を重ねたことも、ほんの少し歴史に関心を持ったことに貢献しているんじゃないかと考えている。
(塩﨑 由規)
出版元:文藝春秋
(掲載日:2022-08-27)
タグ:歴史
カテゴリ 人生
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オープンダイアローグとは何か
斎藤 環
フィンランド西ラップランド、トルニオ市のケロプダス病院で、ユヴァスキュラ大学教授ヤーコ・セイックラさんが中心となって行われているこの治療法。導入した結果、西ラップランド地方では、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮され、投薬を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられていた。フィンランドでは公的な医療サービスとして認められていて、希望すれば無料で治療が受けられるという。
治療のおおまかな流れは次の通り。患者、あるいは患者の家族からオフィスに電話が入る。最初に電話をとった医師、心理士、看護師などがリーダーとなり、メンバーを招集して、24時間以内に患者の自宅やオフィスなどで対話を始める。ミーティングは患者本人だけでなく、家族や親戚、治療チーム全員で行い、いわゆる司会者や議長といった役割は存在しない。特筆すべきは、リフレクティングといって、治療チームのミーティングを患者の許可を得て、患者・患者の家族の前で行うことだ。
オープンダイアローグはおおむね10〜12日連続で行われる。オープンダイアローグの理論には2つのレベルがある。「詩学」と「ミクロポリティクス」という。また、「詩学」には3つの原則があり「不確実性への耐性」「対話主義」「社会ネットワークのポリフォニー」とよばれる。理論的にはグレゴリー・ベイトソンのダブルバインド理論が柱としてあり、思想家ミハイル・バフチンや心理学者レフ・ヴィゴツキーの影響があるという。
不確実性への耐性とはどういう意味かというと、答えを急いで出さずに、あいまいなまま対話を続ける。いわゆる診断はなされない。どんな治療をするか、病状の見通しはどうか、ということも棚上げし、ミーティングを重ねる。対話主義は、バフチンの「言語とコミュニケーションが現実を構成する」という社会構成主義的な考えに基づくという。対話を繰り返す中で、患者の病的体験の言語化・物語化を目指す。社会ネットワークのポリフォニーとは、参加者のあいだで、複数の声が鳴り響くこと。基本的にオープンクエスチョンで、発話を促し、発話に対しては必ず応答する。
1つの答えを探すためではなく、多様な表現を生成することを重視している。ミクロポリティクスは、社会ネットワークを活用しながら患者の社会参加を促す「ニーズ適合型アプローチ」という1980年代にフィンランドで開発された手法から引き継がれていて、治療上の決定には、治療チーム、患者、家族や親戚、あるいは友人など、参加者全員が関わることをいう。
本書でも紹介されているとおり、北海道の「べてるの家」では同じような取り組みがなされている。自分の症状や病気についてオリジナルな名前をつけて、研究・発表する「当事者研究」や、三度の飯よりミーティングというスローガン、あるいは、医師のインタビューにある「べてるは日本語学校」という言葉からも、オープンダイアローグとの類似点が垣間見える。言葉にすること、あるいはストーリーとして、自分が受け止められるようにすることに治療の主眼は置かれている。
想像を絶する体験であっても、言語化・物語化されることで、当事者は楽になる。ただ、それは自然に獲得される副産物であり、オープンダイアローグの目的はあくまで対話だ。対話が対話を自己生成していく様子を、生物学でいうオートポイエーシスと表現したり、著者・訳者はジャズの即興演奏にもなぞらえる。芸術家や文学者には精神疾患を患ったひとが多いように思う。それらの創作物は、言語化・物語化に限りなく近いのかもしれない。モノローグ的だけれど描かず(書かず)にはいられない、という衝動には、自己治癒への試み、という面があったのかもしれない、と思った。
(塩﨑 由規)
出版元:医学書院
(掲載日:2022-08-29)
タグ:オープンダイアローグ
カテゴリ 医学
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仮面の家
横川 和夫
実際にあった事件のルポルタージュ。事件の詳細については書くのを避けたい。読んでいる途中、ほんとうに胸が苦しくなった。事件の経緯をなぞっていくと、まるで八方塞がり、残る道は最悪の選択しかない、という心境になる。加害者は、ひとに尊敬されるような人格者で、誠実なひとだ。被害者の息子は、まるで最後の結末を招き入れるかのようにもみえる。あくまで、そう描かれているだけで、ほんとうのところは分からない。しかし、このルポが現実感をもって眼前に迫ってくるのは、間違いない。ひとごとではすまない、という気がする。
無意識下で抑圧された感情が、もっとも身近で大切なひとに、思いもしない形で反射する。誰も自分はそうならない、なってはいない、とはっきり言明することができない。そう言えるとしたら、逆説的ではあるけれど、この病理の前兆ともいえるからだ。自分の中に潜む、固定観念からの脱却以前に、思考の枠組みという前提に、自身が気づくことの難しさを感じた。
(塩﨑 由規)
出版元:共同通信社
(掲載日:2022-09-01)
タグ:家族 ルポルタージュ
カテゴリ その他
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世界は四大文明でできている
橋爪 大三郎
本書でいう世界の四大文明、それは、ヨーロッパ・キリスト教文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、儒教文明のこと。この本のもととなる講義をした時点では、それぞれ25億人、15億人、10億人、13億人を擁し、もろもろ足して世界人口73億人が現在地球で生きているらしい。
まず、自分が小学生のときは世界の人口およそ60億人と習っていたのに……と、少し気になったのでググってみると、なんと今年(2022年)11月15日で世界人口は80億人に達する見込みだという! 恐ろしい。
閑話休題。まず文明とは、というところで、筆者は文化との対比から説明する。文化と文明の違いはなにか。文化は、民族や言語など、自然にできた人びとの共通性にもとづく。対して文明とは、多くの文化をまとめる共通項を、人為的に設定することだという。
人びとが同じように考え、同じように行動するための装置が宗教だ、という作業仮説にもとづき、それぞれの文明を、宗教を補助線にして腑分けしていく。そうすると、現在の世界、ありとあらゆる分野でみられる特徴や傾向に、宗教的といえる思考の鋳型が、見え隠れする。なんとなく当たり前だと思っていることが、どれだけ多いか、そして、自分とは違うバックボーンをもつ他者の目にはどれだけ奇異に映るか。一般的に、ひとの悩みやストレスの原因は、人間関係がほとんどだといわれる。たとえ同じ文化圏であっても、ひととひとがすれ違うのは日常茶飯事だ。他の文化圏同士であれば推して知るべし、といったところだろうか。しかし、もしお互いに納得しあえないことであっても、相手の視座に立つよう想像力を働かせて、対話をやめなければ、今まで見えなかった共通点が浮かびあがってきたり、落としどころが見えてくるのかもしれない。本書のようなものを読み、他者の視点を追体験することも、その一助になると思う。
(塩﨑 由規)
出版元:NHK出版
(掲載日:2022-09-02)
タグ:文明
カテゴリ その他
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初めて携わるメディカルスタッフのための障がい者スポーツ レクリエーションレベルから競技レベルまでのケアとサポートの実践術
青木 隆明
ドイツ人医師ルートヴィッヒ・グットマンが、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院に赴任し、リハビリテーションの一環としてスポーツを取り入れたのが、現在のパラリンピックにつながっている。グットマンは1943年に当地に赴任し、1948年のロンドンオリンピックにあわせて入院患者を対象に、ストーク・マンデビル大会を開催した。映画『ベスト・オブ・メン』では、褥瘡予防に励み、患者の環境改善のために奮闘するグットマン医師が描かれている。時には患者とともに車いすに乗ってスポーツに興じたりもする。なにかと激昂しがちな医師ではあるが、その熱意は患者や看護師に伝播し、次第にひとびとは変わっていく。
この本は、水泳やパラ陸上、ボッチャ、CPサッカー、車いすテニス、車いすバスケットボール、車いすラグビー、ゴルフ、卓球、フライングディスク、パラパワーリフティングという競技別に、ルールや各競技参加者のタイプ、クラス分類、外傷の発症機序とメカニズム、その予防法に至るまで、網羅的に記載されている。タイトルに銘打ってある通り、障がい者スポーツに初めて携わる方におすすめできる。
自分は普段、障がい者スポーツに関わっているわけではないが、東京パラリンピックでは、車いすバスケットの日本代表選手たちの活躍に熱くなった。また、口にラケットをくわえて、足でトスを上げる卓球のエジプト代表イブラヒム・ハマト選手には脱帽した。スポーツでもリハビリテーションでも、自分の持っている力の限界にチャレンジするという姿勢は変わらない。その姿勢に感化され、勇気づけられるひとは多い。
ともあれ、わずか80年ほどで、ここまで障がい者スポーツは進化した。もしグットマン医師が今のパラリンピックを見たら、歓喜するに違いない。
(塩﨑 由規)
出版元:メジカルビュー社
(掲載日:2022-09-09)
タグ:障害者スポーツ
カテゴリ スポーツ医科学
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1Q84
村上 春樹
青豆と天吾、小学生のときに2年間同じクラスであっただけの2人。しかし、分かち難く結ばれた縁によって、次第に接近していく。ストーリーは、1984年現在の世界ではなく、青豆が言うところの「1Q84」、天吾が「猫の町」と呼ぶ異世界で、進行していく。ただ、単純なパラレルワールドではない。それは、ふかえりという、女子高生と、天吾が共作した小説の世界だ。ものごとは、オーバーラップしながら、ひとと、ひとならざるものが織りなす世界を描く。
回路を辿り、あちら側とこちら側を行き来するリトルピープル。リトルピープルが作る「空気さなぎ」。知覚するもの、パシヴァと、受け容れるもの、レシヴァ。実体であるマザと、分身ドウタ。鍵は「さきがけ」という宗教組織と、そこから逃げ出してきた女子高生、ふかえりが握っていると思われたが、話の重心は、だんだん青豆と天吾に移っていく。
いくつかは、実際の事件が下敷きになっているのがわかる。他の設定についても、もしかしたら鋳型となるものがあるのかもしれない。ふかえりの父、リーダーは、はるか昔から人々は、リトルピープルと呼ばれるものと交流してきた、というようなことを、死ぬ間際、青豆にたいして言っていた。レシヴァである彼を介して、彼らはこの世界になにかしら、働きかける。彼が回路であり、後継者として天吾はいた。パシヴァとしてのふかえりは媒介者として存在する。
話は、青豆と天吾と、小さいものが、1984に戻ってきたところで終わる。
ああ、もしかしたら、そういうことってあるのかも。村上春樹を読むと、随所でそう思うことが多い気がする。
(塩﨑 由規)
出版元:新潮社
(掲載日:2022-09-20)
タグ:物語
カテゴリ その他
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漢方方剤大法口訣
張 明澄 桑木 崇秀
神保町でふらっと入った古書店で、手に入れた本書。極めて簡潔に書かれているのが目を引いた。学生時代、ある疑問が生じたときに、東洋医学の教科書を繰ってみると、古典のどこそこに記載あり、などとあるだけで混迷を極めた結果理解を諦めて、試験用に丸暗記してしまったという、苦い記憶がある。
本書は「透派」と呼ばれる家学を公にしたもの、らしい。こうした家学から入ると、学習期間を6年間ぐらい短縮できる、と中国ではいわれているとも、序文にある。
本文は、証候篇、診断篇、治則篇、本草篇、方剤篇に分かれ、それぞれ原文、訳文、句解、訳解、註釈、補註となる。
訳はこなれていて、読みやすく、なによりコンパクトだ。それは、本書が組織的系統的にまとまっていることを示している。しかも、なんと原文は、詩の形をとっていて韻を踏んでいるので、中国語話者にとってはとても身につけやすいのだという。
本書の内容についての正否は、半可な鍼灸師である自分には判断がつかないが、どちらかといえば近寄り難い本が多い分野で、複雑さよりも単純さに重きをおくことで、理解しやすいようにしてくれている親切さが嬉しかった。
また、神保町をぶらついてみようと思う。
(塩﨑 由規)
出版元:香草社
(掲載日:2022-09-26)
タグ:漢方
カテゴリ 東洋医学
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KGBスパイ式記憶術
カミール・グーリーイェヴ デニス・ブーキン 岡本 麻左子
記憶することは技術であること、筋肉のように反復刺激によって発達することは、証明されている。
本書は記憶法のワークブックとして優れている。また、記憶に関わる理論的な説明も充実している。キーワードを挙げると、トニー・ブザンのマインドマップ、ミハイ・チクセントミハイのフロー、エビングハウスの忘却曲線、ツァイガルニク効果など。
本書では記憶法をストーリー記憶法と、場所記憶法に大別している。ストーリー記憶法は、覚えたい対象を頭の中で視覚イメージに置き変え、物語にすることだ。場所記憶法は、自分が日頃過ごしている環境(自宅、職場、学校など)を想像し、覚えたい対象をそこにあるものと結びつけていく。応用編として身体各部位と結びつける方法も紹介されていて面白かった。
記憶することのポイントは3つあるという。
①関連づけ
②イメージ
③感情
自分が知っていることがらと、結びつけることができれば忘れにくい。ものごとを類推すること。記憶すればするほど記憶しやすくなるということでもある。さらに、ひとの感覚中、もっとも得意な視覚イメージに変換することが、記憶するには有効だ。たとえば数字を覚える場合、0→ボール、8→めがね、と置き換えるなど(ほかにも発音の関連で置き換えたり、数字の場合チャンク化することもできる)。感情を伴った記憶というのは忘れにくい。なので、奇抜でインパクトのある覚え方などは、ばかげていると思うかもしれないが、逆説的に賢い方法だ。
場所法は古代ローマの時代から使われてきた方法らしい。知っているかぎりでは、あの悪名高いハンニバル・レクター博士とか、メンタリストのパトリック・ジェーンも賭けポーカーで利用していた。抜群の記憶力を持つソロモン・シェレシェフスキーは数字などを視覚イメージ化したり、単語を地元の街の通りに配置したりして、覚えていた。もうひとつ、彼には共感覚があった。文字に色を感じたり、音の手触りや、形の味を感じたりする感覚だ。なんと、嗅覚以外の五感がすべて結びついていたらしい。
共感覚についてはダニエル・タメット「ぼくには数字が風景に見える」をおすすめしたい。さらに脳・記憶などについては、最新のエビデンスとともにわかりやすく解説してくれる池谷裕二さんの著作を推したい。
(塩﨑 由規)
出版元:水王舎
(掲載日:2022-10-04)
タグ:記憶術
カテゴリ その他
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美容と東洋医学 人間美と健康美の原点
王 財源 大形 徹
はるか昔から、ひとは美を追求してきた。
医学という範囲からは、逸脱したもののように扱われることが多いが、本来、美と健康は相補的な関係にある。古典を軸に、東洋医学で取り上げられてきた美について遡及的に考察する本書。ホリスティックな視点から、ひとを捉え、とかく局所的になりがちな現代医学や、それに馴染んだ現代人に、異を唱えるような本は珍しくない。しかし、美について、医学や健康と同じ文脈で語られることは少ない。
美容や整容は、QOLの向上に寄与する。顔は明るく、意識は溌剌として、ものごとに意欲的になる。
いつもばっちりお化粧をしてくる方や、身だしなみに気を使っている方の日々の活動性は高い、と普段の患者さんのことを鑑みて思う。反対に、整容や服装の乱れは、注視すべき項目でもある。
本書における美、というか、古くから考えられてきた美は、外形的なものだけにとどまらない。ひとが目指すべき理想や、精神性までをも射程に収める。
日頃目にする、まるで老いることを悪であるかのように喧伝するアンチエイジング的な視点には違和感を持っていた。
自然であるはずの老に美を見いだせないのは、人工的なものに囲まれた現代人の不自然さを示しているようにも思える。
(塩﨑 由規)
出版元:静風社
(掲載日:2022-10-25)
タグ:美容
カテゴリ 東洋医学
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名文どろぼう
竹内 政明
小説、俗謡、俳句や川柳、詩や落語などから、至言、金言、名言を集めた。いや、盗んできた。ここでは、孫引きならぬ孫盗みをする。
「上司から〈働くとはハタ(周囲)をラクにさせることなんだぞ〉と陳腐な言い回しで説教をされたとき、ただうつむくのもいいけれど、それなら『ジダラク』(自堕落)の方が、自他ともに楽になるから、一層よいのではないか。」
田中美知太郎
うまい。だけど、きっと火に油だ。
「『痛い』
すきになる ということは
心を ちぎってあげるのか
だから
こんなに痛いのか」
工藤直子
これだけ短く的確に、恋するひとの心情を表したものはないのではないかと思った。
並はずれた洞察力を持つ猫、かと思いきや、次のは吾輩の言葉。いずれにしても、さすが漱石。
「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」
夏目漱石『吾輩は猫である』
次のような人生訓もある。
「才能も智恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛気があるという奴には叶わない。」
谷沢永一『人間通』
ミもフタもない。が、真実味がある。
「夢は砕けて夢と知り
愛は破れて愛と知り
時は流れて時と知り
友は別れて友と知り」
阿久悠
あたりまえの日常に流されずに、有り難みを感じることのむつかしさをおもう。
「琴になり下駄になるのも桐の運」
江戸川柳
気の利いた言葉には、ユーモアによって現実をいなすようなものが数多い。ある哲学者によれば、ユーモアとは「理性の微笑」のことだという。これもまた、忘れがたい名言だ。
(塩﨑 由規)
出版元:文藝春秋
(掲載日:2022-10-27)
タグ:人生
カテゴリ その他
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池田晶子 不滅の哲学
若松 英輔
「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。」哲学者の言葉を引きながら、ここでいう言葉は、色や形、音、芳香や、まなざしをも含めた「コトバ」であると著者の若松英輔氏はいう。
コトバは言語的形態として、たしかにある。しかし、それは一形態としてであって、苦しいとき、悲しいときに魂にふれ、寄り添うものはそれだけではない。
コトバを通じて他者と交わる。本を読むという行為もそのような営みにほかならない。
「書き手の生む言葉は、いわば可能性を秘めた炭素の塊に過ぎない。それに、読むという営みを通じて圧力を加え、固い、輝く石に変えるのは読者である。」
「私たちは小説を読むように、詩を読むように、哲学の文章を読んでかまわない。あるいは、音楽を聴くときのように、絵を見、彫刻にふれるときのようにヘーゲルの言葉を、あるいは池田晶子の言葉を「読む」ことがあってよいのである。」
そして、考える。池田は考えれば、悩むことはないという。悩まれている事柄の「何であるか」を、まず考えなければならず、「わからないこと」を悩むことはできない、というのがその理由。えー難しい。
考えることで、見えてくる地平とは如何に。
「旅先で、自分の魂のありかを教えてくれるような『場所』に出会う。人が固有名をもつのは、『場所』が地名をもつ意味においてである。固有でありながら、大地はどこまでもつながっている。それは異界にもつながっている。人も同じである。」
個に徹すれば普遍に通ず。哲学者と著者が共有しているのは、そんな確信に近い感覚だ。
考えて、わかる。では、わかるとは何か。
「『わかる』の経験において、自他の区別は消滅する。それは、対象が言語に表出された感情や観念である場合に限らない。未だ言語に表出されていない、すなわちまさしくいま『わからない』事柄を、『わかろう』とする動き、これが可能なのは、それを『わかる』と思っているから以外ではない。」
池田晶子の「月を指す指は月ではない」というコトバから著者(若松氏)は、この月を観る目を、魂と呼ぶ。ソクラテスによれば、生きることとは「魂の世話をすること」だ。生きることとは、月を観る眼を養うこと、こう言い換えても、差し支えないだろう。
(塩﨑 由規)
出版元:トランスビュー
(掲載日:2022-11-14)
タグ:哲学
カテゴリ その他
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聞く技術 聞いてもらう技術
東畑 開人
ひとの話を「聞く」ということの難しさ、に悩むひとは多いのではないか。ではまず「聞いてもらう」からはじめたら? というのが著者の提案。なぜなら「聞く」は「聞いてもらう」に支えられている、話を聞けないのは、話を聞いてもらっていないからだという。
印象に残ったのは、孤独と孤立の違いに関しての部分。孤独は、心の中に部屋があるとして、そこに内から鍵をかけ、ひとりになれる空間を持つこと。たいして、孤立というのは、その部屋に、嫌なひと、怖いひとがひっきりなしに入ってくる状態をいう。孤独には安心が、孤立には不安がある。ひとは孤独になってはじめて、ひとの話を聞くこともできる。
話す、聞くというのはとても日常的な行為だ。しかし、だからこそわからなくなる。
ケアというのは圧倒的に民間セクターの割合が大きいという(ヘルス・ケア・システム理論,クラインマン)。しかし、民間の世間知だけで対応できないものもある。そういったとき、専門知を持つ専門職のひとが、そのひとが今どういう状態かということを見立てることで、周りもそのひとに配慮することができる。
あるアメリカの先住民の間では、悩みや悲しみを周りに話せる状態は正常、ひとりで抱えるようになると病気とみなされるらしい。
とくに一緒にいることが多いひとのことは、話さなくてもわかっている、と思いがちだ。毎日顔を合わせていると、だからこそ見えなくなってくる部分がある。
話を聞いてもらうこと、聞くこと、その塩梅に正解はないかもしれない。でもとにかく、身近なひとが気になったら「なにかあった?」と声がけすることを大切にしたい。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2022-11-15)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ その他
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野の医者は笑う 心の治療とは何か?
東畑 開人
臨床心理士である著者が「野の医者」と呼ぶのは、スピリチュアルや宗教に関わるもの、たとえば占い師やヒーラーなどの、世間一般的にはちょっと怪しいと思われる人たちだ。
研究助成金を得た著者は、ありとあらゆる「治療」を受けまくる。そのなかで、自身が取り組む仕事、扱っている「こころ」のことを考える。治癒を巡って、あるヒーラーとの対話のなかで出てきたスタンスの違いは興味深い。劇的に良くなる、というヒーラーの主張する対象者の状態は、臨床心理学から見れば、躁状態であるに過ぎず根本から良くなっているとは言い難い。
それが悪いわけではない。ひとまず、避難先を確保することは大切なことだ、とした上で、しかし対象者が自身の内面を直視し、受け入れていく過程で、振り子の揺れが少しずつ収まるように治っていく、というのが順当なゴール設定ではないか、という主張には、腹落ちするところがあった。「こころ」という、捉えどころのないものに、魔法のような治療法はないらしい。
翻って、補完代替医療のことを考えてみると、それぞれの立場によって病めるひとに対し、物語を構成する「ストーリーテラー」としての側面がある。
ただやはり、最後は自分と向き合い、主体性を回復する、というゴールまで、そのひとに伴走するというのが、セラピストの正しい姿勢だと思う。そこに越えてはいけない一線があると思った。
(塩﨑 由規)
出版元:誠信書房
(掲載日:2023-01-05)
タグ:心理学
カテゴリ メンタル
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質的研究の考え方 研究方法論からSCATによる分析まで
大谷 尚
質的データ分析手法SCAT(Steps for Coding and Theorization)の考案者である著者による、質的研究の解説書である本書。もちろんSCATの解説や、用例なども記してある。
量的研究のように数値化はできなくても、世の中には意味や価値がある事象がある。即時的に一般化はできなくとも、質的研究の結果を受けた各人の比較や翻訳という行為を介して普遍に迫ることができるというのが質的研究だ、という主張に、なんとなく共感を持った。
本書によれば、そもそも量的研究と質的研究には、思想や哲学的なスタンスの違いがある。
量的研究の立場は客観主義的実在論であり、真実は妥当な手順を踏むことで、誰の目にも明らかな事実として存在している。対して質的研究の立場は、相互行為論や社会的構成主義といったような、ひととひととが関わりあいながら、解釈することによって現実は成り立つといった立場に立つ。
そのため、SCATの言語分析のアウトカムは、インタビュイーが言ったことのみならず、言おうとしたが言えなかったこと、さらに思ってもみなかったが、分析した結果、得られた内容までをも含んでいる。ある個人、一事例に深く切り込み、そこから普遍的な核のようなものを剔出するような方法といえるだろうか。
考えてみれば、芸術の世界が近いのかもしれない。例えば、小説や映画、絵画であっても、そこに示されているのは、具体的な“一つ”にすぎない。しかし、優れた表現であればあるほど、鑑賞する側の多くのひとに共感され、支持を受ける。それは、具体的なケースを描いているようでいて、誰しもが持っている普遍的なイメージが共有されるからではないだろうか。
統計的な有意差では測れない妥当性の側面も、この世界にはたくさんあるのだろうと思う。
(塩﨑 由規)
出版元:名古屋大学出版会
(掲載日:2023-01-16)
タグ:質的研究
カテゴリ その他
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質的研究のための現象学入門
佐久川 肇
本書で言う現象学的研究とは、その人だけにしかわからないその人固有の「生」の体験について、できる限りその人自身の意味に沿って解き明かすことをさす。
対人支援のための現象学では、あくまで現象学の一部を援用するのであって、哲学科の学生が現象学を学ぶのとは異なる、と前置きがあり、ホッとする。正直、ハイデガーやフッサール、メルロ=ポンティやレヴィナスの原著はハードルが高すぎる。でも現象学は前から気になっていた。現象学の、事象そのものへ! というスローガンなどからも、肘掛け椅子の画餅の理論とは、対極に位置するような印象を受けてきた。客観から実存へとピボットするのは、より深く現実にコミットしよう、という誠実さを示しているように感じてきた。
現象学ではあらゆる前提を排して、「生」の経験の意味と価値を問う。クールでドライな量的研究の切れ味はないかもしれないけれど、歯切れのわるい人間味や、眼差しの温かさがある。理解が間違っているかもしれないが、そんなふうに感じる。
(塩﨑 由規)
出版元:医学書院
(掲載日:2023-01-17)
タグ:質的研究 現象学
カテゴリ その他
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東大教授が教える独学勉強法
柳川 範之
家族の仕事の関係で、子ども時代は海外で過ごすことが多かったという著者。基本的にひとりで、しかも非日本語圏で、さらに、今と違って自由に書籍も手に入らない環境下で、学習してきた著者の視点から眺める勉強法は、一般のそれとは一味違う。
まず、どれだけ有名な本でも、自分には合わないものがある、という。
さらに、理解するのに時間がかかっても、とても深く理解するひともいれば、そうでない、ありとあらゆる理解の仕方が、ひとにはある。
いわゆる勉強ができるひとというのは、自分に合った勉強法を身につけているひとなのだという。なので著者はまず、自分が理解しやすい本を探すところから始める。
基礎がない場合、書いてある内容を素直に受け入れることは必要。しかし、と著者。ある程度知識がある場合は、むしろ本に書かれていることに、ケンカを売りながら読むのが好ましい、という。というのも、著者にとって学びのプロセスとは、一旦押し返してみること、だからだ。それを「加工業」ともたとえる。一旦仕入れたものを熟成させたり、手を加えたりしてアレンジする。あるいは、他の分野の知識と、比べたり合わせたりして、いろんなものに応用可能なセオリーを抽出してみる。その作業こそが、勉強ではないかという。
また、ノートやメモに関しても、著者のいうことはユニークだ。「書かないと大事なポイントが頭に入らないのなら、そもそもそれは自分にとって必要ではないと思う」という。
とはいっても、日常的に重要事項をメモすることは著者も行う。つまり、なんでもかんでも頭に入ってしまう超人的な記憶力を持っているというわけではないのだ。
勉強で大切なのは、読んだ内容を一字一句再生できることではなく、よく考えて理解をすることだ、というのが、ざっくりしたまとめになるかと思う。
(塩﨑 由規)
出版元:草思社
(掲載日:2023-01-30)
タグ:勉強法
カテゴリ その他
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動かして学ぶ! はじめてのテキストマイニング フリー・ソフトウェアを用いた自由記述の計量テキスト分析 KH Coder オフィシャルブック
樋口 耕一 中村 康則 周 景龍
フリーで使えるソフトで、テキストデータをもとに様々な分析ができる。
とくに、語と語の関係性などを「共起ネットワーク」として可視化できるのがおもしろい。
KHコーダーのホームページでは、夏目漱石の「こころ」を題材に分析している。たとえば、一章から分析していくと、フォーカスされる登場人物が章によって変わっていくのがわかったり、どんな話題が頻出しているのかが、もとの文を確認しながら抽出できる。細かな表現の違いがある言葉も、設定を行うことで同じ概念として取り出すことができるため、漏れなく当該データの分析ができる。
この本では旅館の口コミデータから、どんな点が、どの年齢層の、男性・女性に支持され、またウケがよくないのか、という実際的な分析を行っている。
現在勤務している養成校で、国家試験対策の分析に使えないか、と色々いじくっている最中だが、いかに設定して、どんな点を明らかにするかが問題。すごく便利でおもしろいソフトなのだけれど、そこが一番難しい。
(塩﨑 由規)
出版元:ナカニシヤ出版
(掲載日:2023-02-06)
タグ:テキストマイニング
カテゴリ その他
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語りきれないこと 危機と傷みの哲学
鷲田 清一
東日本大震災のことを主題として、語ること、聞くこと、待つこと、の重要性を指摘する。それはとくに有事の際、危機的状況の中で、より際立つのだという。
なにかしてあげたい、そう誰しもが思う。しかし、悲しみや絶望の渦中にあるひと、底知れぬ闇を抱えたひとに、なにができるだろう。よかれと思ってすることが、裏目に出てしまうことも、ケアの現場では多いのではないかと思う。反面、ただ一緒に居てくれるだけで、救われることもある。
かつてイヴァン・イリイチは、ケアのプロのことを「ディスエイブリング・プロフェッショナルズ」と呼んだ。ケアのプロから提供される高度なサービスと反比例するように、市民一人ひとりが、命の世話をする力を失っていくさまを、揶揄した言葉だ。
医療や教育の現場を、ビジネスの指標で測るといけないのは、この「間」をこそ、もっとも大事にしなければいけないからではないだろうか。余白を埋めるような効率化の概念が塗りつぶしてしまう、いきいきとした生。イリイチが脱学校、脱病院と言ったのもその意味だったように思う。
とはいえ、いろいろなものに依存しなければ生きていけないのが現実だ。著者は、相互に支え合う関係(インターディペンデンス)を他者と築くことを勧める。抱え込むことなく、押し付けあうでもない、持ちつ持たれつの関係性といえばいいのだろうか。
前提として、お互いのことをある程度わかっていること、さらに損得を基準にしないこと、などは含まれるのだろうと思う。
(塩﨑 由規)
出版元:角川学芸出版
(掲載日:2023-02-07)
タグ:哲学 ケア
カテゴリ その他
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透かしてみるとみるみるわかる‼︎ 解剖学
金子 仁久
解剖学と題してあるものの、内容は派生&脱線し、生理学、病理学、果ては公衆衛生学の範囲までも及ぶ。これだ! と思う。知識は、別々の引き出しに仕舞い込み、一問一答式の雑学のように出し入れするものではない。こと試験においては、そうせざるを得ない面があるとしても、本来知識は、まるで生き物のように、ダイナミックで有機的なものだ、という気がする。でなければ、臨床応用できないばかりか、なにより、楽しくない。べき論などは後づけだと思う。楽しいから学ぶ。義務感は後から湧いてくる。それを初学者に押しつけても、きっと、堅く殻を閉ざすばかりだ。
本書は専門書ではあるが(看護師を目指す学生さん向けの雑誌連載に加筆修正したもの)、なにより解剖学を身近に感じてほしい、苦手に思わず覚えてほしい、という著者の一貫した気持ちを感じる。そのためなら滑稽な覚え方も、躊躇なく披露してくれる。イラストも豊富で、めくっているだけで楽しい。
辞典的に用いる定番の専門書は数多い。大枠を捉えるための入門書や一般書にも優れた本がたくさんある。しかし、本書のように科目横断的な一筆書きをしてくれるものには、なかなか出会えない。想像ではあるが、スペシャリストの先生は、その筋は詳しくても、隣の畑のことはあまり知らない、あるいは、アカデミックな世界では、その分野だけは超絶的に詳しい、ということでないと評価されないのかもしれない。その世界では、なんとなく全体像を俯瞰できる、点と点のつながりを見いだし、他者に伝えられる、という能力は求められていないのかもしれない。
だからこそ本書のようなものは少なく、貴重だ。本書は、学ぶことの楽しさと、伝える相手に対する親切心からできている。それらこそ、初学者がエンパワメントされる条件だと思う。
(塩﨑 由規)
出版元:学研メディカル秀潤社
(掲載日:2023-06-22)
タグ:解剖学
カテゴリ 医学
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ドクターも納得! 医学統計入門
菅 民郎 志賀 保夫
n数、t値、p値、標準偏差、信頼区間、リスク比、オッズ比、ロジスティック回帰分析…。
これらの単語、よく見るものの、正直全然わかっていない。論文を読んでも、わかるところだけを飛ばし読みしていた。数学なんか将来使わないでしょ! と、たかをくくっていたダメ学生の典型だった自分。しかし! 伊能忠敬の人生のように、あるいはスタンリー・ボールドウィンが言ったように、志を立てるのに遅すぎることはない。ということで、本書を手にとった。
t値は棒高跳びのバー。p値はリンボーダンスのバー。そこで、グッと心を掴まれた。噛み砕き方が秀逸だ。いや、そもそもわかっていないので、それが正しいのか、適切なのかは判じかねるものの、たとえがイメージしやすく、忘れにくい。MRとドクター、統計学の講師が登場し、レクチャーと質疑応答が展開される。全体的に字数はかなり少なめだ。章末には練習問題もついている。
これなら、今まで統計学の本に挫折してきたひとも、読み通せるのではないかと思う。自分も繰り返し読んで理解に努めたい。
(塩﨑 由規)
出版元:エルゼビア・ジャパン
(掲載日:2023-06-23)
タグ:統計 医学統計
カテゴリ その他
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はじめての沖縄
岸 政彦
若い頃、沖縄病(沖縄にハマること)に罹患したという著者は、沖縄を専門とする社会学者になる。そして、かつての自分のように沖縄を過度に理想化したり、イメージで語ることを諫める。
この本は沖縄の、歴史や風土、社会や観光スポットの、いわゆる解説本ではない。戦後沖縄を生きたひとたちの断片的な語りの集合になっている。著者の沖縄についての語りも、そこには含まれる。著者はいう。激戦の渦中にいたひとだけではなく、九州に疎開していたひとも、北部で無事に生活していたひとも、それぞれの沖縄戦の経験を持っている。そこを区別したくない、と。
印象的な場面がたくさんある。著者の言葉を借りれば、見たわけではないのに、目に焼き付いて離れないシーンがたくさんある。とてもリアルだからだと思う。語りの細部にリアリティがある。沖縄戦の凄惨さはあらためて、すごいものがある。筆舌に尽くせるものでは到底ない。しかし、そのなかにも間違いなく、ひとびとの生活があった。今を生きる我々と同じひとの営みがあった。語りからはそのことがわかる。沖縄戦はより身近になり、そしてその悲惨さはより、想像を絶するものになる。
もともと別の国だった沖縄は、日本になり、戦争では捨て石にされ、アメリカに占領される。日本復帰後も日本にある米軍基地のほとんどは沖縄にあり、基地に関連する事件もいまだ、後を絶たない。沖縄には、沖縄と、沖縄以外の日本を示す言葉がある。うちなーんちゅ、ないちゃー、がそれだ。そんな言葉があるのは、見えない壁があるからだ。そうなった歴史や社会構造の必然がある。はっきり差別といえるほどのものであれば、まだ易しいのかもしれない。
著者は、戦後本土に就職して、その後沖縄にUターンしたひとたちへの調査を通じて「他者化」という言葉で表現した。見えないからこそ、はっきりした分厚い壁の存在、今も北緯27度線はある。
好きだからこそ、その境界を簡単に乗り越えたくない、と著者はいう。断片的な語りのなかで、沖縄ってなんだろう。沖縄ってほんと、なんだろう。と、著者は考え続ける。
(塩﨑 由規)
出版元:新曜社
(掲載日:2023-07-21)
タグ:沖縄
カテゴリ その他
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ヤンキーと地元
打越 正行
ヤンキーのパシリになって10年間、沖縄の若者と生活を共にし、調査したのがこの本だ。
原付にまたがり、改造車で58号線を暴走する若者に追走し、声をかけ話を聞く。著者は彼らの生活を知るために、自ら建設現場で働くようになる。そこには過酷な労働環境がある。やっと仕事を終えても、しーじゃ(先輩)と、うっとぅ(後輩)という人間関係のしがらみがある。そのなかでひとは処世術としての立ち居振る舞いを身につけていく。
建設業はこのしーじゃとうっとぅという人間関係に支えられている。それは不安定なものだ。建設業自体、受注がなければ仕事がない。見通しが立たない。だからこそ、しーじゃは強くうっとぅを束縛する。ときには暴力も振るう。その関係性はかなり固定的だ。その一方的である関係は、建設現場の作業において安全性や効率の面で機能的ともいえる。しかし反発も生む。
著者は、男性同士の下品な会話、悪ふざけや賭けなどに乗りながら、話を聞き、のっぴきならない人間関係や状況を描く。それは歴史的な経緯や、社会的な構造によって選ぶと選ばざるとにかかわらず、沖縄の若者が投げ込まれてしまったような世界にも見える。出ていけばいい、辞めればいい、と簡単には言えなくなる。
「沖縄」のひとの温かさや、きれいな海。とかく理想化されがちな「沖縄」だが、現実はもっと複雑だ。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2023-07-24)
タグ:社会学 エスノグラフィー
カテゴリ その他
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客観性の落とし穴
村上 靖彦
客観性という概念はたかだか200年くらい、特に西洋文化のなかで言われはじめたに過ぎず、まるで統計や数字が、事物や事象、あるいは人そのものを表しているような風潮は行き過ぎではないか、それらが有用なデータであるのは確かにそうだが、その尺度だけでは測れないものがあるだろう、というのが、大雑把なまとめになるだろうか。
実際のインタビューではだいたい2時間くらい、話を聞く。そのときの話の流れで、即興的な語りを聞く。
意識せずに口をついて出てくる言葉から、浮かび上がってくる、それぞれの経験。交わらないリズムとして表現される生々しいリアリティを読む。それではじめて分かることがある。
統計や数字をみてわかる傾向と、個別の視点に立ちはじめて腹落ちする現実があると思う。
数年前、あるひとに話を聞いた。アメリカで海洋生物学を学んでいた大学時代、難病を発症し、帰国を余儀なくされた。そこから闘病生活に入り、手術をするかどうかの決断を迫られることになった。医師からはかなり高い確率の成功率と、きわめて低い失敗率を伝えられた。
でもそれってなんの慰めにはならない、自分にとっては生きるか死ぬかであり、コインの裏表どちらがでるか、つまり半分なんだ、とそのひとは言った。それはとても、説得力のある言葉だった。
統計や数字でわかることがたくさんある一方で、今を生きる現実存在を取りこぼすことも多々あるのではないだろうか。客観性のみを真実とすることはかなり危うい。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2023-07-25)
タグ:客観性
カテゴリ その他
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多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。
Jam 名越 康文
ひとの悩みは、たいがい人間関係だといわれる。
振り返ってもそう思う。今でもよく悩む。あのときこう言えば、こうすれば、という場合もあれば、言ってしまったこと、してしまったことを悔やむこともあるし、言われたことやされたことをいつまでも気にしてしまう、ということもある。終わったことを変えることはできない。しかし、そう簡単に割り切ることもできない。頭の中はそのことでいっぱいになり、何度も何度も、思い出さずにはいられない。そんな経験が、多かれ少なかれ、誰にでもあるのだろうと思う。
著者は悩んでいるときに友人から、タイトルにもなっている「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ」と言われたことで楽になったという。本書はSNS、人間関係、職場、自分という4つのモヤモヤという章立てで、猫の4コママンガとともに読みやすい文章が続く。著者の経験も織り交ぜながら、ユニークな解決法も教えてくれる。なんでも、分かり合えないひとのことはチベットスナギツネだと思えばいいそうだ。ぜひやってみようと思う。
本書をAmazonで注文したのは、あるひとの話を聞いたからだ。それで少し前に話題になった本書を手に取ってみようと思った。あなたが傷ついたり悩んだりしたことは、あなたがセラピストとして痛みを抱えるひとに寄り添うときに、きっと力になるし、無意味じゃない。そんなようなことを言ってあげればよかったのかな、と考えたけれど、いや、それはちょっとな、なんて思い直したりして、やはり逡巡はやまない。
(塩﨑 由規)
出版元:サンクチュアリ出版
(掲載日:2023-08-01)
タグ:人間関係
カテゴリ メンタル
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NHKテキスト 100分de名著 中井久夫スペシャル
斎藤 環
著者曰く、中井久夫の功績のひとつは、統合失調症の状態を過程と読み替え、回復の希望を見出したことにある。その「希望」は当時、閉鎖病棟の劣悪な治療環境に絶望しかけていた著者にも「処方」された、ともいう。
中井久夫が言ったことを復習すると、S親和者、心の生ぶ毛、普遍症候群に対する文化依存症候群や個人症候群、標準化志向型・近代医学型精神医学SMOPなどが特に印象に残っている。
S親和者は統合失調症的気質を持つひとのことをいう。その微かな兆候を読み取り、感じ取る能力は、時代や状況が異なれば、有益な能力であるという仮説を、中井久夫は提示した。そして誰もがなりうる可能性があり、まるで人類にとっての税のようなものだという。
この本で読むかぎりでは、当時、統合失調症(分裂病)は不可逆的に進行し心理的に荒廃してしまう、治らない病気としてとらえられていたようだ。そのようなスティグマを取り除くことに、中井久夫は尽力した。
中井久夫は、普遍や標準化などの医学モデルに異を唱える。精神科医にはどこか“まっとう”でない医療であるという意識があり、だからこそ、そういった医学的な診断法や体系化された方法論に固執する向きがあるという。しかし、それらの考え方は、正常に戻す、あるいは矯正する、という治療方針と結びつきやすいのではないだろうか。それは暴力的に映ることさえある。心の生ぶ毛を守り育て、やわらかく治す、医師に治せる患者は少ない、しかし看護できない患者はいない、いずれも中井久夫の箴言であるが、改めて治療とはなにか、と考えさせられる。
フロイトは、医者は患者の弁護士である、患者以外の何ものをも弁護してはならない、と言った。徹底的に寄り添うことで、つまり、そのひとの熟知者であるからこそできる治療がある。それが世界の様々な文化とコミュニティのなかで行われていることだ、と中井久夫はいう。著者曰く、中井久夫は一貫して自身の考え方を理論化し体系化することを嫌った。それが権力と結びつくことを懸念したからだ。そのかわり多くの断片的な箴言を残した。体系はしばしば視野を狭くするが、すぐれた箴言には発見的な作用がある。それを著者は、体系知にたいする箴言知、と表現する。
合気道の高位有段者でもある施術家の先生と、身体の使い方についてよく話す。しかしいつも話題になるのは、こうだ、とした瞬間に、いやそうではないという、禅問答のような事態になってしまうことのむつかしさだ。そのコツやカンについて、その先生によれば合気道という型を共有しているひとたちの間でも、感覚は全然違うのだという。体系化した途端に間違えること、言葉にした瞬間ズレていくこと。それってどうすればいいんだろう、といつも思う。
(塩﨑 由規)
出版元:NHK出版
(掲載日:2023-08-03)
タグ:精神医学
カテゴリ メンタル
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本を読めなくなった人のための読書論
若松 英輔
本は決して、速く多く読むことによって情報を得ることだけが目的ではない、と著者はいう。
それは、「情報」を入手することで終わる読書ではなく、「経験」としての読書。さらに、「生活のための読書ではなく、人生のための読書」であるという。
息を深く吐けば、自然に深く吸えるように、読めなくなったときは、書くことから始めるとよいと、著者は教えてくれる。そして、書くという経験でもっとも重要なのは、「うまい」文章を書き上げることよりも、自分という存在を感じ直してみること、であるという。
著者は、「言葉」と「コトバ」という表現をする。あたりまえだが、「言葉」は言葉である。それに対して「コトバ」は、画家にとっての線や色であり、音楽家にとっての旋律であり、舞踏家にとっての動きである。文章にも、言葉のあいだにコトバがある。言葉は、つねに言葉にならないコトバと共にある、という。
ふと思い出して、祖母の歌集を手にとった。家族や友達のこと。田畑や飼っていた鶏のこと。毎年家に巣をつくる燕のこと。戦争中、校庭の二宮金次郎まで招集されたこと。自分の分身とまでいう原付を、引きとられるまで何度も何度もなでたこと。夫である祖父が亡くなった後も、愛用の時計は遺影の前で動き続けていたこと。侘しくて、その遺影の前で茶漬けをすすったこと。津波に家財を流されて、残る位牌に涙する父をみて家をつぐと決めたこと。
津波にあひ命拾ひしその日より吾の一生決まりたるらし
此の家と位牌と老いたる親をみて当り前のこと過ぎてはるけし
地震くる津波くると言へど此の里に生きていつまでも世話なりたし
子どもの頃、潮の匂いがするその町に、遊びに行くことが楽しみだった。躓いたことを必死に隠す叔父のことを、2人でお腹がよじれるくらい笑ったことを思い出す。
(塩﨑 由規)
出版元:亜紀書房
(掲載日:2024-02-17)
タグ:読書
カテゴリ その他
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社会的処方 孤立という病を地域のつながりで治す方法
西 智弘 藤岡 聡子 横山 太郎
日本の高齢者の3割が社会的なつながりを持っていない、というデータがある。
超高齢社会に突入して久しい日本において、高齢者の3割というのはかなりの数にのぼる。ほかにも、貧困やヤングケアラーなど、おそらく一昔前までは見えやすい、だからこそ地域社会のなかでケアされ、表出されることのなかった問題がいま、“見えづらい”という点を含めて、顕在化している気もする。もちろんその一昔前だってその時なりの問題はあっただろう。現在に至る過程には核家族化、価値観の変様、高度化したサービスなど、さまざまな要因があるのだろう。
ところで、本書によれば研究上では「孤立」と「孤独」は明確に区別されているという。
社会的孤立:家族やコミュニティとほとんど接触がないこと
孤独:仲間づきあいの欠如あるいは喪失による好ましからざる感じをもつこと
孤独は主観的な状態を示すのである。
孤立を示すデータには少し驚く。まず国勢調査では2015年の単身世帯は35%となっている。生涯未婚率は男性23%、女性が14%である。ちなみに1990年はというと、それぞれ23%、6%、4%であった。
高齢単身男性では、会話の頻度について、15%が2週間に1回以下。さらに、日常のちょっとした手助けを頼るひとがいない、という割合が30%にも及ぶ。孤独死という言葉が頭に浮かぶ。
本書は社会的処方というキーワードであらたな枠組みをつくる、ということを意図している。一昔にあった“おせっかい”を“社会的処方”という概念でくるんで、活動を促すことを目的としている。すべてのひとをリンクワーカーとしてとらえる。そして、それが文化として根ざすことで、より良い社会につながっていくのではないか、という提案である。
当然孤独を好むひともいる。それらは尊重しつつも、どんなに細い糸でも絶たないことで、孤立を防ぐことが必要だと。医療機関に持ち込まれる相談の2、3割は社会的な問題といわれる。心身の訴えというのは氷山の一角である。その水面下の文脈抜きでは、そのひとの話を聞き、診ていることにはならないのかもしれない。
(塩﨑 由規)
出版元:学芸出版社
(掲載日:2024-02-22)
タグ:社会的孤立
カテゴリ その他
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どもる体
伊藤 亜紗
吃音と呼ばれるその状態は、体が思い通りにならない、言うことを聞かないために、発声がスムーズにいかない、ということを指す。
本来、随意的に行えるはずの発声に支障をきたす、ということは、社会活動にも差し障ることが少なくない。
ひとには元々、コントロールできない体がある。内臓などを支配する自律神経がわかりやすい。吃音と同じような問題でいえば、イップスだろうか。ともかく、ひとには思い通りにならない体がある。どもる、という事象を取り上げて、そのことを考える、というのが本書である。
実は吃音というのは、身近な現象である。多くの著名人が吃音であることを告白している。話すことや歌うことが生業のひとであっても、吃音のひとはいる。スキャットマン・ジョンも吃音であり、あの高速スキャットはむしろ、自由にどもる方法だった、という。
興味深いのはシチュエーションによって、吃音が出ない、ということだ。しかし、必ずしも緊張していることがきっかけとは限らない、という。きわめて個人差が大きいのだ。大きい括りでは、連発と難発がある。連発は同じ音を連続して発声してしまうこと、難発はそもそも発声がしにくく止まってしまうことをいう。苦手な音があるため、さまざまな工夫をする。難発は連発を避けるため、という面があり、苦手な音を避けるための言い換え、などがある。さらに、忘れたふりをして相手に言ってもらう、という方法もあるという。自分の名前に苦手な音がある場合は、まさか忘れたとは言えないために、とても困るらしい。
リズムに合わせると話しやすい、ということもある。「えー」「あのー」などのフィラーを、発声のためのトリガーとして利用しているひともいるという。言い換えや、ストックフレーズに頼ることによって、その場はやり過ごせても、本来自分が言いたかったこと、表現したかったことを避けてしまう、ということにフラストレーションを感じるひともいる。
そのため、自由にどもることに快感を覚えるひともいて、「どもる」ということひとつとっても、ひとくくりにはできそうもない。
(塩﨑 由規)
出版元:医学書院
(掲載日:2024-06-14)
タグ:吃音
カテゴリ 身体
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